■ふぁーんたすーてぃぽー
あー、やばいやばいやばい。頭の中でトラジハイジが踊り続けてるー。
■自分が弟しか持ったことが無いからなのかもしれなくて、兄にとっての妹も同じなのかもしれないのだけれど、 姉にとっての弟というのは、生まれて初めて出会った守らなければならない存在で、 なのに、生まれて初めて出会った理解することのできない異性でもあって、 そういう、なんとも不安定に愛しい存在だったのです。かつては。 (と、弟を持つ姉である私は勝手に思っているのです。反論受け付けませーん) 不安定に愛しい「弟」と云えば、川原泉の『3月革命』を思い出すわけですが、 あのお話の「弟」は桜の木の下で拾った「弟」だから、通常はあーゆー結末にならなくて、 まぁ、おそらく、普通は、いつの間にやら不安定に愛しい存在だったなーんてことは、遥か忘却の彼方へと…
待て待て、何を書きたかったんだ?
そう、『ぶらんこ乗り(いしいしんじ)』を読んだんですよ、ってことを書きたかったんですよ。「弟」の物語。
いしいさんの作品を読むのは2作目です。 私が作家にのめり込むパターンの一つ。それは、初めて読んだ作品の何かが胸に引っ掛かって、 さぁ、どんどん読みなさい!という声が聞こえているのに何故か次に手を出せなかった作家。 それが、相当な時間が経ってから2冊目を読むと、今度はどうにも止まらなくなってしまう。 須賀敦子さんの場合がそうでした。『コルシア書店の仲間たち』から 『ミラノ 霧の風景』を読むまでに2年くらい掛かったんじゃなかったかな。
で、過去の日記を辿ったら、いしいさんの『プラネタリウムのふたご』を読んだのは2003年5月で、 当時の日記にはこんなことを書いています。
>『プラネタリウムのふたご』(いしいしんじ)は、宮沢賢治風というか、大人の童話というか。 >ラストの「水」の話に、ちょっと泣きました。『僕の生きる道』が、生きた人の側の話であれば、 >これは残されて生きていく人の側からの「死」の捉え方なのかもしれないなぁ。
『ぶらんこ乗り』もまた、残されて生きていく人の側からの「死」の捉え方の物語。 それから、孤独と、孤独ゆえに身の内に保ち続けることができる誰かの温もりと。
加えて、ちょうど近頃、本当に気持ちを伝えられるのは文字による言葉なのか、音による言葉なのか、 という問題がずっと解けずにいたのだけれど、思いがけず答えを貰ってしまいました。 もちろん、数学のようにスッパリ答えが出たわけではないのだけれど。
で、泣きました。電車の中で読んでいたのに、泣きましたよ。 家に帰ってメールボックスを開いたら、アマゾンから2,000円のギフトカードが届いていたので、 即、いしいさんの『トリツカレ男』と『麦ふみクーツェ』をオーダーしてしまいました。 でも、続けて3冊読んだら本当にあっちの世界から帰って来れなくなりそうなので、 『死んでも治らない(若竹七海)』を読みましたよ。 結末が気になって一気読み(誰か、夏見中心の人物相関図作ってくれないかなぁ)。
■先週のMステ、見ました(ですよ、Tちゃん)。 なので、頭の中が、ふぁーんたすーてぃぽー、なのです (トラジハイジ、かわいー!)。
やや、もちろん、「どうもタモさん、こんばんは」の人も可愛かったけども。 バク転が理解の範疇を超えている吾郎さんも。その気持ちは良くわかりますよ。 それは一種、宇宙の果てを考える時の目眩に似たものがありはしませんか?
新曲はだんだん聞き慣れてきたような、気も、する、かな。 でもですね、トラジハイジを見ていて思ったのですが、つまり私はアイドルなスマさんが見たいのかもしれないわ。 たとえば、バリバリお揃いの衣装とかね。ふむ。
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