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2009年10月09日(金) セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 1/2



 7月の末から八月の初め頃、北アルプス北穂高直下の涸沢小屋にいた。友人の遅い山入門の先達として同行した。この時期、涸沢から下は雪があったとしてもごくわずかで、簡易アイゼンを付けたり、山小屋の従業員が階段を切ったりするほどの残雪は無いのが普通で、小屋につくまでにアイゼンを効かせて登るなどというのはついぞ無いことだった。
この時すでに上高地界隈で行方不明者一人の捜索願が出ていた。また高齢者である。

 巷、山岳ガイド地図が売られている。友人にはそれを持ってくるように言って、それで読図してもらおうと思った。が、この「大きなお世話」地図は、どこが危ないとか、鎖場だとか詳しく書き込みはあるが、実際に山の形を読んであの山がどれだとは言えない作りになっている。書き込みが多すぎて等高線が読めない。したがって、読図が出来ない山地図である事に改めて気づいた。

 これを見て、初心者がわかったつもりで入山して、山行く人につられて難度を考えずに岩場に入って遭難する。最近も、奥穂高ジャンダルム辺りで動けなくなって、ヘリコプターが救出に向かったが、尾翼を岩に当て墜落、当人と四人が亡くなっている。

 中年を過ぎて山入門をし夢中になる。が、感性は豊かでも体力は確実に衰えている、若い頃から山に親しんで自分を知っていれば非常事態に際して勘は働く。これは大雪山の遭難でもあったように、生死の分かれ目になる。

 夜、月を見ながら小屋前デッキで友人と飲んでいると、初老が話しかけて来て、「明日は北穂高から涸沢岳、奥穂とやってここに帰って来るがどうだろう」と言うので、山歴を聞いたら初めてだと言う。こちらは心底驚いた。
例へ同行している友人が行きたいと言っても連れては行かない。はっきりいって考え無しの無謀である。やんわりと無茶ですと言って断念させた。多分こういう人が一杯いるのだろう。

 登山はスポーツではない。sportは「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」が元々の意味だが、さらに語源的に云うと古仏語のportare「荷を担ぐ」の否定形から、desport「荷を担わない、働かない」となって上のSportの意味となった。しかし山の基本は「荷を担ぐ」んである。苦痛を伴うものなのである。そういう意味でもスポーツではないし、現在のスポーツの大半を占める勝敗を競うものでもない。

山は昔、修験者の場であった。映画、剣岳「点の記」で西洋かぶれの*小島烏水が日本で初めて山岳会を作り、勝手に国家大事の測量官達に対抗意識を燃やして剣岳初登頂を目指す。日本人としての目で西洋を見た最期の人と言われた夏目漱石と同様の目を持った測量官達の、
「何のためにただ頂上を目指すんだ?我々が頂を目指すのは仕事のためで、そこから仕事が始まるのだ」

という疑問の言葉は、まさに昔の日本人が持っていた山(自然)に対する感覚だった。

 登山(アルピニズム)は英国発祥で、「勇気」を試され征服欲を満たす。アングロサクソンの持つ特徴とも思える。より困難でより高度な頂への挑戦。もともとは貴族の遊びだった。一方、 同じ英国の中でもウエールズ・スコットランドなどに住むケルト民族には、その土地の特徴、規則性をもった風景を楽しむと言う考え方に基づいたピクチュアレスク(Picturesque)という概念があった。もともとそれは、英国南西部に広がるウエールズに関してのガイド本にも現れ、またそれはケルト主義を表わす本でもあったようだ。
…続く。
→セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 2/2



*小島烏水 …日本山岳協会設立者の一人。登山家、文芸批評家、浮世絵研究家、横浜商業学校卒業後、横浜正金銀行に勤務、「文庫」記者として活躍、文芸、社会、人物批評に健筆をふるった。
烏水は明治六年生まれ、漱石は慶応三年生まれ、明治(明治元年は慶応四年)と言う時代がどれほど日本の文化的側面に影響を与えたか.善かれ悪しかれ、形を変えて両者に現れていると思う。






