心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年09月13日(月) 健康な人は自殺しない

自殺予防週間だそうです。
健康であるのに自殺してしまう人はいません。そこを勘違いしてはいけないのです。

何らかの苦しさから逃れるために、酒を飲む人がいます。処方薬を多く飲む人やリストカットをする人もいます。それは苦しさに耐えて生き延びるための手段です。人は「生き続けたい」という自己保存の欲求を強く持っていて、たとえやっていることが自己破壊的に見えたとしても、それは生き延びるための手段です。だから、自己破壊的な行動さえなくなればいい、と安易に考えてはいけません。

リストカットやODをした人に「もう絶対しないと約束して」と言っても無駄で、しなければもっと苦しくなってしまうだけです。断酒すると飲んでいた頃より苦しくなります。酒や薬で麻痺させる手段が使えなくなるからです。その苦しさを別のもっと健康的な手段で解消する必要があるのですが、そのためには金も時間も手間も必要になります。(その手段の一つが自助グループですが、自助グループがすべてとは言いません)。

リストカットでもODでも、あるいは飲酒やギャンブルでも同じですが「耐性」が形成されるので、同じ効果を得るために、より激しく、よりたくさんやる必要が出てきます。けれどそれにも上限がありますから、やがてはどうやっても望んだだけの効果が得られなくなります。それは生き延びる手段を失うことを意味します。その時、死ぬことが究極の解決として選択肢の一つに挙がってきます。生き延びるだった手段が、人生にピリオドを打つ手段に変わってしまうわけです。

そういう意味では、依存症の人や、リスカやODをやるひとは、生きる欲求の強い人だと言えます。やっていることは問題行動なので病んでいるのですが、根源的な自己保存の欲求の部分は健康?です。

問題行動を起こさずいきなり自殺してしまう人がいます。彼らは健康なのに自殺したのか? そんなことはありません。生き続けたいという根源的な部分が病んでしまった結果です。(その多くがうつ状態だという話には説得力があります)。

あるセミナーで、講師が「人には自殺する権利があると思いますか?」というお題を出しました。

これには例外はあるかもしれません。拷問され脱出できず、なぶり殺しにされるしかない状況があったとしれば、苦しみから逃れるために死を選ぶことまで否定できません。けれど、そうした特殊な状況を除けば、「自殺する権利はあるか?」と尋ねられたとき、「そんなものはあるわけがない」と即答できるはずです。

そこで自殺する権利があるのかないのかちょっと考えてしまった、という人は、死んでいるより生きている方が良い、という信念が揺らいでしまっているわけで、根源的な自己保存の欲求が弱くなっているのじゃないか・・・つまり病んでいるのじゃないか、自分のことを気にした方が良いかもしれません。

最後は人のことより自分の心配をしろ、という結論になってしまいました--;


2010年09月09日(木) キンドリング(その3)

アルコール依存症になるには、それなりに長い期間飲み続けないといけません。若い人の場合には、この期間は短くなりますし、女性だと「お酒を飲み始めて乱用になるまでたった数ヶ月だった」という話もありますが、いずれにせよある程度の期間は必要です。

たいていの人は医療機関で「アルコール依存症」というお墨付き(診断)をもらっています。診断をもらう前に酒をやめる人も少なくありませんが、それはまた別の話にしましょう。

医療機関にかかるのは、お酒で何らかのトラブルが起きたのが原因です。なんかヘンだと誰かが思わなければ医者に行く(連れて行かれる)わけはありません。だから、お墨付きをもらった後で、無事にトラブルなく酒を飲める人はまずいません。

・・・とは言うものの、診断をもらった後でトラブルが急増した感じがする、って話があります。お前は依存症だから酒を飲んではいけない、と言われたせいで、急に病気の進行が早まった気がする、と感想を漏らす人がいます。

これについては、いくつかの説明が可能です。診断をもらう前は、酒でトラブルを起こしていることに無自覚だったものが、診断をもらうと人にかけている迷惑を自覚せざるを得なくなって、トラブルが増えたように感じている、という説。

別の説は、「お前は酒を飲むな!」と言われるために、隠れて酒を飲んだり、飲んだことを隠そうと努め、それが本人には心理的な苦しさ、周囲には不審な行動と見られて、トラブルを増やしている、という説。

