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2010年07月06日(火) |
旅の終りの、とある一日 |
フランスを表面をなでるように旅し去って行く旅行者には何の問題も無い。ただ個人旅行で動こうものならまず予定通りには行かない事、1990年頃と2010年の現在まったく変わらない。 今はどうだか知らないが、最速を誇ったフランスTGV(新幹線)、日本の新幹線と同じように考えてはいけない。今回も前回も前々回も15・6年に渡って、一度として正確に来たためしがない。それも5分とか10分とかの遅れではない、何十分の遅れなんである。そのたびに、ホームが変わったりするので、耳をそばだてていないと乗り損なう事になる。 今回は、予定が狂ってドイツの友人宅訪問が中止になり、その分、南仏滞在を延ばしたため、ドイツパリ行き往復切符をキャンセル(安売り券だったので払い戻し無しで数万円が露と消える)し、新幹線のパリ行き切符の日時を駅で変更してもらった。
当然二人で動いているので、日本の駅だと、予約変更も続き番号でやってくれるのは当たり前でまかせておいても心配無しだ。ところがこっちの駅員はどっこい勝手にテキトーに席を決めてしまうのである。 一昔前、フランス新幹線は全席指定、立って乗ると罰金を食らっていたが、今は昔。 パリに向かう新幹線に乗り込んでみると予約していた筈の席が埋まっている。おかしいと思って訊ねてみると果たして我々の席だった。
ところがである、一人のフランス人女からクレームが来た。曰く、「私の席よ!あんたの座っている席。」「そんな事はありませんよ。予約でちゃんと取ってあるんだから」と、切符を見ると、相棒の席は予約番号があり、こっちの切符には、なんと!どこでも勝手に座れと言う意味の事を書いてある切符だった。 少しもめたので、周囲の客の注目を集めてしまい、完全に形勢不利。で、セ・ラ・フランス(これがフランスや!)と皮肉を込めて言ったらちょっと客達に受けた。で、終着のリヨン駅に着くまで数時間、外の二階に繋がる階段で過ごした。
で、一件落着ならそれはそれで目出たい。が、そうはいかんぞ。パリのリヨン駅は南フランス方面からの最終駅でそこからは、日本の主要駅みたいに各地方には発着しない作りになっている。戦争になって敵がせめて来た時に一挙に制圧されないようにしての事かもしれない。 ドイツに行きたかったらそこ行き専用の駅に他の交通手段で向かわなければならない。当然重い沢山の荷物、タクシーしかない。
新幹線から多くの客が降りたすぐはタクシー乗り場は当然混む、と言う予測のもと、構内のカフェで少し時間を置き、乗り場に向かったら少しはましだろうと思うのは日本人だけで、前より行列は増えている。ちょっと数えても百人は越えて列んでいる。来ているタクシーは多くて五台前後! 天下のパリーのリヨン駅でっせ!これは十年前も同じ。 さて、観光地京都、駅前に何台タクシーが常駐していると思う?常に五十台はいる。 五十人の行列が出来たとして、あっという間にいなくなる。
で、不思議なのは、三台来ては乗せて去り、五台来ては乗せて去り、全く来ない空白の時間も度々で、大体稼ごうという意欲が感じられない。。 パリーでっせ!リヨン駅でっせ!タクシー一台もいない空白のある駅。想像出来まっか? その間に、係の人間が、子供連れ、老人をごぼう抜きにして乗せる(別に専用乗り場を作れば良いと思うがそうはしないようだ)から運転手も訳が分からなくなり、大げんかを始める。一歩も引かない。後に続く客が五万といるのだから、妥協すれば良いのに、乗せる乗せないでずっともめている。一端乗せた旅行鞄を引きずり下ろしたり、また運転手が乗せたりを繰り返している。 一方、駅正面出口タクシー乗り場横にあるカフェで不審な男、何事かでもめ始める、自動小銃を持った警察官数人が取り囲む、もめたあげく逃げ出す男にタックル。その後同じパターンで、今度は女がもめていてやはりダッシュで逃げたところ追っかけられタックルされて御用。素手を撃ち殺す訳にも行かないので、渾身のタックルをしたが、その若い警察官、思い切りアスファルトに腰を打ち付けた。 そのしばらく後、ジャンキーの男が、うろうろし補導される。実に待っている二時間近くの間にこれだけの事件が起こった。待っている客はもううんざりしていた。
