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2010年01月23日(土) メリージェーンは健康に悪いか



 この所立て続けによく大麻(マリファナ・ハシシ)使用または所持で、高校生、タレントから元塀の中の仲間、公務員、果ては自衛隊の隊自体の汚染が新聞やテレビで報道されている。
「大麻」は絵描きと切っても切れない仲?なので黙って無視するわけには行かない。
大麻とは何か?
 たん譚の出身は阿波の徳島、徳島にはあの有名な坂東捕虜収容所(第一次世界大戦期に中国の青島で俘虜となったドイツ兵士約1000名が収容、1918年6月1日に日本で初めてベートーヴェン「第九」交響曲演奏会が開かれ歌われた)がかって存在した。今はその記念館がある。
ここの裏に大麻山があり大麻彦神社がある。
「おあさはん」と呼んでいた。ここの頂に灯っている御神灯の光が見える範囲に限って、徳島名産「すだち」が出来ると小さい頃からよく聞いていた。また、もう二年になるが難しいダウラギリで死なずに槍平の平坦地での滅多に無い雪煙雪崩であっけなく死んでしまった後輩の登山訓練の場所でもあった。
で、話は「大麻」にもどる。
何で大麻山と名前がついているか。古代から麻の産地だったからである。日本では伊勢神宮とも関係が深い「麻」が、なぜ「痲」薬又は覚せい剤扱いされているのか。

 突然麻を「痲」薬扱いし、禁止し、させたのは*GHQの仕業である。ようもまあ何から何まで、干渉ありがとさんと言いたくなるほど見事に干渉している。

 今は昔、アメリカでは馬鹿な法律,簡単に言うと「何人も作っても売ってもいけないが、飲んでもよい(政府専売と言う事でもない)」と言う自家撞着の禁酒法でアル・カポネを生み、命をかけて取り締まったFBI の人々が出現した。(実際には小さな販売する所、酒屋の取り締まりが主)
この法律は当初から無理があり、やがて廃止される。実にこの後、数年で大麻を問題にし始める(大麻課税法)のである。
なぜか? 一つはこの時生まれた大勢の捜査員の仕事を作ったと言う人もいる。
差別社会のアメリカは、煙草が買えない貧困層、奴隷、二等三等国民(後からアメリカにやって来た人々、ドイツ人やアイルランド系、ヒスパニックなど)が、廉価な麻の葉を巻いた煙草代用品を愛用してきた、それがよく売れている事に気がつき「税(大麻課税法)」をかけた。だから大麻は当初課税法ではあったが、禁止法ではなかった。
もう一つは、服飾業界が、麻から綿(コットン)、合成繊維(ナイロンの発明)への移行時期で、それを売り出すための新たな利権が絡んだものでもあった。

 この法律をそっくり、日本占領期に持ち込んで、以後度々改正されたりしているが、大麻「悪」は変わっていない。

で、絵描きとの関係に戻る。絵を描くには筆絵の具画布がいる。この中の、画布は一般に麻の織物でキャンバス(Canvas)と言われている。
ギリシャ・ラテン語のcannabisから来ている。絵描きと大麻は切っても切れない仲なんである。

 一部大麻の問題が起こるとされる物質はカンナビノール(詳しくはテトラヒドロカンナビノール Tetrahydrocannabinol)という成分で、茶と同じように薬効あり(中国の漢方薬書「神農本草経」)として使われていた。しかし、日本で栽培されている麻には、殆ど効能としてのカンナビノールは含まれていない。ゆえに吸っても効かない。効かないのに売れるし商売になるのは現在でも健康食品として訳の分からんものが売れているのと同じ。

 インドのごく一部の麻には含まれているらしいが、WHO(世界保健機関)では、問題にしていない。
吸っても効かないのに何故こうも問題にされるのか。もし取り締まるのなら、覚せい剤「カンナビノール」と名称を変えてとりしまるべきで、何でもかでも痲薬とするなら、阿片は芥子(けし、の開花後の未熟果から樹脂をとる)からとるのだから、花のポピーもひなげしも栽培している奴はすべて逮捕しないと筋が通らない。当然七味唐辛子に入っている、けしの実も取り締まらないといけない事になって、うどん屋でうどん食ってる奴が七味かけた途端、踏み込まれて全員逮捕、清水坂の七味唐辛子屋は麻薬売買の元締めで当然逮捕となる。

