無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2003年02月28日(金) いきなり記念日/『なんだかコワレ丸』3巻(矢也晶久)/『デル・カント・バジェット』(坂田靖子)ほか

 三谷幸喜は一回潰れた方が勘違いが治るんじゃないかと思うが、でも治んないかもしれない。
 もう全く期待なんかしちゃいないんだが、でもどれだけヒドイものができるか気にはなる、平成16年度のNHK大河ドラマ『新選組!』のことなんだけどね、主役の近藤勇が香取慎吾だって。これ、どう考えても三谷幸喜の引きだよなあ。NHK、反対しなかったのか。それとも、近藤勇を筒井康隆の『わが名はイサミ』の線で描くつもりか。あるいは倉本聰版『浮浪雲』にするの?
 大河に限らず、テレビの時代劇がどんどん軽くなってく様子は、役者がいなくなってきてるんだから仕方がないことなんだけれど、それにしたって役どころをもちっと考えなきゃならないんじゃないか。
 沖田総司は藤原竜也、土方歳三が山本耕史、芹沢鴨に佐藤浩市。これがホントの新撰組だったら、内部崩壊していったのも納得できちゃうな(^o^)。
 だいたいみんな、殺陣ができるのかなあ。


 職場の若い子の一人が辞めることになったので、お別れに何かプレゼントを、と考える。
 仕事帰りに、博多駅で買い物をしようと思い、しげに「バス停で降ろしてくれる?」と頼む。
 「どっか出かけると?」
 と聞かれたので、隠さなきゃならないことでもなし、「ああ、職場の子にプレゼントでも、と思ってね」と言った途端、しげの声のトーンが急に、ズン、と低くなる。
 「……その子、なに? 特別な人?」(←セリフにトゲを付けて読んでください)
 「別に特別だとか、そんなことは何もないよ」
 「じゃあ、なんでプレゼントとかするん?」
 「したらいかんのかい。ウチを辞めるんだから、それくらいしても悪かないやろ」
 「じゃあ、アンタは辞める子がいたら全員にプレゼント贈るんね」
 「そりゃ、親しい人もいれば親しくない人もおるんやけん、贈るときもあれば贈らんときもあるやろ」
 「不公平やん!」
 「不公平って……どこが!?」
 「だって、オレにはくれんやん!」
 「オマエには関係ないやんか!」
 「だったら、『今度東京行く記念』でなんかくれてもいいやろ!?」
 「なんじゃそりゃ!?」
 つまりはただの子供っぽい嫉妬なのである。オトナだったら、こんなことは恥ずかしくてとても口にできるものではない。
 けれど、みなさんご承知の通り、しげという動物はマトモなリクツが通じる相手ではないのである。感情の赴くまま、欲望に身を任せて恥じることのないケモノなのである。それが証拠に、春先になると満月に向かってニャーニャー鳴いている(ウソ)。
 泣く子としげには勝てない(この二者、殆ど同義だと思うが)ので、博多駅の「GAMERS」で、「トロのEメールスタンプ」ってのを買う。よくわからんが、ハガキを送ると、本人のEメールアドレスをスタンプにして送り返してくれるらしい。誰かに「Eメール教えて」と聞かれたらスタンプを押すだけですむのである。便利なんだかめんどくさいんだかどっちかよくわからんが、しげはトロが好きだし、これでなんとか噴火も収まるであろう。
 でもこんなことでいちいちプレゼントなんてしてたら、何の記念で何をプレゼントさせられるかわからないのである。サラダ記念日どころかラーメン記念日もエビマヨ記念日もトウバンジャン記念日も作られてしまうのである。
 ロマンチシズムに見せかけたリアリズムって、女の得意技だよなあ(T-T)。これに反発できる男ってなかなかいないと思うけど、自信のある男性、どこかにいますか。


 しげ、何を考えたか、リンガーハットから餃子を山ほど買ってくる。
 「水餃子にして食いな」
 なんだか最近はしげがこうやって「買い物をしてきてくれる」だけで嬉しくなっちゃってるね。既に「料理を作ってくれる」なんてことは期待してない。
 でも、問題はその量だよ。山ほどって、ホントに山ほどなんである。ざっと見て、100個はあろうか。……明日にゃ東京に行くってのに、今日作って今日食えってか。食えるか!
 と言いつつ、頑張って半分食ったよ。言われた通り水餃子にして。
 で、しげはそれを手伝って食ったかというと、一個も食わないのだ。
 「だって、賞味期限切れてるし(だから安売りしてたのである)」
 ……ちょっと殺意を抱いちゃったんだけど、いけませんか。(⌒ー⌒メ) ピクピク。