しかし、キンドリング現象を根拠にすると「病気の進行の速度が速まる」と解釈することもできます。キンドリングでは、継続して刺激が与えられるより、間欠的に刺激を与えた方が、脳の変化が早く起きます。これは電気刺激だけでなく、化学物質による刺激でも同じです。・・・ということは、酒を飲み続けている(継続的な刺激)よりも、断酒と再飲酒の繰り返し(間欠的な刺激)のほうが脳の変化の速度が速い=依存症の進行が速まる、と考えても矛盾はしません。

AAにやってきて何ヶ月か酒をやめ、再飲酒すると、前よりひどいトラブルを起こす人がいます。それにはいろんな説明が可能です(溜まりに溜まった飲酒欲求が、堰を切ってあふれ出したのかもしれません)。けれど、

酒をやめている期間も依存症は進行している

という経験的事実は、キンドリング現象で説明がつきます。実際病気が進んでいるのかもしません。

中途半端な断酒はかえって病気を進行させる。何年間かに何度か再飲酒がある程度という人と、同じ年数(やめずに)飲み続けてきた人を比べると、前者のほうが重症化したヒドいアル中になっている可能性があるわけです。断酒は病気の進行を止められる、というのは必ずしも真とは限りません。やめるのなら、完全にやめるしかないわけです。


2010年09月07日(火) キンドリング(その2)

9月になってから夏ばてになっているひいらぎです。

さて、本題。てんかんは、脳内のネットワークが部分的に異常に興奮する(異常発火・てんかん放電)ことで起こります。ではこの興奮を人為的に作り出したらどうでしょうか。

ネコやラットの脳に電極を刺して電流を流します。この電流はてんかん発作を起こすほど強力ではなく、ごく微弱な電流です。当然ラットの行動には何の変化も起きません。しかし、この刺激を一日一回続けていくと、3週間ほどするとてんかん発作を起こすようになります。さらに続けていくと、発作が次第に激しさを増していきます。(時間依存性がある感受性の亢進)。これをキンドリングと呼びます。

さらに大事なことは、こうなったラットに電気刺激を加えずにおき、たとえば1ヶ月後に再び電気刺激を与えると、1回目から激しいてんかんを起こすのです。つまり、時間が経過しても、亢進した感受性(てんかんを起こす体質)は消えません。これは、てんかんが一生治らないことと一致します。

キンドリング現象は電気刺激だけではなく、化学物質の反復投与によっても起こります。

アル中さんたちも、アルコールという化学物質を自ら反復投与します。毎日同じ量を飲んでいたとしても、最初は何も起きません。けれどある時から離脱症状が起こるようになり、それが激しさを増していきます。やがては連続飲酒発作も起こるようになります。そして、しばらく断酒を続けていても、再度酒を飲むとあっという間に元通りの飲んだくれに戻ってしまいます。一度そうなったら元には戻りません。

電気刺激の反復によるキンドリング現象がてんかんを説明できるのであれば、化学物質の反復投与によるキンドリング現象がアルコール依存症の症状を説明できる、そう考える人がいます。

電流をひたすら流しっぱなしにするよりも、この実験のように間欠的(一日一回とか)に刺激を与えるほうがてんかんが早く起こるようになります。

そのことが化学物質の反復投与でも起こるとするならば、「酒を飲んだりやめたりするほうが、ひたすら飲んだくれっぱなしより依存症が早く進行する」という経験的事実を説明できます。

つまり、半端な断酒はかえって依存症を進行させる・・わけだ。それについてはまた次回。

(続きます)


2010年09月03日(金) キンドリング(その1)

軽度発達障害という概念が浸透していった結果、トゥレット障害(チック症)もこの範疇に入ると考えられるようになってきたようです。(以前は母親の育て方や、家庭の機能不全に原因が求められた時期もあった)。チックはADHD・LD・自閉症としばしば合併します。しかめ面をして顔の筋肉をひくひく動かしてしまったり、「ぼ、ぼ、僕は・・」とどもってしまうのは、確かに本人はとても気になってしまうのですが、、治そうと思って治るものではありません。結局は本人も周囲も「それが個性」だと思って慣れるのが一番いい選択でしょう。

もうひとつ発達障害の範疇と考えられるようになってきたのが「てんかん」です。

僕はAAのラウンドアップで、アルコール性のてんかん発作で倒れる人を見たことがあります。某施設の入所者の人で、ラウンドアップ直前に再飲酒したのだと聞きました。参加中にアルコールが身体から排出され、離脱の症状のひとつとして「てんかん」を起こしたのでしょう。

