いつもの日記

2002年02月27日(水) 楽しみの本質

カラオケ、ボーリング、TVゲーム、四六時中友達とのお気に入りの芸能人の話。

これらは楽しいですよね。結構ね。僕も昔とてもTVゲームをやったしね。
でもこれらが楽しみの本質だろうか?やはり違う気がする。いや違う。

楽しいと思ってこのようなものばかりで楽しみを得ていたら、
とても空虚感・虚無感が募らないだろうか?
これらの楽しみは得やすく、楽しみとしても薄く軽い楽しみである。

本来僕らはそんな薄く軽い楽しみを求めている訳ではない。
僕らはもっともっと厚く重い楽しみを求めているはずである。
それは何か?それはなんであろうか?
僕はそれは「成長」だと思う。
僕が一番楽しいと思えるときは、「成長を実感できる時」であるからだ。

しかし、「その成長を実感できる時」とはどんな時だろうか?
それは、今まで立ち向かえなかったものに、立ち向かえるようになった時であり、
そのことはまさに「善」を意味している。

自分がその時に「善」だと認識していることをできるのが、一番楽しいのだと思う。
そうすることで、自分は成長していると実感できるからでもある。
でも、その「善」を繰り返していけば、それは慣れて、「当たり前」になる。
そうすればまた考えて、別の「善」を求めていかねばならない。
それまでの「善」は「当たり前」になり、自分とっての「善」ではなくなるからだ。

また、労力やお金や時間に縛られて、いやいやながらしているあたかも「善」である事は、
それは本当の「善」ではない。
そのような価値観を越えて、自分の心からできる「善」が本当の「善」である。
いやいやながらしている時点で、それは甘えがあり、力の余地があり、「悪」なのである。

当然、自分の甘えは「悪」であり、それに立ち向かうのは「善」である。
ここでいう「善・悪」は絶対的なものではない。
そのときの時代・状況・自分自身で常に変化する。
常に変化する「善」というもの、それを実行できることが一番楽しいことであると思う。

単純に考えると、甘えでもなく、強制でもなく、色んなことを考えて、自分が、
「これをすべきだ」と心底思えたことを、その時にやれることが「善」である。
「善」は常に変化するので、常に自問自答し、それを追い求めねばならない。
そうしないと人間的に成長できない。



2002年02月26日(火) 哀しい本質

人は何故哀しくなるのか?

それは自分ではどうにでもならなくて、そして納得できないことを、
受け入れなければならないからである。
具体的にそれはどういうものであろうか。
ある人は言う、哀しい本質は「裏切られること」だと。

確かにそれは頷ける。裏切られること自体は、自分でどうにでもならなくて、
納得できないことであり、ただ受け入れなければならないからである。

でもそれが本質であろうか。僕は違う気がする。
その「裏切られる」という中には原因があり、
その原因は自分がもっている可能性があるからである。
「自分があのようにやってしまったことが、実はあいつを裏切らせた原因なのかもしれない」
と自分を省みる余地がある。

だから、「裏切られる」ということは、なってしまえば確かに自分ではどうしようもないが、
「裏切られる」前にどうにか出来たかもしれないし、だから、納得できなくて、
受け入れられないことではない。
だから哀しみを感じる物事の中には、自分を省みる余地がないほうがより本質的だと思える。
それは何か?それはどのようなものであろうか?

僕はそれは「死」だと思う。自分にとって大切な人の「死」だと思う。
これはどう考えても、原因に自分が入り込む余地が無いし、それに自分を納得させられない。

僕達は、ただその「死」を受け入れるだけである。そして、ただ哀しむ。
哀しい本質は「死」にある。



2002年02月25日(月) 怒る本質

人はなぜ怒るか?

思い通りにならないからである。

自分で納得できないような事がなされているからである。

でもあることが納得できなくてなされていても、
それが自分に被害が無いことが解っていれば、怒らないはずである。
(宇宙が広がっていることは納得できないが僕達は怒りません)

そうすると、自分で納得できなくて、さらに被害をこうむる場合は怒るのである。

この、自分で納得できなくて被害をこうむるとは何であろうか?

