小林の一周忌 - 2004年01月17日(土) 本日は昨年1月22日に、25歳の若さで亡くなった後輩・小林の一周忌法要だった。場所は埼玉の三郷で、昨年四十九日を執り行ったお寺で行われた。 この一年は色々あって、ハッキリ言って長かったように感じる。しかしながら、小林の墓を見ると、何かあっという間だったと感じた。 法要のあと、寺の向かいにある会館の中で会食が行われたのだが、何だか同窓会と言う様相で、中々楽しかった。ご両親にも久し振りに会い、特にお父さんとは仕事の話でまた盛り上がった。 和やかな会の中でも、小林のお父さんの挨拶には、若干胸が熱くなった。一年を振り返りつつ挨拶をされていた。たまにしか小林に会わなかった私と異なり、生まれてから毎日小林と接してきたご家族のこの一年を思うと、やはり感情的にこみ上げるものが感じられた。 小林の死によって自らの人生を見直した人々は、まあ私も含めてだが、かなり多い。夢に実現するために会社を辞めて努力している人間とか、職場を変えて新たな世界で悪戦苦闘をしながら努力している人間とか、そういう同期や後輩が増えた。私はそこまで変えていないが、何か辛い時、何故か小林のことを思い出しながら、甘えを抑えて自らを叱咤激励する場面が多かった。責任感の塊と言うか魂のような男だった小林を、何だか思い出していたんだろうか。 命日は1月22日である。とにかく、あれから一年が経つ。 - おいおい - 2004年01月15日(木) 帰国してから休みもなく働いているため、疲れが抜けない。チームの三人とも疲れており、夜も10時を過ぎるとトーンダウンとペースダウンが甚だしい。 と言うとき、インターネットでも見てみる。 <芥川賞、直木賞>19歳綿矢さん、20歳金原さんら受賞 の字が躍る。芥川賞に19歳の学生と20歳のフリーターが受賞したとの事だ。この内、綿矢と言う人(学生の方)は以前「インストール」と言う小説を書いた人であるが、今回の受賞は二作目らしい。両方とも読んだことは無いが、書店に平積みされているのは見たことある。出身は京都らしい。京都と言えば京都生まれの京都育ち、しかも京都大学出身と言う、やることなすことネタを追求する先輩Sさんである。何しろかつて若干上等な店(しかも京風と言う触れ込み)で湯葉を食べた時、「ん、この豆腐食感が変わってて美味い」などと言うほどである。食感が違うどころか食材が違うってんだよ。 と言う訳で、この綿矢りさ(本名は山田梨沙)の出身高校の名前を聞いてみた。 「Sさん、京都市立柴野高校って知ってますか?」 「しばのこうこう?知らんなあ」 「柴犬の柴に野ですよ。」 「…、よく読んでくださいよ。」 「あ、紫野?何て読むんですか」 「むらさきの」 疲れているため漢字も読めない状況で帰宅を決意したわけであるが、もう少し突っ込んで調べてみた。 「…、結構可愛いですよ。」 「どれ」 見入るSさん。 「うーん、たしかにまあまあやなあ。」 「まあまあですか。」 まあまあと言う評価である。 「凄いですね。一作目で賞を取って、二作目で芥川賞ですよ。」 「こういう人っているんやなあ。やっぱり才能があるのかなあ。」 「あるんでしょうねえ。」 さらに読むと、 「お、東京に住んどるやんけ。…付き合ってもらうかなあ。」 等と言い出していた。京都のローカルネタで盛り上がるのだろうか。 10分後くらいにSさんを置いて帰宅した。Sさんは仕事上で何かを忘れてしまったらしく、「えーーと、これどないしたんだっけなあ」と、頭髪の薄い頭を抱えていた。 - 恭賀新年 - 2004年01月12日(月) 新年明けまして、誠におめでとうございます。本年も何卒お引き立ていただくよう、よろしくお願い申し上げます。 本日昼過ぎにソ連から帰って来て、明日からいきなり仕事。んもう、休みはいつあるんだと言う感じであるが、出張中に行程上休まざるを得ない日があったので、全く無いと言うわけではなかった。でも、そんな日も夜は移動だったりして、フルに休んでいないが。 もうソ連はいいって感じだな。 以下は往路の様子(会社の人宛)。復路はまあまあ順調ではあった。 --- 成田-モスクワ線 いきなり5時間遅れました。ここでアエロフロートの成田の職員にAir Astanaの翌日便手配に奔走してもらいましたが、翌日じゃなくて翌々日のものを手配されていた(モスクワで気付いた)。また、ホテルについてはアエロフロートがモスクワで手配するから、モスクワで対応しますと言われました。 モスクワ到着 アエロフロートはホテルをアレンジしてくれませんでした。理由は、「あなたはアエロフロートの乗継ぎじゃなくて、他社線に乗り換えるのだから、アエロフロートは関係ない。」の一点張りで、全く相手にされず。おいおい、アエロフロートが遅れたんだから乗り継ぎ出来なかったんだよ、と出張しても、全然理解されない。さらに、「あなたの便2日後じゃない(ここで先述の翌々日便手配に気付く)、2日分も泊められないわよ」と言うのも災いしたよう。