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2007年11月01日(木) わが通る道はありけり(1/2)



 上高地に行ってきた。一晩にして穂高連峰は雪を頂き、冬の装備なしでは危ない状態になった。利用した山小屋も後十日ほどで小屋を閉じる。一人ではなかったし、装備も冬のものではなかったので、涸沢には行かなかった。
今回は槍沢と徳本峠をあたりを逍遙することとした。

 昔、上高地にはいるのは徳本峠(とくごうとうげ)から入った。ほとんどの人がもうこの峠を越えて上高地穂高には入らない。
寂れてしまったこの峠を、途中道草を食いながら、登っていった。上高地から徳沢へと続く登山路から一歩徳本峠への分岐にはいると、人足はぱったりと無くなる。
高度を稼ぎながら峠に行くまでの谷沿いの道から眺めるうっすら雪をかぶった明神岳が美しい。沢筋は本来なら、とっくに紅葉していておかしくないのだが全然と言っていいほど紅葉はない。唐松の林がどうにか黄色に色づき秋の気配が感じられる位で、沢をなぜて行く風は冷たくはない。

 温暖化が本当だとしたら、日本は亜熱帯性気候になる。歴史始まって以来の大事となる。四季に拠って立ってきた文化形態が変わってしまうだろう。新たな疾病も出現するにちがいない(後の勉強により、あってもこれから100年間の間に0.6度の温度上昇だと知りインチキだとわかる。2009/某月)。

 最近は登山者も昔に比べたら減っている。中高年のにわか登山者が増えてはいるが、事故も多く起こっているようだ。この登山者たちにも、スポーツアルピニズムの悪しき弊害?がでているように感じる。
A点からB点に行くのに、 脇目もふらず行く。同じ所で溜まり、同じような行動形式をとる。結果へとへとに疲れて帰ってくる。それでもいいと言われれば何にも言えないが。

 山小屋では、イクラが食卓に出、ステーキがでる。茶碗蒸しに、カナダ産の松茸が入っているのは御愛嬌だが、沢筋にごまんと生えている、野生の三つ葉には目がいかないらしい。これを入れればいいのに。そのことを言うと、採ってはいけないことになっているという。たかだか、一晩二十人くらいの食卓の茶碗蒸しにあしらう野生の三つ葉が絶滅につながるはずもないし、適度に採ってやることで、刺激となり前にも増して増える。過剰保護は無関心につながり、今山小屋の従業員に「この茸食べられるの」ってきいてごらん。なーんにも知らない事、都会のホテルマンと同じだから。

 かって雪の残る南アルプス北岳の小屋で、夜、小屋を抜け出して、岩陰に腰掛け青い月をかすめて飛ぶように流れていく雲を震えながら見ていた事がある。山に出向くのは寂しさや静けさやまた無情と言う言葉をしみじみ味わうことにある。じっと青い月を見ているとこの世って何だろうという気持ちになる。冬山で負傷した同行の友を思い自分は無傷なのに、友と死を共にすることにし、遺書を残して逝ってしまった松濤明(まつなみあきら)を、その心情をいつも思う。

 翌日開けて朝飯の時、登山客が話題にしていたのは、夕べ夜半小屋を出て行った奴がいるということだった。団体行動なら同じように飯を食い、同じように寝なくてはならないが、個人で来ているのだ。夜半に星を見に行こうが何をしようがいいと思うのだが山小屋を利用するとこういう事になる。
だから、かってはテント食料を担いで行ってたが、年とともにそうも行かなくなった。

 上高地、宿泊客は各部屋で眠っている夜半、ベランダに出ると、梓川に黒々と影を落とす山々の上空、オリオンの三つ星は、まるでマグネシウムを焚いたように輝いていた。こんなに輝くのが見える日は少ない、そこで家人に声をかけたが、すでに夢の中であった。

