きっと どこかで
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昨日、職場の中四国実務担当者研修会が、高知市で行われた。高知へは、今回は、高速バスで行った。高知市へ行く場合、高速バスの方が、乗り換えもないし、JRで行くより揺れないということだったので。ただ、2時間乗りっぱなしというのに、パニック障害の持病を持つ私としては、ちょっと不安もあったが、最近は、予期不安もあまり感じないし、あってもしばらくすれば収まっていたので、大丈夫と思えた。
バスにはトイレもついている。行く途中で、利用させてもらった。ただ、バスのトイレは狭かった。
バスは、完全自由席である。バスの便も、席も、予約は受け付けていない。往復の割引の券を買うと、どこから乗って降りてもかまわない。
普段はそれでもいいんだろうが、その日は、高知でよさこい祭りがある日になっていたので、混んで乗れなかったら困るなあと思い、安全策を採り、始発バス停から乗り、バスの便も、ギリギリより1便早いのにした。
これなら、まあ、なんとか大丈夫かなと思って。
差て、当日のバスは、私が乗車したのは、それほど混んでもいなかった。始発のバス停からでなく、家から近いバスターミナルから乗っても、大丈夫だったようだ。
研修場所に近い、はりまや橋バス停で降りて、そこから、路面電車に乗った。まだお昼前頃だというのに、よさこい祭りの踊りの格好をした人達が大勢乗り込んでいた。お昼からでも、踊っている場所があるのかな、と思った。その日は1日どこかで踊っているという感じなのかな?全国的に有名な祭りだから、町の人達の盛り上がりようも違うのかなと思った。(私の地元の祭りと比べて)
そう、研修会の後で、皆でよさこい祭りを見に行こう、ということで、この日にしたんだった。
研修会の方は、議題がいろいろ出ていたが、新しくなった、業務用パソコンの不具合の話、個人情報保護法が施行されてからの各支部の対応などだったかな。
そういう話を聞きながら思ったことは、なんだかんだあるけど、私の今の職場は(支部)働きやすさからいうと、いいほうかな、と思った。
忙しい時中心に来てもらえるパート職員の方が一人いるし、今回、新システムの不具合の為に、パソコン処理に時間がかかっているんだけど、初めて、人材派遣会社から、派遣社員の方に2週間ほど来てもらって、仕事を手伝ってもらえたし・・。
でも、子育てもしながら働くとなると、このようなことをしてくれないと、とてもじゃないが、私など、勤め続けることなど出来ないと思う。基本的に、定時で帰れるところじゃないとね。
他の職場は、残業をしていたり、早朝出勤をしていたりと、工夫しているようだった。(以前、私もそうしたことがあったけど)
普段は一緒に仕事をしていない人達の集まりである。他の支部の方々の大変さを聞いても、自分のところと関係ない話であれば、あまり関心を持たない様子、自分の所の大変さを訴える人達の多かった今回の研修会・・。それぞれ、それぞれの立場で、自分の身を守るのに、精一杯という感じだ・・。なんだか、話していて、寂しいものを感じてしまった。
まあ、それだけ、自分の大変さがすごいということなのかもしれないけど。
私の場合は、去年の方が大変だったから・・。母が具合が悪くなり入院して、ガン告知され、余命わずかと言われ・・。
忙しくもあったし、それよりも、もう死ぬかもしれないという人が側にいることの精神的な大変さというのがあった。
それに比べれば、今年の仕事での大変さなど、それほどでないと思える。
さて、よさこい祭りの方は、懇親会が終わってから、出かけた。商店街のアーケードの中を、踊り歩いている。衣装も派手、踊りもテンポも早く、振り付けもどちらかというと派手、パワフル、という感じ、音楽は、それぞれのグループごとに違っているようで、音楽を流すためのトラックをそれぞれのグループで持っている。
短時間しか見れなかったので、サワリをちょっと見れた、というくらいのところかな。
さて心配したパニック障害の症状の方は、今回は全く症状が出なかった。だんだんよくなってきているようである。
4月、6月と同僚が退職している。
割と長く勤め、この前の職場の20周年式典の時に、勤続表彰ももらっている方々である。
一人は、結婚して我が子と同じ年の子供もいる人である。二人目が出来てから、体調がよくないという話を聞いたことがあった。挨拶状には、転職したかのように書いてあったが、後からきた手紙では、「しばらく家でゆっくりする。」というようなことが書いてあった。まあ、小さい子供がいるので、ゆっくりというわけにも行かないのだろうけど、働きながらよりは、ちょっとゆっくりしているかもしれない。
もう一人は、独身で、私が出産後に職場復帰した時話したのでは、「もう年頃なので、結婚を考える年なのよね。」というような話をした記憶がある。それからでも10年はたっている訳で・・。未だ独身を通しているんだなあと思いつつ・・・。