無理に粘ったのが更に心証を悪くしたのか、相手のロシア体型姉ちゃんは「全部説明したでしょ」と言って机の自分の仕事に集中し、一貫して無視。という訳で、空港のタクシーカウンターで安めの宿を探してもらい、そこに泊まりました。タクシーカウンターの人が言うには、「他社線に乗り換える旅行者がこんな目に遭うのはいつものパターン。ここに『アエロフロートがpick upしてくれなかったから、タクシーを拾った』と書け。」と言われ、そこにスタンプを押されて「後日これを持って再度アエロフロートに請求しろ」と言われました。ホテルはSVO-2とSVO-1の間にある中級ホテル。夜中のSVO-2からホテルまでのタクシー代80ドル・宿泊費80ドル強・ホテルから空港(SVO-1)までタクシー代800ルーブル。成田で交渉しましょうか。 SVO-1でAir Astanaの便予約変更 成田でアレンジされた便が1月3日じゃなくて1月4日だったことから、1月3日の便に変更すべく、早めにSVO-1に出向きました。Air-Astanaのチケットカウンターは無く、いくつかの旅行会社(?)の窓口が、他の航空会社と兼用でチケット発行などを行っている。という訳で、Air Astanaのステッカーが貼ってあるカウンターに向かうも、SVO-1は英語が殆ど通じず、たらい回しにされた挙句どこも「出来ない」と言う対応。まあ私が何言っているか分からなかったのでしょう。Air Astanaの電話番号を教えてくれと聞いても、そもそも英語が通じない。途方に暮れていて端の方に行ったらAir Astanaのステッカーが貼ってあるカウンターをまた発見し、ここでお姉さんに「一人歩きのロシア語会話集(JTB刊)」の「予約の変更をしたいのですが」の例文を見せて、チケットを渡し、「今日!」を連呼したらいろいろなところに電話をしてくれ、端末を何度も叩き、ようやく予約変更に成功。捨てる神あれば拾う神ありを痛感。SVO-1で英語が通じないことから、昨晩のクレームをSVO-1で言うのは諦める。 Air Astana 定刻どおりチェックインが始まったことに信じがたい奇跡を感じる(他の便は"通常通り"、結構遅延が発生している)。しかも搭乗後も定刻どおりに動き出し、これでモスクワともおさらばと思い、スチュワーデスの安全確認デモンストレーションを横目に、少しうたた寝。機長の「離陸準備をしています」と言う放送を最後に、離陸 と思いきや、1時間半後に寒くなって目覚めたら、まだモスクワを離れていない。前のドアが開いていて、空港関係者と乗務員がゴチャゴチャやっていて、結果的に離陸延期。SVO-1のビルに戻されて(午前2時半)、待合室で仮眠。遅延に慣れているこちらの人々もさすがに頭に来ているらしく、Air Astanaの職員に食いかかるも、ロシア語の会話だけにさっぱり意味が分からず。ひとしきり文句攻撃が終わったあと、その職員に聞くと「technical problemにより、朝6時出発に延期になりました」と言う説明。搭乗客全員、疲れ切って待合室で仮眠。 - 2003年を振り返って - 2003年12月31日(水) 2003年を振り返って 2003年が過ぎ去っていこうとしている。今年は色々あった。ちょっと振り返ってみようと思う。 1月 小林と言う後輩 今年は小林から始まった。正確には小林と原田から始まった。1月4日の飲み会である。今年のスタートは、仲の良い後輩とフグを食って日本酒飲んで(飲み過ぎた)スタートした訳である。 1月22日、その小林が亡くなった。1月4日と書いた後で、1月22日と書くと、改めて小林の死を信じることは出来ない。小林への追悼文集にも書いたが、1月4日に死の翳を感じることは全く無かった。 小林が亡くなってから、そろそろ一年。来月は一周忌の法要がある。 今、小林のことを思い返してみると、未だに小林の死を乗り越えていないことが分かる。他のみんなは、一体、どうなんだろうか。 2月 パキスタン パキスタンとの付き合いは、今年でもう2年以上になる。お陰さまで、日本以外で最も友人が多くいるのはパキスタンと言う、妙なことになった。 人から植え付けられたパキスタンの先入観は酷いものだった。しかし、今となってはそんな先入観も霧散して、社内でもベスト10には入るであろうパキスタン贔屓になったと思う。ベスト10は大袈裟かな。 今でも、パキスタンの友人達は、私の無理を聞いてくれている。一生かかっても感謝しきれない。 3月 白石の結婚 サークル時代の同期である白石が、サークルの後輩である堀岡(既に旧姓)と結婚した。堀岡香澄改め白石香澄には、小林の四十九日にて会っている。因みに、白石とは結婚式打ち合わせ云々で何度も会った。 白石は学生時代に一緒だった友達で、私自身が特に仲が良かった一人である。彼が今のかみさんと付き合い始めたのは、我々がサークルを引退した大学3年の冬だ。当時我々の間でも「かわいい」と評判だった堀岡香澄と付き合い始めたと聞いたとき、ギャグしか言わない彼三流のギャグかと疑わなかった。 