 上高地から徒歩で3時間、山中で泊まった「氷壁の宿」とうたっている徳沢の小屋も、その意味するところを知っている人がいるどれだけいるだろう。
 
 帰りの上高地のバスターミナルで看板を見てたら、おばさん7人くらいに取り囲まれた。看板を見ている。全員が朝鮮語を喋っていた。噂は本当だったニダ。






   落葉松

   からまつの林を過ぎて、
   からまつをしみじみと見き。
   からまつはさびしかりけり。
   たびゆくはさびしかりけり。


   からまつの林を出でて、
   からまつの林に入りぬ。
   からまつの林に入りて、
   また細く道はつづけり。


   からまつの林の奥も、
   わが通る道はありけり。
   霧雨のかかる道なり。
   山風のかよふ道なり。


   からまつの林の道は、
   われのみか、ひともかよひぬ。
   ほそぼそと通ふ道なり。
   さびさびといそぐ道なり。


   からまつの林を過ぎて、
   ゆへしらず歩みひそめつ。
   からまつはさびしかりけり、
   からまつとささやきにけり。


   からまつの林を出でて、
   浅間嶺にけぶり立つ見つ。
   浅間嶺にけぶり立つ見つ。
   からまつのまたそのうへに。


   からまつの林の雨は
   さびしいけどいよいよしづけし
   かんこ鳥鳴けるのみなる。
   からまつの濡るるのみなる。


   世の中よ、あはれなりけり。
   常なれどうれしかりけり。
   山川に山がはの音、
   からまつにからまつのかぜ。

            北原白秋



徳澤園。別名「氷壁の宿」…山岳事故を元に書かれた井上靖の小説「氷壁」の舞台になったことからつけられた。昭和30年(1955)切れないはずのナイロンザイルがいともあっさり切れ、登山者の命が奪われ、それをめぐって裁判で争われる。調査結果と違う証言がされたり、大きな話題となった。


松濤明…厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根において遭難。若くして無くなったのでほとんどなにもないのだが、「風雪のビバーク」「ピークハンティングに帰れ」などのエッセイ、著書がある。
    


 









2007年10月18日(木) 拝啓 P・クローデル様 賞賛返上



 先日、福田政権に替わり、俄に心情穏やかざる心地し、奈良での国民大行進(朝鮮からすべての拉致被害者を奪還する)に出かけた。近鉄奈良駅から、途中朝鮮総連の前を通り、JR奈良駅までを歩いた。運動が小さくなってしまうのではないかと心配で出かけたが杞憂に終わった。だから、大行進の話では無い。

 殆ど毎日、家に居て仕事をしているので、朝のラッシュ時電車バスの混雑時の人々の様子などはついぞ知らない。普段でかける時も、家に自家用車が無い代わりに、タクシーを利用するから出会う事が無い。
時たま、会合などで、大阪奈良などに出かけると、電車の中で大勢の人と一時を過ごす事になる。
 この日は土曜で、近鉄奈良線の停車駅からどやどやと男子高校生のグループが乗り込んで来た。学生の一人が横に座った。そして大きな手提げ鞄から、何やら取り出した。目の端に写るそれは、文庫本より少し大きめの鏡であった。その高校生は自分の頭をそれでじっと見ながら小一時間、毛繕いをしていた。隣の友達に、「眉毛これでいいかなぁ」と聞いている。
開いた口を閉めるのに一苦労した。嫌なものを見てしまったと思ったが、甘かった。

 次に、警察の先導の下に、病院近くでは声を落とし、遠慮がちに静かに通り過ぎるような、紳士淑女の大行進の人々に対して、中高年のばぁ様が、「もっと端を歩け!」とすれ違い様言ったのである。
確かにそこは狭い歩道であり、二列になって歩いていても一杯になる。もうちょっとものの言い方があると思うのだが、そう言い放って去った。あのばぁ様にとってこの行進は自分の邪魔になると言う迷惑行為としか映ってないのだろう。

