心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年10月22日(金) 断酒?断種?

依存症者を対象にした不妊手術のキャンペーンに非難の声、というニュースが検索に引っかかっていました。
http://www.japanjournals.com/dailynews/101020/news101020_2.html

わずか$300、日本円なら3万円ぐらいのオファーで不妊手術に同意してしまう気持ちがいま一歩理解できません。たとえ本人に明らかな益があることですら経済的報酬で誘導すること(例えば禁煙成功に高額な報酬を用意する)の倫理的な是非が問われている時代に、優生学的な手法を使うなんてなんとも前時代的な話です。

何十年かさかのぼれば、この手の話はまったく珍しくありませんでした。アメリカでは19世紀の終わり頃から、知的障害者やてんかん、ハンセン病の人の結婚を制限する法律が作られていきました。また病院では精神障害者の不妊手術が公然と行われていました。その多くは本人の同意を得て行われたとされていますが、精神病院から退院する条件に不妊手術への同意を強制されたという証言もたくさんあります。

こうした施策の背景にあるのは、遺伝的に劣った(と当時考えられていた)人たちが子供を作ることを防ぐことで、社会全体で人間の遺伝形質を改善していこうという考え方です。

20世紀前半まともな依存症治療施設のない時代には、アルコールや薬物の依存の人たちも州立の精神病院を頼りにするほかはなく、(具体的に数字を明らかにした研究はないものの)相当数の依存症者が不妊手術を受けたことは明らかです。ロボトミーが盛んに行われた時代ですから、不妊手術もそれほど非人道的だとは思われなかったのかも知れません。

不妊手術ほど露骨ではなくとも、アルコール依存症者を一般社会から隔離する施策は行われており、その一つが断酒農場です。これは社会に戻るとどうしても再飲酒してしまうアル中を、田舎の農場に集めて、牧歌的な雰囲気(今の言葉で言えばヒーリング?)の中で寿命を迎えるまで落ち着いた暮らしをしてもらおうというもの。もちろんそこには、男女を分けるなど、アル中同士の子供ができないように様々な工夫があったわけです。

優生学的政策を最も積極的に行った国家がナチス・ドイツで、40万人以上の障害者(アルコール依存を含む)に不妊手術を行い、さらに「T4安楽死プログラム」によって(すでに断種しているにもかかわらず)20万人以上が殺されました。これが後のホロコーストの発端だとされています。

ナチスのやったことがあまりに酷かったため、優生学政策は多くの国で公式には放棄され、国連の世界人権宣言によってあらゆる人に結婚と家庭を持つ権利があることが確認されたものの、その後何十年にわたって精神障害者の不妊手術は続けられました。それは日本でも例外ではありません(優生保護法)。またハンセン病者隔離施設は日本の優生学的政策の象徴的存在です。

断酒会を作った松村氏が会を広げるために全国を行脚したとき、酒をやめる断酒ではなく、アル中の人たちに不妊手術を勧める「断種会」だと勘違いされた、という話が残っています。一種の都市伝説かも知れませんが、時代背景を考えればうなづける話です。

時代は振り子のように動くと言います。20世紀前半には原因を器質(素因)に求める風潮が強かったからこそ優生学がもてはやされたのでしょう。それがナチス・ドイツの行いをきっかけとして逆に振れだし、20世紀後半にはカウンセリングなどがもてはやされる「心の時代」となったわけです。しかし、その振り子がまた逆方向に振れ始めているように感じます。非定型うつ病、アスペルガーやADHDという発達障害、また依存症も、どれも器質に原因を求めるものです。

そしてもう一つ、19世紀末から20世紀初頭の優生学的政策には、社会保障費の増大という背景がありました。社会の負担を減らすために、福祉を必要とする人たちの数を減らそう。そのためには・・・というわけだったのです。昨今新聞を開けば社会保障費(生活保護費や医療費、年金)の増大という話ばかり載っている気がするのです。


2010年10月20日(水) アルコールの負の影響

パンフレット「のめば、のまれる」より
http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/pdf/nomeba100123.pdf

アルコールの負の影響
アルコールとうつ、自殺にはつながりがあります

・アルコールは不眠症を悪化させ、それまで普通に眠れていた人まで不眠症にしてしまうことさえあります。眠れないのであれば、専門医に睡眠薬の服用について相談しましょう。アルコールの依存性は睡眠薬の依存性よりはるかに強力です。