何で「大麻」だけ十把一絡げなのだ。




耐性の獲得とは、阿片に見られるようにだんだん効かなくなり、使用量が増えて行く事をさす。









 上の話とは関係無いが以下はたん譚の解釈

国を想う、つのだ三兄弟(長男漫画家、次男欧州古典楽器リュート奏者)の三番めミュージシャンのつのだ・ひろが歌っていた「メリージェーン」は少し薬効?のある、マリファナ恋しの歌ではないかと想っている。当然作詞者は日本人ではない。
メリージェーンはマリファナの隠語。
メアリー・ジェイン(Mary Jane)、メアリー・ワーナー(Mary Werner。マリファナを二つに割って、女性の「姓」「名」に掛けたもの。


ぼくの心の中のメリージェーン
君を思い出すたびに泣き叫びたくなる
長くて悲しい夜は
君が去って久しいというのに

ぼくの心の中のメリージェーン
ぼくの唯一の愛
ぼくの心に君が今も残るのが不思議さ
大切な君がいないのが淋しい


以下略。


*GHQ…「連合国最高司令官総司令部」あるいは「連合国総司令部」実質はアメリカ占領軍
。GHQの指令によって日本名「麻薬原料植物ノ栽培、麻薬ノ製造、輸入及輸出等禁止二関ス
ル件(昭和20年厚生省令第46号)」が出され、ここに日本列島では歴史上初めて「大麻は痲薬」であるとされた。

参考文献
武田邦彦「大麻ヒステリー」光文社新書(表引用)










2010年01月01日(金) 元旦






謹賀新年
 国旗を玄関先にあげる。仕込んだお屠蘇とおせち雑煮。
「あけましておめでとさん、また元気で今年もよろしゅう」の挨拶。
子供の頃もらいっ放しで育ってしまった「お年玉」を京都に来ている母上に渡す。ちょっとびっくりして帰ってから仏前に置くと言う。
 んな、大げさな!





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2009年12月31日(木) 大晦日



 今年は蕎麦の出来が悪く、商売に障ると複数の蕎麦店主から聞いた。毎年大晦日に年越しの蕎麦を打っている。そういえば信州から送ってもらった蕎麦粉も値が少し上がっていた。今年の蕎麦は水回しがよくなかったのか、15センチくらいにしかつながら無かった。つなぎの小麦粉を入れないのが習慣となっているが蕎麦を捏ねて延ばして折り畳み、切る。ところが折り畳んだ所から切れる。久しくなかった事だ。
味には別状はなく美味しくいただいたが、こんな事はいままでなかった。初心者の頃には全くつながらない事が一度だけあって、今から思えばもったいない事だったけれど、腹を立てて捨ててしまった事があったそれ以来の事だ。

 日本もこの蕎麦のように、バラバラになってしまう予感を覚へ、ちょっと寒気がした。除夜の鐘を聞きながらスペインのCAVA、龍馬の故郷の米を*永田農法で作ったと称する酒とでそばを食べながら静かに過ごした。



*永田農法…永田照喜治(1926年 - )が創始した農法。現在の農法と違って必要最小限の水と肥料で作物を育てることが特色であり、「断食農法」、「スパルタ農法」、「緑健農法」、「ルーツ農法」などの呼び名がある。


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2009年12月22日(火) 珍痴苦林の二賢人の会話



客「寒いねぇ、外国では寒波で沢山死んでるらしいよ、うちの実家も雪が40センチ積もって年寄りは出歩けないと言ってた。」

タクシーの運転手「大丈夫、世の中温暖化で来てるから、どもない」

客「温暖化ってほんまかな?」

運転手「これからエコカーがメインに販売されるようになるから大丈夫」

客「え?何がどう大丈夫なんですか?」

運転手「あのさ、石油燃して走ってる今の車を電気車にするんやろ。その燃料の電気を作るには石油燃して発電するやろ?それから蓄電もせんと。売るスタンドも建てなあかん。俗にこれを電気スタンドいうんや。わははは。で、新しい電気自動車を作るのもエネルギーの大半は電気の力で作る、左様な事で、至る所で電機作れ電気作れで、どんどん石油燃すから、温暖化に絶対なるんよ。せやから、雪降ってそれで人死んでも、たとえ寒冷化してても温暖化来るんよ」

