いつもどおりに6時ラジオのスイッチオン。携帯のアラームは6時半。うとうとしながら9時に布団を出る。
洗濯機をとりあえずまわしながら、ネットをしていると、知らないうちにまたネットに時間をとられてしまう。12時ごろに三宮に出て、祖母宅に置いてあったカーテンを取りに行く。今の部屋のカーテンレールが異常に高く、市販のカーテンではべらぼうの値段がするので、昔の実家で使われていたカーテンを拝借しにいったのだ。
その後、母親と妹と甥っ子と一緒に昼食へ。昼食後、100円ショップやロフトを周り、仕事で使うものを買う。帰宅後、カーテンをつけてみるが、思っていたより部屋のカーテンレールの横幅が大きく、一枚で済むと思っていたカーテンが足りなかった。また、来週取りに行く。
夜は本屋へ。色々と本のタイトルを見て、ぱらぱらと立ち読みするのが楽しい。茂木健一郎氏が特集されている雑誌を買おうかと思ったが、やっぱり雑誌はどこか陳腐な気がして購入せず。脳科学の本棚で茂木氏など、最近、脳科学を売り物にマスコミに露出の高い科学者が批判されている本を立ち読み。うむ、最近、自分が少し偏りすぎているかなと思い、少しバランスを取る必要があると感じる。
バランスというのは微妙なもので、行き過ぎつつ戻りつつの繰り返しである。決して、シーソーの真ん中の動かない点を見つけることはできない。そう思う。
晩飯はココ壱でカレーを食べ、ドトールでロイヤルミルクティーとともに、しばらく読書。ネットをしばいて、早めに寝る予定。
いつも通りに6時にラジオがオンし、6時半に携帯電話のアラーム。それらを自ら消し、結局、布団からでたのは7時15分。今日は、「ゆっくり行ってもいいじゃないか。」と自分に言い聞かせる朝。
スティーブ・ジョブスのスピーチが2回流れる間に病院に8時15分頃に到着。昨日より新規に購入したハードコンタクトレンズの違和感を感じながら仕事開始。
仕事終了後、ある職場の新年会へ。(ブログ参照)かなり勉強になる。飲みながら勉強するなんて楽しい限り。しかし、今までは普通だったことなんだが、普通じゃない環境で仕事をしていると、普通のことに感激したりする。
ほろ酔いで帰宅しブログを更新。スムースジャズを聴きながら、名古屋に転勤した素敵な友達に携帯からメール。もっと早く映画に誘っておけばよかった..
公開しつつ、そろそろ就寝。
6時にタイマーでラジオが鳴り、携帯のアラームが6時半に鳴る。今朝は布団から7時前に出れた。シャワーを浴びて、準備して出勤。職場に7時45分頃到着。一番乗り。最近、買った本の第一章を読む。「夢を見つけること。」とある。手帳にメモ。
「現在の仕事の延長線上での『夢』とは?」 「言語聴覚士、リハビリテーション、維持期リハビリ」
今日も訓練と訓練の間にかなり余裕あり。口腔ケアのシステム化について考えたり、諸々のアイディアをメモに書きなぐる。「自分の中に残るもの。」を仕事の中心に添えたい。対外的な交渉などに時間を取られすぎてきた。今後もそうした仕事からは距離を起きたい。文句は言わせてもらうが。
仕事終了後、食事を病院の食堂でとり、帰宅。先日購入したハードレンズコンタクトが届いたので店に取りに行く。丁寧な対応の女性スタッフ。お世辞にも顔は美人ではなかったが、対応中の雰囲気や笑顔などが可愛らしい。気分良く、フレッズカフェで手帳を開き、今朝の続き「夢を見つけること。」についてメモを取りながら考える。
「新しいSTのスタイルの創造。」 「既存の理論から脱却し、新しい理論・技術の創造。」 「トライ&エラー」 「トライを記録、エラーを分析。」 「目指すはより良い治療。」 「医療、福祉などの垣根を越えたもの。」
帰宅後、洗濯機をまわす。TBSストリームのPODCASTINGを聴きつつ、ブログを更新。24時過ぎには就寝予定。
いつもより15分ほど早く布団から出ることに成功。6時に目覚ましが鳴って、実際に起きるのは7時過ぎ。本当は6時に起きたいんだが、なかなかできず。職場までいつもよりも早めのスピードで徒歩出勤。8時前に職場に到着。連休前に隣の部屋にバルサンをたいたため、一部の荷物を自分の職場の部屋から始業前に動かそうと早めに行く。
