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「日本での工作は完了した。」もと北朝鮮の工作員だか向こうの幹部だかがそう公言して憚らないと聞いていた。 まさか、完了したは言い過ぎだろうと思っていたら、日本の公安調査庁の頂点の人物が、真面目な顔で北朝鮮擁護をぶっていたのに驚いた。人権派の弁護士の親玉も似たようなことを言っていた。 自衛隊二十数万の隊員のうち、中国製の嫁さんが100人を超すという。これを見たら、本当に日本への工作は完了したと言われてもしょうがない。 日本人は特殊な情報というものに対して無関心無節操な面がある。先の戦争の始まり、最中、終りすべての局面であった。これは今に始まった事ではないのだ。 大東亜戦争の始まった、特に米国との戦いでは、米国は日本の事をぜーんぶお見通しだった。この時、日本側の暗号パープル、津、はすでに完全に破られていた(税関吏に成り済ました諜報員や、大使館に泥棒に入ったFBIが解読コードを盗んだ)。にもかかわらず、真珠湾は壊滅的打撃を受ける。 なぜか。ハワイの米軍は先制攻撃を知らなかった。米本土が見殺しにしたのである。時の海軍大将キンメルには何も知らされてなかった。 アングロサクソンはこういう事はよくやるらしい。 英軍が独軍の暗号を破って、明日にも人口数万の英パーミンガムの東、コヴェントリー の町に爆撃があるという情報を持っていたが、暗号を破ったという事実を知られたくないとは言へ、コヴェントリー の住民を犠牲にした。(米国が広島長崎原爆投下の正当化に後何百万の日本人を助けるため落としたとの、へ理屈にも通ずる所がある) 真珠湾攻撃もこれと同じ人身御供である。前の将軍は先制攻撃をさせる事を聞いて、部下のことを思い反対して更迭され、その後に来たのが何も知らされていないキンメル大将だった。 情報を守るためにここまでやる。 そうして、罠を仕掛けて置いて網にかかるともう大義名分(米国は自分からは戦争をしないが仕掛けられたら話は別)は出来た。堂々と戦争に持ちこめる。してやったりである。 一方日本はどうか。わが帝國海軍は大将自ら禁じられている時間帯もかまわず無線で頻繁に交信し、それは全て米国に記録され泳がされ(海軍だけに…。)ていた。 撃墜王の坂井三郎が南洋に置いて戦う最後の一機の零戦(れいせん)も失い、横須賀に着いた時、町には音楽が流れ、ごく普通の世間の空気であった事に、今まで血みどろで戦ってきた現場とのあまりの相違に拍子抜けしている。 その国鉄横須賀線には戦時中にも関わらず、米国人が平然と乗っていた。「日本の情報を得るには、汽車に乗ると良い、乗っている将校クラスのがぺらぺら喋っている」ので簡単だと書いていた。 硫黄島のアメリカ版実録映画の中でも、捕まった捕虜があそことあそこに穴があると、一本の煙草でべらべら喋る(日本人として出兵していた朝鮮人は、日本国に「強制連行された」と、字幕だかナレーションだかが入っていた。当時日本人として誇りを持って戦地に臨んでいた朝鮮人がそんな事言う分けないのだが、ここにも情報の操作が入っている)。ちなみに最初に白旗揚げて出て行ったのは朝鮮人である。 今来ている映画、300(スリーハンドレッド)の中にも興味深いシーンがある。スパルタ三百とペルシャ百万の軍の戦いを描いたものだが、これを終始スパルタは日本、ペルシャはアメリカと置き換えて見ると面白い。 スパルタには七つの掟があり、その最初の一つに、 「戦えない子は谷底に捨てるべし」 とあり、今なら大変な事になるが、当時はそうしなけれは、自分たちが生き残る術は無かった。映画中のスパルタの悲劇は、捨て去るべき生まれながらの傴僂(せむし)の子が、親の情から掟を破り生き永らへ成人した事にある。 その子は人一倍、スパルタである事を誇りに思い、ペルシャとの戦いに志願するも、隊長に盾を頭上高く持ち上げてみよと言われ、身体的に出来ない事を悟る。冷徹に断られるや、この傴僂はペルシャに寝返るのである。 歴史に残る、このテルモピュライの戦いは、ルーブル美術館にある巨大な作品「ナポレオンの戴冠式(約、縦六メートル横十メートル)」を描いたダビッド(ジャック・ルイ・ダビデ)も描いている。 この戦いは、スパルタの選ばれた戦士300名の特攻である。主権維持の尊守とブライドを持ち、背水の陣の戦いを戦う兵は強い。 ペルシャ百万(映画では)と言えども、一度にかかってはこられない。(日本の武士の戦闘でも、一人によってたかっては戦えない。お互いの刀が邪魔になり、味方が負傷する。戦いは矢→槍→剣の順)海岸線にある、峡谷(幅が狭く、両側が切り立った崖からなる谷)を利用してそこで迎え撃つ。 バッタバッタと切り倒し、屍骸で波打ち際から、峡谷の入り口まで高さ十メートル位の壁を作ってしまう(映画デス)。 無敵とも思えた戦法も、先の傴僂が持っていた崖の抜け道の情報を、自分の安楽との引き換えにペルシャに渡してしまうことで、一歩も引かない覚悟のスパルタの戦士は玉砕してしまう。傴僂のたった一つの情報で、あっという間に形勢逆転してしまった。 「スパイのためのハンドブック」の著者、ウォルフガング・ロッツと言う人がいる。イスラエル建国時に、軍に入隊、* モサドにいた。