・アルコールは思考の幅を狭め、自暴自棄な結論を導き出しやすくさせます。悩みを抱えているときに、飲みながら物事を考えるのはとても危険なことです。

・アルコールはうつ病を悪化させ、健康な人にもうつ病を引き起こします。酔っているあいだは気持ちが多少和らいだ気がしても、酔いから覚めた後には、前よりも気分の落ち込みが悪化します。

・アルコールは抗うつ剤の効果を弱め、予期しない副作用を引き起こすことがあります。精神科で投薬治療を受けている人は飲酒すべきではありません。

・アルコールの酔いは自殺を引き寄せます。アルコール依存症だけが問題なのではありません。一日、日本酒換算で2合半以上の飲酒は自殺のリスクを高めることが知られています。

独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所
自殺予防総合対策センター
http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/index.html


2010年10月19日(火) AC(アダルト・チルドレン)とは何か

AC(アダルト・チルドレン)とは何であるか、については、まだ僕は確信的な見解を持てていません。
ただ、いくつか感じていることはあります。

おそらくACというのは、虐待による発達障害のことを現象面から捉えた概念なのでしょう。
発達障害は大きく三つの分野があり、知的障害、自閉圏(含むアスペルガー)、ADHDです。
杉山先生は被虐待を第4の発達障害に挙げています。というのも、被虐待の人というのは、他の発達障害に似た特徴を持つからです(とりわけ自閉圏に似る感じ)。そして、ACoAやACoDの人というのは虐待を経験した人たちでもあります。

発達障害について学べば学ぶほど、発達障害の特徴とACの特徴の類似性に気がつきます。ACの人は「生きづらさ」を抱えていると言われますが、その生きづらさは、発達障害による生活の困難さで説明がつきます。(そして、依存症の人の中にも発達障害が多いのではないか、と考えています)。

発達障害だとすれば、その人の抱える問題は二つに分けられます。
一つは器質の問題であり、修正不能なもの(変えられないもの)。
もう一つは生活の困難から来た二次障害(自信喪失や抑うつ、神経症的症状など)、変えられるもの。
そして、この二つを見分けていくことが大事だということです。

修正不能な問題については、いくら自助グループに通ってステップをやったところで、変えようがないことです。それを無理に変えようとするのは、無くした足を生やそうとするようなものです。それよりも、松葉杖を使うようにしたほうがいい。
一方、二次障害のほうは解決可能だし、ステップも効く可能性があります。

大事なことは、何でも自助グループやステップで解決可能だと思わないことで、何年自助グループに通ってもスッキリ解消しない人は、それはおそらくグループやステップでは解決できない問題を抱えているのでしょう。そしてその問題は発達障害かもしれません(別の問題かもかもしれないけど)。
それを、自分はステップを真剣にやっていないせいじゃないか(実際そうである場合もあるけど)として自分を責めたり、他者が「あいつはちゃらんぽらんだ」という評価を与えてしまうのは、二次障害を悪化させる結果につながりかねません。

(なのだが、なぜかそういう人に限って、12ステップで何でも解決できるという考えにしがみつきたがる傾向があるのは気のせいでしょうか?)

とは言うものの、発達障害、とりわけ大人の発達障害に関する社会の整備はこれからです。その診断を受けるだけでも簡単ではありません。実はスポンシーの一人に検査を受けに行ってもらっているのですが、脳波だ、MRIだ、知能検査だと、手間も金もかかって大変です。それでも予約が取れただけでも幸運だったのです。それぐらい大人の発達障害に関する社会資本の整備はこれからなのです。

もう一つ、発達障害という言葉を出すと、まるで「発達障害である」「ではない」の二者択一のように考えしまう人がいます。白黒思考といいましょうか。実際には、発達障害を黒、通常を白とすれば、その中間にはグレイのグラデーションが広がっているわけで、くっきり発達障害の人もいれば、普通だけどちょっとだけ発達障害っぽいという人もいるのです。

僕自身、例えば何かに集中することが難しく、また注意・関心の切り替えが苦手で、二つのことを同時に進める能力は明らかに他の人より低いのです。それを性格の問題として捉えてもかまいませんが、僕はそれを脳の器質の問題と捉えるようにしています。