担当患者数が増えず、余裕あり。今日は外来の患者さんもお休みで時間が余る。昼間にミーティングするが、主任の言っていることが良く分からない。「???」と思いながら、自分が感じていることだけは言っておいた。でも、あまり納得していなかった様子。しかし、僕が主任の言ってることが良く分からないので、たぶん彼も僕の話がピンと来なかったんじゃなかろうか。なんだかすれ違っていて同じ土台に立ってない感触があるが、彼はどう感じているんだろうか。いつも唐突で抽象的なアイディアが多いので良く分からん。イメージが伝わらないって困る。
帰宅後、ブログの記事を一つ更新。ポッドキャストでTBSラジオのストリームを聴く。You Tubeでチュートリアルの漫才を観る。20時前にドトールに入り読書。「生きて死ぬ私」という茂木健一郎さんのエッセイ。この人の考え方がすごく共感できる。21時からジムでランニング。時速8.5キロで30分走る。左すねと股関節が痛くなる。昔からのクセ。帰宅後、肉まん一個と炭酸水を飲みながらブログの記事を一本書く。24時には就寝予定。
新しいアイディアに出会った時や、自分とは異なる意見とであった時の思考の手段として、僕はいつもこのパターンを使う。"I don't know but.."
訳すと、「分からないけど、でも..」である。何が分からないかというと、それが正しいのか正しくないのかが分からないというのもあるし、大体、正しいとか正しくないなんて判断を行うことが適切なのかどうか分からない。ということなのである。こう思考することによって、まず、提示された提言や異論に対して、否定的な思い込みを持たなくて済む。それから、自分の意見をも客観的に捉えることができるようになる。
そして、but..の部分で新たな展開へと広げることができ、また、純粋に事実だけを捉えた議論に持っていくことができる。例えば、「お前はバカだ。」という意見があるとしよう。(まあ、通常なら感情が先走り、思考どころではないが、分かりやすい例として挙げた。)これを"I don't know but.."思考にのせると「俺がバカかどうかは分からない。大体、バカであるかどうかなんてことを問うこと自体も良く分からない。しかし、そうした意見があることは事実である。意見があるという事実と、実際に俺がバカかどうかは実は関係がない。」
例が悪かった。自分で書いていても全く説得力無しだ。(笑)
良い例が思いつかないが、物事を短絡的に判断するクセがあるのなら、このI don't know but..というのは客観性を持たせる思考のきっかけとしてかなり有効である。
今日は記念すべき日だ。転職をしないことを決断した日である。
単なる決断ではない。悩みに悩みぬいた末の決断である。ブログにも書いたが、いや、本当に辛かった。この辛さを誰とも共有できない辛さ、それが更に辛かった。しかし、この辛さを経験したことでひと周りもふた周りも成長できたと思う。他者が見てどうこうではない。自分の中で何かがパチンッと弾けた。そんな感覚である。
毎日の徒歩通勤で先日紹介したSteve Jobsのスピーチを聴いている。行きに2回。帰りに2回。計4回は聴いている。
頭に焼きつけてやろう。そんな気持ちで毎日欠かさず聴いているのだが、なかなか頭に焼きつかない。何を言っているかは良く分かるし、とても共感できる内容だが、いざ日常生活や仕事に入るとすっかりそのコンセプトが抜け落ちる。まだまだ、意識が足りないのか。
今やっていることは単なる一つの出来事である。それが今後どのような線になっていくかは分からない。線を予想して生きることは不可能だ。だから、今目の前にある点を生きるしかない。線を成すことを信じて。
失敗と思ったことが後の成功につながる話はいくらでもある。僕は逆に成功と思ったことが失敗につながることもたくさんあると思う。結局、失敗や成功という次元で物事を考えることでは人生は捉えられない。結果がどうであろうと、自分が素晴らしいと思えることをやり続けるしかに。素晴らしいと思うものは、好きになれる。好きになればさらに素晴らしさは増すだろう。
15分後に隕石が家に落ちてくるかもしれない。こうして日記を書きながら、心臓麻痺で一人寂しく死んでいくかもしれない。それが起きないと誰が断言できるのか。死を面前にすると、人の目など気にならないし、変なプライドなど関係なくなってしまう。そんな短い時間で実感がわかないなら、3ヶ月の命ですと言われたら、あなたはどうするか。芸人のカンニングの中島さんという方が白血病に伴う肺炎で亡くなったらしい。僕はその人のことを良くは知らないが、同じ歳であった。今、僕が彼のように死を目前にしたら何をするのか。