アルコール性てんかんを起こすのは、元々てんかんを持っていた人に限られるのだそうです。依存症になる前はてんかんを起こしたことがないのに、今は飲むとてんかんを起こす、という人もいます。それは、元々持っていたてんかんの素質が、アルコールで花開いてしまったのでしょう。

大型二種免許を持ち、その資格で稼いでいた人が、アル中になっててんかん発作を起こすようになり、仕事も資格も失ってしまった話がありました。

てんかん発作は、脳内のネットワークが部分的に異常に興奮する(異常発火・てんかん放電)することで起こります。発火の起こった部位によって、表に出てくる症状が変わります。よく「口から泡を吹いて倒れる」と言われますが、そればかりではなく、身体が硬直したり、あるいは身体の一部がヒクヒクと痙攣したり、意識障害になったりします。いきなり相手の意識がぼうっとして、意思の疎通が悪くなったときには「解離(解離性障害)を疑え」といいますが、てんかん発作という可能性もあるわけです。

てんかんの治療には、抗てんかん薬が使われます。その中でも、デパケンやテグレトールはてんかん以外の発達障害にも使われます。同じ薬が奏効するということは、同じメカニズムがある(つまり根っこが同じ)と考えてもよい訳で、てんかんを発達障害に含める一つの根拠にもなっています。

デパケンは非定型うつ病にも処方されます(躁うつ病にも)。元来うつ病は内因性(内分泌系の異常)だとされていました。内因性なのはメランコリー型で、非定型のうつ病は器質性だという人もいます。それが証拠にデパケンみたいなてんかんの薬が効く。そのうち「非定型うつ病も発達障害に含めよう」と言い出す人が出てくるかも知れません。

てんかんは基本的に一度なったら治らないのだそうです。つまり「一度てんかんになったら一生てんかん」なのです。人生のある時期まで発作を起こさなかった人が、何かの刺激(たとえばアルコールの離脱症状)でてんかんを起こすようになると、発作を起こさない身体には戻れません。もちろん、薬で症状を抑えることはできるので、社会的には「治る」と言ってもいいのでしょうけど。

「一度てんかんになったら一生てんかん」というのは、「一度アルコホーリクになったら一生アルコホーリク」(p.49)というのとよく似ています。

いや、似ている以上に、てんかんを起こす仕組みと、アルコールの離脱症状の仕組みは同じだという説があります。それは「なぜアルコールをコントロールできる身体に戻れないのか」も説明してくれるのかも知れません。

・・・というわけで、続きます。


2010年08月31日(火) ステップセミナーのスピーカー決まる

こちらで案内している地元のAAのステップセミナー。
http://www.ieji.org/dilemma/2010/08/103-aa.html

ステップセミナーというと、何人かのスピーカー(話し手)に12ステップを割り振るパターンが多いように思います。ステップ1・2・3、4・5、6・7、8・9、10・11・12みたいな分け方。
これはこれで分かりやすくていいのです。例えばステップ4と5を話す人の棚卸しの話がまとめて聞けますから。けれど利点ばかりではありません。そのステップに至るまでの経緯も含めて15分や20分で話をまとめろというのは無理な要求で、時間切れで尻切れトンボになってしまうことも少なくありません。

今の日本のAAでは、ストーリイ形式で棚卸しをすませたら、その先のステップに進めなくなっている人が少なくありません。(まだ棚卸しをやるだけマシだという現実!)。そうなると、ステップ6・7から先は話せる人がぐっと少なくなってしまいます。僕のいる地区では、ステップを話せるメンバーの数が確保できないという理由で、ここ数年ステップセミナーは開催せず、自由テーマのオープンスピーカーズミーティングばかり開いてきた次第です。AAとしてステップを話せる人が少なすぎる・・・ってのは、これはかなり情けない状況です。

いや、まだ自分たちの実力不足を認識しているだけ良いか。某所のステップセミナーを聴きに行ったら、スピーカーが「僕はまだこのステップをやっていないので、別の話をします」と話し始めたのは驚きました。しかもそれが何人も。僕はいったいここに何を聴きに来たのか?と自問自答し、椅子に座りながら意識が空想の世界にかっ飛んでいってしまいました。昔スポンサーに言われた「できないことを、できると言うな」という言葉を思い出します。

というわけで、状況を打開すべく、うちの地区でもステップセミナーをやらねばならん、という話になりました。そもそもステップセミナーは、ステップを1から12までやった人が、その回復の喜びを伝えるためにやるものでしょう。だったら、12ステップを「ぶつ切り」にして聞き手に差し出すのはおかしい。人数は少なくなろうとも、1から12まで全部のステップを時間をかけて話しきってもらおうじゃないか、という企画になりました。