後、エジプトで工作活動し、最後には夫婦共々捕まり、エジプト政府の釈放条件が、何とエジプト人捕虜五千人との交換であった。しかし、最後までイスラエルのスパイである事はばれなかったようだ。かくも情報は大事な物なのだ。 スパイ防止法は必要だ。* ヒューミント 「ヒューマン・インテリジェンス(human inteligence」の略語 『リーダーズ英和辞典第二版』(研究社)では「〔特に重要な事柄の〕情報」「諜報(機関)」「(秘密)情報部」の訳語* モサド(モサッド(מוסד)秘密諜報組織… 1972年9月5日早朝、オリンピック会場内のイスラエル選手村に、武装した黒い九月のメンバー8名が乱入し、イスラエル人選手とコーチの2名を殺害し、残りの9名を人質に取った。これの報復として モサドはテロリストを一人づつ暗殺して行く。この過程は、スピルバーグの映画「ミュンヘン」に詳しい。
今年は蝉が他所ではすでに鳴いているのに住んでいる界隈ではまだ聞いてなかった。が、ようやくここ一日二日前から裏の木で鳴き始めた。あまりに鳴かないので* 七年前に思いを馳せたが、当時大きな天変地異は無かったようなのにおかしいなぁと思っていた矢先、無事育って地上に生を得たようだ。そうすると庭のどこかに空蝉(蝉の抜け殻)があるはずなので探した。今年はブドウが豊作でたわわになっているそのブドウの葉の裏に見つけた。 葡萄はボルドー液(伝統的農薬)が間に合わず消毒しなかったために半分方害虫にやられた。ボルドー液は硫酸銅と石灰を混ぜてつくる。その硫酸銅を買いに行くのが面倒だと思っていた矢先、やられた。 風鈴の音と蝉の声あとは夕立で夏完了。 空蝉(うつせみ)の みをかへてける葡萄の下に(源爺?)* 蝉が地下生活する期間は3-17年(アブラゼミは6年)近くを過ごし地表に出て長くて一ヶ月を生きる。
2007年07月16日(月)
みたま祭りと祇園祭り
先日、東京に行くことがあったので、靖国神社のみたま祭りを見、明けて昇殿参拝をした。日頃視聴している、スカイパーフェクTVの、チャンネル桜のスタジオ見学も兼ねた。 みたま祭りで賑わう参道に並んだ露店を一つ一つ見てある事に気がついた。靖国神社の各露店のおじさんおばさんの顔がとてもいい顔なのである。この人達を* テキ屋(やくざとは一線を画す)というが、本当にいい顔なのだ。お化け屋敷の前で口上を言って客寄せしているおばさんの顔も普通の顔ではない。何とも言えないいい顔だ。これ一筋と言った佇まいだ。気風がいいと言う言葉、そのままお化け屋敷のおばちゃんにあてはまる。 ところが、京都の祇園祭で、室町に立ち並ぶ露天商の面々は、茶髪の兄ちゃんネェちゃんが多く、「ええ顔(任侠顔)」したおっちゃんは皆無と言っていい。全部ひきうけまっせの顔が無い。ちんぴら顔。 神社と町の祭りの性格の違いもあるが、見物も祇園祭はただのふらふら物見遊山、一方、靖国神社の人々を見ていると、多く拝殿まで歩き、それぞれのやり方でお参りして手を合わせている。↑ホテル4Fにもかかわらず、泊まった部屋には窓を 開けると坪庭が付いていて都心にも関わらず小鳥が来る。 次の日に昇殿参拝を家人と共にした。台風の影響か、かなりな雨だった事も幸いして、わりと少人数のかたまりで本殿に参る事が出来た。 ジーパンにTシャツ姿の若い夫婦と乳飲み子、戦争体験者だと思われる老夫婦、個人参拝の青年数人。 他十数人。先の子供を連れた夫婦の、昇殿参拝する心意気は買うが、やっぱり昇殿参拝の時は、手を清め、口を清めするのだから、Tシャツとジーパンならば、賽銭を投げ入れて参拝する拝殿にするべきだろう。 ここに祭られている人々は幸せだなと思う。ここを極端に嫌い、家の墓で弔うと言う人があるが、家で弔い続けようと思っても、その家が代々続くと言う保証は無い。途絶えればそれきりである。その思いを強くしたのは、今住んでいる近く哲学の小径の裏山に墓地がありそこに散歩した時の事。 そこには同志社大学の創始者新島襄の墓があるが、一般の人々も一緒に眠っている。クリスチャンの墓地だから日本の墓とは趣が違う。ここで驚いたことがあった。一部の墓に何か襷(たすき)がかかっている。 何だろうと思い近づいて絶句した。「某年某月までに当教会まで連絡無き場合、撤去します。」 この墓のご家族が何らかの理由で長い間放置、又は、家が途絶えてしまっていたら、だれも花を手向けてくれない、手を合わせてくれない。そうして、撤去!されてしまうと、生きた証はどこにもなくなる。 反対に、国に殉じてなくなられた英霊は、全国から絶える事無く、永代にわたって感謝されお祈りしに来てくれる。生きている間と死んでいる間?は比べてみるまでもなく、死んでいる間が長い。この間、ずっと感謝されるのである。 病院で病気でのたうって死ぬのと、非情な決断のもと、負けはしたけれど人のため国のためにと死んでいった生き方とを思うと、どちらにより生の輝きがあったか。 一昨年は蝉時雨の中、大勢の志を同じうする人々に混じって参拝したが、今回は、家族で個人的に参拝した。一度は日本人としてしておかなければならないと思ったからだった。 午後から、渋谷のチャンネル桜のスタジオに伺い、報道番組(チャンネル桜 SO -TV でも見られる)のスタジオなどを見学した。思いのほか、小さく狭いのだが、討論番組などを画面を通してみる限り、とても広く見えるのは、スタッフの腕だろう。終始笑いに包まれて、一時間ほどお邪魔して夕刻台風の影響下、京都に帰ってきた。 * テキ屋(的屋)…昔(室町時代を起源とするらしい)はやくざと同根だったようだが、分かりやすく言うと、やくざは博徒(ばくと・賭博をもって業となす者)、テキ屋は街商(がいしょう)、大道商人(だいどうしょうにん)、香具師(やし)とも呼ばれる。