Steve Jobsのスピーチの内容を僕なりにまとめてみた。世の中に溢れる無駄な情報に踊らされ、人の目に萎縮して生きるが、本当にバカらしくなる。俺の世界は俺にしか分からない。だから、俺の人生は俺が生きる。そういうことなんだよな。
いろんな意味でバランスが取れてきたかもしれない。
仕事上では自分なりの考えの下に動いた結果、それ相応の形ができつつある。その結果、今の職場のリーダーにはとばっちりを与えてしまった。しかし、それは僕のせいではない。僕はやるべことをし、リーダーには時間的な猶予とデッドラインは与えられていた。そこを僕がぬかるはずがない。別に僕が偉いわけでもすごいわけでもないが、今のリーダーが僕の立場をどのようにハンドリングするかを見させてもらって、そして落胆した。やっぱり自分が動かなきゃ、自分の立場は守れない。
プライベートでは、ここ数年の間、僕の心をつかんで離さない女性に対して、その思いを伝えた。その思いを言葉にするのに、約5年かかった。
「好き」なんて大雑把な言葉では今の思いを表現できない。「付き合う」なんてスイッチをon、offするみたいな短絡的な関係性よりももっと違う何かを感じている。会って話をすると、何とも表現しがたい至福感を得る。また、そうした機会が得られると単純にうれしい。だからといって、どうしてよいかは分からないから、ともかくそれを伝えることにして、勇気を持って伝える。
大体、そんな内容だったと思う。
ただセックスの対象としてなら、どんな女性で構わないし、なんならお金を払って風俗にでも行けばいいと思っている。必要なのは「穴」なんだから。ただ寂しさを紛らわす存在としてなら、異性を問わず友達が居ればいいだろうと思っている。必要なのは存在する誰かなのだから。愛する犬の存在と、愛する恋人の存在との差は何なのか?それを納得する形で説明してくれる人がまだ居ない。
僕は自分にとって、その女性がどのような存在なのかを、言葉にはできない。彼女を所有したいという気持ちというか、帰属したいという気持ちが全くない。彼女が僕のことを好きだとか嫌いだとか、別にどちらでもいい。彼女が誰と付き合おうが勝手である。僕にとって大事なのは彼女の存在と、その存在の中にある彼女にしかない人間性である。それに触れることがたまにできれば、僕は満足なのだ。ただ、その存在がどのような存在なのかと質を尋ねられても、全くもって表現はできない。理性を超えた何かなんだろう。
まあ、どうでもいいことだが。
忘年会。新人のフットワークの重さにただただ落胆。いや、これは僕だけの考えかも知れないので、正しいとか正しくないとかの問題ではない。しかし、なんだろう。気遣いの一つもできない新人にかなり落胆した。
まず、幹事。まともな乾杯の音頭も促せない。そして締めもなあなあ。なんだ、この忘年会は!!!!!!こどもの集団か??????ホント悲しくなる。ビールは手酌。誰も今年の終わりの挨拶にも来ない。なんだ??なんだ??忘年会ってのはこんな気軽な飲み会なのか??
まあ、愚痴はこれまでにして、こうした単なる忘年会一つからも、今の組織の状態が手に取るように分かる。若いものは若いもので集まり、それで充分。歳よりは年寄りで集まり、それで充分。分断。
僕自身もその間を埋める役割を務めるべきだったのかもしれない。しかし、それ以前にそんな雰囲気さえない中で、僕が一人吠えたって寒いだけだ。僕だって、僕自身の立ち位置をふまえてしまう程の雰囲気。
職場の誰とも、同じ価値観が共有できない。ホント寂しい職場である。
なんだろうなぁ。まだふっきれない。何からふっきれないのかも定かではないんだが、今自分がするべきことがさっぱりわからない。
するべきこと、したいことがある時は、たいてい何かしらのイメージがパッと浮かぶのだが、いまだにそれがない。耐える時期なのかな。
人との対話が足りないのか。最近、めっきり職場でコミュニケーション機会が減っている。こちらから対話をしかけることも減っているし、対話をしかけられることも激減した。 対話のなかから案外大事なことが見つかるのかもしれない。
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