客「な、なるほど!?で、温暖化来たらどうなるんやろ」

運転手「そりゃ、ええでえ、ねえちゃんスカート短いままで、胸おっぴろげで年中おるわな。おまけにシベリアの永久凍土が溶けて緑の大地になったら高う売れまっせ。ええことずくめや、ハワイあたりはさしずめもう、まっぱだかになっとんちゃいまっか。南極のペンギンは涼を求めて北を目指す、言うても四方皆北や、迷う事無いから南極は便利や。」

客「ほんでもなんか悪い事起こるような気がするけど。世界規模の病気とか」

運転手「病気になって発熱して一杯死ぬやろ、焼き場でまた石油一杯燃やすなぁ、土葬の所は一杯埋めたら微生物が分解する。そしたらまた熱出る。また温暖化や、嬉しい事に世界的に人減るがな、夏でもパスの中でべたべたひっつかんでええやん。な?やっぱりええ事尽くめや。」

客「ほな、世間はなんでそないに温暖化騒いでんの?」

運転手「騒いでンの日本だけや。騒いでエコやエコや言わんと新しいもん売れへんし、作れへんやろ?エコバッグ大売れや。こういう商売の仕方をエコギな商売ちうんや。」

客「座布団一枚!…、やっていいんか?」







COP15 ↑コップ 1/5 (日本)









2009年12月15日(火) 長州出でず。



 今日、支那の招かざる客(臭・禁屁)が、突然多分、箔を付けるためだけになんと天皇陛下に会いにやってくる。「謁見」と書かなかったのは当人はそんな気持ちは微塵もなく、只々自分が次期の支那の親玉候補(と言っても共産党序列第六位)でその下準備のためだからである。

 天皇との謁見はその一ヶ月前から伺いを立てなければならないというルールがあるにもかかわらず、朝貢先で毎度おさわ(小沢)がせ男が勝手に決め(注−首相が決めたとお騒がせ男は言っているようだ−09.12.20)て、強引に宮内庁に異例の妥協をさせた。お騒がせ男はニュースで、「民主主義だろう?」とむっとしていっていた。アホか!天皇はすでに憲法が出来る前から自然に御存在し、憲法民主主義とは何の関係もない。我々が一票で選ぶのとは次元の違う存在であって、後に出来た憲法他で当てはめられるものではない。勘違いも好い加減にしたらいい。


 謁見について言えば、例えば隣の会社の部長が、我が会社の会長にあうのに一日前に打診してきて其れが通るよりも破廉恥な出来事で、これで続々と他国がそういうことなら俺も一日前にあわせてくれとごねた場合どうするのか。

 全体主義の危機を予感し、その遺書に「ご家族には申し訳なく私怨はないが、公のために行動する」と言って、当時の*社会党の浅沼稲次郎代議士を襲い死に至らしめ、逮捕後、収監され獄中、溶いた歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と壁に書き残し自刃した山口二矢を思い出した。
今山口がいたなら起っただろう。


最後にこういう訳のわからん一党を選んだのは私達である。江戸から明治に移る時、全人口の数パーセントしか武士はいなかった。選挙制度も民主主義も無かった。長州藩の*足軽クラスが役人になってその弊害が汚職や行きすぎた西洋かぶれを作ってしまったが、日本の昔からの規範は守られていた。
小沢の「民主主義だろう!」にはそれがどうしたと返したい。「契約」を言いたいなら、日本にも昔から「契約」は有るのだ。
 
もう一度言う。現政府は「我々日本国民が選んだ」




*社会党…この事件を境にその人気は急速に衰えていき、現在は消滅。ここから新社会党が出来るが社会に与える影響力というよりも笑いものとしての大将?になっている
*足軽…士族とは区別される。
足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
山縣 有朋などは武士を憎んで、軍隊(陸軍)にも日本刀ではなくてサーベルを選んだと言われるくらい武士を嫌っていた。



→2002年の今日のたん譚 プロヴァンスのハーブで









2009年12月12日(土) 鳩(ハット)トリック



クローンが責める。呵々。












→2004年の今日のたん譚 ついに猪出没す


→2007年の今日のたん譚 アリマキとブフネラ (2/2)