うちの地区は12グループあるので、いままでの地区のイベントでは、1グループから一人ずつスピーカーを差し出す?ことになっていました。自分のグループのメンバーでも良いし、よそのグループの人に話をつけてもいい。スピーカーを出せないグループのぶんは、県外のメンバーに話をしてもらう。というパターンでした。

今回は6人だけ。そのかわり12ステップをちゃんとやっているメンバーを推薦しろ、ということになりました。はたして推薦は集まるのか?・・・1回目の会議で自薦他薦7人の推薦が集まりました。しかもわりと若手が多かった。(ここでいう若手とは実年齢ではなく、飲んでいない年数の若さ)。それを見て「若い者にはまだまだ負けられない」と思ったのかどうかは知りませんが、2回目には「超先ゆく仲間」が4人も名を連ねました。

実は僕のホームグループでは、毎年県外の女性のメンバーにスピーカーを依頼しています(交通費負担のために献金をプールしている)。今年もそうする予定で、方々に頼んだのですが、ことごとく日程が合わない残念な結果となってしまいました。(結果としてスピーカーは全員県内の人間になりました)。

実行委員長の「自薦の人優先」の声で5人が決定。自分は12ステップを全部やっているから、その話を聞いてくれ、というメンバーが5人も出てきたのはいいことでしょう。残る1人もすんなり決まりました。もし人数が多すぎた場合にはどうするつもりだったのか、実行委員長にたずねると、「この場で誰が良い悪いという話をすれば、それはその人の棚卸しになってしまう。その場合にはくじ引きで決めるつもりだった」だそうです。さすがだ。

というわけで、いまからセミナーが楽しみです。

ちなみに、僕もスピーカーの推薦を頂いたのですが、辞退させて頂きました。他でも話をする機会を与えていただいているので、露出が多くなりすぎるのは良くないと思ったからです(日本人的横並び意識)。僕の他にも同じ理由で辞退した人がいたように思います。(だいたい1時間もらったって、全部のステップの話をするには相当忙しい)。

「自分はこのステップはやっていないので・・・」という言葉を聞かなくて済むステップセミナーです。飲んでいた頃どんなにひどい自分だったか正直に話せるのが良いスピーカーではありません。そこからどうやって回復してきたか。具体的に何をやってきたのか。聞き手に、ああ、自分もそれをやれば良くなるかも知れない。いや、なりたいぜ、できるはずだ、やり方をもっと詳しく教えてくれ、と思わせるのが良いスピーカーです。(と自分が話さないので、何とでも煽れるわけだ)。ご期待を。


2010年08月26日(木) 話す脳・書く脳

たまには雑記を更新しないと心配されてしまいます。

言語の能力には、聞く・話す・読む・書くの四つがあります。
このうちアウトプットのあるのは、話す・書くの二つです。

話すこと、書くこと、両方を立派にやり遂げる人もいますが、たいていはどちらかが優勢になります。僕自身は話すことは苦手で、どうせアウトプットするなら書く方を選ぶ人です。

精神病理学は、精神病患者の内面世界を探求する学問で、病気を治療することよりも、その構造を明らかにすることをめざしました。この学問はおもに統合失調症の人にインタビューすることで成り立ってきました。というのも、統合失調の人は書くことは苦手(表現が貧弱)でも、話すときの表現は豊かで、内面が探りやすいからです。

ところが、この手法は自閉症の人には役に立ちませんでした。自閉症の人は(高機能自閉症と呼ばれるIQ70以上の人でも)しゃべって自分を表現することが苦手だからです。というか、そもそも人間の相手をすることが苦手なんですけどね。そのせいで、自閉症の精神病理は長い間謎のままだったのです。なぜ学者たちが自閉症の人に文章を書かせてみようと思わなかったのか、そのほうが謎ですけど。

やがて、テンプル・グラディンとかドナ・ウィリアムズという自閉症の人たちの自伝が出版され、その内面が詳細に分かるようになってきました。実は自閉症圏の人たちは、話すことより書くことの方がずっと得意だったのです。

そんなことから、僕は人間の脳には話すことが得意な脳と、書くことが得意な脳の2種類があるのじゃないか、と思うようになったのです。仮に前者を「シゾイド脳」、後者を「アスペ脳」と呼ぶとします。