幾度目かのパスポートの期限切れで、京都駅ビルにある旅券事務所に行った。これは本人が行かなければならない。手間である。 しばらく待たされた後、呼び出され窓口に行き係の人と一対一で書類を確かめる。名前から始まり事細かくチェックしていく。担当のお姉さんは、ぶつぶつ何事かいいながら指でいちいち項目をなぞりながら、確かめている(後から思えばふりだけしていた)。 そうだろう、外国で唯一身元を保証するものだから慎重に慎重を期すのは当然の事でこちらはじっと待つ。一週間前後で、出来ました葉書で知らせるから、葉書とともにまた本人が取りにこいと言われて無事終了。 何日か後の日曜の朝電話がある。 最近電話がかかってくる事はほとんどない。大抵E-mailである。携帯電話は持った事が無いので、コンピュータでのやりとりということになる。これには感謝している。時を選ばずかかってくる電話には本当に往生していた。 一旦仕事や熱中する事(例えば読書)にかかったら電話がかかってきてもいっさい取らない、居留守を使う。一度これでばつの悪い思いをしたことがある。 制作中に電話がかかってきた。かなりしつこい。仕方なく出たら、「わだずは…、なんじゃらもんじゃら…、」日本語になってない。何だ、いたずら電話かと思って「どこにかけてんでぇ(とはいわなかったが)違うよ、」といって電話を切った。制作を中断されると流れが変わってしまい続けて出来ないので、茶を飲んでいたらまたかかってきた。出ると知り合いからで、さっきかけたという。 久しぶりにニューヨークから来た共通の友人、米国住まいの英国人にこちらをびっくりさせようと電話をさせたという。 ちょっと乱暴に切ったので、しらばっくれて「違う所にかけたんではないか」と言ったら履歴に残っているから間違いは無いと言われて冷や汗が出た事があった。 電子メールが来ると、コンピュータは声で到着を知らせてくれるが、好きなときにあければよい。こんな嬉しい事は無い。 時折見かけるが、高級なレストランにまで携帯を持ち込んでなんとテーブルの上において食事をする輩がいる。喫茶店でもみかける。携帯電話が確かに便利な事は実感として知っている。携帯の黎明期、雪舞う奥琵琶湖を友とドライブしていた時に、軽トラックの肩輪を路肩の溝につっこんで吹雪の中、途方に暮れている老夫婦に遭遇した。 この時、友人の持っていた携帯が役にたった。圏外ぎりぎりだったようだが、助けを呼べた。本当に便利だと思ったが、個人で持つという発想は出て来ず、車に標準搭載すればいいと思った。 非常の時などはそうそうあるものではないし、もし、そんな時に遭遇(人の生き死に)しても持っていなかった事への後悔はしない事にしている。 話を元に戻して、日曜の朝、電話がかかってきた。昼近くまで寝ているので迷惑千万だがその日なぜか出た。旅券事務所からであった。何事かと思ったら、名字が違うという。んな、阿呆な!と言ったら旧漢字がなんとかかんとかと言う。名字はご先祖から伝わっているものだから、新仮名遣いになったとしても、戸籍登録は当然昔のままである。ところが、国は新仮名遣いにあらため、旧(正)字を排した。漢字を制限した。教育でも教えない。 そうしておいて、旅券申請は旧字でせよといい募るのである。例えば、戸籍で廣田となっていて普段は広田さんで使っていても廣田と書けという。くさがんむりも、真ん中が離れているものがある。うちはこれで文句が来た。。 「ちがうってあんた、膝つきあわせてこの前、確かめたのはあなただよ。こちらは質問された事にちゃんと答えたよね。その時にそれを発見できなかったのなら職務怠慢ぢゃないか。それに今回、肝心な事は本人確認できればいいのであって、免許証の写しも提出したし写真もあるのだから、そんな事でいちいち電話してくるなよ。」といったら、それではこちらが訂正しておきますといって電話を切った。自分で何も考えられない。 馬鹿その二。 国際免許証取得のために行った免許試験場で。 国際免許証は一年しか有効期限がない。毎年外国にでかけると毎年試験場に足を運ばなければいけない。結構遠い。タクシーで数千円。 デジタルカメラの発達で高画質でコンビュータからプリント出来るようになったので、試験場で高い金払ってお尋ね者の犯人のように撮ってくれる写真よりはいいと、できるたけ男前に撮ってプリントして持っていった。その写真にクレームがついた。 係のお姉さん「コンビュータでプリントしましたか。」 たん譚「なんで?いけないの?」 係のお姉さん「そういう決まりです。」 そこで、 たん譚「この写真に写っている人誰にみえますか?」 係のお姉さん「あなたです。」 たん譚「この写真何のためのものですか?」 係のお姉さん「本人確認のためです。」 たん譚「じゃこの写真でいいですよね、外国で提出を命じられた時は、日本の免許証も同時に出すことになってます。