で、歩けば二三十分、車ならすぐに着くホテルに着いたのが八時過ぎ、駅に午後五時近くに到着してから実に三時間近く経っていた。 これを国民性と見るか、ただ時間にルーズだと見るか、現地に住む日本人はすでにあきらめて八百年経っている。 で、おまけ。 猫の命がかかっているので、フランスではウィッヒー、日米などではワイファイ(wifi)環境の整った、日本人に人気があると言う瀟酒な小さいホテル(といっても五階建て)をネットで探して、へとへとになってついた。ところがである!レッドショッセ(フランスでは一階をこう呼ぶ)にエレベータもフロントも無い。両肩が着きそうな急激な階段が一階(フランスでは二階が一階で三階が二階で四階が三階 何のためにこういう事になっているのか意味未だに不明)まで続く。 重い荷物を引きづり上げた途中になんと休憩用なのか何なのか、途中休止しろとばかりのソファが窓辺にしつらえてあって、それなしではフロントにはとてもたどり着けなかった。 悪口ばかりでは何なので良い点を言う。純フランス関連で、ここだけはウィッヒーが難なくつながった。 日本の新聞、ほんまもんの政治家西村眞悟の時事通信、チャンネル桜の報道番組は快適に読め、見られた。最初と最後の日にである。
結局猫の自動給餌器は、映像から自動給餌されていないようだったので、動物園に勤める友人の娘さんに来てもらって、双方向で話して世話してもらった。部屋のどこからともなく、フランスからの声が聞こえ、部屋で普通に喋る京都からの声が、マイクに向かってもいないのにフランスに届く事に、「未来を感じた」という感想だったが、現在です。 フランス滞在記は、「ジットでじっと」に書くつもりにしている。ともかく無事に帰国。
→2002年の今日のたん譚
現在南仏に滞在中で、もう一週間になる。いつもの空港は火山噴火のせいかどうか、運行しておらず,仕方なしに観光地ニースの空港から車で山越えで半日かかってジットについたものの、諸設備にwifi(無線LAN)があるということだったが、つながらない! ニースのホテルでは簡単につながって,家に残してきた猫の自動給餌器の様子などが見えていた。今回のまた新しい試みは、猫のいる場所に旧型のモニターをいれてこちらの画像も猫に見えるようにした事だった。 ところがジットではI-pad、ノートブック両方ともつながらない。そこで一計を案じて世界中どこにでも有る,最近経済学にも出てくるビックマック指数で有名な、マクドナルドを探した。マクドナルドには必ずWIFIがあると聞いていたので今地場のマクドナルドに来ている。
マクドナルドと言っても,コンセントがないと,ノートブックは家のコンピュータにつなげると電池だけでは二三分で落ちてしまい,とても猫との双方向の会話は出来ない。ようやくコンセントの有るマクドナルドを見つけて書いている。 前途多難で、WIFI信じたばかりに偉い事になってしまった。事務所になっている屋敷の一角にお邪魔して、あれやこれや試みるも適わなかった。このフランスの個人のwifiは、多分親のコンピュータからIPアドレスを割り当ててもらう やり方だと思うがどうしようもない。
