きまぐれがき
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2003年05月30日(金) ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』

ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を読んでいると、
子供の頃のように「それから、それから.....」と気持ちがはやり、
頁を繰っていくのがこんなに楽しいものなのかと思えるほどだった。
もっともっと丁寧に味わいながら読めばよかったかな。

イタリアのファシズム政権下の不安な時代を乗り越えてきた
家族の記録。 著者であるこの家族の末娘ナタリアの目を通して、
折々の家族の会話から過ぎた日々をよび起すように描いた小説だ。

翻訳は須賀敦子。須賀さんそのもののようなこの文体に、
懐かしい人と逢ったような気がした。


だれかれかまわずバカよばわりして、気に入らない者には
なにかにつけて「あのロバが」と言い放ち、マナーにうるさく
厳格なユダヤ系イタリア人で反ファシストの父親。
プルーストが大好きで「オデットは素敵だわ」とうっとりし、
子供達が幼い頃は、お金がないと愚痴をこぼしながらも
いいお洋服が欲しいとため息をついていた優しい母親。

この両親の子供たち5人が、成長するにつれてそれぞれ反ファシスト
運動と関わりをもつことになり、当初は満更でもなさそうな顔をして
いた父親も、だんだん母親ともども心配ごとが尽きなくなる。
なかでもナタリアのユダヤ人の夫は逮捕と釈放を繰りかえして、
やがて一家で流刑地に送られ、そのあげく夫はドイツ軍によって
拷問のすえ獄死するという不幸にみまわれるのだが、そんな過酷な
体験もナタリアは怒りを表面に表さず、淡々と綴っていくのだ。

この時代に、北イタリアに住む中流のインテリユダヤ系家族の生活と
いえば、ジョルジオ・バッサーニの小説を映画化した『フェラーラ物語(
原作「金縁眼鏡」)』と『悲しみの青春(原作「フィンツィ・コンテイーニ
家の庭」』の2作品のなかで描かれていたバッサーニ自身を投影したか
のようなユダヤの青年の家庭が、まず思い浮かんだけれど、父親が
ユダヤ系で医学部の教授だったナタリアの家も、子供が多かった以外
は同じような様子だったのかもしれないと思う。

そういえばこの映画の中に、ボローニャの大学に通う青年が
「ユダヤ人の教授は追放された」と言うと、父親は「イタリアは
昔から新ユダヤだ。良識が勝つと信じているよ」と答える場面が
あった。
『ある家族の会話』にも、ナタリアいっ家の流刑地での
エピソードで、政府に対して楽観的とも思えるものがあったが、
ファシズム・ナチス政権下であってもユダヤ人の意識は、さほど
危機迫るものではなかったのか?と、イタリアの政治的な背景を
解っていない自分がもどかしかったりもした。

ヴェルレーヌの詩『枯葉』の作曲者、モディリアーニの娘、
オリベッティ社などとの繋がりに、あぁそうなんだと新しい発見の
ような興味深いところも数々あった。

やがて新しい時代を迎えても、年老いた母親の歌うようなさえずる
ようなおしゃべりと、これまた同じように年老いた父親の相も変らぬ
いつものぼやきが、昔のように続いていく......。
なんて軽快で清々しく、愛に満ちているのだろう。

「小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う」と
須賀敦子全集のイタリア文学論にあったが、須賀さんがめざして
いたものはこれだったのだと、今更のように思う。

『トリエステの坂道』や『コルシア書店の仲間たち』で描かれている
『ある家族の会話』を手にしたときに須賀さんが感じた衝撃を、
もう一度読んでみる。
ミラノでのあの時、夫のペッピーノによって渡された1冊の本。
「好きな作家の文体を自分にもっとも近いところに引きよせておいて
から、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる...
このうえない発見だった」
しがみつくようにして読んでいる姿を見て、夫は笑いながら「わかって
たよ、これはきみの本だって思った」
須賀敦子とナタリア・ギンズブルグが出合った、忘れることのできない
場面だ。

さらに友人から、ある時代のイタリアの歴史が、これほど、さりげなく
、語られたことはないだろう「きみは、どう思う」と問われた時には
「自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。
...小説ぶらないままで、虚構化されている...これは、自分が書きた
かった小説だ、と思った」こうして須賀さんにとって『ある家族の
会話』は、いつかご自分が書く時への指標となったのだ。


「取りあえず買って手元に置いてみたら? 
そしたらちょっとずつ読んだりして。ホントちょっとずつでもいい、
ゆるしてくれちゃう物語なの」と、この本を私に薦めてくれた
Mちゃんは「あ〜 終わってしまう」のが惜しくって、もう少しで
終わるというところでページを先に繰ることができないでいるのだよね。
私、今度は、同じ作家の『モンテ・フェルモの丘の家』を読むからね。
訳はもちろん須賀敦子です。




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