→2007年の今日のたん譚 -これは事件か?-










2009年09月08日(火) 野分きのまたの日



 先月の末から、ぽかんとして未だあいた口が塞がらず。


野分きのまたの日こそ虚しけれ 
幾百万人讃えても 我がよしとおもう人のいざれば
    −半文等柵−













2009年07月19日(日) もう一人応援する



前に「応援する」で書いた西村眞悟さんの盟友、大阪八尾市議の三宅博さんも間違いなく我が国の事を考へ、北朝鮮による日本人拉致・特定失踪者問題を日本の主権に関わる事として行動する信頼出来る人である。将来、へなちょこばっかりの旧党を排し、新しい党を西村さん達とともに作り上げてもらい、強く明るく美しい堂々たる外交の出来る日本にしてもらいたいと心から思っている。
























































2009年07月10日(金) 気のせいか?木のせいである2/2



続き…。
しばらく枝などを払っていたが苦情は聞こへて来る。
で、切った。
有名寺院などを手がけている、造園屋に来てもらって切った。何代目かの造園屋の若頭領に切りたくないのだがと、その無念を言った。下を残したからまた生えてきますよとの言葉に少し救われた。

 切って次の日から異変が起こった。
庭が妙に明るすぎる。鉢植えの山野草が萎れている。近くの木で鳥がずっと鳴いている。夕方の部屋の温度が温暖期(…化ではないゾ)に入っているとはいえ、異常に高い。それまで午後には縁側から畳に木漏れ日が写り、木のざわめきとともに見ていて飽きなかった。
これが、一切なくなった。他にも木はあるのだが、葉摺れの音も丈もそう大きくない。十数年来無かった事である。
庭は西向きのせいもあり、真夏のような直射日光が、大きなすだれの合間をすり抜けて差し込んで来る。鑑賞どころではない。鳥が鳴いているのには思い当たる事があった。二年前小枝を払った時に一つ、今回全部切った時に,種類の違う鳥の巣一つ見つけた、其れを探しているんだろう。

 たった一本の木なのだが、その存在の大きかった事に改めて驚く。

 庭に出て、椅子にすわって妙に間抜けた空間、筒抜けの空を見ていて、かってない経験をした。
 一般に天気予報の手段としているのは、天気図を元にした天気予報、それに高層天気図とよばれる、天気図を元にしたものがある。高層と普通の天気図の違いは、普通の天気図は、その地点の気圧を表記し同じ気圧の地点を結んだ等圧線を記述する。高層天気図は同じ気圧の高度を記述し、同じ高度を持つ地点を結んだ等高度線をも記述し、その二つを会わせたり参考にして、天気予報をするが、各地での過去の経験や伝承を元に予測する「観天望気(かんてんぼうき)」もある。電波媒体が遮断された時に行う天気予報と思えば良い。

 山に入った際などには無意識に行い、天を伺う。例えば、巻雲、帚雲が出ていれば低気圧は数百キロ先で天気は安定、鰯雲などと呼ばれる雲が出れば秋の雲、太陽がぼんやり見える高層雲が出ると天気が崩れる、夏は豪快な入道雲…雷近し。などである。
その四季折々、時節の特徴ともなる雲がなんと!上記の雲が、一度にいろいろな方向に出ていた。専門家ではないので、一笑に付されるかもしれないが、あんまりにも珍しいので、ビデオに収めた。四つ短く平行に走る,地震の時に出るような雲も出ていた。ここの所、昼はともかく夜半は全然暑くなく、逆に涼しい。大きな寒冷期に向かっての一時の温暖期という説もあるが、なんとなく頷ける。

…で件の…、まだ生きている。

*青蓮院。正式には天台宗青蓮院門跡(門があった跡とちゃいまっせ、皇族他の出入りがあり、皇族と関係の深い寺を門跡[もんぜき]という。)
  