2010年10月17日(日) 真面目であればあるほど良いと思っていた

母に言われたことがあります。少し兄を見習えと。
母が言うには僕は真面目すぎるのだそうです。
そう聞くと、真面目なことは悪いことじゃないじゃないか、と思ってしまいます。確かに僕から見れば兄はちゃらんぽらんな性格です。母から見ても、兄はいい加減で、弟は真面目に見えるのでしょう。

しかし、そんなちゃらんぽらんな性格の兄のほうが、弟の僕よりはるかに多くの成果を積み重ねています。それは人間関係もそうだし、経済的なこともそうです。僕が依存症になっていろいろ損失を抱えたことを差し引いて考えても、兄のほうがパフォーマンスが高く結果を残しているのです。

例えば兄は子供との約束を平気で破ります。休日に子供と遊びに行く約束をしていても、むしゃくしゃしたという理由で何も言わずに大型バイクで一人日帰り旅行に行ってしまったりします。そのかわり帰ってくれば機嫌良く子供の相手をしています。基本的に子供が好きな兄なのです。

それに比べてお前は・・と母の話は続くのですが、子供との約束を守らねばと思い詰めて不機嫌な顔で相手をされては子供も迷惑だろうと。なんだか子供が悪いことをしている気分になるじゃないか。おまけに、結局は約束をすっぽかすのに、家で寝ているだけで、不機嫌が治らないのだからお前が悪いのである、と続くわけです。

人との約束を反故にするには体調が悪いという理由しか思いつかず、例えば体調が悪くて仕事を休んだ人がへらへら遊びに行っていたら怒られてしまう文化の影響もあるわけで、嫌なことを放り出して好きなことをしたら気分が良くなりましたと平気な顔で言えるヤツは懲らしめてやりたい気分になり、だから自分にもそうした行動を許せないのです。

真面目であるのは、真面目にやった方がより多くの成果を出せるはずだという思い込みから来ているわけです。けれど実際には成果が思うように上がらず、能力以上の努力をしようとして悪循環に陥っているわけです。

成果主義的な考えに従えば、真面目であるよりちゃらんぽらんであるほうが成果が上がるのであれば、どちらを選べばいいのか明らかです。その逆を選ぶのだからお前は愚か者である、というのが母の言いたかったことなのでしょう。(その性格の形成には母もずいぶん寄与しているはずなんだけど、まあそれはともかく)。

真面目にこつこつやって積み重ねなくては・・・とわかっていても、何もかもやる気がなくなってしまうときがあります。電話が鳴っても出る気がしない、玄関の呼び鈴を鳴らされても出られない。メールの返事も面倒すぎる。

そんな時には布団にこもってないといけない気分になるわけですが、そうする義務はなく、映画でもなんでも外に遊びに行っちゃって、機嫌良くなって帰ってきた方がいいのでしょう。

どうせ明日からまた真面目にやんなくちゃならないのだし。


2010年10月12日(火) 閉鎖病棟で3年

アル中の分散収容という言葉を知っている人は、この業界?でもかなりの古参でしょう。
おそらく20年ぐらい前までは、アルコール依存症の人はその他の精神病の人と一緒に精神病棟に入院しているのが普通でした。統合失調の人は入院中は継続して具合が悪いのが普通ですが、依存症の人は酒や薬が切れれば一見マトモに見えるようになってきます(そう見えるだけなんですけど)。自分はマトモだと思っている人に具合の悪い人と同じ行動制限を加えていると、不満が溜まってきます。
そうした不満を持ったアル中さんたちを、一カ所(同じ病室とか)に固めておくと、雰囲気が不穏になり、やがて統合失調の人たちを扇動して「病棟内反乱」を起こすこともしばしばでした。そうなると困るので、病院側はアル中さんを一カ所に固めず、病棟内のあちこちに散らばらせました。これが分散収容です。(古くローマ時代から伝わる知恵「分割して統治せよ」ってやつか?)