だとしたら、二重にチェック出来るという事ですよね。もう一度聞きますけど、これは何のためのものですか。」 係のお姉さん「本人確認のためです。」 たん譚「だったらこの写真が何を使い、どこで撮られてようとかまいませんよね。本人とわかればいいんですから。 たとえ国際免許証に張ったこの写真がすり切れても、日本の免許証があるから大丈夫ですよね。」 係のお姉さん「…。」 納得いかなそうなので、コンビュータではありませんと言ったら納得した。 一時間後、国際免許証を受け取った時に、 「プリンターで印刷しました」と言ってやった。 馬鹿その三。 某インターネットバンク申し込みの際のクレーム。 某インターネットB「本人確認出来ません。」 たん譚「何で?」 某インターネットB「住所がネット上からの書き込みでは、 ぽこぺん市ぺこぽん17 としてますが、あなたが送ってきた免許証のコピーでは、住所が、 ぽこぺん市ぺこぽん町 17 となっていて、本人確認出来ません」ときた。 即入会を取りやめにした.こういう所は、何か問題が発生したとき面倒が必ず起きると予感したからである。→2002年の今日のたん譚 本末転倒
名越二荒之助と言う名前を初めて知ったのがいつだったのか覚えていないが、どう読むのかしばらく悩んだ事はおぼえている。ナコシニ・アラノスケか、コウノスケ? ナゴシ・ニアラノスケ? ナコシジ・コウノスケ? 正解は、ナゴシ・フタラノスケであった。最初の出会いは「日韓二000年の真実(現在は改題して日韓共鳴二千年史)」という分厚い本だった。もう十年くらい前になる。日本と韓国のあまりの文化の違いに興味を持って関係の本を読んでいて出会った。 その後、講演に一度二度でかけた折、お年にも関わらずぴんとした背筋、論、熱を帯びるや迸る活力に圧倒された。 この好々爺は評価がまっ二つに分かれる。 まづ、「日本は悪い事をした。この前の戦は侵略戦争でアジアの人々を苦しめた。」という思いを抱いている人に取っては、鼻持ちならん右翼の爺さんで、 その多くの著書の中の一部をつまみ読みしただけの人は、嘘をかいているインチキ爺さんといって蔑む。 他方、この爺さんの著書を多く読み、その講演なども聞き、チャンネル桜の近現代史の講座などを聞いている人々に取っては、「何を訴え続けているか」がよく分かる。もちろん偏狭な右翼などではない。 少し前、嫌韓流の本が評判を呼んだが、「日韓2000年の真実」を読んでいれば、一回り大きな視点で日韓をみられる。 毎日、画架に向かっている間はチャンネル桜の近現代史講座他を聞きながら描いている。本当につい先日まで元気に講座を開いて、不勉強な地方議員がゲストに来た時など、不満あらわだが番組の終りには必ずねぎらいの言葉をかけた。つい先日も出演していた。それが突然の訃報。お元気そうに見えたが、人は死ぬるのだ。御冥福を祈ります。 写真は、 去年の印度親善旅行の時、ガンジー財団が管理するガンジー埋葬の地ラージガードで献花後、ガンジー平和財団を訪問、ガンジーの住んでいた家の横で記念植樹が終わった後の一こま。 手には「大東亜戦争その後」の著書を携へて。ご本人は、チャンドラボーズが贔屓であった。 名越先生 「君は絵描きか」 たん譚 「はぁ」 名越先生 「藤田嗣治知ってるか」 たん譚 「はい、知っています。戦争画を描いたばっかりに、戦後悪者扱いされ、こんな阿呆な国に愛想が尽きたと、フランスに帰化して二度と日本の地を踏まなかったですね」 名越先生「君、藤田の戦争画見たか、素晴らしいよ」 藤田の絵が良く知られているのは、日本画的に描かれた女や猫の作品だろう。戦争画を知る人はまとまった展覧会を見た人は別として少ないと思う。 しかし知る人ぞ知る。これが傑作揃いなのだ。画面の下には皇紀何年と記されて、戦争の場面を的確に描写している。実に迫力がある。 ※※ 名画と言われる、ピカソの「ゲルニカ」を説明無しで戦争の悲惨を表現してると分かる人は少ないだろう。'85年、マドリッドのプラド美術館別館で見たが、先の知識を持ってしても、浅薄なたん譚は「 なんじゃらほい」とただ思っただけであった。この絵からは、ゲルニカの戦争の悲惨惨劇はどう見たって想起されない。 これを↓先入観無しに見たら,子供を連れた父親が、馬車に共々蹴飛ばされた事故現場に、間一髪助かった母親がぐったりとなった子を抱き上げて嘆き悲しんでいる、当たりは既に暗くなっており,御者は大変な事になったと天を仰ぐ。駆けつけた通行人がランプで当たりを照らしている…。交通事故現場 に見えるぞ。ゲルニカ
それに共産主義者のピカソが本当に戦争の悲惨(反戦)を描いたとは思えない。共産主義は武力革命を肯定している。すなわち絵に描いてある事どもは、武力革命の時には起こって当然の現象だからだ。※※ たん譚「戦争画を描いた画家の多くは実力者でした。戦いの場に実際に行ったりして描いている。部屋にいて写真を見ながら描いているのとはわけが違いますね。」 名越先生「で、どうですか。君、南方戦線の戦争画を描いて下さいよ。」 たん譚「え?戦争画ですか…。」 −小学校の頃は実に沢山の零戦紫電改隼飛燕他の戦闘機の絵を描いた。しばし多くの思い出があたまをよぎった。 絶句していると奈良市議が写真を取りましょうかと言ってくれ、戦争画の絵の話はそれきりとなった。そしてお話ししたそれが今生の別れとなった。→2003年の今日のたん譚 高貴