 極めつけは、行進も終りJR奈良駅前広場で解散した後、電車の時間が少しあったので、近くを逍遙した。よくあるコンビニの前を通り過ぎようとしたその時である。薄暗くなった通りに明るい店内の光が歩道を照らしているその明かりの端に栄養の良さそうな生白い足が見えた。
絶句した。制服にしては妙に短いチェックのスカートをはいた女子高校生が二人、地べたに座り込んで、店の方に向かって半分膝を立て股を開き、足を投げ出して、なんと!どんぶり型のカップラーメンを食っていた。
まじまじと顔を見たが、何の羞恥心も持たないようであった。人の形をした獣を見た感じがした。駅のすぐ前には、先ほど解散した広場があり、ベンチも有る。
注意してどうにかなると言うレベルを超えている。
 衣食足りて礼節を知ると言うが今は、衣食足りすぎて礼節無し。どうしようもない精神の貧困の群れがいつの間にか存在している。
格差社会と言うが所得の格差より、精神の格差の方が日本人を滅ぼす。日本に大使(昭和18年頃)として駐在したフランスの大詩人ポール・クローデルは、親友のやはり大詩人のポール・ヴァレリーに「私が滅びないように願う一つの民族がある。それは日本民族(大和?)だ、これほど注目すべき太古からの文明を持てる民族を他に知らない。・・・彼らは貧乏だ。しかし高貴だ。
この賞賛は返上しなければならない。

「親の顔が見たい」という言葉が近頃、しみじみと理解出来る。










2007年10月12日(金) 主権より国連のお騒がせ



 国連決議を待とう、国連の査察を継続…、国連で戦争回避?…。

 これを見ていると、国連はまるで戦争をしないように働いている組織のような、平和団体のような錯覚がある。そうだろうか? 国連とは、第二次大戦中、日独伊(を枢軸国と言った)と戦った「連合国(The United Nations )」をいう。これからも解るように。「国連」は「連合国」という軍事同盟から生まれたものだ。世界連邦や恒久平和を目指しているというのは幻想である。

 1945年4月に国連憲章(連合国憲章)を作るために、連合国(米ソ英中)は各国に参加招請状を出した。参加条件は「1945年3月1日までに枢軸国(日独伊)に宣戦布告をした国」という条件が付けられていた。この時、枢軸国(政治的活動の中心国)の日独は戦っていた。だから、あわてて枢軸国に宣戦布告したりした国もあった。中立を国是としているスイスが対象外なのは当然だろう。

 だから国連は、枢軸国に宣戦布告した「国際連合国」というのが本来なのだが、それが解るのを嫌ってか、日本では「国連」とした。そうするとあら不思議!
平和のために世界が集まっているような錯覚に陥る。
多く日本人は思っているだろう。

 そこでさらに追い打ちの一撃。
 国連が平等でないことは、成り立ちから枢軸国に対してできた連合だからあきらかで、中心五大国(中ロ米英仏)は、拒否権を持つが、それに反して、当時の枢軸国(日伊独)に対しては国連憲章の「敵国条項」と呼ばれる第107条で縛っている。

 第107条…この憲章のいかなる規定も、第2次世界戦争 中に、この憲章の署名国の敵であった国(日本やドイツ)に 関する行動で、その行動について責任を有する政府がこの戦 争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排 除するものではない。


 また国連は平和裡に手を打つ組織ではない。ちゃんと、第42条に「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍、陸軍の行動をとること ができる。」と、武力行使を認めて、絶対戦争反対の平和組織ではない事がわかる。それに発足当初、独自軍隊を持つことも検討されていたが、米ソ冷戦中の事で、共同軍事行動など不可能であったことから見送られた。

 国連憲章は、各国の個別的自衛権(国家グループでの同盟関係…NATOや日米安保)と、集団的自衛権を認めている。 国連は、主権国家を認め、その間の調停を目的とした機関なのであって、何か世界連邦的なものの為の期間ではないのだ。

 我が国日本は、国連の、主要五カ国中二カ国、中・旧ソ(現ロシア)の多大な援助国である。自立できていない国が主要国に二国有り、経済大国で自立した国が国連の敵国である。

 この「敵国条項」を破棄しようとすれば、憲章を変えねばならない。そうすると各国が修正要求を次々出してきて、憲章自体が崩壊してしまう。だからいまだに、この107条を日本国政府が撤回せよという、要求をしているにも関わらず、国連は出来ないでいる。国連は矛盾の上に成り立っている組織で、それは当の米国が一番良く知っている。

イラク問題の後、米国は国連の主要国からフランスをはずし、日本とインドを入れようとする話も今でている。そうすると泣いて頼んで入れてもらったフランスはどうするのだろうか? 

どちらにしても今の国連は矛盾に満ちている。

 
 お騒がせ国連を、金科玉条とす一臘誤てり。


 2003年03月16日(日)国連てなんだ? より、再掲載









2007年10月09日(火) これは事件か?