*大楠の木…親鸞が植えたと言う説もあるが、門塀にそって植えられているし、青蓮院は移築されて来た寺で親鸞とは年代が合わない。江戸時代仮御所として使われた事があり、粟田御所とも呼ばれた。
本尊の曼荼羅(まんだら)は光の仏である「熾盛光(しじょうこう)如来」、信長が焼き討ちし、豊臣秀吉によって曼荼羅が奉納されたとされる。

この木は,信長が火付けたのを見ていることになる。



 この文章は約二週間前くらいの事で、昨日、楠の丸太ン棒の切り口の端に、見事に若葉が生えた。ル・ネサンス(新生)とはこの事だ。庭に関して今までは、*南方熊楠方式(みなかたくまぐす ようするに放ったらかし)だったが、これからは、ちゃんと伸びすぎず大きくなりすぎないように気をつけようと思っている。

*南方熊楠…和歌山県生まれ明治の前年に生まれ、大正、昭和を生きた。幼少の頃から神童とうたわれ、驚異的な記憶力があった。10歳の時、知人の家で百科事典を読んでそらんじ、自宅に帰って正確に転写した。全150巻を5年間で写し終えた。博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。菌類学者
ロンドン大英博物館勤務中に人種差別が発端で暴力事件が有名。
民俗学者の柳田国男と論争。
後に、隣に霊がいるとか、奇異な言動から世間から遠ざけられて行く。庭は粘菌を研究するため放ったらかした状態であった。
ちなみに名前の「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名といわれている。

天皇陛下が固有人名をあげて和歌にした事は有名。

 雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

                  昭和天皇  御製    










2009年07月07日(火) 気のせいか?木のせいである。1/2



 六月下旬、わけあって、庭の10メートル位ある楠の木を地上一メートルを残して切った。大きな木が好きで、何十年か前、京都に居を移し来た時に、真っ先に行ったのが京都東山にある知恩院のすぐ北にある*青蓮院で、四脚門左右にある*大楠の木に夜中、抱きつきに行った。
 
 山で言えば、かってエベレスト登頂を目指す理由を聞かれて、ジョージ・H・L・マロリーは、そこに山があるから(Because it is there.)と答えたが、たん譚は、そこに木があるからだと答える。大きな木の横に居ると何時間でもいられる。多分前世は木だったかもしれない。今のように立ち入り禁止が無かった頃に、屋久島の縄文杉の下で結婚式を挙げる事を真剣に考えていた事もあった。お釈迦さんもキリストさんもいない昔からずっと立ち続けて世を眺めている縄文杉の前でこれからやって行く誓いを立てたかった。ある意味現木神?だと思っている。
 
 にもかかわらず、なぜ切らねばなら無かったかと言うと、隣近所の苦情である。となりにも木が植わっている。うちだけではない。どうも、じぶんちの落葉は許せるが、隣の家の木の葉、枝は許せないらしい。で、訴えられたのが二年くらい前。裁判所に行くと、調停員が男女二人いた。京都の名士が担当している。ところがこの男の人の方が家人と知り合いで、偶然とはいえ驚いた。これは裁判員制度でもきっと起こる。考えてみたら、宝くじの一等何億円は必ずあたる人が居ると言う事は、誰かは確率小ながら必ず遭遇すると言う事だ。

 その人は言った、もう高齢(訴えた爺)で老い先短い、だから、ここは一つ折れて(木だけに…)切ったらどうかね。
 普通考えると、よそから飛んで来た木の葉が庭にたまったら掃き寄せて燃せばいい。そこに自他の区別は無い。万事其れでよしと思っていたが、世の中はわからない、嫌だと言う人もいる。自分ちの葉っぱと他家の葉っぱを違う物と見なして、気に入らないと言う。
結局和解と言う事でこちらが折れた。
隣人と言っても、碁盤で言うと□の下辺(各辺には数件の家が列んである)の真ん中位にうちの家があり、□のやはり左辺真ん中あたりに隣人宅があって、坂にあることもあって、漢字の田の十の交差した所にお互いの庭が、高さ1.7m位の段差を持って接している。
同町内と言っても距離は離れているので、1年に一度隣人の姿を見るか見ないかの存在である。