アスペ脳の人たちは、話すことより書くことを得意していて、自閉症的なものごとへのこだわり(頑固さ)があり、意識を注ぐ対象の切り替えが苦手で、共感する能力が薄いので孤独を好む。

シゾイド脳の人たちは、逆に書くことより話すことの方が得意。だからAAでいえば月刊誌BOX-916に投稿を頼まれるのはヤだけど、皆の前で話をしてくれと頼まれたら引き受けちゃうとか。頑固さが少ないかわりに、興味の対象が移ろいやすく、共感力が高いので孤独より人と一緒にいるほうを好む。

・・・などと書いているけれど、まあ一種のシャレなので、あまり本気にしてもらっては困るんですけどね。

もちろん、書くことが得意=アスペルガーとか広汎性発達障害でもないし、話すことが得意=統合失調なんてことがあるわけもありません。でもなんとなく「そういう傾向」を感じてしまうことがあります。人と接するときに、この人はどっちが得意かな、ということを考えてみるのもいいかもしれません。

注意しなければならないのは、長く話せるから話すことが得意ってわけでもないし、ブログのエントリが長いから書くことが得意とは限らないということです。(どちらかというと、長くなるのは下手な証拠)。アフォリズム(金言、箴言)と呼ばれる言葉は短いものばかりです。


2010年08月18日(水) 誤解への恐れ、自信のなさ、話の長さ、うるささ

以前、統合失調症の息子(といってももう成人)を持つ父親の作ったサイトを読んでいました。ブックマークしておくのを忘れ、最近検索しても見つからないので、たぶん消してしまわれたのでしょう。

病気についてのサイトだと、症状や原因や治療についての記述が多くなるものですが、その父親さんは病気そのものよりも、病気を得た息子の行動パターンに関心があるようでした。例えば、なぜ息子が身近な人ではなく世の中のほうに関心を向けるのか? それは人間関係が苦手なので人の相手をせず、テレビやパソコンに向かって政治や経済を論じていた方が楽だから(つまり苦手なことから逃げ出しているだけ)。そのことと病気と関係があるのかはわかりませんが、そんな具合になかなか興味深いサイトでした。

その中に、「息子がなぜ目の前の議論にこだわるのか」というのがありました。

議論の勝ち負けにこだわる人がいます。あるいは、誤解されるとひどく気分を害する人がいます。相手にきちんと伝わらなければ気が済まない人がいます。

なぜそんな「こだわり」が生まれてくるのか。先のお父さんによれば、それは「長期的な損害回復に自信がないから」とありました。僕はそのことに深く納得しました。

議論に負けることも、自分を誤解されることも、相手に理解してもらえないことも、どれも「損害」です。人間誰だって、負けるより勝ちたいし、誤解されたくないし、理解してもらいたい。それは損害を被りたくないからです。

例えば僕が「心の冷たい人だ」とか「仕事ができない使えないヤツ」と誤解されたとしましょう。それは僕の評価が落ちる損害をもたらします。けれど長い目で見て、誤解をした人との付き合いを続けていけば、「ひいらぎは思っていたより冷たくはないのかもしれない。いやむしろ思いやりのある暖かいヤツかも?」とか「こいつ意外とできるじゃん」という評価の向上がもたらされるでしょう。

長い目で見れば、自己評価(セルフエスティーム)に対する損害はたいてい回復することができる、と信じることができるのが「自信」だと思います。

自信がない人は、いつも議論に勝って、誤解があれば必ず解き、人々に理解してもらうことで、自らの優秀さを証明し続けなければなりません。十戦十勝でなければならないのです。なぜなら、九勝しても一つの負けが自己評価を大きく下げるからです。

何かを成し遂げようと努力を始めても、いつも途中で嫌になって続かないとします。すると、そのことに自分が飽きてしまう前でなければ、「自分がどんなに素晴らしいことに取り組んでいるか」をアピールできません。途中で放り出すヤツのほうが、やっているときはアピールがうるさいのです。一方長く続ける人は、いつか誰かがそれを見つけて褒めてくれることは分かっているので、鷹揚なものです。

中身がそれほどある話じゃないのに、妙に話が長くなる人がいます(AAミーティングでも)。話の中の状況を微に入り細をうがち説明を加えます。なぜ話の枝葉をそんなに詳しく話すかと言えば、その時の自分の判断や行動の動機を誤解されたくないからです。「ほら、こういう状況だったら、あなたでもあの時の私と同じことをするでしょう?」というわけだ。これも目の前の損害回避を優先させた結果です。