 見たことも聞いたこともない、タレントの女の子が傲岸不遜だとか「謝罪」?したとか騒いで新聞も載せていた。何のことか分からなくて、やがて了解した。
いつだったか、町内で映画のロケがあった。「映画の名はクローズドノートといいます、ご迷惑かけます」と回覧板が来ていた。直接見たわけではないが、晴れの日に雨降らしたり撮影も大変だと思っていたら、主人公?も世間に迷惑かけたらしい。
何でこんな事が新聞に載るのか。スポーツ新聞か何かに載せてくれ。騒ぐほどのことか。インターネットで検索アクセス数が、第一位であるという、マスコミは乗せられたんじゃないか?










2007年10月03日(水) 沖縄で十一万人? と法廷ライブ



 あの秋田の信じられない事件、我が子が魚を見たいと言うので、橋の上まで連れて行った際、欄干に腰掛けさせ、背中を押して川に突き落とし溺死させたあの事件、後日近所の子供に見られた?と思い、その子も殺した、新聞が書くところの「鈴香」容疑者の、法廷ライブを産經新聞のweb版でやっていた。
傍聴した記者が、速攻でネット上に証人、被告、裁判官弁護士のやり取りを書いていた。

 我が子我が家族に手をかけるという異常事態は、この前大阪地裁で傍聴した沖縄集団自決、軍が命令したかどうかの裁判、の出張裁判が先月沖縄(非公開)であったが、その時の証人、軍命令があったと主張する金城重明(当時、島民)という人の事を思い出した。この人の言い分では、軍から手榴弾が二個づつ配られ、一つは攻撃用、残りは自爆用だと言われたという。この人は、家族が死にきれないので、自ら家族に手をかけて殺した。
 戦後、人間の最も深刻な葛藤、結局自分は生き延びてしまった事へのどうしようもない苦しみからだろうか、確か牧師になっていた。昔読んだ本にはそう書かれていた。

 特攻隊として出て行った赤松隊が、現地の人達に指し図したり、まともな迎撃用の迫撃砲や、手持ちの銃さえない隊が、住民に手榴弾を与える事自体不自然だと思っていた。やはり、この前の沖縄での裁判で、この金城(重明)証言がかなり怪しいものだと解って来た。生き残った人で手榴弾を実際に受け取った人が見当たらないらしい。( 訂正10・4 →軍命令ではないと言い切る、集団自決で生き残ったもう一人の金城(武徳)さんによると、どこから持って来たか、手榴弾は二十人に一・二個もらったと言っている。手榴弾が島民の手に渡っていた事は事実のようである。ただし金城重明発言は微妙に違う)。
最後は「軍の命令」が、渡嘉敷島だけに降りたと主張したようで、普通は「手榴弾で自決せよの」命令が、渡嘉敷だけに限定されるなんて、軍のネットワークから見て、ありえないし、どちらにしても記録に残る。
さらに「天皇陛下万歳」を言って自決した事は、軍の命令と同じだと言っている。なんか滅茶苦茶な言い分である。

 気になるのは、、アメリカ軍は善で、日本軍は悪だという空気でものを言っている(戦後発刊の鉄の暴風の論調も)事だ。
 戦時、ろくに装備も持たない島に対して、硫黄島のごとく、島民が居るにもかかわらず無差別に砲弾を雨霰と落とした米国に対して文句を言わず、元々は特攻隊として命令を受け、ベニヤ板の船に爆弾を抱え、夜闇に乗じて島から米国船隊に体当たりの任務を負った赤松隊に対して、鬼畜のごとく糾弾するこの金城と言う人は、異常事態下において、自分のやった行為の責任転嫁の形で赤松隊長以下を糾弾しているとしか思えない。特殊状況下に置いての責任なんて誰にも追求出来ない。金城さんを誰も責めない。同じように赤松隊を名指しで特定し責める事も出来ない。自発的な死は尊厳死として島民の崇高な精神としてこちらに訴える事は氷雪の門と同じであるのに無理矢理命令でというのは事態として醜い。