…続く。









2009年07月03日(金) 応援する。



千羽の鳩より、一人の西村眞悟

鳩の特徴。
 一見平和の象徴(古代ギリシャ・ローマ時代から、鳩とオリーブは無垢と平和の象徴と考えられていたし、旧約、創世記8・1〜12 ノアが放った鳩が陸がある事を知らせ帰って来た時にオリーブの葉を加えて箱船に帰って来た平和の使者)としてのイメージがあるがとんでもない。動物は腹が一杯になるとそれ以上は食べないが、鳩は吐きながらも食べる。動物たちは普通仲間同士のケンカでは致命傷を与えないが、鳩はとことん殺し合うまでケンカする。貧欲でどう猛なんである。はとぽっぽなんて言ってる場合では無い。


そこで…。某辞典より

ハトの被害を防ぐために

1.エサを与えない(既に鳩だけの家ではない家に100億円くらいある)
  栄養状態がよいハトはどこでも繁殖します。このため、エサやりなどの習慣がある地域では、個体数が急激に増加してしまいます。



2.巣作りしやすい環境を与えない

・死角が出来てしまうような物を撤去
  
・死角になる場所を塞ぐ
  
・常に清潔な状態を維持する
  
・フンが残っていると飛来しやすくなる
  
・徹底して追い払う。

ハトの駆除方法

ドバトは鳥獣保護法で保護されているため、捕獲・生殺与奪(政治家としての)・卵や雛のいる巣(党)の撤去などは都道府県国民の選挙が必要です。 そのため、侵入防止・飛来防止することが重要です。

1.侵入防止用のネットで遮断する(日本は日本人だけの物ではないと公言。既に被害が進行している場合は勿論、あらゆる場面で効果的)

2.鳩が留まれないように足場になる場所にハトよけマット・テグスなどを付ける(糞害(憤慨)防止に最適)

3.忌避剤を散布・塗布する

悪い事ばかり言っても何だから良い事も書く。

昔、鳩も伝令で役に立ち、フランス料理で、南仏の赤ワイン、シャトーテレグラフとはいい相性でとても美味しくいただける。

伊東(静岡県伊東市伊東温泉)方面でもありがたがられている

警戒せねばならない事。

 外国人参政権や、地方分権、中国人大量移民、世界中見渡しても厄介な国が周辺にある事への無関心。国家意識の欠乏(国の主権を国際機関にゆだねる、)、国防への頓珍漢、友愛(愛にもいろいろある。インドでは生まれたすぐの我が子の片足を切り落とす例が多くあった。片輪者は、インドでは施しを受け、生涯食うに困らない。究極の慈愛、愛と言う意味も一元的にしか捉えていないから、こういう愛の形など想像もできないだろう。)という偽善。女性天皇論者

以上、鳩ぽっぽの基本。日本国滅亡。言わずと知れたこれの対極を行くのが西村眞悟。


 西村さんの選挙区以外(近畿比例区は、大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の2府4県)では本人の名を書くと無効になる。「改革クラブ」と書くと本人の票になる。もしこの政治家が落ちるようであれば、もう投票には行かないと決めている。












2009年06月19日(金) 究極のデモ二つ



 先週の土曜日、京都市役所前、四条河原町で二つのデモで行われた。

どっちに参加したい?