五年ぶりの南仏で四つくらいあるスーパーの一つで食料を買い込んでいたら,現地に住む陶芸家の日本人Tさんと遭遇した。明日にでも訪ねようと思っていた所だった。裁判官だった伴侶が他界してしまって今は一人で暮らしている。 85年に初めてこの地に来てから実に25年、実にいろいろなことがあった。庭に出て風にざわめく巨木の並木を遠くに見て,一杯やりながら来ては去って行く時間をあらためて思っている。
2010年05月31日(月) |
どっ血や、血島とウイルヒョウ 2/3 |
十九世紀に既に骨髄造血説の考えはあったが、二十世紀の初頭アメリカの学者三人が、骨髄の中で血が作られたという実験結果を発表、追試し確認したと発表し現在に至っている。 ところがその追試が何だか変なのである。鳩と鶏を十日ほど断食させその後に観察したとある。 この時、骨髄で血が出来ているのを確認出来たと報告している。 これを補強するように、さらに二十世紀中頃、カナダの学者が致死量の放射線をマウスに照射後、他のマウスの骨髄からとった骨髄細胞を被曝したマウスに注射したら、死なずに生き延びた、そしてその被曝マウスを解剖、観察すると脾臓に血液細胞の塊が見つかった。 血液細胞は放射線に非常に弱く照射されると真っ先に死滅する。ところが先に書いたように、他の骨髄を注射したら、生き延びておまけに脾臓に、死滅している筈の血液細胞が見つかった所から一挙に「骨髄造血説」が定説化されて行った。 これが今日の骨髄移植の根拠になっている。
ところで、何故十日近く絶食させたかと言うと、日常的状態の骨髄の中には、血などはなく、脂の塊しかないのである。だから、ここでよく認識しておかないと行けない事は、鶏と鳩君の体の非常事態に置いて、初めてその骨髄細胞の中に造血的なものが観察出来たという事実である。 日常の状態に置いての骨髄には、脂肪が充満しているため誰一人として、血液細胞の存在を観察実証をしている研究者はいない。 あくまで、非日常状態において、造血的な現象が出現したという事である。
ここに簡単な問答がある。人の血液が骨髄で作られるとして(60kgの体重の人なら、およそ4.5リットル)その大量の血液はどこで具体的に作られるのか? 質問に答えた医者は、 「大腿骨である」と言っている。足の太もも部の骨を中心に作られるという事らしいが、『五体不満足』を書いた乙武 洋匡(おとたけ ひろただ)は、両足が付け根からない。そうすると血液の大半が足の骨髄から作られていると言うなら、乙武さんは生きていられないことになるが、生きている。
このくらいの事を医者は当然勉強していると考えるが、果たして先のような特異状態においての追試を妄信したまま、当人達はそれを基本として現代医学の道を歩んでいる。 大学の医学生になった所で、ゼミで教授達に研究のヒントらしきものを与えられ、それを研究して学位を取り卒業と言う手順だから、自ら研究テーマを探しての研究と言うのはまずないのだそうだ。 千島博士も、師事した教授に血とは関係のないテーマを与えられていたが、教授の移動があり、テーマ解消となり空白の半年間が出来て「血」の研究に偶然入ったと書かれている。
ここで、高校時代に生物で習った細胞分裂の話を思い出してみる。 最初に結論として、(日常状態に置いて)細胞は分裂しないというと、そんな馬鹿なとみんなびっくりする。でも、常態においてはない。 細胞が分裂すると確信犯的に言い出したのは、ベルリン大学にいて、後にあのビスマルクの政敵(英雄的野党政敵と言われた)となり、シューリーマン(先史歴史家)の朋友であった、ウイルヒョウ(ドイツの病理学者。細胞分裂説。 存命時、大変な人気があった。その言動は多くの人に影響を与えたから、始末が悪い。現代医学の基礎理論として現代も君臨)と言う人だった。この人の学説が今日の細胞病理学の常識となっている。
→続く(3/3完)
→2009年の今日のたん譚
2010年05月09日(日) |
どっ血や、血島とウイルヒョウ 1/3 |