そうしたやり方を変えていったのは、久里浜病院での開放処遇です。いままで閉鎖病棟に閉じこめておいたアル中を開放病棟に移し、分散していたものを一カ所に集め(アルコール病棟)、期限の定めの無かった入院を2ヶ月あるいは3ヶ月と決め、ただ寝かせておくのではなく行軍や自省というプログラムを行いました。これが全国に広がった久里浜方式というやつです。

さらには依存症を取り扱うメンタルクリニックが増加したことにより、わざわざ入院しなくても、デイケアを含む通院による治療が普及していきました。こうして閉鎖病棟から開放病棟へ、入院から通院へと、依存症の治療は変わってきたのです。

ところが今でもアルコール依存症の人を閉鎖処遇している病院があります。現場のことを何も知らない僕は、そうした病院は「旧態依然の治療を行っている悪い病院」だと考えていました。けれど、必ずしもそうではないみたいなのです。

先日高名な臨床医の先生の講演を聴いたのですが、その中で、何度入院させても退院すると飲んでしまう人は、閉鎖病棟や保護室に2年とか3年入れておくと酒や薬が止まることがある、という話がありました。そんなに長い間行動制限するのは可哀想と言われるかもしれませんが、人間は大事なものは鍵をかけてしまっておくわけで、その人のことが大事だと思うからこそ(命を救うために)保護室に2年という処遇になってしまう、という解説でした。

前述の病棟内反乱の話でわかるとおり、アル中というのは酒が切れればマトモに戻ったような気がしていても、考えていることは全然マトモに戻っておらずメチャクチャなわけで、それで飲んでしまうというのなら、酒がちゃんと抜けるまで2年閉鎖処遇というのも妥当な話なのかもしれません。

依存症悩み事相談所を開設した覚えはないのですが、家族の方から相談を受けることは珍しくありません。その中にはいつまで経っても良くならず、着信時の電話番号を見るだけで少々うんざりというのもあります。典型的なのは、男性で、年齢は40代、職業は無職か危機的状況、結婚生活・経済生活は奥さんの驚異的な忍耐力によって維持されているか、あるいは一歩進んで実家に戻っておいた母親の年金で酒を飲んでいる状態。暴言があり、説教すれば暴れ、何度入院させても退院すればすぐ飲んでしまい、なかなか再度の入院に同意しない。家族が経済的にも精神的にも疲れた果てている・・。そんな話です。

保護室あるいは閉鎖処遇2年というのは、こうした状況に対する一つの回答なのかもしれません。そういえば、東京の某有名回復施設の所長を長くやったBさんも、飲まない生活の始まる前には保護室に2年入れられていたという話をしていたような気がします。

閉鎖から開放へ、入院から通院へと治療法が変化し、その変化のせいで助からない人たちを生んできたとするなら、昔のやり方も残す必要があるのでしょう。そんなわけで、その講演を聴いて以降、僕の考え方が変わり、その手の相談に対しては、どこそこの病院(そこは閉鎖しかない)に頼んで3年ぐらい入院させてもらったらどうか、という回答をしているのです。本人が治療意欲を持つのを待っていたら死んでしまう病気ですので(死ぬのが本人とも限らないし)。その判断の良否を判定するには数年かかるでしょうけど。


2010年10月06日(水) 患者調査データ発表される

厚生労働省の平成20年患者調査の結果が一部発表されています。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/10syoubyo/index.html

患者調査というのは、全国の医療機関を抽出して、どの病気の人がどれぐらい入院・通院しているか調べた統計で3年おきに調査が行われています。(この後で使う用語の解説も上記のサイトにあります)。

アルコール依存症の総患者数は4.4万人。過去5回とも4万人台で推移しています。アルコール依存症の診断基準(IDC-10)を満たす人は約81万人と推定されますから、依存症の治療を受けている人は19人に1人しかいないわけです。ということは19人中18人は未治療のまま。

依存症についての集計はこれだけしか載っていないので、他の精神病を見てみましょう。
気分障害全体(うつ病、躁うつ病、気分変調症など)の総患者数は104万人。これは平成8年の43万人から2倍半になっています。このうち7割弱がうつ病(F32-33)です。
統合失調症は総患者数が平成8年に57万人、それ以降なぜか総患者数の発表がありません。入院が減って通院が増えていますが、総数に大きな変化はなさそうです。
神経症(F40-48)が59万人。
摂食障害(F50)は総患者数の発表が無く、推定入院数が1.7千人、通院数は1.0千人。このうち神経性無食欲症(いわゆる拒食)が入院1.0千人、通院0.3千人。
自閉症の総患者数は2万7千人。一貫して増え続けています。

話をアルコール依存症に戻すと、昭和の時代には入院数が1万人台後半だったものが、今回は9.1千人とほぼ半減。通院は2千人程度からほぼ倍増しています(とはいうものの近年減少中)。アルコール依存症の治療が入院から通院にシフトしている時代の流れを反映しています。