午前中に四条河原町で開かれた集会

遠目に日の丸?、よく見ると日の丸の日の部分が雲古マークになっている。さらに大きな旗の方は、赤い日の部分になぜか寺の地図記号が描いてある。



ハーケンクロイツ


のつもりなんだろうが、小学生に笑われるデ。(もっとも裏から見たらハーケンクロイツにはなる。)そのナチもどき雲古日の丸を、土足で踏んだ靴跡が描かれている。この旗をなんと地べたに引きずって行進し、その主張するところは「外国人を差別するな」「外国人日本人を言う前に人間である」「ファシスト!!(午後のデモグループに対して浴びせられた言葉)」
河原町四条の北西角ではハワイアンダンサーのような場違いな女が全面に出て、訳の分からない踊りで何事かを主張。
午後のデモのグループにかなり執拗にくっつき英字(日本人に主張するのに英語で書いてどうするんだ)で書かれたプレートをアピールしながらついてくる。朝鮮人とおぼしき初老と若者がけんか腰で、やはりずっとついてくる。警察官に終始遮られるもずっと妨害行動を取った。爆竹は鳴らすわ、特製の金ぴかの張り扇で、午後デモのリーダ格の一人、通称ドロンパ演説中の頭を張るわで大混乱させた。

午後、市役所前で開かれた集会

 言っていること主張は至極真っ当。在日特権、外国人参政権の反対。不法入国の外国人への情緒的同情のマスコミへの批判、など。まったく正論。
 デモ行進直前、場違いな二十代と思われるモデルのような綺麗なお姉さんがミニスカートで登場、大きな日の丸を持ち参加している。何でも「右翼や」と片づける人々にはかなりインパクトを与えたのではないか。
ところが行進が始まり、シュプレヒコールが、「朝鮮人はでていけー」「犯罪外国人をたたきだせー」これ以外に、たぶんインターネットで集まって来た連中が、各自叫ぶシュプレヒコールは、かなり過激で汚いものもあった。

 午前の左巻きの連中が掲げているプラカード「外国人を差別するな」と午後の真っ当派の中の一部が叫ぶ、「朝鮮人(犯罪及び特権享受を略している)は出て行け」の怒号が町行く人々の頭の中で呼応して、誤解を抱かせる。その時居合わせて聞いた人達は、左巻きの掲げている旗印に共感しただろう。

午後の部に参加したが、一回目の NHK抗議の時に話しかけてきた居酒屋経営の人が今回も大阪から京都に来ていて挨拶を交わした。
この人が、「シュプレヒコールこれ過激やなあ」「言えんなぁ」思わずもらしたように、ある種の言葉はちょっと普通では言えない。
だが見ていると「空気」で品の良い婦人も一緒に気勢を上げていた。
こちらは言葉を選んで言っても良いと判断した主張だけを叫んだが、道を行く人々は十把一絡げに映ったに違いない。

さあ、これからどっちに参加する?

夜半、近くのバーに立ち寄り、昼の市役所前集会のことを知っているかと尋ねた。バーテンが

「ああ、右翼の集会でしょう」

ま、世間はこんなもんです。









2009年06月04日(木) 岳すれば 岳なるものと知りながら 山に山れぬ 山と魂



 後輩の遭難の追悼文を五月末日にようやく仕上げて、故郷にある後輩が所属していた山岳会に送った。つい先日も、産經新聞東京版に、山岳事故の異常な多発の記事が載っていたが京都でも思い当たる事があった。
 
 今年の始め頃、友人と実に10年ぶりくらいに京都の愛宕山に行った。ここは学生時代から足慣らしと登山靴調整のためによく登った。人ごみが嫌いで、なをかつ好き勝手に行動してしまうので、中々友人と一緒には行けないし、迷惑をかける。だから、殆ど一人で行っていた。勿論土日も外す。そういう山行きが普通であった。

 今度同行した友人はサラリーマンだから当然土日しか休暇はない。だから、土日に山行き の選択しか無い。
朝、烏丸丸太町で友人をひろい、清滝の麓までタクシーで行く。朝といっても、もう十時近く、終点清滝バス停に来るわ来るわ老若男女、ある人は我々と同じようにタクシーで、また自家用車で、バスで続々とやって来る。