→アリマキとブフネラ (1/2)











2009年12月09日(水) 台湾ゆ〜らりぶ〜らり 3/4



 恒春に行きたかった。台湾の最南端にある。
高校の山岳部時代に初めて天気図を書かされた。 ラジオのNHK第二放送で午後四時から始まる天気通報を聞き、天気図に書き込んで行く。石垣島から始まり、支那大陸を回り最期に富士山で終わる。海上からの定点報告の通報を聞き取り書き込み、高低気圧の位置を書き込み、等圧線をひく。習って半月経っても習得は出来なかった。それほど難しかった。

 聞きながら地名の位置に鉛筆を持って行き、読み上げられる「石垣島では北東の風、風力3、天気 晴れ、気圧 1008ミリバール(現在は ヘクトパスカル、hpa)、気温 22℃」をあらかじめ記されている○に書き加えて行く。

北東を瞬時に判断してそっちの方から円に接する形で一本線を引く。そして矢羽根のごとくに、最初引いた線の右側に一番上を大きく計三本線を引いて風力を、晴れなら円の中心を通って直線を引く。晴れや雨なら問題ないが、霧?みぞれ??あられ???ひょう????なんて出て来たらもうお手上げで、あれ?どうだったかなぁと考えているうちもう次の場所に行ってしまい分けが分からなくなってしまう。

山に行ったら、もしくは行く前に天気図を書き判断する…、は理想だが、地方の低山ではまず必要ないのに何でそんな訓練をしたか。
体育会系クラブ活動で競技中に筆記試験があるなんて言うクラブは山岳・登山クラブ位なものだろう。競技中に山の知識の試験と天気図を書かされるのである。総合で判断されて順位が決まる。いくらテントの設営の仕方が旨く体力満々でもだめなんである。

 国体予選など出発の駅で規定の重さに達していなければ、審査員の先生方が情け容赦なくリュックに石をほり込んで規定の重さにする。確か二十キロだったか。石を入れられたら、最期まで重さは変わらないので、部員達は工夫する。水なら飲んでる最中にこぼれる事?もある。その他、砂に水をしみ込ませたものや雑誌を濡らして入れて行き、蒸発を待つとか、猿の浅知恵でいろいろ考えた。

で、国体予選の場合、どんどん脱落して行き、(グループから遅れたもの、棄権したものはその時点で事実上、試験を待たず失格)へとへとになって山頂に着く頃には四人くらいになっていて、遅れたものを待ち、そろったら神社の境内を借りて、なんと!筆記試験が始まる。最初は知識の試験。次に天気図を録音したラジオを聞かされ、書く。
が、半日に及ぶ苦闘の末なので手が震えうまく字が書けない。下山した頃には心身よれよれで、数日肩から上に手が上がらなかった事を昨日の事のように思い出す。

 話を天気図に戻す。天気図記入に漸く慣れて各地名の流れをつかんだ頃、他にもいろいろ特徴的な地名があるが、台湾の恒春を覚えた。石垣島から始まり、日本列島を桜前線のごとく這い上がり、千島列島樺太を通り、今度は沿海州に沿って南下し、朝鮮東シナ海をまたいで台北に来、恒春にくる。ここから、次はポンと支那大陸の長春に飛ぶ。本当に特徴的に右斜め上に飛ぶ。
「恒春に来れば次は右斜め上だゾ」と次ぎに来る長春を意識する。
これが天気図を書かなくなった40年後の今も頭に焼き付いて離れない。

日本と切っても切れない関係の台湾を意識するようになって改めて、印象に残っていた恒春に今回の旅で行こうと思っていた。
結局、高雄からの交通の便が悪く、どうしても先にホテルを予約していた事もあって、距離的にも一日で行って帰って来るのは難しく、また次の機会の楽しみにとって置く事にし高雄を後にした。



→続く。


→2001年の今日のたん譚 ホテルの中のホテル
→2002年の今日のたん譚 食べて極楽、見て地獄 -上-
→2004年の今日のたん譚 すくう会から
→2007年の今日のたん譚 これは事件か?