彼に別件で電話した時に聴取した訳だが、まるでギャグも無く、嬉しそうに1時間半に渡って経緯を語ってくれたときは、人の幸せって聞いてると結構退屈なんだな、などと思ったものである。スマン白石、所詮この程度の友達だ。 おめでとう。因みに君の結婚式2次会での私の司会は、自分でも結構上出来だったと思う(しかし芸はイマイチだった)。 4月 車 人生28年目にして、ようやく車を持つに至った。 と言っても、車を持ったのは3月だ。しかも、今を以ってまだ私の名義ではない。 4月は3年間のペーパードライバー空白期間を埋めるために、毎週末練習走行をかましていた。今となっては危なくてしょうがないこともしていたような気がする。何しろ、車線変更も満足に出来ないくらいに退化していたのだ。 今でもあんまり運転は上手くないが。 5月 聖飢魔II 中学生から高校時代にハマっていた、聖飢魔IIに久し振りにハマった。きっかけは聖飢魔II好きへの100の質問である。 6月 玉木のジューンブライド サークル時代の同期である玉木が結婚した。この男も同期の中では特に仲が良かった一人で、色々関係も深い。が、かみさんは社内結婚と言うわけで、それほど知っているわけではない。 意外とクールに決めていた玉木だが、実は結構な色物と言うのも当然知っている。結婚式はアフロを被ったり馬の被り物をしたり、中々オイシイ新郎ぶりだった。 それにしても、ご両親は堅い人々だった。 7月 彼女 彼女と付き合い始めたのは、7月である。きっかけはパキスタン。って、相手はパキスタン人じゃないけど。パキスタンの子会社にいるとき、ウチの会社の協力会社の人が紹介してくれたのである。最初は合コンと言う技で攻めたのだが、先方の集まりが悪くて頓挫。その内、臨時収入が入ってチームの人々に食い散らかされそうになったタイミングで、 「この使われ方は不味い」 と思って飲み会に誘ったのが直接的なそもそもの切っ掛けだ。 今考えると、この出会いが無ければ、今年は全く以って救いようの無い1年だったと思う。 8月 カザフスタン 中央アジア最大の国・カザフスタンに足を踏み入れた。 社会主義の旧弊が残っていると感じた。 9月 29歳 29歳になった。三十路リーチだが、特にどうとも思わない。 10月 梅香ドライブ 白石・玉木と来ると、次は梅香である。この男は同じく大学時代のサークル同期。白石・玉木との共通点は、実家が神奈川であると言うこと。彼の実家は金沢文庫ゆえ、私とは北端・南端と言う間柄で、普通に生活している分には全く接点が無い。因みに、私の彼女も元々は金沢文庫。と言うと、意外と金沢区とは接点があるかも。 彼は私と同様に変わったところがあり、人里離れたところに無意味に言ったりする性癖がある。その性癖が一致して、彼と只見川上流域のダム地帯にドライブに行った。妙と言わざるを得ないが、物凄い紅葉シーズンであったため、取り敢えず観光客は多かった。まあ、野郎二人と言うのは我々くらいだった思うが。 お互い社会人になって、男二人旅と言う薄気味悪いことをやったわけであるが、私が梅香に感じたのは、「ああ、表面は変わったかもしれないけど、中身は変わらないな」、と言うものであった。恐らく梅香も同じ事を俺に感じた、のだろうか。まあ古くからの友達なら感じるものであろうか。 11月 忙しい 今に引き続く忙しさ。 12月 忙しい 11月に同じ。 --- 2004年は、素数の2003と変わって、非常に約数の多い年である(12個)。割り切れることの多い1年でありますように。 - 年の瀬仕事納め - 2003年12月28日(日) 仕事納めは昨日済んだ。公式のな。今日からは年末年始休みとなっている。公式のな。仕事始めは1月5日である。公式にはな。 この一年で一番忙しいのが、ひょっとして今じゃないの?と言うくらい忙しい。とにかく1月2日から出張と言うものが入っているのが不味い。本来ならばこの出張は9月中旬には済んでいて然るべきものだった筈だが、業者の動きがあまりに不味く、3ヶ月半経ってようやく実現することになる。しかも、よりによって正月休みにである。 日本人が正月に仕事をすると言うのは、パキスタン人にとってEid Holidayに仕事をするレベルに寒い、とパキスタン人の友人達に言うと、揃って同情の声がかけられた。 とは言うものの、旅程上1月3日の早朝にカザフスタンの旧首都アルマティに着いたら、翌日の1月4日夜10時の便まで飛行機が無い。従って、1月3日と4日はアルマティにて休日となる。とは言っても、これがバンコクだとか香港ならば嬉しいが、クソ寒いアルマティではどうしようもない。先日同じような旅程で帰って来たSさんは、アルマティでスキーに行ったらしい。スキーか…一人でスキーってのも、何となく寂しいものがあるよな。 明日は彼女も動員してハード面における出張準備。栄光のソ連の旧首都・モスクワ経由と言うわけで、さすがに鍵付きのスーツケースでなければヤバし。どこで買うかな。 -
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