過去、土日に山に入った記憶は無かった。
朝の静かなバス終点でコーヒーを飲みちょっとしたもの食べ、 ゆっくりと歩き始めようと言う思いは見事に砕けた。
清滝の日頃閑散として人もまばらな場所に、町中のにぎわいが出現した。百人はいたのではないか。

 人ごみの中それでもコーヒーを飲みながら、各、山人の足下を観察する 。十数年は履き込んでいると思える見事なまでに手入れの行き届いた登山靴を履いている初老がいる。登山には楽なニッカ−ボッカを履いている人もいる。いづれも中高年が目立ち、若者は目立たない。
かってここを何度も登っていた頃は、普通の日の朝、人に会う事はまれであった。世間の休日がこれほどの登山人口を持っている事にびっくりした。
それにしても多すぎやしないか。
朝からバス停のトイレに並んでいる光景は、初夏の上高地のバスターミナル、スイスのツェルマットを思い起こさせる。
それでも、三々五々、人々は各自のペースで愛宕山頂上に向かって登って行った。
 
 人気の無くなったバス停を後に我々も登り始めた。山としての難度は「へ」みたいなもので、それこそ誰にでも手軽に登れる山である。
しかしである。手軽といっても高度は800m位ある。この次期、多分上の方はアイスバーンになっているだろうと思って登って行ったら案の定、最後の石の階段(多分百数十段ある)はアイスバーンになっていた。多くの年寄った人々にとっていったん滑ったら只では済まないだろうと思っていたら、普段起きる時間帯に行動しているせいか、こちらの太ももがつりそうになってあわてた。
これは、きっと転んでけがをする人が出ると確信に近い思いを持ったが,周囲では滑る人を見かけはしたが、訓練されているのか寸での所で踏みとどまっていた。
 人ごみが嫌なので少し東に路を辿って行くと立派な標識がかなり離れている地点からはっきり見えた。近くに行って驚いた。この標識は多分、高齢者のためと思われた。異常に文字と図体が大きい。はっきりくっきりこれっきりと言うくらいに書かれてあり、こんなものが北アルプスにあれば、強風で吹き飛んで跡形も無くなる代物で大きければ良いと言う物ではない。

 群衆から離れた静かな場所で、茶を沸かし、三十六穀米が入った玄米お結びを食べ、シャンペンで乾杯した。行動途中だから、当然コッブ一杯分位の瓶詰めを友人と半分にしての乾杯だ。
 昔はなかった地蔵谷の小径を下る事にして、残雪の雑木林を楽しみながら下って行く途中、バラバラとヘリコプターが頭上を旋回しはじめた。やがて旋回範囲が窄まり、下降し始め姿は森林の中に見えなくなった。さらに下山をつづけていると、その音はますます近く大きくなって、自分たちの進行方向から十時方向の地点にいると思えたので、二人してそこ目指して真っすぐよじ登ったら、小径に出て、その小径は少し上の森林を伐採して作ったと思われる空き地に続いており,そこにヘリが着陸していた。
見ていると4.5人のオレンジ色の服を来た隊員が担架を持って今まさに出動せんとしている。其れを見てああやっぱりと言う思いがした。あれだけいて、簡易アイゼンも用意せず、高齢者がアイスバーンの路、階段を歩いて無事なわけが無いのである。

 登山口に付くまでの林道の様子も昔とは様子が変わっていた。下に降りて、途中至る所に半休(仮名)旅行社の紙の指示標があった事の意味が分かった。旅行社が中高年ににわか登山者を募り、商売しているのである。
これで、こんなに混んでいるわけが解った。
山はベテランであろうが、非日常状態になれば命に関わる事は同じで、その事態を考えて行動するのがベテランである。にわか登山者は非常事態になるとパニックになる。
携帯電話を誰でも持っているので、簡単に救助を呼べる、今回のヘリもよばれたのだろう。あんな所にヘリの発着出来る場所が確保されていると言う事から考えて、もうこういう事態は常態となっているのかもしれない。