ブログでも妙に文章が長い人がいます。一つのエントリの中にいくつも話が入っていたり、一日にいくつもエントリがあったりします。なぜそうなるか。僕も雑記を書いているので分かるのですが、思いついたアイデアは、その時に全部話して(書いて)おかないと、次に話す(書く)機会が来たときに思い出せるとは限らないのです。そうなると、アイデアを表現することで自分の優秀さを示す機会を一つ失ってしまいます。その時に、十戦十勝でなければならない考えを持っていれば、今回すべてをだらだらと長く話す(書く)しかなくなってしまいます。

この「長期的な損害回復への自信」というのは、長い時間の中で自分の評価を良い方に逆転させた、という経験をいくつか経なければ得られないものなのかもしれません。子供が大人になるように、ある程度年数が必要なものなのでしょう。回復の中でも年数が必要な部分です。

などと書いているこの文章も結構長いのですけど。ともあれ「長く続かないヤツほど、やっているときはうるさい」ってのは確かです。


2010年08月17日(火) ノンアルコールビールを飲む危険性

下の文章はアメリカのAllAboutの
Non-Alcoholic Beer - The Dangers of Drinking NA Beverages
http://alcoholism.about.com/cs/relapse/a/aa000104a.htm
の翻訳です。

片手間に訳したので、すべてにおいてアバウトな訳ですが意味は汲んでもらえると思います。

アルコール飲料(ビールやワインなど)と同じ匂いをしたものを飲むと、アルコールなしでも脳が酔いを再現し、飲酒時と同じ精神状態になりうるということでしょうか。

ノンアルコールビールを飲む危険性

「ビールもどき」と呼ばれるそれは、あなたが思っているよりずっと本物に近い。
断酒している人がノンアルコール飲料を飲む危険性が指摘されているが、その警告に科学的な証拠が登場した。

先頃私たちのオンラインフォーラムで行われた議論では、断酒を継続したいと願う人たちがなぜノンアルコールビールと呼ばれる飲み物を遠ざけることにしたのか、その様々な理由が示された。一番多い理由はアルコールの誘惑を遠ざけることだった。

ノンアルコールと呼ばれるビールにも微量のアルコールが含まれているという事実は脇に置くとしても、ノンアルコールビールが回復中のアルコホーリクの再飲酒を促すという理論を補強する新たな研究成果が発表された。

Alcoholism: Clinical & Experimental Research誌の11月号では、匂いが渇望の引き金となってアリコホーリクを再飲酒させ得ることをカリフォルニアの科学者チームが報告している。

彼らの実験では、アルコールあるいはキニーネ(苦く透明な物質)のどちらかを自己投与するようにラットをトレーニングし、その後にオレンジかバナナの匂いをかがせた。バナナの匂いはアルコールを消費した後にかがせ、オレンジの匂いはキニーネを味わった後に与えた。

アルコールも、そしてアルコールを予感させるものも、どちらも脳内物質であるドーパミンのレベルを上昇させうる。ドーパミンは、喜びや快楽をつかさどる物質である。研究者は「アルコールを暗示させる」匂いをかがせる前と後でラットの脳内のドーパミンが増加することを発見した。私たちのフォーラムでは、本人がノンアルコールビールを飲んでいるときの態度や行動が、本物のビールを飲んでいたときに次第に似てきたことを家族の女性が述べているが、この研究成果は彼女の報告した現象を説明してくれる。

このカリフォルニアでの研究は、再飲酒を防ぐ治療を作るにあたっての重要なステップになりうるとして科学者たちに引用されている。National Institute on Alcohol Abuse and Alcoholism(http://www.niaaa.nih.gov/)によれば、アルコホーリクの90%が酒をやめてから4年以内に再飲酒を経験している。

カリフォルニア州La JollaにあるScripps Research InstituteのDr. Friedbertは、「私たちのこの研究の重要性は、脳メカニズムや神経系の調査に信頼できる手段を提供することで、より効果的な治療法を発見するために知見に基づいたアプローチを始めるきっかけとなりうることだ」と述べている。

それが完成するまでの間は、断酒を続けようという人への最善のアドバイスは、アルコール飲料に似た匂いをさせるものは何であれ遠ざけるべきだということだ。

By Buddy T, About.com Guide, Updated February 06, 2004


2010年08月16日(月) 摂食障害~乱用と依存を考える

神戸ネタもそろそろ尽きそうです。

基本的に人間はNINO(No Input, No Output)だと思っているので、神戸大会のようなInputがあればOutputが出てくるものの、新たな刺激がなければ雑記に書くことも生まれてこないものだと思っています。