血はどこからくるのか。 現代医学では、血は骨髄で作られるということになっている。果たして本当か。 この前、京都で「がん呪縛を解く」の著者のセミナーのようなものがあったので聴講した。前半面白く(千島学説の話)、後半煙に巻かれて匙(鉛筆)なげた。 その後半は、カタカムナ(神戸六甲山中で楢崎皐月という満州で陸軍の製鉄所所長を務めた人が平十字という元カタカムナ神社の宮司であったと言う猟師から手渡された巻物)の話で、それは上古代からのものだという。上古代とはいつぐらいかと会場から質問有り。 講演者答えて曰く縄文時代からさらに遡った二千五百年前位にあった文明?だという。その巻物は丸と直線で作られた幾何学的な文字で出来ているそうで、それを楢崎先生が超感覚で、これはこうそれはこうと超翻訳?してしまったのだった…。
ここではたと困ってしまうのである。 千島学説(血は小腸の絨毛で作られる、細胞は分裂増殖しない。6つの形態で新生する。がんは血液から生じて血液に戻ると提唱)はれっきとした、千島喜久男博士が顕微鏡で血を細胞を観察し記録した学問の集大成である。確かに博士の「気・血・動」の内」八大原理の八番目にあたる部分は、かなり現代の唯物論的世界観を持つ医学とは違うが、その前の章の流れは、ただただ観察観察の世界である。立派な学問である。 その流れの中で、治癒に置いて「気の持ちよう」とか「プラシボ的効果」を言う場合にはあまり違和感はないが、「カタカムナ」と言われるものに結びつけるのは少し牽強付会だと感じる。少なくともカタカムナはその出発において学問ではないと思ったからだ。 さぁそうなると、一挙に興ざめしてしまい、「がん呪縛を解く」の著者には申し訳なかったが、ノートを取るのを止めてしまった。
本であれば、がんと血液の話から、量子力学のゼロポイント・フィールド(エネルギー?)に持って行こうとする章は、ぽーんと飛ばす事が出来るが、講演ではそうはいかない。途中退席は映画館ではよくするが、講演会では礼を失するので最期まで聞いた。
せっかくのコペルニクス的展開の書、「がん呪縛を解く」も、著者の思い入れのあまり、量子力学の、零ポイントフィールドの章はSFまがいで、その欠点は、今最新の物理科学の学説と結びつけ、つじつま合わせをする事で、この学説が究極のものでもなく、いくらでもひっくり返る可能性があると言う事を忘れている。
地球がまだ丸くなかった時代、須弥山(しゅみせん。古代インド バラモン教、仏教、ジャイナ教等の世界観の中で中心にそびえる山)で世界を説明しようとしたのに等しい。多くの読者は、最期に煙に巻かれてしまったような読後感が残るだろう。
ところで二昔前には、千島博士の学説を世間は事実上認めていた。どういう事かと言うと、癌研究会癌研究所と京大ウイルス研究所、さらに国立がんセンターの3つの機関の五人は、少なくても30年前、高松宮妃癌研究基金学術賞を受けている。当時「読売新聞」一面トップに載ったその内容(「赤血球からできたガン細胞が、再び正常な赤血球に戻ることを発見した)たるや、千島学説の完全なる踏襲だった。存命だった博士は、3グループ五人に質問状を送ったが、どこからも返事はなく、千島博士の研究は完全に無視された。
→続く(2/3)
徳島方面の皆さん
どうぞよろしく。
2010年04月03日(土) |
映画は時に映画げん。 |
ちょっと前、伊太利映画「カラヴァッジオ−天才画家の光と影−」を見た。 バロック絵画の天才画家でこの人無かりせば、後のラファエロ・レンブラント・フェルメールは出なかっただろうと言われている。光の扱いの旨さは昔の、英国映画「カラヴァッジオ」のデレクジャーマン監督作品の方に軍配を上げる。こちらの方は画家へのオマージュ(尊敬又は賛辞)作品なので、ストーリはあって無きがごとしで、背景にトラック!?が停まっていたりする。 一見めちゃくちゃなように見えるけれど、画家が描いた作品の、映像での再現は素晴らしかった。見た後、あんなライティング(光の塩梅)をしてくれる助手がいたらなあと真剣に思ったくらい見事だった。
