考えても、考えても。 - 2004年04月09日(金) 立場の違う人たちが お互いを口撃し合うばかりの 途方もなく大きな問題を考えるとき、 思考はいくつかの異なる結論への 岐路を明確にするばかりで 結局どれが「自分の思うところ」なのか分からず まして「正しいのか」など、到底判断できはしない。 立ち位置「命は尊いものなのだから」 着地点 「何があっても3人の命は救わねばならない」 立ち位置「彼らは危険地域と知っていて行ったのだから」 着地点 「自業自得と言われても 仕方のない面があるのではないか」 立ち位置「やはりイラクの人々に 自衛隊は受け入れられていないのだから」 着地点 「この機会に撤退すべきだろう」 物事にはいろいろな側面があって どの着眼点から見るかによって辿りつくところは違ってくる。 しかも、スタート点が違うのだから 言い争ったって平行線を辿るしかないのに なんでそこでエキサイトしてるのか分からない。 そして、切れ切れに伝えられる個々の立ち位置と着地点は どれもこれも、欠落してる部分があるように思えるし 悪いことに、どれもこれもある面では正しいと思えるのだ。 考えても、考えても。 八方丸く収まる解決策など見つかるはずもなく それを可能にするのは偶然か運か奇跡。 しかし、考える。 新宿で声を枯らして政府やマスコミを罵り PEACE!と書かれた旗を振って署名を募る一群を見ながら。 人の命が尊いのは分かっている。 でも、危険地域と分かっていて、 日本に好意的な人々ばかりではないと知っていて それでも自主的にかの国に赴いた3人であるのは事実。 だから仕方ないよね、と言う人にも賛同しかねるが、 自分の家族だと思ってみろ、そんなこと言えるか、と 声高に叫ぶ人にはもっと賛同しかねる。 閉鎖する支店の残務整理をしていた ワールドトレードセンターで命を落とした方々の 家族になったつもりで考える。 避けられるテロに巻き込まれに行って 国に助けてもらえるなんてずいぶんと恵まれているな、と 考えてしまうと、思う。私だったら。 自分が当事者だったら、と考えてみろ、というのは 一見、想像力豊かな考え方のようでいて、 実は非常に視野の狭い考え方だ。 当人か当人の家族の気持ちになってみることしか 想定していなくて、しかも、必ず命を救いたい方向にしか 行き着かないことを前提としているからだ。 残念ながら私だったら、 楽に殺して欲しいとは思うけど 助けてもらったり、要求に応じて欲しいとは思わない。 辛くても、悲しくても。 何かあったら悲しむ両親がいるから 自分だったら危険なところへは行かない。まず基本。 どうしても行くべきだ、という気持ちが勝ったら 葬式を出してもらってから行く。 その覚悟が自分で出来ず、 親も説得できないのであれば行かない。 こうなることが分かっていったのだから うちの子供のことは考慮不要、と 親が言い切ってくれると信じられないうちは行けない。 そう言える親はいない、と言われるだろうし、 まあ、おそらくそれが真実だろうと思う。 それでもそう言って欲しい、私が行くことを決めた日には。 想像してみよ、というのであれば、 さまざまな立場の人の気持ちになってみるべきだ。 非難を浴びている自衛隊員の家族の気持ちになったら? 危険ではないはずのところで テロに巻き込まれた人の気持ちになったら? 仕事とはいえ復興のために貢献したいと 必死で働いている自衛隊員の気持ちになったら? しかし、それは実は、最終的には何の意味も持たない。 所詮、人の気持ちは分からないからだ。 自分だったらどうかな?という シミュレーションにしかならないからだ。 いろんなことを言ったところで 正しいかどうかに関わらず 結局はどちらかを諦めるしかない。 3人の命を救うことは テロという手段が、 誘拐や脅迫という手段が、 有効であると認めることになる。 なにか意見を通したかったら 誰かを殺そうとすればいいことになる。 テロは駄目だといっても、罰しても教えても、 殺そうとすれば意見が通るのであれば実行はなくならない。 声高に自分の意見を叫ぶ人たちは このことは分かっているはずなのに どちらかについてしか発言しないから意味をなさないのだ。 命を救うべき、という人は、 では、テロを是としてしまうことについて 有効な善後策を提示するべきであって 分かりきった命の尊さや人情に訴えているべきではない。 テロに屈するべきではない、という人は、 命を諦めざるを得ないことについて 万人は無理としてもせめて大多数を納得させられるだけの 持論を説明すべきであって 言葉を濁したり英雄扱いしてその場をしのいぐべきではない。 そして私はといえば 善後策も、持論の説明も思いつかないものだから 自分だったら助けて欲しくないので、などと 説得力なく考え続けることしか出来ないのだ。 ...
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