こうして眺めてみると、目立つのはうつ病の患者が近年ぐんぐん伸びたことです。うつの患者が増えたのは、不景気が続き労働環境が悪化したり、人間関係が希薄になったという、ストレスフルな方向への社会の変化・・・が原因ではなく、製薬会社が新しい抗うつ薬(という利益率の高い商品)を売るために積極的にうつ病のキャンペーンをやったからです。いや、別にそれが悪いと言っているわけではありません。ただ、何らかのキャンペーンを行えば、いままで病院に行かなかった人が「ああ自分のこれは病気の症状なのだ」と思って医者に行くようになるってことです。

だから、もし依存症の新しい治療薬が開発されたり、薬でなくても何らかの新しい治療法ができあがれば、それを提供する会社が積極的なキャンペーンを行って、その結果依存症患者がわんさとクリニックを訪れるようになるでしょう。

でも、今のところそんなうまい話にはなりそうもないので、19人中の18人を治療へと誘う役割は、回復者自身の手にゆだねられているというわけです。なかなかそういうことに税金は使ってもらえないのです。


2010年09月30日(木) 回復とは何か?

アルコール依存症に「治癒はないが、回復はある」と言います。
治癒とは治った状態、病気のない状態です。例えば風邪が治れば、風邪を引いていない健康体に戻るわけです。依存症の場合には、病気がない状態には戻れないのですが、回復はあるとされています。(少なくとも診断基準は満たさなくなる)。

ではその「回復」とは何なのでしょう。どうなれば「回復」なのでしょう。それがハッキリしなければ「回復しろ」と言われても、何を目指して良いのか分かりません。

以前アメリカの回復擁護運動の本を読みました。彼らが擁護(アドヴォケート)する「回復」とはいったい何でしょうか? 彼らは回復について様々な定義を試みたあげく、最後には回復を定義することを諦めています。人によって何を回復とするかは実に様々であり、それを包括できる定義は決めようがなかったのです。「その人が以前より良くなった、回復した」と思えるのならそれが回復、として回復の定義を一人一人に任せてしまっています。

12ステップでは何が回復かはハッキリしています。「霊的な目覚め」が実現された状態が回復した状態です。けれどステップをやる以前でも、ともあれ飲んでいた酒が止まっていれば、それはそれで回復と呼んでかまわないでしょう。

それぞれ勝手に回復を定義して良いということなら、僕は僕なりの回復の定義をしなくてはなりません。それはこんなものです。

飲んでいた頃の僕は「もし・・・だったら」という考えにとりつかれていました。例えば、僕は進学のために上京し、東京での一人暮らしに適応障害を起こして酒がひどくなりました。すると、それを振り返って「もし実家が東京の近くにあったら、自宅から学校に通えて楽だったろうに」と思ってしまうのです。

しかし、長野にある実家が東京近辺に移動することは現実にはあり得ないわけで、「実家が東京の近く」という幸せは、僕の人生のタイムラインの上には実現不能です。つまり幸せを別の人生の上に求めているわけです。実現不可能な幸せを追い求めてしまうのだから、これは不幸です。

この他にも、もし大学を辞めてなかったら、もし会社を辞めてなかったら、あそこで彼女と結婚していたら、結婚しなかったら、あの時大酒を飲んでトラブルを起こさなかったら・・という「たら」「れば」を考えてしまうわけです。それは、人生が過去に分岐していて、自分が選ばなかった分岐(選択肢)の先に幸せがあったはずだ、という思いです。そしてこれは、酒をやめた後も続きました。例えば「もし、アル中になっていなかったら」というやつです。

今はそうではありません。自分の追い求める理想は、自分の人生のタイムラインを未来に延長した先にあります。実際その幸せが実現できるかどうかはわかりません。けれど、この人生(道)の先にその可能性があり、それを目指して歩いていけばいいのだ、と分かっています。

新宿で雨に打たれ歩きながら考えました。自分は大学を中退し、仕事もたびたび辞めてキャリアを中断し、自殺未遂をし、精神病院に入院し、酒で10年分の人生経験を失って、そのツケはいまも払い続けています。けれど、僕の人生はこれで良かったのだ、と。

「自分の人生はこれで良かったのだ」、いまのこの人生は生きるに値する良い人生だ、そう思えるようになることが、僕の回復の定義です。そして、そのような変化をもたらすのに、人間一人の力では不十分だということも。