もう、この職場ですることはやり終えた、というところかもしれない。私もそうなんだけど。
ただ、子育てしながら仕事するにはちょうどいいかなと思って続けているところである。
先日、いい条件の求人広告を見つけた。私の持っている資格も、今までしてきた仕事の経験も生かせそうなところだった。心がゆらいだ。その求人広告は今も持っている。
でも、今の仕事をやめるのは、やはり惜しい。それなりに認められてきているなあと思えるから。あと、給料は今と同じ位だった。
今の仕事を捨ててまで変わる勇気は持てなかった。長年やって、やっと今の状態になった訳だから。
今の職場に就職した時は、何度か転職した後で、もうここをやめたら行くところはないだろうと思っていた。
それが、長年勤め、ちょっと自分に自信がついてきたんだろう、こんな気持ちになれるのは。
まあ、今の会社がある限りは勤めようかと思っているけど。
母の関連の話はちょっとお休み。この間にも、どんどん、月日は経ち、いろんな出来事が起こっている。
小学校5年生の我が子達、1泊2日で、学校行事の宿泊学習に出かけた。準備するものがたくさん。2日に分けて、買いにいった。なんせ双子なので、二人分いるので、量も多く思える。(いつものことだが)
一人は、新学期早々、ちょっと気になる変化があり、担任の先生とも話をしたばかり。先生からは、お母さんの言われるとおりです、とのこと。何かというと、朝、登校する時、ゆっくり、帰りも、どうも遅いようだ、宿題はしているのかどうか、まず、きちんと机に座って授業を聞いているのか心配な様子。
実際はというと、机にはあまり座っていない様子、朝も、まっすぐ学校へは行っていないよう、帰りも、授業が終わってからしばらく学校に残っている様子、宿題もしていないほうが多いとのこと。
対策について、先生に、この前の日曜の参観日に時間を作っていただいて、話し合いをさせてもらった。
まあ、いつもの結論だけれども、長い目で見て指導していきましょう、ということになった。今の担任の先生も、前の担任の先生から話は聞いているから、ということだったし、なにより、我が子のことを理解しようとしてくれている様子が伺えて、この先生にはまかせても大丈夫かなとその時思った。
その時にも、宿泊学習のことは心配しているんです、という話だったので、どうなることかと思っていたのだが、学校側からは、参加できないというような話は、こちらにはなかったので、参加させることにした。
宿泊学習から帰ってきた我が子、いろいろ新しいことがあったのがめずらしかったのか、いろんな話をしてくれた。
自分を自慢するようなことはしない、双子のもう一人が、がんばっていたんだと、いうような話をするような子供。
旦那も心配していたのかとおもったが、宿泊学習の日、家に帰ってくるなり、学校から電話がなかったか、と私に聞いてきた。電話はなかったのだけど、これも後から聞いた話だが、旦那が家にいる日に担任の先生から電話があり、手に負えないような場合は、迎えに来てもらいます、というような(?)話もあったらしい。校長先生は、親に来てもらっても、というような話もしていたらしいが、担任の先生は、それでは、この子のためにならないと断ったとか・・。
実際はというと、全く手をとることもなく、スムーズに集団行動がとれていたとか・・。先生も、この子もその気になれば出来るんですねえ、これで、一つお子さんも成長したんでしょう、と言われ、私も、そうだなあと思った。
他の子供で、もっと手のかかった子とか、いて、そちらのことを気にしていたら、最後の方は、我が子のことなど、すっかり忘れてしまってました、と担任の先生は笑って電話して来られた。
それを聞いて、我が子もがんばったんだなあと思った。
担任の先生も、前もっていろいろ心配していたのは、全くの杞憂だったというようなことを言われたが、みんなが気にかけてくれていたから、ここまで出来たのではないかと思った。
また一つ、出来ることが増えたね、我が子・・・。
さて、もう一人の方は、疲れたのか、帰ってきた日は着替えもせず、ぐったりして、夕食の途中で眠ってしまった。この日は、習い事があり、その後の夕食だったので、遅くなってしまったこともあり。
この子は、いろんなことを頑張っているが、頑張りすぎて疲れてしまわないかと心配だ。身体も元々、もう一人と比べて丈夫ではない。
優等生ではあり、親としては、将来に期待の持てる子供ではあるのだけど。
ただ、野心家でないので、ちょっと安心はしているが。人に負けたくないと頑張っているわけではないので・・。
なにはともあれ、無事済んで、親や先生は、ほっとしているところ、子供達は、楽しかった思い出が残ったようで、よかった。
続きを書くのが遅くなってしまった。なかなか、PCに向かう時間がとれないもんで。
前回で、母が死去したところまで書いたので、その直後の事を中心に書こうと思う。
実母が死去して、まずは、病院を出ることとなった。荷物をまとめ、一旦家に戻ることになった。ただ、母は、家には戻らず、葬祭場へ行くこととなった。通夜などは、家で行わない為。
