今更ながらも遅いながらも新年会。 本日は学科の友達と梅田で飲みました。 場所はいつものスーパー百番。
ほとんどの同期は学生生活残り3ヶ月。4月から社会人。 ということで、皆々様の新たな門出の新年をみんなで祝おうということです。 久しぶりに馬鹿騒いで楽しかったなぁ。
学部で卒業して社会人3年目を迎える上山と、2年目を迎える備前も参加でした。 上山はあい変わらずナンセンストークしてたし、備前もあい変わらずオドオドしてたので、 「社会人になったからってそんなに変わらないんだろうな」って思いました。
だから、4月から予測不可能な未来が待ち受けているけれども、少し勇気が沸いてきました。 「上山はいいとして、備前ですら社会人が出来るなら、俺が出来ない訳が無い」 っていうか、 「備前が出来るなら誰でも出来る。元気があれば何でも出来る」
2002年01月17日(木) |
辛さ×10倍 vol.2 |
さて昨日の続きになるが、辛いというのはかなり曖昧で、あやふやで、主観的である。
それらを「辛い成分」と決めてしまうのはおかしなことであるのだ。 そのおかしさを巧く描写した文献があったので、下に示しておく。 ----- A君は「αという成分だけ辛いと感じる」 B君は「βという成分を辛いと感じるが、αは辛いと感じない。むしろ甘いと感じている」
こういう状態があれば、αとβは「辛い成分」に入れていいものかわからない。 リンゴとハチミツを入れたら本当にカレーが美味しくなるのか!???? というぐらいわからないのだ。 (「辛さについての空騒ぎ」著者:カーリー・バートモン) ----- そんな状況だけど、この×何倍という表示はかなりウケがいいらしく、 今では×100倍というのですら見かけるようになった。 しかしながら、100倍までくると辛さがまったくもって全然イメージできない。 はっきり言って×100倍という表示が意味をなさないでいる。
クイズダービーの最後の問題で、大橋巨泉が 「倍率ドン!さらに倍」 と言って、井森みゆきが30倍になったりもしたが、 あの井森みゆきですら高々30倍であって、100倍にはならなかった。
あれはただの1クイズ番組だったけど、僕達はあれから何かを学ばなければならないと思う。 繰り返すが、かの井森みゆきですら、100倍にはならないのである。 まぁここまで言えば、僕の気持ちが君達においおい伝わっているだろう。
むろん当然ながら今日の晩御飯に「ご飯?パン?麺?」で、迷ったなら、 「三択の女王 竹下景子 に3千点」 で決めてもらいましょう。
2002年01月16日(水) |
辛さ×10倍 vol.1 |
カレーの辛さを表す時、甘口・中辛・大辛などがある。
最近では「辛さ×10倍」などといった表示を見掛ける。
しかしながら、この辛さというものは主観であって、数値で測れるはずが無い。 それを無理に測って、×5倍だの、界王拳10倍だの、と言われても説得力は無い。
でもカレーを提供している店や、会社の言い分としては、
「我々は人が辛さを感じる成分が数値的に何g入っているかで辛さを決めているのです。 まず、仮に辛いとされる基準が「辛さ成分5g」である時、 辛さが知りたいカレーの辛さ成分が50gなら×10倍となる訳です。おわかり?」
そんなもの解る。理論もまっとうだ。 しかしだ。やはり「人が辛さを感じる成分」というのが、 あまりにも不確かで、あやふやで、主観的なのだ。
当たり前だが、界王拳に成分というものは無い。 だから、悟空が「界王拳3倍」と言ったところで本当に3倍かどうかすら怪しいものだ。 もしかするとはったりかもしれない。
「界王拳4倍だー!」と叫びながら、実は「3.2倍」くらいかもしれない。 計算高く「0.8倍」分も嘘をついているのだ。 純粋無垢の悟空であっても、真実を見極める時は疑わねばならない。 そんな時代さ。
2002年01月15日(火) |
パッチ(別名:ももひき) |
1月2月になると町のパッチ屋は大忙し。 朝も早くから生地からパッチを製造する機械がうなる。ウォ〜ン。
全国のパッチの82%を生産しているその町の入り口には 「パッチの町にようこそ」と書かれた看板がある。 「パッチ」の文字の上には、小学生のいたずらであろう片仮名で「ア」と書かれている。 即ち、「アパッチの町にようこそ」となっている。
「アパッチ」って、ジェロニモの事なのか、ケイジが主演してる洋画の事なのか、 アパッチ野球軍の事なのか、全く解らないけどここはひとまず穏便に。
友人のフクイは一浪のため、僕より1歳年上だ。即ち25歳。彼は言う。 「この歳でバイク通学だとパッチが手放せないね」
ごもっとも。 僕もバイク通学だけど、まだ24歳のため、未だパッチは使用していない。
しかしながら、25歳になってもパッチは使用しないつもりだ。 もし25歳で既にパッチを使用してしまったら、 この先80歳まで生きるとして、55年間パッチを履かねばならない計算となる。
これでは田舎の親戚のパッチ屋のおじさんが「儲かる儲かる」と嬉しがってしまう。 それは口惜しいからまだ我慢する。
だがだがだが、後輩の中面は23歳だというのに、パッチを既に使用している。 「お前23歳でパッチは早いだろ?」と言うと、 「いいえ。僕は21の時から履いてますよ」と居直られた。
話は変わって、フクイに、「実は力道山もパッチやろ?」と言うと、 「あほぅ!あれはレスラーパンツや!」と教え諭された。
「でも、三木道山は"一生一緒に居てくれや"、やろ?」 と言うと、フクイは何も言わなくなった。
何も言わないから自分の世界に入り込む。むむむむむ。 レスラーパンツとパッチの差は解るとしても、タイツとパッチの差は難しいな。 でも、全身タイツはあっても、全身パッチは無い。 その辺に答えがあるのかもしれない。
でも、パンストとタイツの差も難しい。 たぶんだが、「生地の厚さ何ミリからタイツ。厚さ何ミリまでパンスト」 というような規定があるのだろう。
でも実はこれらに規定なんて無くて、生産された時に決まっているのかもしれない。
「これはパッチ」と決めて生産されてしまうと、「パッチ」になってしまうように。 「人間」で産まれたら「人間」で、「超人」で産まれたら「超人」であるように。
ウララララ〜
2002年01月14日(月) |
仮定:もしアメリカが敵で日本が戦争状態になったら |
日本人は協力してアメリカに立ち向かえるであろうか?
