2005年12月23日(金) |
『ふれた手の温度 3』(華氏シリーズ) |
「本当に大丈夫ですか?緒方先生」 「ああ。少し休ませてもらって楽になったし、そろそろ帰ります」
対局を終わらせ、携帯に入っていたクリスマスパーティの誘いのメールにどう返事をしようかと考えながらエレベーターを降りると、事務所を出ようとする精良を見つけた。
「しかし…車で帰られるのは…病院に寄った方が良いですし、タクシー呼びましょうか?」 「心配いりませんよ」 「ですが…そんな一人で…」
棋院の職員の心配を、何事もないようにあしらう精良ではあったが、その顔色は、先程よりも悪く見えた。 やはり、さっきも、どこか調子が悪かったのだろうか。 彼女の手に握られているのは、柔らかなベージュのコートと、既に空になった、自分が渡したペットボトル。
「せーらさん?どっか悪いの?」
ヒカルの声に振り向いた精良は、笑った。
「?」 「ひとりじゃなければ良いんですよね」
彼女は職員に向き直る。
「え?」 「コイツをナビシートに乗せて帰ります」 「へ?」
職員とヒカルが目をぱちぱちとさせて固まるのをよそに、精良はぐい、とヒカルの手を取った。 そのまま、カツコツとヒールを鳴らして、精良は事務所に背を向ける。
「…ちょ、ちょっと待ってよ、せーらさん?!」
「……少しの間だけだ。ついでに家まで送っていってやるから」
ぼそりと囁く彼女の表情は、何かに耐えるように眉が寄せられたままだ。 かすれる声も、いつものなめらかさはなく。 ヒカルの手を掴む細い手は、指先が少し固くて。 …そして、とても冷たかった。
強引に棋院の外まで連れてこられたヒカルは、何とかその歩みを止めた。
「進藤?」
けげんな顔をする精良に、ヒカルは困ったように微笑んだ。
「…コート着たら?寒そうだよ」
ペットボトルは捨てておくから、と、ヒカルは彼女の手からそれを取ると、近くのゴミ箱に放り込んだ。
ヒカルに言われるままに手にしていたコートを着込むと、ほう、と精良は息をつく。その息が、薄暗くなった辺りに白くぼやけて、消えた。首にふれる柔らかなファーの感触が、まだ痛む首筋をくるんで、少しほっとした。
「じゃ、行こ」 「?」
ヒカルがたたずむ道路脇には、一台のタクシーが停まっていた。
「進藤、だから私は車で帰ると…」 「……勝ったんでしょ?」 「ああ」
戸惑いながら、精良は答える。ヒカルとの会話はいつも断片的で、話の流れが見えてこない。
ヒカルは精良の答えににこ、と微笑んだ。良かった。精良の態度から、そうだろうとは予想をつけていたが、もしそうじゃなかったら、何て噛みつかれるか分かったモンじゃない。
「だったらさ、そのごほうびに、タクシーで楽して帰るくらい、いいじゃん」
きらきらと、ちらちらと。 クリスマスのイルミネーションが光りはじめる中。 白い息を吐きながら、寒いよ、はやく乗ろうよ、と、両手をダッフルコートのポケットに突っ込んだままで、彼が呼ぶ。 そんな無邪気な様子に、精良はくすり、と笑った。
「そうだな…たまには良いかもしれないな」
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