私達は、電話を受けて駆けつけてくれた旦那の車に荷物を積み込み、実家へ向かうこととなった。父は、葬祭場へ。
子供達と、夕食を済ませてから、葬祭場へ来るように言われた。親族控え室の欄に、我が家の名前があり、そこへ行くと、もうほとんどの親族が集まっていた。今晩はここで過ごすのかと思っていたが、子供がいるので、それを連れて家に帰るように父に言われた。旦那が残ってくれると言うので、お願いして、子供達と家に帰った。
死亡時間が夕方であったため、通夜葬は明日、行うこととした。
次の日、子供達はいつもどおり、学校へ行かせることとした。職場へは、通夜や葬儀の日取りなどを知らせた。
葬儀は、母が作ってくれた、和服の喪服で出席することとした。その服を出して点検したり、また、たまっている洗濯物などを干したりしていると、電話がかかってきて、「早く葬儀場に来い」とのこと。
お昼ごはんを食べてから、向かった。父親と、父親の兄弟にあたる方が段取りをしてくれているようで、私が特に何かしなければいけないということはない。
通夜葬をする為、子供達を迎えに、また一旦家に帰る。
納棺に子供達も立ち会わせる為、予定より早めに、学校から帰らせることとして、学校まで子供達を迎えに行った。
通夜葬も本葬と同じような感じで行われた。旦那のお母さんや兄弟が出席してくれていた。
通夜葬が終わった後、他の親族の方が控え室に残っている中、子供達を連れて、また家に帰った。
子供達は家で寝させた方がいいという判断の為。
2005年05月14日(土) |
実母死去その日(長い一日その1) |
私は、その日から、2泊3日出張の予定を、前日にキャンセルし、仕事も休んで、母に付き添うこととした。
前日も、危ないと呼び出され、病院に行ったばかり。朝、病室へ行ってみると、血圧が下がり始めていた。尿も、きのうから全く出ていない。がん細胞が膀胱付近を圧迫している為、出ないのだ。朝、付き添いを父と変わるからという話をして、父には、家に帰って、ちょっと休養をとってもらうつもりだった。(まさかその日に亡くなるなど、まだ思っていなかったので)
お昼頃、母の病院の近くに勤めている、妹(私の)が来た。 また、自分もがんで、自宅療養中の、おばがお見舞いに来てくれた。
妹には、尿がもう全く出ていないこと、血圧が下がってきていることを話した。危ないのかもしれない、とはなんとなく思ったが、考えたくない心境だった。
お昼すぎくらいから、血圧が少しづつ下がってきていた。4時くらいに、担当の医師が、危ない症状が出ているので、家族に知らせるようにと言われた。
父からもらったリストで、公衆電話のところに行き、順番に電話をかけて行く。
その電話をかけているその時、担当医師が私のところへ近づいてきていた。 電話をするのを一人終えた後、一言、「たった今、息をひきとりました」・・・。
びっくりして、思わず受話器を落としそうになったが、「そうですか・・」というだけで言葉が出てこない。
信じられず、一旦母のいる病室へ戻る。「ほら、もう息をしていないでしょ」確かに。顔の色も一気に、白くなっている。死んだ人の顔を何人も見ているので、そうなのか・・と思った。私は、母は、やっと楽になったんだろう・・と思った。
そうだ、今の連絡を、もう一度しなおさなくては、と思った。父も妹ももう出かけたらしく、電話が通じない。そうこうしているうちに、父や妹がやってきた。もう亡くなったことを伝えた。
主だった親類には、電話で連絡。旦那は、すぐに病院に来てくれた。夕方だったので、子供と一緒に、病院へ来た。
母は、もう自宅へは帰らず、葬儀社へ行くという話になっていた。父が、葬儀社へ、連れて行ってもいいか、確認の電話をした。葬儀社から、迎えの車がくるらしい。
母の荷物があるので、手分けして持って帰ることにする。
そうこうしているうちに、母の弟にあたる方(おじ)がやってきた。近くの職場に電車通勤している。
葬儀社から、迎えの車が来て、病院の方から、葬儀社の方へ、母の引渡しが行われた。そして、お世話になった、担当医師の方々、看護師の方々へ、お礼の挨拶。私は、よくしてくれたと思っているので、ありがたいなと思っていた。もう、ここに来ることもないのだと思い、最後の挨拶、という気持ちだった。引渡しの時は、担当の医師の方も立ち会うのだなと思った。それが、最後の誠意なのかなと思った。
私達家族は、母の荷物を自宅に持って帰り、食事をして、その後、葬儀社へ行くということとした。
まず、職場の上司に連絡。とりあえず死亡したという連絡のみだけど。詳しいことが決まったらまた知らせてくれと言われた。何かしてくれるつもりなのかな、と思う。
私は、とりあえず、これからしなければいけないことを考えていて、母の死について、考える間はない状態だった。
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