2009年12月01日(火) 台湾ゆ〜らりぶ〜らり 2/4



 日本の新幹線のグリーンにあたる台湾新幹線の「商務車」は、座ると手拭き、お菓子、飲み物全部無料でついてくる。日本でグリーン車に乗る機会はまず無いので、どうなっているかは分からないが、台湾では飛行機と似た地位にある。静かに本が読めた。台湾の少数部族とアイヌの違いについて読み始めてしばらく、あっという間に台南高雄の左榮に着いてしまった。わずか二時間の新幹線搭乗だった。が,この短い間の読書で分かった事、台湾の少数部族は、直ちに引っ張ってこられるが、アイヌ人を探して引っ張って来る事は出来ないと言う事である。
二世三世ならいるかも知れないが、純然たるアイヌはいない。大和民族に溶け込んで久しい。一方台湾の昔蕃族、今、原住民ははっきりと存在(アミ族約18万人。泰雅族と湾族約8万人。花蓮県に原住民9万人、台東県7万9千人、屏東県5万6千人)し阿里山付近や高地に住んでいて訪ねて行くと会うことも出来るし独特の言語も現存しているようだ。アイヌには言語の痕跡(カタカナ表記で)は地名他に残るが、文字はなく、アイヌ語を喋る人も勿論いない。

 それはさておき、昔のように何ヶ月もかけて欧州を巡っていた時は有り余る時間があったので日本の古典、方丈記や奥の細道などを読んだ。貧乏旅行だったけれど、あれに勝る旅は無かったと思っている。もう今はそんな贅沢な事やろうと思っても出来ない。

 連日30℃、台南では予定を変更し宿で静養。今回気にかかったのは、留守番している生まれて数ヶ月の三毛猫の事であった。
以前、動物園に勤めている友人の娘さんが、留守の間数日置きに見に来てくれていたが、そうしょっちゅう甘えるわけにはいかない。かといってペットホテルに入れるのは逆に動物にとってストレスになる。
幸いな事に、基本的に猫は犬と違って屋根、排水溝自由自在である。
餌だけしっかり与えておけば大丈夫だと言う事が長年の経験でわかっていたが、やっぱり旅行中は心配だ。

そこで今回は、 SKYPE(スカイプ。ネット上での無料双方向テレビ電話機能)を利用し、猫の寝床となっている風呂場にカメラを取り付けコンピュータとつなぎ、餌は自動給餌器で理論上、一日数回時間設定可で、三ヶ月は生きて行ける餌が出るものと、生の餌が四回出る給餌器を置いた。電池式だったが、それだといつ切れるか分からないので改良してコンセント差し込み式に変えた。

 台北のホテルからインターネットで家のスカイプを呼び出すと、自動的に開くように設定してあったので、あんまり綺麗でもない風呂場が俯瞰するように写しだされる。いるいる、くつろいでいる。こちらから音声で呼びかける事が出来るが、呼ぶと直ちに反応してスピーカのある方に行ってしまい、動きが追えない定点カメラなので、姿が消えてしまうのは失敗だった。

 次の宿に着くと直ちに家のスカイプにつなぎ、常時画像をつけておく。こちらの普通の会話も向こうに聞こえているので一緒にいるのと何ら変わりがない。そのせいか旅を終えて帰った時に、別に猫の方で感極まったという感じはなかった。
 手違いで、猫側の音設定を忘れたために、猫の声は聞く事が出来なかったが、猫は飼い主の声と餌さえあれば、かなりな期間の旅行が出来ると言う事が今回分かった。
問題は排泄物の処理だが、これも家で使っている酵素分解の生ごみ処理機用の土を猫のトイレに転用すれば、少しの糞なら一日二日で完全に土に戻る。処理土は一日数回混ぜなければいけないのだが、幸い猫は用を足す前後、土を頻繁に混ぜ返すからちょうど良い。
世の中便利になったもんだ。

 今は、猫の基本的な調教期間なので放し飼いにはしていない。
長生き(25年くらい)して欲しいので、普通の猫の半分以下の餌、湿気のある場所での基本的寝床。悪い事をすればその日は断食。二年めは、筋肉を付けるためにドッグフードを一年間やる。
最近の研究で若い頃飢餓を経験した人や猫は長生きすると言う結論に近い結果が出ていて、先代の猫は、まさにそれで育てて22年近く生きた。死ぬ直前まで穏やかで一筋の涙を流して息を引き取った。
また、そのように生きて欲しいと思っている。先代の猫は若い間は旅行中は放ったらかしてあったが、ちゃんと風呂場を寝床とし生活していた。帰って来て再会すると半野生化して眼光鋭くなり、何だか太っていた。てんこ盛りにして行った餌を存分に食べたせいに違いなかった。


→続く。


→2001年の今日のたん譚 不覚!