一方、伊製の方は、テレビドラマをくっつけたのを映画に仕立てたようで、一見歴史に忠実なようで白ける場面が数カ所あった。一つは制作中のカラヴァッジオの手やシャツにベタッと絵の具のビリジャン(緑色)が付いていた事だった。
これは、江戸時代の居酒屋で、机にもたれ椅子に座って酒飲んでる光景と同様にありえない。同じように、ダヴィンチの作品「最後の晩餐」にも言える事で、最後の晩餐を行ったとされる時代に、ああいった食卓風景はなく、全員横になって食べていた。西洋がテーブル椅子を使用し食卓にするのはずっと後である。
カラヴァッジオの生きた時代は16世紀、現代でも油絵の具セットの基本色に入っている緑色(ビリジャン)は、昔からあった物ではなく、19世紀にフランス人ギネーが発明、作り出したケミカルな絵の具である。もし、手やシャツにつけるとしたら*テールベルトでなければならない。
また一つは、天井の高いがらんとした大画室、真正面は白壁、その右壁面に大きな窓、その窓辺すぐ横に、こちらに向かって襖二枚分くらいの絵をイーゼル(画架)に立て制作している場面。
これもおかしい。なぜか?絵描きなら即座に分かる。右から入って来る光線を画面に受けながら描き始めると、左利きでもない限り自分の右腕が画面に影を落とし邪魔になる。まともな画家なら絶対やらない。画室は基本的に北向き、その訳は一日中殆ど光量が変わらない事にある。筆を持つ手は常に窓と反対側。
さらには多くの日本人にとって大昔からイタリアはイタリアだと多分思っているから、カラヴァッジオが乱闘のあげく牢屋にぶち込まれて、牢屋の荒くれに出身地を聞かれ、来る牢屋が違うとまた袋だたきにされる。これが多分分からない。 パロックの時代、イタリア半島は南はスペイン領、ローマ辺りから半島付け根まで上右半分(石膏で有名なボローニャを含む辺りまで)が教皇領、つけ根までの左半分はトスカーナ公国、北部大陸部はヴェネチア共和国、ミラノ公国、トリノ公国、ジェノバ共和国とバラバラで、イタリアがイタリアと名のったのは、神聖ローマ帝国のちょっと前、東フランク王国の時代、日本で言うと平安時代、朝鮮半島は丁度、新羅から高麗に変わる境目あたり、唐は末期の頃で9世紀半〜10世紀半ば約100年間位「イタリア」を名乗った事はあったが、それ以後分裂し,明治4年くらいまで歴史上統一されたイタリアという国はなかった。 その中で、カラヴァッジオは、宗教画を依頼され、ローマ教皇領のバトロンのもと、天才を発揮し後世に残る仕事をした。ローマの高級売春婦や市井の爺婆を実際のモデルとして使い、多くの貴族もどきの画家に顰蹙を買ったが、聖と俗を超越して描いた。
事実を元にしたという映画や小説を本当だと思ってしまう危険はいつも隣にある。
*テールベルト[Terre Belt] 暗い色調の緑色をしている土顔料で、緑土と呼ばれる。 テールベルトは主に。
ベローナ型
ビリジアン調の淡い緑土。
ボヘミア型
オリーブグリーン調の緑土
→2002年の今日のたん譚 日本国滅亡 →2003年の今日のたん譚 もう一人のベルナール →2004年の今日のたん譚 超(鳥)人
2010年03月31日(水) |
台湾ゆ〜らりぶ〜らり。4/4 完結 |
※ ※ ※ ※ 台湾ではスーパーマーケット、百貨店の地下、料理屋などによく行く。 そこで売られている疑似日本食品に書かれている珍日本語が相当面白い。以下、スーパー、料理屋土産物屋で拾ってみた。
栄養豊富ビタミソ入り(ビタミン?)をはじめ、 「ホットケーモ」ホットケーキのつもりなのだろうが、ただただ笑ってしまう。 「えび入 アーモンド いわし」 海産物桜えびの袋、?