2007年03月31日(土)
なかった、沖縄の集団自決強制
「沖縄の集団自決」に関して民放のどのニュースを見ても真相は分からない。この事に関して「教科書記載七社全記載が変更…」て、後の一社はどうなんだ。報道しない。全部で教科書は八社ある 。(訂正;04/01 高校の日本史なので10種のうち七種) 沖縄の集団自決軍強制はありえない。この辺の詳しい事は、曾野綾子さんの著書や、今度スカイバーフェクTV の767chから、ハッピー241chの無料放送に移行した、チャンネル桜の詳しい検証放送を視聴したら、無かった事がよくわかる。 民放はサヨクもどきの洗脳ばぁさんやじいさんの意見ばかり取り上げて(人は嘘をつく)、なぜ教科書がそれを改めたかに着いて、客観的に取材をしようとしない。 「自殺した者は国の戦後年金保証対象外」の事情から、軍が強制した事にすれば、島民に年金保証が得られる事から、軍の責任者が、みんなが助かるのだったらと、そういうことにした事がわかってきた。これは住民の方達が明かした事である。民放はこの事をしってかしらずか報道している。 当時の住民に今のような反日的な日本人はいなかった、みんな一丸となって戦った。だから米国に捕まるくらいだったら自決するというのが島民自身当然持っていた意識だった。 軍は自殺を「軍人ではないのだから」となんと反対している。 詳しく真相を知りたいなら、チャンネル桜のアーカイブ で検索「沖縄」で有料(100円くらい)だが「桜沖縄スペシャル− 集団自決の真実!軍命令はなかった(1〜4)」で映像で見られる。かなり詳しくインタビュー形式で取材している。 納豆で放送免許取り上げるのどうのこうの言うんだったら、再三に及ぶ、真実を伝えない民放特にTBS、朝日NHkの偏向下請けおまかせにこそ、放送免許取り上げすべきだろう。 「従軍慰安婦」について、加瀬英明さんがニューズウィークに反論を掲載した。日本語版は来週発売なので読んでいないが、内容は手に取るようにわかる。占領軍が日本で起こした強姦暴行の件数(神奈川だけで一ヶ月だけで二百数十件 、*訂正4/6 二千九百件。占領期間七年間の間に三万件)を知り、他国の女を傷つけないために自前のプロの慰安婦を用意した日本の事情を知れば、米国他外国人にとって黙るしか無いだろう。自国の事を胸に手を当ててよーく考えてみよう。* 歪曲報道 高山正之 →2002年の今日のたん譚 「桜とお花見」
2007年03月27日(火)
世界の民に The Rape of Nanking !?
この前の日曜に大阪護国神社にて映画「南京の真実」(仮題)の製作を* 支援する集いに行って来た。盛況で何よりであった。ここに「南京の真実」(仮題)の11カ国語訳がある。多くの外国人を友に持つ人に紹介して欲しい。 (Eine Fälschung) Der Raub von Nanking ( Informationen Kriegsführung ) Nanjing Blutbad ( Reklameanzeige der Lüge ) ( Uma falsificação ) A violação de Nanking ( Guerra da informação ) De massacre Nanjing ( Propaganda da mentira ) ( Подлог ) Изнасилование в Нанкине ( Информационная война ) Нанкин массовые убийства ( Реклама на ложь ) ( مزورة ) اغتصاب نانكينج ( حرب المعلومات ) مذبحة نانجينغ ( اعلان من كذبة ) ( 捏造 ) 强奸的南京 ( 情报战争 ) 南京大惨杀 ( 广告说谎 ) ( 날조 ) 강간·오브·난징 ( 정보 전쟁 ) 난징대학살 ( 사기의 광고 ) ( Una falsificazione ) La violenza di Nanchino ( Guerra delle informazioni ) Massacre di Nanjing ( Pubblicité della bugia ) ( Una falsificación ) La violación de Nanking ( Guerra de la información )Masacre de Nanjing(Anuncio de la mentira ) ( Un faux ) Le viol de Nan-King ( Guerre de l'information ) Massacre de Nanjing ( Publicité de mensonge )「南京の真実」(仮題)の11カ国語訳
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* 主催:さくら草莽会 河内国民文化研究会 →2003年の今日のたん譚「値違ひ奇にして今宵寝違ふ」