僕の回復の定義は、飲んでいない期間が長くなるにあわせて、その都度変化してきました。これからもソブラエティが続いていけば、また定義が変わっていくのかも知れません。


2010年09月27日(月) 共依存=支配とコントロール

アルコール依存の人が酒をやめると共依存の症状が残る、というのがこのギョーカイの標準的な理解なのだそうです。

共依存とは「世話焼き」のことだと言う人がいます。例えばアル中の旦那を持つ奥さんが、旦那が酒を飲んで起こしたトラブルの後始末をするのが世話焼きです。二日酔いで体調が悪い夫のかわりに職場に休む連絡をしてあげる。酔って帰宅し玄関で寝てしまった夫を布団まで連れて行く。夫が外で人様にかけた迷惑をかわりに謝ったり弁償したりする。・・・これが共依存であると解釈すると、「酒をやめた後に共依存が残る」という言葉が理解できなくなります。

なぜなら、アル中さんは酒をやめたからといって、誰かの世話焼きを強烈に行うことはあまりないからです。(AAメンバーが誰かのスポンサーになればあるかもしれないけど)。

共依存の本質は世話焼きではなく、支配とコントロールです。奥さんたちは「世話焼き」という手段によって、酒を飲んでいる旦那をコントロールし、状況全体を支配しようとしているわけです。アル中本人が酒によって万能感を味わおうとするように、共依存の人は世話を焼くことによって万能感を実現しようとします。アルコール依存症では酒を飲むことが原因ではなく症状であるのに対し、共依存の場合には世話焼きが症状ということです。

酒をやめたアル中さんたちは、(あまり人の世話は焼きたがらないが)状況全体を支配し、コントロールしたいという欲が出ます。そのために、自分の考えが一番であり、人の言うことは聞きたくない。「アル中は・・・である」とひとくくりにされたくない。こいつらまるでわかっちゃいねえバカばっかり、オレの言うことを聞いていればいいのに、になってしまうわけです。

なぜ支配すること、コントロールすることを望むのか。それは自分の中の満たされない欲求を満たそうと努めるからです。ステップ4ではその様々な欲求に「本能」という名前を付け、自分の欲望のアンバランスさを分析していきます。

しかし、自分の共依存の問題を解決しようとするならば、ステップ4以前に、まずその問題を抱えていることを自分に対して認めねばなりません。アル中が飲酒をコントロールしようとして失敗を重ね、最後にアルコールへの無力を認めるように、共依存でも状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返す自分を自覚し、状況に対して無力を認めることから始めなくてはなりません。

そのためにも、共依存=世話焼きと表現することをやめ、共依存=支配とコントロールという文脈を使っていく必要があります。

ACの問題も共依存です。アル中本人と同じで、ACも症状が世話焼きとは限りません。「ACの特徴」というのを検討してみれば、過剰に物事を推測すること、自分を過剰に批判すること、責任を取りすぎること、取らなさすぎることなどなど、それぞれが自分を取り巻く状況を支配しコントロールするためのものであることがわかります。

しかしながらACの人たちは、状況に対する無力を認めるにしても、自分が状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返している無力ではなく、自分が状況の犠牲者であるからこそ無力だと感じがちです。これではステップ1にならず、後のステップへも進みません。「誰かを悪者にし、状況の被害者をやっているうちは回復しない」と言われるゆえんです。(むろん虐待などで被害を受けた傷のケアとは別の話)。

アル中さんたちが、アルコールの問題から目をそらそうとするように、共依存の人たち(親や奥さんやACの人)は自分に支配とコントロールへの強い渇望があることから、目をそらそうとします。それが「世話焼き」という言い換えとして現れてくるわけです。依存症の人は問題に対する否認が強いのですが、それは共依存やACでも全く同じです。

あるACの人が(その人も回復歴は長いのですが)「自分はACだから準備も完ぺき主義なんです」と言っていたのですが、それを聞いた僕は反射的に心の中で「自分はACだからコントロール欲が強く、完ぺきな準備をすることで状況を支配したいのです」と言葉を置き換えたのでありました。


2010年09月21日(火) 「言いっぱなし聞きっぱなし」だけでは回復しない

自助グループの多くは「言いっぱなし聞きっぱなし」を採用しています。
「言いっぱなし聞きっぱなし」と言われても、自助グループになじみのない人は何のことだか分かりません。言いっぱなしという日本語はあっても、聞きっぱなしという単語は普通使いませんから。「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは、自助グループのジャーゴン(専門用語)であり、内部で使うべきもので、一般に向けて使う言葉ではありません。