料理屋で ▽青椒肉絲の説明 「ピーマンの牛肉でした」? ▽「頂級牛 肉」(「最高級牛肉」の意味)が、「頂 いた級の牛肉」? ▽丸花生猪蹄 (醤油煮の豚の足でした。及びピーナツ) ▽orange juice →オワンジー
元の料理名は不明だが、印象に残った日本訳 ●ヌードルを持つスポンジひょうたんのハマグリ? ●半分筋肉半分肉? ●ビーフ米? ●米を持つ茎のタラの魚? ●日本様式は米を持つ魚を揚げ?
町の看板 ○全身マッサーヅ→全身マッサージ? ○修脚皮・修指甲 ネグいクマ?? ○全身油推 エツソセブヤリマる?? ○bienvenue (ビァンブニュ−フランス語・英語のwelcomeと同)→いらっしゃいません。?
この直訳とも思えない破壊的な日本語はどうして出来たのだろうか。謎である。
※ ※ ※ ※
外国から帰って来る度、空港施設を通る度に、日本はすごいと思う事毎度である。どこがとてつもなくすごいか。 案外日本人は気がついてないが、食文化の異常とも思える多彩さ。これは、世界中の空港、香港でも、パリ・シャルルドゴールでも、食の小フランスと言われる、ベルギーでも、ドイツオーストリアオランダイタリアでもイギリススコットランド他、どの空港でも絶対にあり得ない光景が、食べもん屋の、種類の多さ。 関空の中だけでも、以下、
たこ焼き屋、お好み焼き屋、ラーメン屋、蕎麦屋、洋食屋、トンカツ屋、天ぷら屋、うどん屋、寿司屋、スバゲティピザ屋、豚まん屋、居酒屋、中華料理屋、カフェバー、カレー屋、サンドイッチ屋、ブラッスリー、オムライス屋、丼専門店、創作料理屋、和洋甘味処、ファストフードハンバーガー屋、釜飯屋、喫茶店、他、二十数店がつぶれる事なく商売し、これらが重複して存在する。 言うまでもなく、フランスを例にとっても、有名なフランス料理屋の出店一軒、後ブラッスリー、ファストフード店カフェ、いずれも似たようなもの(フランス料理基準)である。ロンドンのヒースロー空港内にある、生ガキを出す丸カウンターバーがちょっと異色な存在で目立つ位である。
渡辺 京二の「逝きし世の面影」の中に、江戸時代の各店舗の多岐にわたる職種の専門店の多さに日本に来た外国人が驚き、売られている物品のその芸術性の高さにも関わらず、個人名を表記していない事にまた驚き、後のヨーロッパのアールヌーボーのきっかけになるほどに影響を与えたが、ある意味日本のそうした良さは明治で滅んだ、みたいな事を書いていたが、何の、未だ先に書いたように、食一つとって見ても、世界に例を見ない現象が依然として我が日本にはある。
200年を越える老舗をヨーロッパ中で集めて集うエノキアン協会と言うのがフランスにあり、百七十四の会社が候補に上がった。しかしそれに値する企業は、日本一国だけで少なくとも二百社以上あるのである。こんな国は地球上探したって日本しかない。
旅の終りに、台湾に旅しても、欧州に滞在してもつくづく、日本人に生まれて来て本当によかったといつも思う。
→2002年の今日のたん譚
これが一番最近の鳥っく。
永田町にいる鳥、最新情報 日本には謎の鳥がいる。 正体はよく分からない。 中国から見れば「カモ」に見える。 米国から見れば「チキン」に見える。 欧 州から見れば「アホウドリ」に見える。 日本の有権者には「サギ」だと思われている。 オザワから見れば「オウム」のような存在。 で も鳥自身は「ハト」だと言い張っている。
「カッコウ」だけは一人前に付けようとするが お「フクロウ」さんに、「タカ」っているら しい
それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え 身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、 疑惑には口を「ツグミ 」、 釈 明会見では「キュウカンチョウ」になるが、 頭の中身は「シジュウカラ」、 実際は単なる鵜飼いの「ウ」。 「キジ」にもなる 「トキ」の人だが 日本人にとってあの鳥は日本の「ガン」だと。