→2003年の今日のたん譚 三味線とストラディバリウス (日本と西欧)









2009年11月20日(金) 台湾ゆ〜らりぶ〜らり 1/4



 今日で台湾から帰ってもう一週間経ったなあと言ったら、家人があきれてもう十日近く経っていると言われて、初めて変な錯覚を起こしていた事に気がついた。 よく思い起こしてみると確かにそうだった。帰った次の日は殆ど眠っていて、その次の日もそうだった。その間の二日間が頭から消えていた。
 それはさておき今月の五日から十一日まで台湾にいた。
今回は、インターネットでやれるものは全てやってみた。早割格安の飛行機予約、台湾新幹線の座席指定の予約、全行程中利用するホテルの予約、新幹線などの一部支払いなど全部ネット上で出来た。便利になったものだ。行く予定の所は、グーグルアースで歩いてみたりした。

 夕刻、台北の駅前のホテルに予定通りついて、駅を見下ろしていると、ホテル全体がゆらりゆらりと揺れた。地上17階での初めての地震を経験した。
 嫌な予感がしたのですぐ駅地下二階の新幹線乗り場にネットで予約した新幹線のチケットを手に入れるために向かった。
地下二階は先ほどの地震の影響でかごった返していた。ああ、情けない事に少しの英語仏語は出来ても、台湾語北京語は皆目出来ない。全ての自動発券機などは英語で、使用出来ませんの警告が赤く点滅していた。
列ぶにしても人が多すぎて訳が分からない。
その時、さすが台湾、こちらが日本人だと分かったのか親切にどうしたと話しかけてくれる人がいた。残念な事に日本語ではなく、英語ではあったが嬉しかった。結局列んでいる所に間違いは無く、メールで台北高速鐵道から送られて来た、領収書兼引換券ナンバーを提示したら、あっという間に、明日の高雄行きの搭乗券が手に入った。
ごった返している百数十人近くの人々は、どうやら当日券を希望して、その発券の有無、再運転を待っている人のようであった。
 台湾南部は明日にはつつがなく動く事を確かめて、ホテルに戻った。この時、三年前、そして二年前西村眞悟さん(前衆議院議員)を長とする日台同盟推進訪問団にくっついて行った時にも見た、土産物屋免税店などに異変が起っていた。

土産を買う習慣は無いが、一応隈無く見ることにしている。台湾の名物、パイナップル饅頭、からすみ、干し肉、茶、ハンドバッグやブランドものの商品が必ずホテルの売り場や、免税店にある。その一角を占めて人形三・四十体が固まりとなって置いてあった。その二頭身の体形をした三人の人形共は皆むくつけき男共で全て禿げていた。かなり異様な光景である。
近寄ってみると、なんと、毛沢東孫中山(孫文)蒋介石のマンガチックな全身像。手に取らなかったので、石膏像か木製陶器製かは分からなかった。
何でこんなもん今台湾にと思ったが、すぐに、馬の政権下でこういうレベルでも着々と台湾の支那化が進んでいる事を悟った。
毛沢東のバッジなど、支那では段ボール一杯二束三文で投げ売りされているのに、何が悲しうて毛沢東の人形か。孫中山こと孫文は両国(台・支)で国父と呼ばれている、幾度も革命に失敗しては日本に逃れ、日本の同志に数え切れないくらい世話になっているにもかかわらず、「日本は銀の国、アメリカは金の国」と言ってのけた人物である。
 蒋介石は台湾に逃げ込んで亡命政府を名乗り、その目は常に本土(支那)にあった。その軍隊はのちに二・二八事件を起こす。孫文はともかく、後の二人は大量虐殺をした者共の親玉である。蒋介石の嫁の宋美齢は、戦後アメリカに住み、全国行脚して日本の悪口を言って回った。姉の宋慶齢は孫文の嫁はん。
そういった人物達の人形が売れていると言う。多分観光に来た中国人が買うのだろう。