答えを否。即ち「立ち向かえない」として想像を進めよう。
日本人は近所の人すらも信じあえずに、家に閉じこもってしまう。 常識がイカレタ奴や自分を恨んでいる奴に殺されてしまうんではないかと周囲を疑って、 自分を守ることしかできない。家族ですら信じ合えない家庭も存在するだろう。
ニュースなどもまったく放映されないほど機関が麻痺してしまう。 自分の命をかけてまでやるべき価値ある物など何も無いと信じて、 自分の命を守るばかりで、尽くそうという気持ちなんて誰にも無い。
一部の心有る日本を思う人達が、「今こそ力を合わせる時だ!」 と叫んでも、自分だけの安全が欲しくて自分だけが可愛い日本人の心には響かない。
日本人が一致団結し、アメリカに立ち向かうことなど想像しがたい。
そんな日本内は、内紛状態。 犯罪+強盗+強姦なんでも有りの世界。
アメリカのミサイルで舞い上がった砂埃や粉塵で空は一面黒い闇。 そこには混沌と混乱と狂熱だけが存在する。
そんな日本社会で良いのだろうか?
当然これはかなり偏った想像であるし、ありえないことだろうけれども、 言いたいことは、こんな悲惨な状況を少なからず想像出来たりもするってことかな。
日本なんて、お金だけばらまいて、他国に良い顔だけして、まるでスネオである。 ジャイアン(アメリカや中国)の顔の様子を見て意見を変えてしまうようなスネオである。
けんかに負けてもいいから筋を通すのび太のような気持ちが欲しいものだ。
本気で泣ける時って、
試合で勝ったなど、自分が認められて嬉しい時と、 自分では想像できないくらい口惜しい思いをした時と、 自分にとってとても大切な人が死んでしまった時と、
それぐらいしかないと思う。
映画で泣くことや、恋愛ごとで泣くことは、 所詮は、無理したり、計算したりしてると思う。
2002年01月12日(土) |
言いたくも無いし、言わされたくも無い。 |
舞台に用意された綺麗な言葉は存在します。
しかし、現実の社会ではそうはいきません。
みんながみんなドラマチックな最後を期待しても、言葉はそんなに巧く出てこないし、 お互いが考えている事など、現実的で俗っぽくて計算高いものなのですから。
泣き叫んでも、客観的にそれを見てる自分が居るから恥ずかしい。 そんな感情って誰しも持っているものだと思うのだが。
ドラマの最後のような決められたストーリーの最後なんて要らないな。 自分だけのストーリーがあればいい。
感動する言葉を狙って言いたくない。 言いたくも無いし、言わされたくも無い。
そんな創られた言葉は、所詮計算し創られたもの。 ただ素で出てきた、汚く俗な言葉が意外に心を打つものだと思う。 言った本人が全く覚えていないような言葉が。
男が女に言うせこい言葉、
「すげぇおれかっこ悪いかもしれないけど・・・」
「おれとても不器用だから・・・」
こんな言葉を男が言いはじめたら、女の人は身構えましょう。
概して男は自分でかっこ悪いと言っておきながら、素直に気持ちを出している自分を、 「俺ってカッコイイんじゃないの」と思っているのです。
男の言葉など全て計算されたものなのです。 こんな僕の言葉ですら計算されているものなのですから。
女の人は、男の言葉に夢を見ないでおきましょう。 男のやっていることだけで評価して、それを信じましょう。
昨年の2月から書き始めた日記も、もうちょっとで1年になろうとしています。
その間に、同時多発テロ や 同時理髪テロ が起こって、幾度も勝手に髪型を変えられて、 何度もその度に「もう日記は辞めよう」と思ったのですが、なんとか続いてこれました。
これも一重に、皆様の 後方支援 かつ 前方不注意 のおかげであります。
しかしながら最近とてもスランプです。かなりドクタースランプです。 なんとも全然書けません。書きたいのに書けない。 これは修論のせいかも、それとも勢いが無くなった私生活のせいかも。
2002年01月09日(水) |
「事故多し 注意!」 |
町で、
「事故多し 注意!」 「歩行者多し 安全運転」
という看板を見かけるたびに、なんで、
「事故多い」や「歩行者多い」にしないんだろう。って思う。
2002年にもなった現代において、「多し」のように「し」を使う人はまず居ない。
「今から夜ご飯食べに行かへん?」 「僕の今あるお金は少なし だから行かんわ。家で自分で作って食べるよ」
なんて言う人はまず居ない。
たとえ居たとしても、僕はたぶんそんな人を夜ご飯に誘わないだろう。 もし誘ったとして食事中に、
「ここのコロッケおいしいだろ?」 「かなりうまし でもちょっと値段が高し」
なんて言う会話を店員に聞かれては、もう恥ずかしくてその店に行けなくなる。 だから絶対誘わない。
こんなネタでかなり引っ張ってしまったが、 なんでダイドードリンクじゃなくて、ダイドードリンコなのだろうと思う。
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