→2007年の今日のたん譚 生きたるきけぇ(又はききゃぁ)
→2008年の今日のたん譚 南京の真実(虐殺など無かった)を伝える映画 京都上映
2010年03月02日(火) |
台湾ゆ〜らりぶ〜らり。4/4 の前半分 |
台北駅の向かい新光三越の南、かって台湾で歴史上唯一のお城(台北城)があった跡地に、二二八和平公園がある。ここの北側に国立台湾博物館があって、 入口は襄陽路(じょうようろ)に面している。博物館に向かって左側歩道脇に何と、明石元二郎総督墓地鳥居と、乃木希典母堂墓地・乃木夫妻御遺髪奉納地にあった鳥居が道路脇にむき出しになって設置されている。普通は鳥居をくぐると神社があるが、ここはベンチなどを設置して公園のようになっているが鳥居の意味も何も無い。ただぽつんと「立っている」。 この鳥居はもともと、晶華酒店(グランド フォルモサ リージェントホテル)裏の、旧共同墓地跡(現、変わった形をした噴水のある康楽公園)にあったのが現在の場所に移されたようだ。
案内板らしきものはあるが、公園の門がわりのひどい扱いである。乃木大将の母堂は、乃木台湾赴任時に、大変な地に一人やらして家族が日本でのほほんと過ごす訳にはいかないと、一家で台湾に引っ越して来るも、その後数ヶ月で現地の風土病だったマラリヤに倒れ亡くなり、後に祀られ建立されたものだ。
二二八祈念館では、高年の紳士が日本語で話しかけて来た。今日は一緒についてお話し出来る時間が所用で持てないと言いながらも、手短に自分の兄がやられた事、自分も危機一髪で殺されそうになった事、などを流暢な日本語で話してくれた。 知識が増えるにつけ、頭の「バカの壁」が取っ払われて、以前見えなかったものが見えて来る。今回は、黄文雄と言う現在日本にいる評論家で作家と同姓同名で、あの蒋介石の息子、蒋経国(中華民国第6期総統、別にロシア名を持つほどの共産党員だった。ロシア名はニコライ・ウラジーミロヴィチ・エリザロフ、正式のソビェト共産党員)を暗殺実行しようとした、実の妹の結婚相手の身代わりとなって実行(未遂)し捕まった、黄文雄逮捕時の写真も展示されていた。
祈念館を出て、となりに併設されている喫茶店の庭にあるテーブルの席に着き、家人が注文しに席を外している間に、老人が家人の椅子を持って行こうとしたので、「もう一人来ますので」と、つい日本語で言ってしまった。 と、「君は日本人か」と聞かれ、その人は王さんと名乗った。
それから実に二時間、日本時代がどれだけよかったか、同胞(王さんはそう信じていた)なのに同胞を殺した白色テロの話、少数民族の話、こちらの次の予定の時間が来ても話は絶えなかった。次の時間の予定があると告げて初めて、また会いましょうと言う事になって分かれた。王さんにとっての二二八白色テロは、まだ生々しいついこの間の事のようだった。
王さんは、やはり戦前の日本時代に郷愁を持ち、戦後のへなちょこ日本を恨んでいた。話を聞き終わって、日本人として本当にすまなく情けなく思いながら、やっつけ仕事で日光東照宮の左甚五郎の仕事の足下にも及ばない、園内のアリバイ工作用支那まがいもん建築を横目に、公園を後にした。
歩いていると裁判所横では、台湾建国派が、緑と白地に台湾の地図をデザインした「国旗」を掲げてストをしていた。出くわした時はわずかに数人だけだった。大きな運動にはなっていないんだなと言う実感だった。
→続く4/4後半