 ある日の午後、いつ行っても十数分待ちの鼎泰豊(ディンタイフォン)で、小龍包を食っている時に、馬に会った。馬とは馬英久現総統だ。といっても本人ではない。目の前の壁に飲食業営業許可のサインに馬英久の名があった。多分台北市長時代、権限で出したものだろう。途端に小龍包が不味くなった。早々にごった返す店を出て、目の前の信義路を真東にある台北101タワーに向かってひたすら歩く。信義路弐段と新生南路との交差点にある大安森林公園のベンチで午後の日差しを浴びながら、公園に遊ぶ人を眺めつつ大休止。

 後また大通りにでて歩く。通りの看板のあり方小汚さははどこか犬の小便臭いパリに似ている。似ていると言えば、テレビのコマーシャルを見ていると放送形態、音声もどこかフランス語のイントネーションと似て、思わずおやっと言う感じになる。
 日が落ちる頃、二時間近くかけてタワーに着いた。安いので帰りはタクシーで帰ったが、降りる段になってわずかの小銭が足りなかった。そしたら、運ちゃん(日本語が台湾語にそのまま転訛、運転手の意)が、「いいよ、いいよ。まけとくよ」と言って聞かない。いや、そういうわけにも行かないよと言っても、「いいよ。いいよ。」という。両替するほどの額でもなかったので、有り難うと言って車を降りた。これがフランスなら絶対にあり得ない!
 一度ミュンヘンのホテルからタクシーで早朝に空港に向けて出発し、降りる時になって小銭が無いのに気がついたがどうしようもないので、例えば600円の支払いの所、1000円札しか無いのでチップだと言って車を降りたら、二十四五才と思える運転手の兄ちゃんが、しばらくして追っかけて来た。何事かと思ったら、運転手にこのチップは多額すぎると差額を返しに来た。この時、何故か分からないが、こんな堅物、真っ正直がナチスを生むのかもしれないなと思った事があった。
この、運ちゃんとも台湾の運ちゃんはちょっと違う。日本及び日本人が好きなのだ。
これは、行く先々で毎度感じる事だった。


→続く。
  


→2001年の今日のたん譚 星を造る人


→2002年の今日のたん譚 キャパにはなれない。









2009年10月17日(土) セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 2/2



→セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 1/2


…山小屋には風呂、ウォシュレットや泡のトイレが完備され、尻が洗える所も出て来た。これも、中高年登山者、若い女の子などの入門に拍車をかける。旅行社は敏感に反応して宣伝、にわか登山パーティ参加者を募る。各人バラバラ、登山行程など、全部他人任せ。昔流行った農協ツアーのごときである。高峰登山の裏側には、困難と危険が同時にある事が忘れ去られている。

 今回下山時に、三十人近くの高齢登山者の群れとすれちがった。延々、登って来る。山は登り優先だから端に寄って待機、やり過ごすのがマナーとなっている。ところが流れが切れない。ちょうど真ん中辺りをやり過ごした時、ガイドと思しき人が、「まだあと十数人来ます。すいません。」といって登って行った。別に急ぐわけでもなかったので待機した。初老の女の人のどよんとした目、くもった表情、全然楽しそうではない。何でこんなつらい事をしてまで団体の流れの中にいるのだろうと不思議でしょうがなかった。
一方、年若い連中とのすれ違い様の、
「ちーっす」「有り難うございま〜す」
苦しそうな中でも、目が生き生きして喘いでいても何か楽しさが溢れていた。

 思うに、先の大団体は甘い言葉にのせられ、初めてやって来た人が多かったのではないか。これでは、一旦緩急あれば遭難へと一直線につながる。簡単に遭難してしまう一端を見た気がした。

 山に来ようなんて高齢者は大体金銭面で困っている人はいないだろうから、旅行社が募った団体で登るなどとケチな事をせずに、個人、又は少人数で山岳ガイドを雇えばいい。そんな金はないと言うんだったら、三千メートルは諦めて、近所のポンポコ山で我慢する。楽して(高度を)稼ぐな。ガイド代など命と他人への迷惑をかける事を考えれば、たかが知れている。