寝床に入ってから本を読む習慣があり、連日面白さのあまり明け方6時過ぎまで読んでいた。朝六時過ぎ頃になると北隣の家の白梅の木辺り?に鶯が数日前から同じような時間帯にやって来て、鳴き始める。間断なくさえずっているのだが、何だか変なのだ。 ホーホケキョ・ケキョ・ケキョ・ケキョ・ケキョときて、またホーホケキョまたは簡単にホーホケキョと単音節?で鳴くのが常道なのだが、白梅の鶯はどーも新参でさえずりの練習をしているとしか思えない鳴き方をする。ホーホー、ホーホキョ・ホキョ・クキョ。キョッ・キョッ、聞いていて思わずガクッとずっこける。ホーホーキョッ、ホーキョ。ホーキョはないゾ。ケはどうしたケは! ケが(怪我)無くてよかったね何て言ってる場合ではない。お前はほんまにウグイスか?おもわず独り言ちてしまう。 本当に下手で三日めもまともに鳴けなかった。聞いていて、もしやこいつは、父(てて)無し子かも知れないと思うに至った。 うぐいす(他の鳥達も)は放っておいて「ホーホケキョ」と鳴けるわけではない。産まれてすぐにカラスの側に置いておけばからすのカーカーの鳴き声になる。先生が必要なのだ。普通は親が先生だ。 中学生の頃うぐいすを飼っていた。いい鳴き声に育てるには、いい鳴き声の鶯の横に置けと教わった。 きっと今来ている鶯は、教わる前に何かの事故で親を失ったかどうかしてちゃんと教わらなかったのに違いない。鳥には鳴き方が、地鳴きとさえずりの二通りあって、唄うように鳴くさえずりはどうも機嫌のいい時のようなのだ。 うぐいすの普段の鳴き方(地鳴きという)は、人が舌打ちする時の「チェッ!」と言う音を連続して繰り返すような音で、これをやると山で鶯を呼べる。 20世紀初頭フランスの作家で映画監督だったマルセルパニョルと言う人がいた。マルセイユで幼い頃過ごした。父は小学校の教師、当時の進歩的教師で宗教を信じなかった。幼児のマルセルはこの父が教壇に立っている間、教室の最後列の席に子守りも兼ねてか置いておかれた。 ある日、生徒達に黒板に書かれた綴りを読めと書いたそれをマルセルは読んでしまう。誰も教えていない。それなのにいつの間にか覚えてしまって学習していた。 それからと言うもの、家では本と言う本、意味も分からず手当り次第に音読していたらしい。親が本を取り上げる程であったと言う。そういうことがあってやがて作家になり監督になる。 この事からも周囲の環境が子に与える影響は絶大でへたをすると将来が決定されてしまいかねない。それも自我の芽生える前が肝心なようだ。無尽蔵な受容器を持っている。音楽学習などはまったくそのように思える。 そんなことをこの音痴の鶯君から思った。 うぐひすのなく早旦ごとに聞てみれば うつろふ囀(てん・さえずり)に露(つゆ)ぞ吹きける 詠み人知らず(古今集)か? *家人に、うぐいすの子供は子指くらいで、孫はもっと小さくて小指の先ほどで、並んで止まっている図はとてもほほえましいとでまかせを以前言ったのを、最近までずっと信じていたらしく詰問された。本当はウグイスの若鳥は見場も成鳥と同じ。 うぐいすとめじろをその色から混同している人が多いので色見本を示しておく。ちなみに、梅の木に蜜を吸いにくるのはめじろで、うぐいすはあまり高い木には止まらない。せいぜい身の丈くらいの低木に止まる。英語でも、Japanese Bush Warblerといい、直訳すると、日本の低木Bush にいるさえずるように唄う人(アメリカムシクイ)Warbler。→2002年の今日のたん譚「男女平等の怪」 →2003年の今日のたん譚「国連てなんだ」
2007年03月09日(金)
生きたるきけぇ(又はききゃぁ)
最近つまらない映画、とくに日本製の映画は何だか漫画と連動してガキ相手の私小説的なスケールの小さい物ばかりで、いくら日本映画の世界はバブルと言えどもあんまりだと思っていたら、大当たりの映画に出会った。 予告編を見ていて、直感的に面白いと思っていた作品で、後数日で終了だというので泡食って出かけた。おまけに一日に一度きりの上映時間で夕飯の時間帯だったが、無理して出かけてよかった。 この映画のすごい所は、事実は小説よりも奇なりを感じさせる事に加へ、見ていると自然に「国を愛する」ということはどういう事かと言う事が理解出来る事だ。静かなる感動で別に涙の場面ではないのに泣ける。* 「泰平(たいへい)の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜もねむれず」 という狂歌で始まる。これは黒船が日本に来て慌てふためく様子を謳ったもので、* 上喜撰とは茶の事で蒸気船にかけた言葉。 この「長州ファイブ 」という映画、 明治維新前夜、伊藤俊輔(伊藤博文)野村弥吉(井上勝)山尾庸三 遠藤謹助 志道聞多(井上馨)の五人の物語で、英国の新聞は彼等の事をそう言った。 吉田松陰の影響を色濃く受けた長州藩の志士達は高杉晋作の命で、品川に出来た完成まぢかの英国大使館を焼き打ちするも、その虚しさから、信州に佐久間像山を訪ね孫子の兵法「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を説かれ、 それを機に英国渡航を決心しついに文久3(1863)年、まだ数えで二十一歳だった伊藤等五人は長州藩に秘密裏の援助を受け、英国へ密航した。片道数ヶ月の航海である. 