 明日の上京の準備、なんとか整う。ビデオカメラの充電もオッケー。
 土産の類は極力減らしたが、それでも小さなカバンで四つほど。大きなのにまとめると重くなりすぎるのであるが、中間の大きさのカバンが見つからなかった。多分、押し入れのどこか奥の奥にでも隠れているのであろう。それを掘り出すほどの元気はなし。
 ヨナさんご夫婦にお渡しする予定の、栗本薫アーリーデイズの原稿コピーを撮りに、近所のセブンイレブンへ。一般的に彼女が知られるようになったのは、1977年に第20回群像新人文学賞(評論部門)を『文学の輪郭』で受賞(中島梓名義)、そして翌78年に第24回江戸川乱歩賞を『ぼくらの時代』で受賞してからだろう。けれど、それ以前、1976年に、探偵小説マニアしか読んでなかったと思われるマイナー専門誌『幻影城』で、彼女は第2回幻影城新人賞佳作(評論部門)を『都筑道夫の生活と推理』で受賞しているのである。
 有名になる前、彼女はこの『幻影城』新人作家が集まる「影の会」の紅一点として、エッセイなどを書いていたが、これらの殆どは雑誌に載ったきりで、未収録のままなものが多い(さすがにデビュー作の『都筑道夫』は『文学の輪郭』に収録しているが)。ヨナさんお二人は栗本さんのファンであるので(私は卒業しました。スミマセン)、今度お会いするときに持って行きます、と約束していたのである。
 しかし、たいして量はなかったんじゃないかな、と思ってたが、そんなことはない。影の会の会報だけでなく、毎月の「ミステリ遊歩道」と言ったミステリ時評など、書くわ書くわ、この人の旺盛な筆力はデビュー当時からだったのだなあ、と読み返して見て改めて感心するのだ。こんな人の作品を昔は全作読んでやろうとか考えてたんだからなあ。ついでに言えば、赤川次郎もデビュー当時はそんなふうに思ってました。二人ともそれぞれ軽く100冊くらいは読んでると思うけど、もうどれも中身は殆ど覚えてません(~_~;)。
 結局、コピーはひと束になる。かさばっちゃうし、こんなの持ってくのは逆に迷惑になるかなとも思ったが、あやめさんが「ほしい!」と仰ったんだから、頑張って重い荷物を抱えてもらおう(^o^)。
 ヨナさんきっと、栗本さんにお会いしたときに、「昔、こんなの書いてたんですねえ、『ミステリ遊歩道』とか」なんて言って、栗本さんを苛めるに違いない。♪(((#^-^)八(^_^*)))♪


 マンガ、矢也晶久『なんだかコワレ丸』3巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 急に始まっちゃいました「十二天将」シリーズ、つまりはコワレ丸が平安の世で使っていた「式神」十二人の封印が破れてが開放され、それを再び自らの式神とするべくコワレ丸がゆうりを巻き添えにして……と、展開は今まで通りのお気楽ギャグなのだけれど、これまでにも登場させてきたキャラ、全員をまだまだ使いこなせてるわけでもないのに、3巻目にして増やし過ぎてるよなあ。
 結局はこれ、コワレ丸とゆうりの関係だけをしっかり根幹に据えとけば、多少は話が横道にそれても構わないのだけれど、どうにも『うる星やつら』や『らんま1/2』以降の高橋留美子のぱたーん化した演出の悪影響が見えるのが気になるのである。最後には「巨大な敵」を出してきて、ゆうりがそいつに誘拐されて、コワレ丸が救いに行くなんて展開にはならんだろうな。十二天将もそのための伏線みたいに見えちゃってねえ、何となく興を殺がれてしまうのである。
 ……でも、式神が全員「女」なのはなぜ?(~_~;)


