白石結婚式手伝い御礼飲み会欠席理由のメール - 2003年04月05日(土) 皆様 本日は突然欠席で本当に申し訳ない。事の顛末を以下に記します。 昨日、夜8時くらいから野毛(桜木町)で飲み始めました。ここでは軽く焼酎ボトル1本を空けましたが、3人で一本空けたので、ハッキリ言って大したことありません。華金なんですから。 二軒目は福富町と言う関内の近くにある歓楽街(かつ風俗街)にある飲み屋で飲みました。この二軒目の飲み屋なんですが、マスターがピアノを弾く、ママが60過ぎのオカマと言うバーで、マスターのピアノに合わせてカラオケが出来て、かつママに踊りのステップを教えてもらえる(アメリカでダンサーだったらしい)と言う面白いところで、面白くて結局ここに今日の午前6時までいました。尚、ここでは最初焼酎を一本開けた後、私とママの二人でウイスキーのボトル一本開けました。店を出る直前まで飲んでいたので、相当酔っていたわけです。 その後、関内から地下鉄に乗って家に帰ろうと試みたのですが、これが大きな間違いのもとでした。もう電車も動いていますから、地下鉄で帰るのは当然と言えば当然ですが、今振り返れば、ここでタクシーで帰ればよかったわけです。関内からウチまでは6800円くらいですよ。因みに弘明寺(と言う玉木の家の近く)の寮に住む先輩はタクシーで帰りました。 子会社の女性(酒激強)と横浜まで地下鉄で帰り、その後は当然爆酔ゆえに爆睡。泥酔ゆえに泥睡と言った方が適当だったかも知れません。泥のように眠りました。今後の展開については、このリンクを参考にしながら読んでください。 起きたら戸塚な訳ですよ。関内から地下鉄乗って終点あざみ野まで行くと言うのが帰宅ルートなのに。今までどんなに飲んでも乗り越しなんてしなかったのに、ってそりゃ目的地終点だから当たり前なんですけど、確かに乗り越さないけど今日は乗り戻りしちゃったみたいな。 戸塚なんて地下鉄で来たこと無いんですよ。用が無いから。あざみ野まで55分とか書いてありやがるんですよ。ホームでゲロ吐き寸前の気持ち悪さで、あざみ野行きを待ちました。で、地下鉄乗って、また眠るんですよ。 起きたらまだ仲町台で、「うわー、本当に遠いぜ戸塚。」と言う感じです。戸塚からあれだけ寝てるのに、まだ着きません。 で、次に起きたら桜木町なんですよ。当然自分が乗っている地下鉄はあざみ野行きじゃなくて、湘南台行き。出社できちゃう訳ですね。会社の最寄駅なんですから。 今度は寝ないようにあざみ野までずっと立ってましたよ。で、家に着いたのが午前10時。関内から家まで、今日4時間をかけて戻ってきたわけです。 という訳で、本日はさっきまで起き上がれないほどの体調悪状態でした。全く申し訳ありません。このお詫びは、今度福富町にある件のバーで奢ると言うことで勘弁してください。確かに面白い店です。 - 4年目! - 2003年04月01日(火) 会社に入って丸3年が経過した。会社にもいい加減慣れたし、仕事もトラブル続きで全く飽きが来ない。 今回のトラブルは今まで中身が詰まりに詰まっていたプラントエリアを、よりによってお客さんが「狭くしろ」と言ってきたことから大騒ぎになった。すでに1年近くをこのエリアを基本として仕事をしてきただけに、全員ショックを隠しきれない状況である。私にしても、メインの設計は終了・もしくは着手済みが8割を超え、そろそろ設計はまとめに入って、製作とか現場赴任の準備などが待ち受けているはずだった。 しかも、設計は単にやり直すだけではない。さらなるお客さんからの注文が付き、やり直しと変更がダブルパンチでやって来ることとなった。 当初、鉄骨はヨーロッパから輸入することを頭に入れていたが、この事態を受けて私は調達先を近隣の旧ソ連域内に求めることをほぼ決意。信頼できると言っても、ヨーロッパからチンタラ調達なんてしている時間は無い。という訳で、結構な時間を使って「ヨーロッパ材」を基にした鉄骨接合部計算を、はっきり言えば全て旧ソ連の材料に置き換えて計算をしなおす腹積もりだ。 1年間やって来たことが殆どひっくり返るような事態に遭遇した私達。昨日は年度末でチームで飲みに行ったが、極めて元気の無かった私も、今日はだんだんやる気が出てきた。 成功裡に終わろうと言う気持ちはあまり湧いてこないのだが、何か地獄を見た3月を過ぎて、いきなりやる気が出てきた4年目初日。こんなもんか? - 預言者降臨してくれ 頼むから - 2003年03月30日(日) 先日、リビアに赴任している同期が休暇のため帰国したため、久し振りに同期の連中で一緒に飲んだ。結局帰れなくなって、その日はその同期の家に泊まった。同期のかみさんに会うのも久し振りだった。 