物語は、山尾庸三を主人公として描かれている。山尾は後の工部大学校(現東京大学工学部)の設立に尽力し、聾唖教育の普及、日本で初めて手話を紹介した。 五人は上陸後、石で出来た建造物蒸気機関車に肝をつぶす。圧倒される。 これは硫黄島の栗林忠道中将も米国留学の際に抱いた西欧諸国への畏怖と同質の物であった。志士達は気がついてないが、文明も文化も既に日本にはあったのだが自覚が無かった。それが後の鹿鳴館時代のような極端な西洋化を行ってしまった事にも現れている。江戸後期、江戸人は地動説なんて一般人でも知っていたし、医学などもシーボルトに見るように知っていた。黒船蒸気船も最新式ではない事も知っていた。驚かなかった。だから、江戸から発の改革が興らなかった。それは今も変わらない。ただ、志士達は田舎者で純粋であった。あっと驚いてしまったのだ。 印象に残った場面を書いてみる。
左前 井上馨27才 左後 遠藤謹助27才 中央 井上勝20才 右前 山尾庸三26才 右後 伊藤博文21才 英国に住み始めて二年目に下関戦争(馬関戦争)の予兆を英国の新聞で知り、伊藤と井上(馨)は「攘夷」を止めるべく急遽帰国する。残った三人は、「生きたるきけぇ(長州なまりで、機械の事)」となって尽力すると決意する。現今「産むきけぇ」でがたがた言う世の何と愚かな事か。 現代に大和撫子がいるとしたら、人口減少化を止めるため「産みたるきけぇとなって尽力する」と公言する女が居てもいいと思うが、寡聞にして知らない。 ある時酒場で残った三人が飲んでいる所に、正式に渡航して来た薩摩藩士達と出会い、長州が英国にした事に対し、藩同士の対立から喧嘩になる。山尾がなだめて後、和解。山尾は造船技術の大事を言うが、金銭的理由でまだ出来ないともらす。 その後がすごい。そこにいた薩摩の志士達が、山尾に金をそれぞれ握らせる。藩同士の争いに終始している場合ではない* 「国」のために貸すのだと言って手渡した。現在の額で100万円くらいで、これを元に山尾はグラスゴー(工業都市)に向かい、生きたる機械となって造船技術を学ぶ。 当初「日本野郎」と蔑んだ船長も、志士達の礼節勤勉と品格を感じ、ついには自分達と同じかそれ以上の存在として扱うようになる。 ある時、山尾が懇意になった女友達を暴漢から救うべく割って入るが、ボクシング発祥の国、殴り倒されるがそこに一本の棒切れ。 ここで山尾は武士に戻る。まげを切って武士を捨てて来たが、ここから示顕流の剣術が見られる。まったく無駄の無い動き、的確に相手を立てなくする。「剣道」とは違う剣術の動きが見られて興味深い。間違っても面や胴はとらない。 創作話だと、喀血した遠藤なんかは、英国で客死にすると残念無念で話も劇的要素を帯びて来る所だが、遠藤は 死病と言われた病に倒れ志半ばで帰国するもどっこい生きて、英国で見た精巧な紙幣に感心、日本でも作りたいとおもったのか後に大阪造幣局長を務めた。「桜の通り抜け」はこの遠藤の発案。 野村弥吉(後の井上勝)は、鉄道の研究に励み、後に日本で初めて新橋横浜間の鉄道を開通させ鉄道の父と呼ばれた。 乳製品で有名な小岩井牧場の名は創設した三人の頭文字の合成でなっていて、日本鉄道社長「小」野義真、三菱財閥の「岩」崎弥乃助、最後の「井」が井上勝である。 伊藤俊輔(後の伊藤博文)は都合三度の渡航をしている。二度目は明治維新後の明治四(1871)年から明治六(1873)年にかけて岩倉使節団の一員として。三度目は明治十五(1882)年から明治十六(1883)年にかけて日本の憲法制定にあたり、列強各国の近代憲法を自ら学ぶために渡欧。ドイツを模範(条文憲法・シヴィル・ロー)とし日本初の憲法制定、内閣制をつくり、初代総理大臣になった。 志道聞多(後の井上馨)は、下関戦争(馬関戦争)の通訳、開化政策を薦める。明治政府の外務大臣。伊藤と共に鹿鳴館時代をつくる。 小説なら、密航した五人が五人とも功成り名遂ぐなんて、ちんけで如何にも嘘くさくなり、物語として成り立たない。ここが事実は小説より奇なりと言う所以である。 中学生高校生大学生一般人皆に見てもらいたいと思った。この映画監督は「兼高かおる世界の旅」や「地雷を踏んだらサヨウナラ」の五十嵐匠。* 萩市内の民家で見つかった吉田松陰直筆とされる「燕都流言録」では アメリカガのませにきたる上喜撰 たった四杯で夜も寝ラレズ となっている。* 上喜撰…お茶の商標。 平安初期の歌人、喜撰は、京の茶の名産地山城の人で、後に宇治に隠遁した。それにちなんで商標としたのだろう。茶はカフェインが強い。上等のと言う事だから玉露の事と思われる。飲み過ぎると眠れなくなる。* 「国」のために貸す…。この借りは現在に至るも返してないらしい。
2007年01月29日(月)
南京事件映画制作を応援する
