petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2005年12月19日(月) 『ふれた手の温度 2』(今度はヒカル)

コツ.コツ.と…ヒールの音が遠のいてゆく。
その音が完全に聞こえなくなってから、ヒカルはゆっくりと息を吐き出した。
そしてがたん、と、精良が座っていたのとは反対側の椅子に崩れるように腰かける。

「……こ、怖かったっ………!」

精良がこんな所にいるなんて珍しい、と声をかけようとしたら、その直前に不意に彼女が顔を上げた。
その時の、視線の鋭さ。
獲物に喰らいつかんとする、猛獣のそれ。
本気で勝負に挑む時の彼女の視線を、はじめて目の当たりにした気がした。
「氷刀の女剣士」
――その姿を。


せーらさん


そう呼んだ声は、震えていなかっただろうか。
どう話して良いか分からなくて、たまたま持っていたミネラルウォーターを差し出したら、普通に受け取ってくれたのでもうひとつ驚いた。
本当に、飲みかけだったのに。
ずいぶん喉が渇いていたのだろうか、半分ほど入っていたそれは、さらに半分くらいなくなった。

返そうとするそれを断ると、精良はかすかに微笑んで、「貰っていく」と言った。
そして次の瞬間から、彼女の意識は対局のそれへと向かっていった。
鋭いそれに。
切りつけるような視線に。
はりつめたその雰囲気は、近寄るすべてのものを拒んで。

はぁ、と、ヒカルはまた、ため息をつく。
自分は、まだまだあの人の正面には立つことができないらしい。
あんな表情なんて、知らなかった。
あんな真剣で恐ろしい雰囲気を、感じたことがなかった。

…自分は、どうだろう?
あそこまで張り詰められるほど、勝負に貪欲になった事があっただろうか。
ない、とは言えないけれど、それは数えるくらいのものではなかったか。
「あふれる気迫」で、周囲を圧倒し、支配する。
塔矢アキラがそうだった。そして塔矢名人も…森下先生も、高永夏も。
そして……決して激しくはなくとも、深遠を思わせる湖のような、周囲の音が聞こえなくなる程の空気を纏わせていたのは……佐為。

とおくにいるあのひと。


――自分が目指すのは、そのはるかな高み。


…ならば、立ち止まってはいられないではないか。
今日の対局も。

「全力で、勝ってやる」



ヒカルは立ち上がる。


…ふと、彼は精良が消えていった廊下の向こうを見つめた。
痛みをこらえるような表情で伸びをした、その様子が、何故か、気になって。


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平 知嗣 [HOMEPAGE]

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