翌朝、同期と同期のかみさんと私の3人でニュースを見ていたのだが、ニュースはブッシュの「48時間以内にフセインは亡命せよ」のリミットがあと2時間に迫っていたこともあり、当然の如くイラク情勢ばかりを流していた。同期は、 「海外にいると、戦争って身近に感じるよな」 と言っていたが、何しろ彼が赴任しているのはリビアなだけに、それは余計に感じることであっただろう。 戦争を生まれて始めて身近に感じたのは、2001年9月11日のあの事件の時だった。正にその瞬間パキスタンにいた私は、そうは言っても戦火の中に身をおいていたわけではなく、アフガニスタン国境から遠く離れた場所にいて、しかも翌日帰国命令を受けて日本へ帰った。今振り返ると帰国したがらなかった自分がいたものの、やはり残ったとしても不安はあった筈である。 もしあの時、アルカイダがパキスタンにいて、パキスタン政府がオサマ・ビン・ラディン引渡しを拒否し、米国との対決姿勢を鮮明にしていたら、果たしてどんなことになっていただろうか。 私の友人は、パキスタン人であると言う、ただそれだけの理由で殺されたかも知れない。殺され方は千差万別であろうが、リンチによって殺されるか、見つかった途端に眉間に銃弾が打ち込まれるか、それは分からない。私の友人の妻は、かなりの確率で暴行を受けるだろう。既に横には生温かい血を頭から噴出した私の友人の死体が転がっていて、その横でなす術もなく夫の血にまみれながらレイプされるのである。殆ど狂ってしまうそんな状況の中で、最後は夫のように、蟻のように殺されるのである。 とか書いてきたが、実はこのようなことを考えるようになったのは、帰国後間もなくであり、帰国前はそんなことは考えていなかった。何しろパキスタンは平静で、何故帰国命令が下ったか理解できないほどの状況だったからである。心配していたのは過激化した人々が外国人を襲う程度のことで、しかもこれとて街の雰囲気を考えたら、自ら警戒して街を出歩く真似をしなければ問題ないという感じであった。 あの頃、戦争間近で狂乱していたのは、私よりむしろ私の家族であり、私の会社であった。その理由は簡単で、帰国してニュースを見れば一目瞭然。アフガニスタンとその周辺国が地獄になると、かなり過熱気味に報道がなされていたからである。この加熱度合いは、アフガニスタンおよびその国境付近以外がかなりの水準で平静を保っていることを知っているはずの私にも影響を及ぼし、それが上記「友人は殺され、友人の妻はレイプの末殺される」と言うイメージにまで持たせるまでになったと思う。 そうは言っても、大抵の日本人にとって、イラク人が虫けらのように殺されるのは大した問題では無いだろう。何しろイラク人に友達がいない私にしても、いても立ってもいられないと言う訳ではない。ただ、イラクでは「無二の親友のアッバスが、この前のミサイル攻撃に巻き込まれて死んだ」とか、「好きだったニシャットが、国境を越えてきたクルド人に輪姦されて、最後は生きたまま谷に投げ捨てられた」と言うことが起きていると考えると、その親友や彼女の連れ合いだった自分は、果たしてどんな精神状態に陥るだろうか。恐らく、アメリカ人を見るや否や、自分の持つ全ての武器になるものを持って、彼らを殺しにかかるかも知れない。 世界と言う世界が狭くなった現在、遠くのことが関係あるんだか無いんだか、多分無いんだけど無関係とは思えないことが増えつつある。考えれば考えるほど胸糞悪くなってくるこの状況下、最後の疑問はやはりこれだ。 戦争って昔からあるけど、人間にとってどうしても必要不可欠なものなのか?誰か教えてくれ。出来ればもう止めて欲しいんですけど。特に中東はさ、OAPECとかOPECとかアラブ連合とか生ぬるいこと言わないで、カリフ立てて西はモロッコ東はパキスタンに至るまでイスラム大帝国を復活させて、米国とのパワーバランスを取るようにして欲しいんですけど。 ムハンマドの復活が望まれるところよ。 - 更新停止のお知らせ - 2003年03月18日(火) 突然インターネットの出来ない世界に異動になったため、暫く更新停止します。全く申し訳無いのですが、暫くお待ち下さい。 - ネタ合わせ - 2003年03月16日(日) 今日は白石の家に行った。用事は今週土曜に控えた白石結婚式における、コントの最終ネタ合わせ。 まあ一言で言うと、部屋の中で二人で台本(白石が台本を作った)見ながら読み合わせするのは、中々恥ずかしいです。いや、見てる人がいないのにもかかわらずです。これでビデオ回ってたら、クソしているところ撮られるのと同レベルの恥ずかしさと言う感じでしょうか。 -
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