それはもっとも単純な事であるはずだ。
なぜなら、そのようなものには僕達は立ち向かうはずであるからだ。

そうである。僕達が立ち向かうものは「悪」である。

僕達は「悪」に怒るのである。



2002年02月24日(日) 喜びの本質

ほんしつ[本質]:物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。

前の日記では「一番」という言葉を使用していたが、あまりしっくりこないので、
これ以降は本質という言葉を使用する。
単に自分自身の中で「本質」という言葉がブームであるということも原因としてあるけど。

僕達はどんな時に「一番の喜び」即ち「喜びの本質」に触れることができるだろうか。
それは「この世界に存在する事を実感できた時である」と僕は思う。

この「この世界に存在する事を実感する」とは、「他者に認められること」だと僕は考える。
自分以外の他者から、「君が必要なのです。僕にとって君は不可欠なんです」
という気持ちを感じられれば、「自分はこの世界にいる事に意味はある」と思えるからです。
逆に、そのような気持ちを少しも感じる事ができなければ、
自分が存在する意味が解らなくなります。
即ち、そのような気持ちを感じないという事は、みんなは自分を必要としてなくて、
自分が居ても居なくても他人にはそんなに影響せずに首尾よく世界は回るからです。

だから「喜びの本質」は、「他者から認められることに」あるようです。

しかしながら、この他者は誰でもいいのかというとそうではありません。
日本中の1億という人々に認められようと、
自分の周りにいて自分が認めて欲しい人が認めてくれなければ、全く意味を成さないのです。
でも他人の考えは他人の考えなので、自分が努力していても認めてくれないことも多々です。
だから、もしその自分の認めて欲しい他者が自分を認めてくれるなら、
そこには必然と思いたい偶然があり、「喜び」が生まれるのです。

まとめると「喜びの本質」は、「一番に認めて欲しい人々に認められる事」であります。
言い換えれば「相思相愛」。むろんですが、異性同姓含めてです。

「相思相愛」これが一番の「喜びの本質」です。



2002年02月23日(土) 「喜怒哀楽」自分としてはクイズのような感覚

1月29日の「喜怒哀楽」という日記に、
「あなたが一番喜怒哀楽を感じる事柄はそれぞれ何ですか?」
と書いた。

読者のみなさんはそれを考えてくれたでしょうか。
それを明日から伝えていこうと思う。
まず明日は、「一番の喜」即ち「一番喜ぶこと」である。

書く内容は僕1人の考えであるが、実は誰でもそう考えるのではないかと思っている。
だから、
「あなたが一番喜怒哀楽を感じる事柄はそれぞれ何ですか?」
と書いたが、自分としてはクイズのような感覚なのである。

さぁみなさん考えよう。



2002年02月22日(金) そんな現代で僕は生きてる。だから不安。

既存の格闘技からK−1、そして、プライドへ。

なんだか最近の人は過激であればあるほど、その格闘技を好むようだ。

僕はそこにローマ時代のコロセウムを見る。
僕らは奴隷が命がけで戦うのを傍観するローマ市民である。

また僕はそこに味が粗く濃いジャンクフードを見る。
僕らは味の繊細さや栄養を考えないで手軽で安価な食物を喰らう現代の若者である。

僕らが求めるものは、熟練されたハイレベルな技術の応酬より派手で過激なノックアウト。
繊細で深い味より解りやすい濃い味。

なんだかみんなの精神やモラルが逆戻りしているような気がした。
科学技術が進歩したとしても逆に精神やモラルは衰退している。

僕達人間は、戦争などの大きな失敗で得られたものを教訓にして、
精神やモラルを向上していかねばならない。

だが、そのことがされていない現代。
逆に精神やモラルの腐敗が進行している現代。

そんな現代で僕は生きてる。だから不安。



2002年02月21日(木) ライブとは

若い人達はなぜライブに行くのだろう?

家でCDを聞いたら済む話なのに、わざわざ高いお金を払ってライブに行く。なぜだろう?