 この山は4000回登山記念の個人の石碑が建っていたりして驚く。四千回と言えば毎日登って10年ちょっと掛かる。あんぐり…。

 亡くなった後輩は冬山で遭難した。
遡る数十年前、*谷川岳の某沢、岩に取っ付くまでのアプローチで、遭難してまだ未発見の三人だったかの情報を胸に、雪面を登っていた時、ピッケルの先に、シュラフかヤッケの切れ端がひっかかってきた。嫌な思いの中、ルートを誤り、遭難寸前となりそれでもなんとか稜線上に出て下山し、引きつけられたのか、遭難碑のある所へ行った。そこには拙い字で「お兄ちゃんさようなら」といつ書かれて置かれたのかはわからないが、黄ばんだ紙切れが石を重しにして置かれてあった。
あの時はじめて、「無常(梵… anitya)感」と言う物を経験し、持った。何のために生きて、何のために死ぬのか。疲れ切った体と心にこの置き紙はこたえた。考えてみればあの時以来、本格的な冬山は、少しの山スキーゲレンデスキー以外は行かなくなった。


*谷川岳
1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名で、世界のワースト記録である。ちなみにエベレストの遭難事故死は178人




→2003年の今日のたん譚












2009年06月01日(月) 日韓伝統文化の側面?



 四日前の五月二十八日は、旧暦の五月五日端午の節句だが、いつの間にか端午の節句を韓国は朝鮮起源、発祥地として「世界無形文化遺産」としてユネスコに申請してそれが認められてしまった(端午の節句は中国が起源)。これは今に始まった事ではなく、何でもかんでも朝鮮起源にしてしまう性癖は、別名朝鮮 ウリジナル(Uriginal 朝鮮語で「私たちの」を意味する「ウリ=우리」とかけて「ウリジナル」)と揶揄されている。

 日本の端午の節句は能狂言にも曲があり、それを調べていて下の映像に出くわし久しぶりに大笑いした。新石器時代から朝鮮に伝わる舞踊と日本の能を文化的側?から淡々と映像にして比較している。朝鮮の言い分は勿論能狂言も朝鮮起源らしい。







無意識的抽象(幼児期の絵)やがて稚拙な具象(児童の絵)→高度な具象(大人の絵)→再び意図的な崩した形の具象(漫画など)
   ↓
    →意図的な高度な抽象
    

この映像の朝鮮舞踊タルチュムの面の表現形式は、児童レベルのものでないとしたら意図的な崩した具象化(漫画化)なのだろうか。そうするとそれに到達するまでには、必ず高度なリアリズムの過程があり、それが残っているはずである。無いとしたら…。朝鮮のあの面は新石器時代からずっとあれなのだろうか。おもろい国や。


→2008年の今日のたん譚 


→2002年の今日のたん譚 










2009年05月31日(日) デモクラットがデモーニッシュなNHK にデモンストレーション



 昨日全国規模で NHK 偏向報道に意見する千人規模デモ(東京)の第二弾があった。今日、千人規模にもかかわらず産経新聞の片隅にしか報道されていない。昨日大阪でも開かれたデモには行かれなかったが、その一週間前の大阪NHK前の抗議デモには出かけた。
民間のトヨタ、アサヒビールの出身者がNHKのトップにいる。もうこれだけで、何で中国に阿(おもね)ったドキュメンタリー「 JAPANデビュー」が出来上がり、制作局内で放送法

「放送法(国内放送の放送番組の編集等)

第3条の2
放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.*政治的に公平であること。
3.*報道は事実をまげないですること。
4.*意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


をものともせず
易々と放送できてしまうのか、分かろうというものだ。自分のやっている商行為優先が、国を売る行為とは思っても見ないのだろう。
トヨタは1日にコマーシャル代だけで数億円使っている。民放各社が報道できないのはスポンサー離れしやしないかと怖れるためだ。

↓は第一回目の様子














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