 マンガ、奥田ひとし『新天地無用! 魎皇鬼』4巻(角川書店/角川コミックスドラゴンJr.・578円)。
 OVA第3期シリーズが製作決定だそうである。もう第2期の途中から見なくなってるから、どんな展開になってるのかよく分らん(テレビシリーズや映画版とも設定が違ってるしなあ)上に、このマンガ版とのリンクもいったいどうなってるのやら。もともとはOVAシリーズの後日談ということで始まってたはずなんだけどねえ(だからマンガ中に「鷲羽と魎呼が親子」って設定が出てくる。テレビ版にこの設定はない)。
 この『新天地』のほうは、新たに多麻というキャラクターがレギュラー入りしちゃったんだけど、OVAのほうにも登場するんだろうか。それともまた世界が枝分かれしてしまうんだろうか。それとも「新」が付いてるのはもうパラレルになっちゃったって意味なのかな。
 実のところ、既にこのシリーズ、最終回なんて作りようがなくなっている。っつーか、OVAの第2シリーズも、テレビの「新」も劇場版も全部「番外編」的な作りになっちゃってたしなあ。本気で「最終回」にするんだったら、「結局天地は誰とくっつくか」ってことを描くしかないんだが、今更それやっても無意味だし。だもんで、このマンガ版の方も、まるで完結編をほったらかして延々とインサイドストーリーを描き続けた某マンガのように、いつ果てるともしれない「日常の非日常」を語り続けてるんである。今回は魎呼の話、次は阿重霞、次は砂沙美、美星、鷲羽……というローテーション。いわゆる「偉大なるマンネリ」ってやつだが、それにしてもそろそろ限界じゃないのか。
 だってさあ、砂沙美が未だにサンタを信じてるっての、話としてはいくらなんでも作りすぎじゃない?(^_^;)。


 マンガ、坂田靖子『デル・カント・バジェット』(エニックス/ステンシル・コミックス・580円)。
 こういう絵が描けたらなあ、と思う作家さんというのはそう多くはない。坂田さんのマンガを知ったのは多分『バジル氏』が最初だと思うが、そのときに「ああ、こういう絵が描けたらなあ」と思い、実際、マネをしてみたこともある。私の描くラクガキのベースはよく高橋留美子ではないかと言われるが、坂田靖子も実はちょっとだけ混じっているのだ。もちろん、吾妻ひでおとか石森章太郎とか永井豪とか、いろいろ微妙に混じってる人はたくさんいるんだが。
 率直かつ客観的に言って、坂田さんの絵は、決して上手い部類には入らない。しかし、マンガの絵としてはとっても魅力的だ。
 絵がどんなに上手くても、それこそ細密画のような絵を描く人のものでも、それだけでは「マンガとして」惹かれるとは限らない。いしかわじゅんが『アキラ』以降の大友克洋を「イラストレーターとしてはいいけどね」と語るのも分るのである。絵としてはヘタでもマンガ表現としてはすばらしい、というのがマンガとしての命なんであり、青木雄二がすばらしいのもそのためであるのだ。
 で、青木雄二と比較しちゃうのは坂田さんはちょっとイヤかもしれないが、坂田さんの絵、線は単純だしよく歪むし、人物の描き分けもうまいこといってないのだ。なのに、その描き分けのできてないはずのキャラの区別が、坂田さんのマンガだとちゃんとつくのである。『カレカノ』とか『フルバ』とか、人物が増えるたびに誰が誰だかどんどんわからなくなってきてるのに、坂田さんのマンガの場合にはそれがない。
 それはつまり、坂田さんがちゃんと「マンガ」を描いているからである。「キャラクター」が立っているからであり、「ドラマ」をキチンと描いているからなのである。