神戸では、後藤恵先生の摂食障害についての講演を聞きました。その中で印象に残ったのは、摂食障害からの回復の中期目標の一つに「組織の目標に沿って行動できる」、長期目標に「組織の目標を自分に合わせて変えていける」というのが入っていたことです。(文章はうろ覚えなので細かい表現は違っているかも)。
後藤先生のパワポはスライドが次々入れ替わるもので、一枚一枚の説明は短いものでした。それを僕なりにふくらませてみます。

ここで言う組織とは、学校や職場や自助グループのことです(家族ってのは入らないのかも)。集団の行動目標に沿って動けなければ人と一緒にやることはできませんから、社会復帰のためには「組織の目標に沿って行動できる」ことは必要です。これが短期目標の次の中期目標に来るのはうなずけます。

さらに、その目標が自分の考え方と違う場合に、いつも自分を押し殺して組織に合わせてばかりでは押しつぶされてしまいますから、目標のほうを自分に合わせて修正できなければなりません。そのためには、意見を表明して人を納得させるなどのスキルが必要になってきます。

環境調整によって症状を抑えることはできても、社会とのつながりを取り戻していく過程で、必ず自己の変革(回復あるいは成熟)を迫られる、という点はアディクション同様です。

話は後藤先生の講演から離れます。さて、摂食障害はアディクションなのかどうか?

それはイエスでもあり、ノーでもあります。斎藤学先生など依存症の専門医が診ていたアルコールの女性患者のなかには、アルコールと摂食障害を併発している人が多く、アルコールが止まっているときには食べ吐きがあり、食べ吐きが止まっているときにはアルコールが止まらないといった様相で、だったらアルコールも摂食も同じ依存症でいいだろうと考える人たちがいるわけです。一方で、思春期痩せや、神経性無食欲症という病名の患者を診ている小児科医の人たちは、それがアルコール依存症と同じ病気だとはとうてい見えないわけです。そんなふうに、医者の間でも診ている患者の層の違いによって、意見が異なっており、一つにまとまるとは思えません。

当事者の意見も割れていますが、自分と同じ意見の専門家の言葉を引用しているだけでは、まとまりようがないでしょう。

拒食のみで始まったあたりでは依存症とは無縁でも、やがて過食が混じるようになり、さらには過食おう吐やチューイングへと発展していく中で、物質依存やプロセス依存と同じ症状を見せるようになっていくわけです。その症状の変遷のどの部分を医者が診ているか(初期か、中期か、後期か)、当事者がどの部分にいるか(どの部分にいると自分が思いたいか)によって、摂食障害がアディクションであるかどうかの意見が分かれてくるのでしょう。

やはり乱用(abuse)と依存(dependence)は分けて考える必要があるのだと思います。乱用は依存を含む概念ですが、「依存のない乱用」というのはあり得るのです(その多くは依存に移行していくにしても)。

乱用というのは、何らかのストレス対処や、心の病の症状をきっかけとして始まります。仕事のストレス解消に酒を飲むとか、うつの人が自己治療として酒を飲むとか。やがてそれが習慣化し、量が増えていって、何かのトラブルが起きたときに「乱用」というレッテルが貼られます。この時点ですでに依存になっている人もいれば、まだの人もいます。けれど「まだの人」もそのまま放置すれば、やがて多くは依存の段階へと進んでいきます。

ストレスや心の不調を抱えたとき、アルコール以外のものを選ぶ人もいます。処方薬乱用をする人もいるし、パチンコにはまる人もいる。自殺しようとリストカットしたら、死ねなかったけれど気分がすっとした人はリスカにはまる。買い物やセックスにはまる人もいる。拒食や過食もその一つです。

「依存のない乱用」の段階では、症状より原因に注目すべきなのでしょう。完全に症状を抑えることは必ずしも必要ではありません。けれど、症状を続けていれば(それがパチンコであれ、過食であれ)やがては一定数の人たちの症状がアディクション化し、原因を取り除いても(取り除ければの話ですが)アディクション化した症状が固定することになります。

プロアナというのは、拒食症を病気ではなくライフスタイルとして支持する考え方だそうです。また摂食障害のグループのなかには、症状をやめることを目的としないとするグループもあります。どう考えようとその人の自由だとは思うのですが、やはり将来に何が待っているかを考えて、今すぐでなくてもいいので、3年後、5年後、あるいは10年後には原因を解消して症状がとまっている自分の姿を想像して欲しいと思います。