 赤松隊特攻の夜は、隣の島から来た上官の沖縄本島への送還の命を受け、最後のチャンスの攻撃を断念し島に残る。後、降伏、敗戦。

 戦後、わずか二人の証言を元に、沖縄タイムスは集団自決を含んだ「鉄の暴風」というかなり怪しい本を出す。この二人は、実際その場に居た人ではなく、すべて聞き覚え、噂の域を出ない証言を元に鉄の暴風は編纂されている。おまけに内一人の証人はそういうインタビュウを受けた記憶が無いと否定している。これが、全ての始まりで、後はこの本(厳密には三冊ある)の孫引きで作られていると言ってもよい。  

現在沖縄で十一万人?が集まり、沖縄集団自決が教科書から消えた事に対して、反対している。間違えてはいけないのは、集団自決が「あった」事と、「軍命令があった」事とを混同してはいけない。
裁判の争点は、「軍命令有りや無しや」なのであって、集団自決有無の争いではない事だ。
いくら、何万人集まっても、例えば2+3=5なのであって6にはならない。人数は関係ない。この集められた人々は、自分で書物一つひもとく能力はないのだろうか。最近どんどん事実が分かって来て、軍命令はないと言う事が解り始めて、強制性(あの従軍慰安婦で強制はないと解った時点で出て来た)という概念をまたも持ち出そうとしている。

 沖縄集団自決訴訟なども、記者がライブで法廷の様子を伝えてくれるとありがたい。先月、大阪地裁に傍聴に行った時も、午前中の赤松隊の知念副官証言はもとより、午後、用意してもらって居た席が一杯で、前半は図書館で過ごし、後半だけ傍聴出来たが、半日つぶれてしまった。ネットでやってくれると本当にありがたい。途中からの傍聴は、流れに追いつくのが大変だった。


本件で争われているのは、渡嘉敷島の赤松戦隊長と座間味島の梅澤戦隊長(原告梅澤)から自決命令が出たか否かであるという点。大阪地裁で被告側証人にたった宮城晴美さんは、自分の著書を書き直してまで(自分の母親が言った「軍命令はなかった」、座間味村史の中では、軍命は確認出来ず、と言う事に関して)「隊長命令」があったように持って行こうとしている、母は嘘をついていると言うのである。聞いていて自分の母親を信じていないのは、悲しく思った。

氷雪の門
北海道の北端、樺太の対岸に位置する稚内西側の小高い丘陵にある稚内公園「氷雪の門」の傍らに、昭和20年8月20日、樺太の真岡電話局で、9名の若い女性電話交換手が、迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうし、ついに青酸カリで自決した事実を知らせる慰霊碑「九人の乙女の碑」がある。

碑文

「戦いは終わった それから五日 昭和二十年八月二十日 ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした その時突如日本軍との間に戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向った九人の乙女らは 死を以って己の職場を守った 窓越しに見る砲弾の炸裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向かい 「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」 の言葉を残して静かに青酸カリをのみ 夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争はふたたびくりかえすまじ 平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」



→2001年の今日のたん譚 亡国の建築












2007年09月17日(月) 皆様 御首相?さま



次期首相濃厚、福田康夫氏の素晴らしいご経歴

□8/15靖国参拝を13日に前倒しさせれば中共は絶対に抗議しないから、とウソの助言を小泉に与える

□ 病気治療のため来日する李台湾総統のビザ発給に最後まで反対、欧米を唖然とさせる

□ 日本国憲法の改正は中韓におうかがいを立てる必要があるとの電波を講演会で発信

□ 靖国参拝は中韓の立場も考えねばならない、と発言

□ 上海日本総領事館の館員自殺問題をもみ消す

□ 蓮池薫さんらを北朝鮮に帰せと主張

□ 「 あいつら ( 地村、蓮池 ) 内心嬉しいのになぜ喜ばないんだ!」「 誰かあの髭 ( 蓮池兄 ) を黙らせろ!」

□ 撃沈した北朝鮮不審船事件の引き上げに反対

□ 中国原潜が侵入した時、首相官邸に報告上げず、原潜が逃げ出すまで中国大使と時間稼ぎ

■次期総理大臣候補、福田康夫の素晴らしいアジア外交戦略ー「心と心のふれあい」を重視

★中国と話すときには誠意を
持って相手の立場を考えて議論することが大事

★日本国憲法の改正には中国、韓国の理解が必要

★靖国参拝は中国、韓国への配慮が必要

★上海領事館員の自殺問題をもみ消したのもこの男

★蓮池薫さん達を北朝鮮にかえすべきと主張

★北朝鮮の不審船、引き上げに反対。

★中国の原潜の日本領海進入を小泉首相に
すぐに報告せず、時間稼ぎをする』

とまぁ、こういうことを言う人が次期日本のリーダーにな…っていいのか?。

*元自衛隊空将、佐藤守閣下のページコメント欄から転載。


→2002年の今日のたん譚 何と言うこと!!