 かって、横尾のテント地で、世界三大北壁を登った*長谷川恒男が目の前のテントにいた。普段は絵描きと同じで金がないから、ガイドをしているようだった。ガイドを雇うとこういう達人に案内してもらえるかもしれない。二・三人のパーティなら、ほぼ完全に手取り足取り面倒を見てくれる。山でけちるな。先の映画の測量官達だって、地場の山をよく知った案内無しでは不可能だった。

 山で山小屋の厄介になり始めたのは、ここ十年くらいでそれまではテント食料を背負って行っていた。少しの金銭的余裕と、山へ行くのが自分の中でスポーツでなくなってからは、月見をしたり、沢で行ける所まで言って、酒飲んで昼寝をする。黄昏れて来る頃、山小屋に帰る。別に頂上は目指さない。ただ、山懐にいる。それは大抵、山小屋が店じまいする晩秋の頃が多かった。

 今回、面白い出会いがあった。登っている途中小屋直前の雪渓の手前で、一休みしていたら話しかけて来た中年カップルがいた。こちらと同じように、初めての人を連れてきたらしいのだが、こちらの亀ののろい的山歩きと違い、一挙に上高地涸沢と登って来たらしく、その初めての人は足を痛めていた。それで山小屋の個室の状況などを尋ねて来た。
話しの中で、その男の人は整体?の先生を東京でしているらしく、評論家の*西尾幹二さんも生徒さんだったと聞いて、こちらは数いる評論家の中で、結構な愛読者だったから驚いた。大勢いる登山者の中でなんで、自分達を選んで話しかけて来たか。ただただ不思議であった。そんな話をしても西尾さんの事を知らなければ話は弾まなかったに違いない。


小屋を利用し始めて困った事があった。
部屋が暑すぎると言う事だった。
涸沢は七月末で夜は五度位。ところが密閉度の高い高地の山小屋の個室は、冬でも甚平で過ごす身にとっては暑くて眠れない。今回も同様で、深夜二時頃、窓を開けて真っ暗な奥穂に詰め上がる雪渓をみていた。そこで不思議なものを見た。

月はすでになく、眼下、300メートル位向こうにある涸沢ヒュッテのシルエットが薄闇の中、うすぼんやりと裸電球の弱々しい光に照らされ見えた。辺りを照らし出す程の光量はない。
そこから、何気なく山にせりあがる雪渓の上方数百メートルに目をやった。雪の斜面にぼんやりオレンジの光がともっている。
あれっ? 深夜二時である。テント地よりは随分上で、そこにテントは張れない。人が遊びに行く場所でもない。なんだろう。もう一度、涸沢ヒュッテに目をやって、再びその光った場所に目をやった時にはすでに無かった。最初にヒュッテのうすらぼんやりした電灯を見たのが残像に残って雪面に投影されたのだろうか。そう思って何度か試してみたが同じようには見えなかった。
翌朝、同じ辺りを見たが何もなかった。あれは何だったのだろう…。

 ここ数年、若き山女(やまじょ…山に行く女)が増えたと新聞に書いてあったので、それとなく観察して歩いた。確かに若い女の子が、一人で来ているのをまま見かけたが、全体に若い人は少なく、どちらかというと山姥(やまんば)が多く跋扈していた。昔、老婆は山に捨てられたが、今は自分から出向き、なんと!帰還する。遭難する事を考えたらそれはそれで、めでたい…か。

*セント・エルモの火…正確には、悪天候時に静電気などが尖った物体に発生させる、青白いコロナ放電による発光現象。尖ったものは無かったので球電(赤から黄色の暖色系の光を放つものが多い。自然発生したプラズマのかたまり。空中を浮遊する)の方に近いかもしれないが、浮遊はしていない。

*長谷川恒男…冬季未踏であった谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独初登攀。ヨーロッパアルプスの3大北壁(アイガー、グランド・ジョラス、マッターホルン)の冬期単独初登攀の成功は世界初。1991年、パキスタンの未踏峰(当時)ウルタル II峰で雪崩に巻き込まれ星野清隆と共に遭難。
たん譚はかって各3大北壁の下で昼から酒飲んで酔っぱらっていた事がある。目(未)登峰

*西尾幹二…日本のドイツ文学者、評論家。ニーチェの研究家。「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長











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