というのも、摂食障害も一定割合が死ぬ病気ですし、いったんアディクション化すれば「症状をやめることを目的としない」などと言っていられなくなります。それともう一つ。

摂食障害の家族の人たちの話を聞く機会がありました。過食おう吐の場合だとそれに費やされる食費が、家飲みのアル中さんの酒代よりよっぽど多かったりします(しかもそれが同居の親の負担だったり)。それをどうやって解消していいのかわからない。ご本人のほうは摂食障害は依存症とは違うと考えていても、家族の心痛はアラノンやギャマノンの人の話とまるっきり同じなのでありました。

「乱用があれば、何もかもアディクションである」とする考え方も、「××はアディクションとはまったく違う」という考え方も、どちらも偏っています。


2010年08月13日(金) アルコール依存とDV

最近AAミーティングで妻を殴ったという話をあまり聞かなくなりました。
僕がAAに来た十五年ほど前には、家庭の中の暴力とか、自分がその加害当事者であるって話は珍しくもなんともありませんでした。最近そういう話を聞く機会が減りました。

たぶん、アルコール依存の人のDVが減っているのでしょう。(ここでは身体的暴力という狭い意味のDVを指している)。

自分がDV加害者であることをミーティングでカミングアウトしなくなってきただけ、という可能性もあります。一方、実数として減っている可能性もあります。

断酒会の古い人が「今の若い奥さんたちはすぐに離婚してしまう」と言ったそうですが、酒をやめないダンナを最後まで支える奥さんが減っているのかもしれません。奥さんが殴られる前に離婚してしまえば、ダンナのほうも殴らずにすむわけです。そもそも世の中が離婚しやすくなっている影響もあるのでしょう。

また、依存症についての知識が広まり、DVが発生する以前の早い段階で、医療や自助グループに来る人が増えていることもあるのでしょう。そこで酒がやまらなければ、さらに病気が進行して奥さんを殴るようになったとしても、とりあえずAAミーティングという観測窓から見ている限りは、DVは減っているように見えるのかもしれません。

個人的な印象としては、アルコールの人より薬物の人のほうが暴力に訴えやすい傾向があるように感じられます。最近のダルクやNAの広がりによって、薬物主体の人がAAでは減っていることも関係あるのかも知れません。

ひょっとすると、一時期下火になっていたスポンサーシップがAAの中で再び盛んになりつつあり、家族への暴力のようなデリケートな話は、ミーティングではなくスポンサーとの間で行われているのかも知れません。

いろいろ可能性がありますが、やはりこれだけDV話が珍しくなるってことは、アルコールの人のDVが減っていると考えたほうが自然だと思います。昔のデータと今のデータを比較しているわけではないので、憶測の域を出ない話ですけど。

DV加害者プログラムをやっている信田さよ子先生が、薬物の人は何人か来たけれど、アルコールの人はまだ一人も来ない、と言っていました。信田先生は「アルコール依存の家には必ずDVがある」と言っていますが、それは何をDVと捉えるかによります。広く言葉の暴力まで含めればそれは真実です。身体的暴力に限ればそうとも限りません。信田先生がアルコール臨床の真ん中にいた1980年代と現在とでは、患者像にずいぶん違いがある気がします。アルコール依存の人がDVの加害者臨床に登場しないから、アルコールの人はDVの問題に熱心ではない、と捉えるのは無理があると思いました。

僕は信田先生のファンであるだけに、そういう言葉の細かいところが気になってしまうのかもしれません。

12ステップの棚卸しと埋め合わせには、自分の行った加害行為の再評価と傷の修復の働きがあります。そういう部分もDV加害者プログラムをやっている人たちには理解されていないようです。これは専門家たちの勉強不足を責めるよりも、自助グループ側の情報発信力の弱さが問題なのでしょう。

日本の自助グループは閉鎖的すぎる、というのが神戸で感じたことの一つでした。

ひとつ前の雑記で、日本の自殺数が12年前不自然に急増していることを書きましたが、それについてメールをいただき、下記の資料を紹介いただきました。この場にてお礼を申し上げます。

平成10年における自殺者数の急増要因
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2007/pdf/pdf_honpen/h022.pdf
平成19年版 自殺対策白書
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2007/html/gaiyou/index.html


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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