これは crosstalk の禁止という意味です。ミーティングで誰かが離したことに対して、直接意見や質問をしないというルールです。
例えば誰かが「酒は飲んでいないが昨日の晩も妻を殴ってしまった」と語ったとしても、それに対して「DVは犯罪だよ」とか「殴られる者の気持ちになってみろ」などと言わないわけです。そのかわり、自分も昔は殴っていた経験とか、それがなぜ止まったのかとか、子供の頃に親に殴られ続けた経験などを話しても良いし、あるいは平然とスルーして自分の話したいことを話します。

人は肯定され、受容されるのを好むものです。批判されたり否定されるのを好む人はいません。だからクロストークがあると、人はそこから遠ざかるようになり、自助グループとして成立しなくなってしまいます。
ましてや、依存症の人たちは(ACの人たちも)自己中心ですから、たとえ建設的で自分の回復の役に立つ意見であっても、指示を受けることを好みません。指示を受けられないで、自分で自分の誤りに「気づいて」修正していくしかありません。

しかし、自助グループが「言いっぱなし聞きっぱなし」だけで機能するかと、そんなことは決してありません。なぜなら「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは自助グループの中のローカルルールであり、社会はそうなっていないからです。仕事で上司から指示を受けて「あなたの言いたいことは分かるが、私はそれをやりたくないのでやらない」などと言っていたら雇ってもらえないわけです。社会復帰のためには、やりたい・やりたくない、ではなくやる必要があることをやらなくてはならないからです。

そもそも回復のためには、やりたくないことも、必要であればしなくてはなりません。

自助グループの多くが採用している12のステップは、やりたいようにやるものではなく、スポンサーの指示を受けながら、その通りにやった時に効果が出るようにデザインされています。やりたい部分だけやる、とか、自分の解釈でやる、というのでは本来の効果が出てきません。

自助グループというのは、「言いっぱなし聞きっぱなし」の非指示的なミーティングと、強力に指示的なスポンサーシップの二つを両輪として進むようになっており、片方だけではグループとしても個人としても成長回復がありません。

話は脇に逸れるのですが、断酒会にはスポンサーシップがないではないか、という人がいます。僕は断酒会員ではないのですが、断酒会で先輩が後輩の世話をするとか、会長が新人を指導するというのが、スポンサーシップに相当するのだと聞いています。さらに、平等意識が強調されるあまり、この「指導」の関係が希薄になりつつあるのが、断酒会員数の伸び悩み(あるいは減少)と関連しているという意見を聞いたことがあります。AAでも、スポンサーシップが弱体化した時期には、停滞感が漂いました(それはまだ続いているかも)。

日本の自助グループの中には、12ステップを採用していてもスポンサーシップが普及していないところが少なくありません。それには、先に成立したAAやアラノンがスポンサーシップをないがしろにしたせいでありましょう。しかし「自助グループに理解がある」とされている援助職の人たちの中に、「自助グループは受容的で非指示的なものだ」という誤解や幻想がありはしないか、と思うのです。だとすれば、そういった誤解を解いていくのも僕らの責任であり、自助グループは受容と指示の両方をバランス良く提供するものだという知識を広めて行かなくてはなりません。

話は少し変わるのですが、日本では「カウンセリングは非指示的なものだ」という考えが広がっています。カウンセラーは話をよく聞いてくれるもので、ああしろこうしろと指示はあまりしない、という考え方です。これは肯定的関心、共感的理解を重視する「来談者中心療法」というのが日本で流行っているからです。

来談者中心療法(Client-Centered Therapy)というのは、その前は「非指示的療法」(Non-Directive Therapy)という名前で、カウンセラーが指示することよりも受容することを重視しています。これはカール・ロジャースという有名な心理学者が提唱した技法で、これを指示する人たちをロジャース派(あるいはロジャリアン)と呼びます。

実は欧米では指示的なカウンセリングが主流で、ロジャリアンは少数派です。しかし、日本ではカウンセラーといえばロジャリアンばかりです。なぜそうなってしまったのか。ある有名な先生がこんなたとえ話をしていました。オーストラリアに入植したヨーロッパ人がウサギを持ち込んだら、天敵がいないのであっという間にオーストラリア中にウサギが広がってしまった。日本のロジャリアンも同じであると。