→2003年の今日のたん譚 酒菜(さかな)


→2004年の今日のたん譚 わっはっはの尾形光琳









2007年09月11日(火) そんなにいやなら燃やしてしまえ!



 少し前の新聞に、画家、小磯良平の遺作を展示している神戸市立小磯記念美術館で「戦争画 何もならない」と題した記事があった。
小磯良平の繪を初めて見たのは、二十年くらい前、京都の朝日会館での企画展だった。
芸大の音楽学部の学生達の風景を描いたものだった。
 繪を見る時には、一切の前口上、提灯記事など読まない聞かない事にして臨むことにしている。
其の時の第一印象は、国籍不明の人相をした日本人がそこに描かれていた。解りやすく言えば少女漫画に登場する主人公達のようなおよそ日本人とは思えない顏相で、それは小気味よく「うまく」描かれていた、ということだった。昭和のニューアカデミズム出現と言う風情を持っていた。
 それ以上の興味はなく、一昨年だったか、長年学校の美術の先生をしていた知人が、小磯良平賞の大賞をとったと知らせて来て以来の事だった。
その小磯良平の書簡が見つかり、今月十五日に同美術館で公開するのだそうである。それは結構な事だが、どうしていろいろな後解釈をつけ、何かを匂わせて記事にするのか。
新聞には、手紙には「戦争画」のあり方を厳しく批判し苦悩する心境が記されていたとあり、まだ読んでいないので解らないが、あり方とは何なのかよくわからない。戦争の事か、それとも自分が描きたくない主題だったからなのか、それなら言うが、写真なら良いのか。
共に、戦時においての戦意高揚に使われた。それだけである。良いも悪いもない。
人は、そのとき持てるあらゆる最善の手段を使う。
その時に、優れた写真家画家を使う。当たり前の事だ。

「戦争画 何もならない」、そうだそうだと付和雷同する繪描き、鑑賞者に限って、ルーブル美術館で感動したりする。(あそこに有る殆どは、思想上の独裁者?の子キリストとその取り巻きの物語、貴族の肖像、後は小磯良平が何もならないと言って憚らない、「戦争画」なんである。)
何もならないのに、戦争を描いた画布を木枠から外し巻いて 残してあるのはなぜか。そんなに嫌な繪なら燃やしてしまえばいいものを、未練がましく残しておくのは、捨てられない何かがあったからだろう。

 小磯良平は売れた繪描きである。新制作と言う団体を作った一人でもある。趣味で描いているうちは何の問題も無いが、いったん商売になる(画商とからむ)と、その全てが売買の対象になる。本人が嫌でも何でも、その「戦争画」は現実に残り、それを残された家族はいろいろな細事に巻き込まれる。

 繪描きは繪を描くのであって、芸術家でも、何か意味深なものを持って描いているのでもない。繪を描いているのだ。もし何かを訴えたければ、文章の方がより手段としては有効である。評論家などは繪描きに対して、そこに何かがあるような事を書く(これを絵解きという)が、なに、描かれている繪に百万言費やしても、何が描かれているか正確にはついに書けない。
だから、売れた繪描きを何か特別な存在のごときに扱わない方が良い。昔、宮廷付き、今画商付きなだけである。(趣味で描かれているお方は高尚な芸術、試み可 好きなようにやってくれ)

小磯良平(明治36年〜昭和63年)戦時、陸軍の委嘱で上海、ビルマなどに四度従軍、「娘子関を征く」「ビルマ独立式典図」などを描く。これはなぜか画集にも載せていない。展示も無しの摩訶不思議










2007年08月29日(水) なん中、国や!