 その理由として、1つ目は、そのミュージシャンを見たいから。
 2つ目は、そのミュージシャンが発するエネルギーに触れたり、吸収したいから。
 
確かに、それらがまっとうな大きな2つの理由だろう。
(それ以外にも理由は沢山ある。だが、これが主要な理由である事に変わりは無い)

でも僕が先日行ったロックのライブには、それらの2つのことを目的に来ている人は、
あまり居ないように感じられた。

そのライブはオールスタンディングライブであったが、そこに居たみんなは、
ミュージシャンのエネルギーを触るとか吸収するとかではなく、
ただ自分のエネルギーを発散しているように感じられた。
また、ダイブを何度も敢行し、自分を誇示する場所であるとさえ思っている人もいるようだ。
僕は後方からの何者かのダイブのせいで、その何者かの足によって、
目の上を蹴られて赤く腫れてしまった。
それにメガネを落としてしまい、雑踏に踏まれて危うく再起不能になるところであった。
危ない危ない。

そして、そのライブが終った時に、飛んで踊って手を突き上げていた若者達は、
「楽しかった」「スッキリした」「気持ちいい」
という感想を残して去っていくのである。

この感想は上の2つの理由を持って聞きに来ていた人から発せられる感想ではない。

やはり彼らはそれをライブとは捉えていないようであった。
それはまさにロック・アトラクションであったと思う。
そうであるなら「楽しかった」「スッキリした」「気持ちいい」という感想は充分頷ける。



2002年02月20日(水) ある程度のレベル

今日は神戸商船大学で学生最後の発表でした。まぁまぁそこそこです。
最近気づいた事ですが、ちょっと前まで自分はプレゼンはとても苦手だと思っていたが、
「意外に結構できるやん」って思えてきました。

これは慣れなのか?それとも、成長なのか?それとも、自信なのか?
そのあたりは完全に詳しくは究明できないでしょうが、
「自分への自信」「研究への自信」「プレゼンへの慣れ」
という要素がプレゼンを巧く運んでいるように感じる。たぶんそれであっていると思う。

でも、プレゼンが巧い人と比べると僕なんてまだまだ全然足元以下です。
彼らのプレゼンは聞き手の立場に立てれていて、とても解りやすいです。
だから僕も次からは少しづつ相手の立場に立ち、解りやすいものに努めていくつもりです。
でももう学会での発表も終わりなんだけどね。これが最後で。

物事全てにいえる事だが、ある程度に達するまでは、自分のことだけを頑張ればよいが、
頑張ってある程度のレベルに達したならば、
それからは他者の存在を考えて、改善・改良してかねばならないだろう。

当然ながらある程度のレベルに達したからといって、慢心して、向上するのを止めて、
名誉や利益をのさばるようになったら終わりである。
でもほとんどの日本人はそのようになるのは当然かのように教育されているから、
そのようになっても仕方は無いですがね。

でも、それでは駄目なんですよ。それでは価値が薄い。薄っぺらい。



2002年02月19日(火) 修士論文発表

昨日なんとか2年間の総まとめである発表を終えた。

発表自体はほとんど問題なく過ぎ、質疑応答で別の研究室の教授から、
根本を否定するような事を言われたが、それでも無事終ったのでよしとする。

これで何も心配することなく残された余暇を楽しめそうである。
とりあえず、大阪に居れる間にしか出来ないような場所に行ったり、
学生の自由な間にしか出来ないような事をやっておこうと思う。

ちょっと昔の自分なら自由の身であっても「何をしたいのか?」がはっきり解らなかったが、
今の自分は少しは解ってきているようで嬉しい。
これを成長というのかは解らないが、僕はこういうことは成長だと思う。

「自分の意志で行動できなかった事」が「自分の意志で行動できるようになった」
そうであるなら、それは成長だと思う。

でも明日にはまだ神戸で最後の発表が残っている。
実はそれが総締め。頑張ります。とても日記らしい日記でした。



2002年02月18日(月) 僕が好きな曲

生きてる証を 時代に打ち付けろ
貧弱な魂で 悪あがきしながら
何度へましたっていいさ 起死回生で毎日がレボリューション
人生はフリースタイル 孤独でも忍耐

いつも心にしてたアイマスクを外してやればいい
不安な迷いと無二の親友になれればいい 
旅立とう 明日は無いぞってな具合に

腑甲斐ない自分に 銃口を突きつけろ
当り障り無い 道を選ぶくらいなら
全部放り出して コンプレックスさえもいわばモチベーション
人生はいつもQ&Aだ

駆け引きの世界で 僕が得たものを 
ダスターシュートに投げ込むよ
白地図を広げて 明日を待っていたい

              Mr.Children 「I'll be」 より抜粋


 < 過去  INDEX  未来 >


Kind of Sunday [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加