映画、硫黄島関連二作 などがアメリカで大ヒットとまではいかないが評価されたのが契機かどうか、それを良く思わない勢力、(主に中国)が必ず何か画策する。インターネットの黎明期に名を馳せた、AOLというアメリカの接続会社の元副社長が中国に抱き込まれた。 産經新聞のインタビューで、中国の映画会社と先きのAOL元副社長と共同で「南京大虐殺」の映画が出来た事が解った。中国の映画会社と言っても、共産党支配の国である。実質国営と言っていい。多分金で抱き込まれたか、決定的な弱みをつかまれてしまったか、AOL元副社長は協力した。そしてサンダンス映画祭で公開された。 それもあまりにも初歩の間違いが多すぎて、日本の出版社が訳すにあたり,訂正を求めたが頑として受けつけず、出版社の信用に関わる故に日本での出版が見送られた、曰く付きの「レイプ オブ ナンキン(著 アイリス・チャン 故人)」の本を下敷きにしていると言う。これからも他に七本 ('070327訂正。さらに増えて10本 )近く同様の映画が出来ると言うのだから尋常ではない。 南京大虐殺は本当の所はどうだったか。もう5・6年前になるだろうか東京の九段会館で「南京事件」のシンボジュームがあり、聞きに行った。その時の争点は、一般市民の虐殺などではなく、捕虜の処断の方法を巡っての解釈であった。学者のレベルでは、三十万?市民の虐殺などは問題になっていなかった。端からあり得ないことだったからである。 ここでなぜあり得ないかと言う事を箇条書きにしてみる。 一、世に出回っている証拠写真と言われるものを徹底的に調べた結果、一枚の南京大虐殺を写しているものは無かった事。(東中野修道著「南京大虐殺写真の検証」) 二、あったとされる期間は十二月中旬から翌年二月中旬まで、に三十万人殺したと言う事になっている。南京の冬はマイナス二十度くらいに凍てつく。殺して埋めたというが、二つしか無い葬儀社の五十人にも満たない数の社員が、戦時に、車も無いブルドーザーもない状態でかちんかちんの凍土をどうやって掘って誰が運んで埋めて、またかき氷のような土をかけて埋めたのか。 三、広島の原爆を持ってしても、十五万人しか殺せない。当時の銃器能力で朝から晩まで(弾があったとして)二ヶ月間撃ち続けても殺せない。それでたとへ殺せて、死体がてんこもりになっているそれを、最低二人が一人の死体を運搬する事になる。誰がどうやって運んだのか。三十万人でっせ。 ナチのユダヤ人虐殺で、まとめて埋められた場所は戦後二十数年経ってもその上に立つと、油がにじみ出て、ぐずぐすのクッションの上にいるようだと作家の開高健は書いている。そう言う所が南京には至る所にあった筈であるが、聞いた事が無い。見たものもいない。 四、決定的なのは、極秘機密文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』で解った。この事は、日本をおとしめるための、宣伝工作、すなわちでっちあげだったと言う事である。 そこで、スカイパーフェクTV のチャンネル桜 の水島社長が日本国の汚名を晴らすためについに立ち上がった。先きの中国製映画の反論としての映画を作る。以下。 【 製作趣旨 】 南京陥落70周年の今年 (平成19年・2007年)、米国サンダンス映画祭にて、南京「大虐殺」映画が公開されました。 さらに、中国、カナダ、米国等で計7本の南京「大虐殺」映画製作が予定され、全世界で公開されると言われています。 歴史的事実に反し、誤った歴史認識に基づくこのような反日プロパガンダ映画によって、南京「大虐殺」なる歴史の捏造が「真実」として、世界の共通認識とされる恐れがあります。 また、そこから生まれる反日、侮日意識が、同盟国の米国だけでなく、世界中の人々に定着しかねません。 「情報戦争勃発」とも言える危機的事態に、私たちは大同団結し、誤った歴史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃すべく、南京攻略戦の正確な検証と真実を全世界に伝える映画製作を決意しました。映画は英語版や中国語版等も同時に作り、世界同時公開を目指します。また、インターネットの動画配信も実行する予定です。 この映画製作には、全国草莽の皆さんの熱いご支援ご協力が必要です。 是非、映画製作にご参加いただき、祖国日本の誇りと名誉を守りましょう。 平成 19 年 1 月 映画「南京の真実(仮題)」製作委員会 監督 水島 総 日本映画監督協会会員 日本脚本家連盟会員 日本文化チャンネル桜 代表 【 映画「南京の真実(仮題)」に寄せて 】 ■賛同者■ ※1/24現在 (50音順 敬称略) 赤池誠章 阿羅健一 井沢元彦 石原慎太郎 井尻千男 板垣正 伊藤哲夫 稲田朋美 井上和彦 上杉千年 遠藤浩一 大江康弘 大高未貴 大原康男 岡崎久彦 小川義男 小田村四郎 小山和伸 加瀬英明 勝岡寛次 椛島有三 日下公人 工藤美代子 クライン孝子 倉林和男 児玉源太郎 小林正 小堀桂一郎 櫻井よしこ 桜林美佐 佐藤守 佐藤勝巳 佐藤和男 佐藤政博 篠沢秀夫 田形竹尾 高橋史朗 高森明勅 田久保忠衛 田中英道 戸井田徹 頭山興助 富岡幸一郎 冨澤繁信 中西輝政 中村粲 中村信一郎 名越二荒之助 西尾幹二 西部邁 西村幸祐 西村眞悟 花田紀凱 東中野修道 福田逸 藤井厳喜 藤岡信勝 藤本隆之 細谷茂樹 松下新平 松原仁 松本洋平 水間政憲 宮崎正弘 三輪和雄 茂木弘道 百地章 八木秀次 山際澄夫 山田惠久 屋山太郎 笠浩史 鷲尾英一郎 渡辺周 渡部昇一 ほか たん譚も個人的にこの問題はずっと勉強して来た。出来る範囲で協力したいと思っている。
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