今週の火曜日(平成22年2月2日午後2時)、日比谷公会堂で「頑張れ日本!全国行動委員会」結成大会、そして 日本解体阻止!外国人地方参政権阻止!全国総決起集会に参加するため前の日から東京に入った。 京都から冷たい雨が降り続き、この集会の大将である田母神俊雄さんが、以前、これからはアパホテルを利用してくださいと言っていたので、日本橋のアパホテルに宿を取って、ついでに銀座の画廊に挨拶をしに行き、ホテルまで歩いて帰る頃には風をはらんだ冷たい雨が本格的に降り始めた。
田母神大将推薦のこのホテルに備えてある本雑誌が面白い。普通は聖書か仏典が置かれているが、まずだ〜れも開きもしないだろう。ところがアパには「報道されない近現代史 著 アパの社長」だとか、アップル(コンピュータとは関係なし)タウンという月刊誌が置かれていて、この雑誌の特集が面白かった。
張作霖爆殺日本軍説を否定した、ロシアの歴史作家、ドミトリー・プロホロフを日本へ招聘してのインタビュー記事や、田母神大将が自衛隊を首になる(表向きには定年退職だが)きっかけとなった、「真の近現代史観」懸賞論文の第二回受賞者の表彰式などの記事(記念すべき一回めの受賞者が田母神大将、今回二回めが旧皇族の竹田恒泰)他が満載。
(と、ここまでは完璧なのだが、真っ向反対を行っている「朝日新聞」が、玄関一階エレベーター横に、百部くらい山積みに置かれてあって、無料配布していた。どういうこっちゃ?筋としては「産經新聞」でしょうが。)
気分が良くなった所で、屋上階に大浴場サウナ露天風呂があると案内書きがあったので、早速浴衣のまま(このホテルでは浴衣のままで良いと書いてあった。)で大浴場へ向かった。 まず体を洗った後、水風呂に一分。全身に緊張がみなぎった所で、湯へ。 湯気で曇ったガラス張りの向こうに露天風呂があり、早速行ってみた。先に一人入っている人がいたので話しかけたら「北海道から就活(就職活動の略らしい)に東京に来ている」と言った。 話が弾んで喋っていると、牡丹雪が沢山降って来て大雪になった。 じっと湯船につかっていると、溶けた雪で頭が濡れる位になったが、都心にいてまるで山間の温泉にいる気分になってとても愉快だった。
この後、部屋に戻って朝まで、「さらば吉田茂(改訂版は日本永久占領)」の著者、片岡鉄哉が、何度も何度もその死まで読み返していたと言う本、血液の権威、千島喜久男博士の千島学説を紹介した本を読み続け、気がついたら朝になっていたので、眠らずに靖国神社に行き、遊就館の零戦の前で待ち合わせた友人と昇殿参拝をした。 雪の靖国神社は空気が張りつめていて、本殿までの床の冷たさに気持ちが引き締まった。本殿で正座し、玉串を捧げて礼拝した。
九段にある、北大路魯山人とも縁あったと言う蕎麦屋で、めづらしいトリフを練り込んだという蕎麦を食べて時間を過ごし、午後二時から日比谷公会堂にて開かれた「頑張れ日本!全国行動委員会」結成大会& 日本解体阻止!外国人地方参政権阻止!全国総決起集会に、参加した。
予約席がほぼ埋まっていて空いている席が演壇中央前から三列目しか見当たらなく、仕方なしに着席した。ところが背後の壁一杯に貼ってある巨大な日の丸の赤が登壇者を包み込み、視野一杯に目に入って目がチカチカし、正視出来ない。 三時間我慢した(映画アバターは15分くらい我慢したが、ついに途中退館した。多分いつも対象につかみ掛かるように見て描いているせいか、眼鏡をかけての受け身な上に、文字の部分の3Dと画の部分3Dがふらふら不安定で気持ち悪くなった)がついに二部を待って、椅子席を辞して最後列の入り口近くに立ったままで傍聴、後半三時間を過ごした。各出席者の熱い思いはあっちとこっち同じであった。
帰途、東京駅まで乗ったタクシーの運ちゃんは、この二千人以上の大集会があった事も知らなく無頓着で、「 日本の政治も警察もCIA(がコントロールしている)なんでしょう?」と言った時は、なぜか悲しくなった。
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