 笑えない笑い話

 中国のお百姓が、最後の金で種を買って畑に蒔き、収穫を待った。ところが、待てど暮らせど芽が出ない。不審に思って掘り返してみると種はそのまま、割って見ると、種そっくりの形をし、墨で黒く塗ったまっ赤な偽物であった。
お百姓は慨嘆し、一家で農薬を呷り飲んで自殺を図った。ところが、死ねない。死ねないはずだ、この農薬も真っ赤な偽物であった。一家は不幸中の幸いだと気を取り直し再出発をする決心をして、宴を開いて酒を酌み交わした。ところがこの酒も真っ赤な偽物で、メチルアルコールであった。
百姓一家は全員死んでしまった…。

こういう話は掃いて捨てるほど有る。
日本の料理店などで使われている、80パーセント以上の割り箸が中国製で、水不足のせいだろう劇薬で漂白した後、水で洗わない。だから金魚鉢に箸を一週間入れておくと水が真っ黒になり金魚は死ぬ。日本製の割り箸は死なない。日本にいる中国出身の人、台湾人、は決して日本で割り箸を使わないという。

これを聞いて、あ、そうだったかと思い当たる事があった。
少し前に、大阪で開かれた、日台 友好(09/26 訂正→日台交流)協会主催の集会に行ったおり、会員の方からパーティに招待され、一週間後、指定された寺に出かけて行った。パーティは全くの無料で生臭もの無しの、台湾素食バイキングで、見事な?偽物であった。
 市井で、豆腐を加工したものを肉と偽って売ると立派な詐欺になるが、ここは寺で精進を是とする。それは食にも及ぶ。だから問題の無い偽物である。

 このパイキング形式の料理がずらっと並べられたテーブルに、ひときわ大きな笊籬(いかき)にてんこ盛りされた、不思議なものが目にはいった。金色の長さ12・3センチ幅1センチ厚み6ミリくらいのプラスチックのケースで、手に取ってみると、片方がキャップになっていて、スボンと抜ける。
中から出て来たのは、二本の細身のステンレス様の棒。この棒は、折りたたみ?釣り竿のように片方がスボッと抜けて、またより細い棒が出てくる。これを逆さにして、今収納されていた穴に入れるとなんと箸に早変わり! 其の時は、割り箸を使えばいいのに、何でこんな手間な、お金のかかることするのか、在日台湾人はお金持ちなんだなとぼんやり思っていたが、とんでもなかった。




すでに彼らは、自己防衛をしていて、日本で出回っている割り箸(中国製)は絶対使わない、危ないと知っていた。 
知らぬは日本人パカりなり。

最近ようやっとマスコミが報道し始めたが、在日本の良識ある中国人は、10年くらい前から警告しているがマスコミは取り上げないと言っていた。



台湾素食(たいわんそしょく、タイワンスーシー)素食とは中国語で菜食の意味で「質素な料理」ではない。素食には肉や魚を使わず、動物由来の油、卵、乳製品も一切使わないのが一般的で、肉の味がしても、肉は使ってない。豆腐などで、そっくりに作ってある。出汁にも肉や魚介類を一切使っていない。昆布とシイタケは出汁だけでなく、食材としても好んで使われる。



→2002年の今日のたん譚 三流 










2007年08月17日(金)  猿と山



 先日、豊作の葡萄の半分が害虫にやられてがっかりしているところへ、庭に気配がしたので簾を開けてみたら、葡萄棚の上になにやら茶色い固まりがもそもそしている。こちらに背を向けてひたすらもそもそしている。距離は二メートル、固まりが振り返ってこっちを見た。まるまる肥った猿だった。
「うりぁー!」とこちらが威嚇したら、猫のように「シャー!」と牙をむいて威嚇し返してきた。
近くにあった棒きれで棚をたたくと、素早く塀の向こうに消えた。
猿はひたすら、熟れはじめの葡萄を食っていたようだ。猿が手を出していたあたりの葡萄を食べてみると、もう十分甘い。ナスや胡瓜など、もうそろそろ収穫という日の前日当たりに、必ず野生の獣類にやられる、熟す時期をよく知っていると、何かで読んだことがあり妙に納得してしまった。
その日の晩、食後の口直しに猿の食い止しを食べた。