日本ではカウンセリングも、自助グループもあまり普及しているとは言えません。それは、それは一般にはあまり効果がないと見なされているということでもあります。僕は共感と受容を重視する方針を否定するつもりはありません。そういうことも必要だと思っています。しかし、そればっかりでは困ってしまうわけで、やはりバランスが大事です。日本で自助グループやカウンセリングが流行らないのは、あまりにも共感と受容に偏りすぎているからではないかと思うのです。


2010年09月16日(木) 飲酒夢

例によって、ざっくりとした翻訳です。
元ネタはこちら
Drinking Dreams | A Wake Up Call for Recovering Alcoholics
http://www.everythingaddiction.com/addiction/alcoholism-addiction/drinking-dreams-can-be-a-nightmare-or-a-good-reminder/

Drinking Dreams Can Be a Nightmare or a Good Reminder
飲酒の夢は悪夢かそれとも良い警告か?

土曜日の午後、私たち4人はニューポートビーチの Woody’s Wharf の前の波止場にボートを横付けした。船を泊めた私たちは、通路を上がってレストランの中にあるバーに入った。妻と妻の友人たちは、お休みを言って化粧室へ行ってしまったので、私はしばらくバーをぶらついてから、バーテンダーに氷なしのウォッカのダブルを頼んだ。手渡された大きなタンブラーは、縁まで透明な冷たい液体で満たされていた。私は片手にそのグラスを持ち、もう一方の手を腰に当てて、ぐっと飲み干した。

そしてタンブラーを口から離すと、目の前にスポンサーがいるじゃないか!

・・・というところで私は目が覚めた。

飲酒の夢(あるいは薬を使う夢)は、まだソブラエティ(断酒期間)が短い人たちにはありふれたことだし、ひんぱんにあることだ。それがいままで経験した中で一番リアルな夢だという人もいる。

私もそうした夢を何度も見たことがあり、そのたびに途方もない罪悪感、悪い予感、悲しみを伴って目を覚ました。私はもう一度ニューカマーに戻って、ホームグループで立ち上がり(ワンデイの)白いチップを受け取らなくちゃならならないのか。妻やほかの家族の失望はどれほどのものだろう。

というところで、それがただの夢であることに気がついた。

その気づきは私の心を喜びと感謝で満たしてくれた。それはともかく、こうした夢にはどんな意味があるのだろう? 私たちはこうした夢を気に病む必要があるのだろうか? それは私たちのプログラムが弱まっている兆しだろうか? 再飲酒(再使用)の夢は回復の一部なのだろうか? ほとんどの人は回復の初期に見るだけだが、中には最後の(本当の)飲酒から十年以上経ってから飲酒夢を見る人もいる。

「タダで気持ちよくなれて良かったじゃないか」というのは、あるオールドタイマーがその話を無視するときのセリフだ。大騒ぎするな。そいつはお前に感謝を教えてくれるんだ、というわけだ。

心理学の人たちには別の主張がある。私たちの脳は長年のアルコールや薬の使用で病んでいる。ソファーの上で眠れない夜を重ねて、ようやく眠りと呼べるものを手にしても、それは健康な睡眠にはほど遠い。それほど質が悪くなくても、私たちのレム睡眠がもたらす癒しと回復は、身体が求めるレベルには至っていないことが原因だという。

飲酒夢はしばしばストレスにさらされたときに出現する。言い方を変えれば、人生が山場にさしかかっている時だ。また飲酒夢を見るのはソーバー(しらふ)の人に限られるのも興味深い。

こうした夢を見たときに、最初に思いつくのは、それを秘密にしておこうという考えだ。もしその話がオールドタイマーの耳に入ったら、あなたのプログラムの質に疑いの目を向けられるかもしれない、と心配になるだろう。だが私たちは学んだはずだ。隠し事をするのは(古い考え)古い行動だ。それは私たちを酒や薬に引きずり戻す。

だから一つ提案するとすれば、もし回復の初期にそうした夢を見たら、その夢のことをソーバーの友人やミーティングで分かち合うべきだ。

それはその夢から力を得るばかりでなく、他の人が飲酒夢の分かち合いをするきっかけにもなる。

別の利点もある。そのぞっとする体験は、私たちに飲酒の狂気を思い出させてくれ、ソブラエティのメンテナンスをするよう促してくれる。

ボーナスもある。あなたが生き生きと描写して語れば、きっとグループに良い笑いをもたらせるに違いない。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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