 アンドレア・デル・カント。
 宮廷の新任財務長官である(哲学者のエマヌエル・カントとは別人)。
 有能なリストラマンとして大抜擢された彼の行く手を阻む者は、なんと城の屋根裏に住みついていた一匹の鬼。実直を絵に描いたようなカントの命令のもと、財政緊縮のために兵舎を追い出されてきた近衛師団に、暗くてカビだらけの心地よい住みかを大掃除されて大立腹。なんとしてもカント長官を失脚させようと、聖騎士団長でカントに恨みを持つペーターを操って、彼を暗殺させようとするが……。
 筋だけ書くとシリアスっぽいけれど(でもギャグマンガでもない)、坂田さんの雲の上に乗ってるような絵柄だと、斬り合いのシーンですら巧まざるユーモアが漂う。鬼の陰謀を阻んでいるのは、カントの実力ではなく、坂田さんのこのほんわかした絵柄であろう。
 それは、最終的に、鬼を倒したのがカントでもなく、ペーターでもなく、カントの親友の軍司令官でもなく、「あの人」だったということでも証明されていよう。読んでない人にはなんのことかわかるまいが、イヤ、実に人を食った結末なのですよ。

 お江戸のほのぼのコメディー、染問屋のお嬢さん・お染さん(ストレートなネーミングだ)を主人公にした『卍急須』『両国サマー・デイ』『紅葉マンジュウ』の三本と、平安時代の貧乏姫をなんとかして嫁がせようとする乳母の奮戦を描いた『たぬき姫』も同時収録。女の子が主役になると、坂田さんも少女マンガ家なんだなあ、という感じがしてくるね。いや、失礼(^_^;)。
 ああ、でも「悪い評判が立った娘はオタク男に押し付けよう」ってのはちょっとキツイぞ。乳母の「部屋の中まで入っておいてコレクションの解説かいっ! キスくらいしろよおめーは」って憤り、そりゃわかるけどさあ、オタクにゃキスよりナニより大切なことってあるのよ。


 DVD「押井守シネマ・トリロジー/Dog Days After』。
 ボックスの特典ディスクがこれ。
 実写3作品のCD付き、映像特典も予告編や静止画資料だけでなく、新たに撮り降ろした「女たちの押井守」を収録。すなわち、これまで押井監督の実写作品にヒロインとして登場してきた兵藤まこ、鷲尾真知子、石村とも子、蘇億菁(スー・イーチン)の4人へのインタビューと、ロケ地となった山形や台湾を再び彼女たちに語ってもらうというなかなかの企画モノ。もっとも押井守嫌いには、女優さんたちがみんなで押井守を誉めたたえてるので、悔しくてハラワタ煮えくり返る思いをするかもしれない。
 女優さんたちが喜ぶのは当然である。自分が役者として表現したいもの(それは必ずしも自らの美貌ではない)、あるいは自分は気づきもしなかった魅力、それを押井監督が彼女たちのカラダから、引き出し、映像として定着させた。
 映画はクローズ・アップの芸術であると言われる。『紅い眼鏡』も『ケルベロス』も『トーキング・ヘッド』も、ドラマ的には極めて演劇的構造を持っていながら映画たりえているのは、彼女たちのクローズ・アップによるところが大きい。
 押井守が彼女たちを撮るにあたって、できるだけ「近づかないようにしていた」というのは一つの見識である。押井守の目はまさしく「覗き」の視点で彼女たちを捉える。ヒロインたちのカメラを意識せぬ目、自分が覗かれているとは知らぬ目、だからこそ彼女たちの瞳は何か一つの意味に固定されないまま、喜びも憂いも全てを含んでいつつ、また何も見てはいないようなあるやなしやの幽玄の美をも表出する。
 こういう絵が撮れりゃあ、どんなに「リクツっぽい」だの「同じ話ばかり撮ってる」だの批判されても、そんなの屁でもない。押井嫌いのそこのアンタ、文句があるなら女優だけ見ときなさい。映画には「そういう見方」もできるのだ。
 押井さん自身は、このインタビューで自分のことを貶してほしかったらしいけれど、そうはならなかったみたいね。ホントに貶されると思ってたのかなあ。兵藤まこには「君のためにこの映画を撮ったんだよ」とか言ったらしいし。こんなこと言われりゃ、女優さんはそうそうそのカントクを貶せるものではないよな。意外と予防線張ってるぞ、押井監督。
 ああ、でも、同じセリフ、オレもしょっちゅう劇団の女の子に言ってら(女房含む)。精神構造が似てるのか、もしかしたら(-_-;)。

2002年02月28日(木) つっよいっぞガ〜メ〜ラ〜/『モーツァルトは子守唄を歌わない』2巻(森雅裕・有栖川るい)ほか
2001年02月28日(水) せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)