 産経新聞の連載に、日本アルプスに記者が取材し、霊峰の勇姿を載せている。断然山派なので嬉しく読んでいてしばし、顔が引きつった。ある意味、山は神さんのいる所と思っている。一人で山に入って夜テントでいる時などは独特の存在を意識する。
そういう場所に、ずかずかと外国人が大量に押し寄せることに言葉では言えないがとても抵抗がある。
外国人と言っても、特定アジア人と一部ではいわれている人々が、日本山岳の顔である上高地に押し寄せ、さらに一般の観光客は行かない上部の涸沢まで押し寄せている。その押し寄せかたの尋常でないことは、涸沢小屋や、ヒュッテの料理や飯までに、影響を与えているらしい事からもわかる。

 彼の国の人たちが大人しくしていればいいが、彼の国からわずかな時間でいける対馬に見るように、ゴミは捨て放題、食堂に自分の食い物を持ち込む(山では許されるが) 大声で話すなどやりたい放題をしていることがある。
上高地へはここ何年か行っていないが、 いくら商売になるとは言へ、山小屋の晩飯にキムチやチゲが並ぶなんてなぁ。それに騒がしい涸沢は想像できない。
休山男としては暗鬱たる気持ちになってしまうのである。





→2002年の今日のたん譚












2007年08月15日(水) 敗戦決定の日



 だーれも大臣達靖國参拝行かないのか?
この前の新聞に、安倍首相が、21日だかにインド訪問をする際に東京裁判で判事を務めたラダビノード・パール氏の長男と会談すると読んで、ああ、やっぱり安倍首相は近現代史に於いて、ある確信を持っている首相だなと嬉しかったが、ならば、以前のように当然今日の日も参拝はして当然だと思うが、どうなる事か。

三島由紀夫が書いていた。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう。
それでもいいと思っている人達と、わたしは口をきく気にもなれなくなっているのである」

 この人達が我々で、自分の半径十メートル位の事しか考えられない我々は、国防や日本の行く先などは問題とせず、年金と大臣のスキャンダルで選挙に行く。大新聞は日本つぶしに精出し、中枢部には日本人の顔した外国人が巣くい、それを罰する法律も無い。
故山本夏彦じゃないけれど、女に選挙権はいらない、ついでに男にもいらないという箴言に深く同意する。

 昔の貴族院みたいなのをつくって候補選挙民共々近現代史の最低の知識の試験、候補はどんなに他国が悪く言っても、はっきりと「日本」を擁護出来る事、犯罪を犯した息子を持つ母親のごとしの感覚を持ち、さらに一票投ずる権利がそれでも欲しいなら、金を払って持つことにすりゃいい。個人で試験されて、金を払ってまで一票投じたいなんて奇特な人そこらにはなかなかいないだろうから、必然投票人の質は高くなる。

 我々口をききたくない人々は投票しぱなっしで、責を問われない。
責を問われないくらい気楽なものは無い。評論家と同じである。しかし評論家はやがてメディアからお呼びがかからなくなるのでやはり問われているのである。一人、有権者だけが問われない。

 フランスに次いで、世界中で国民国家成立二番手が明治の日本である事は、フランスの思想家が書いている。 王や独裁者に替わって国民が運営する国であれば、当然みなで、国を外敵から守る義務が出てくる。みな平等に兵役につく。これが本来の徴兵制である。自分だけ手を汚さないで、兵を志願制にして、志願してきた組織を忌み嫌い、ついぞ報道しない見ないのが三島由紀夫の口もききたくない人達、我々である。


だからもうずいぶん前から、匙投げている。


ラダビノード・パール(インド人)… 東京裁判において当時唯一の国際法専門家


京都霊山護國神社内にある、パール博士顕彰碑(この写真部分が靖國神社にもある)


以下パール博士の言葉

「日本は国際法に照らして無罪である」

「大東亜戦争は日本は無罪である。欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である。
     田中正明著『パール博士の日本無罪論』(慧文社)

「日本の教育書は子弟に「日本は侵略の暴挙をした」「犯罪を犯した」と教えている 日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されてゆくのを、平然と見過ごす訳には行かない。」



→2002年の今日のたん譚











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