心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年12月06日(月) 発達障害とAC概念の混同

境界線の問題と発達障害について考えています。

境界線(バウンダリ)というのは、他者と自分の間の境界です。健全な境界線を保つことは、健全な人間関係に必要なことです。これがきちんとしていなければ、対人依存や共依存の問題を抱えることになります。また、他者が自分の心の中に土足に踏み込んできたり、不当な要求をされたときに、ちゃんと「ノー」と言えなければ、自分を犠牲者にすることになります。精神の健康のためにも、健全な境界線を保つことは必要です。

ビッグブックのステップ3のところ(p.89〜)に書かれている「何もかも仕切りたがる役者」の話も、基本的に境界線の問題なのでしょう。回復とは「常に自分の頭の上のハエを追う」作業なのですが、自分の問題から目を背けて、人の問題にクビをつっこみたがる傾向はなかなか拭えません。

境界線というと考えるのは「甘え」の問題です。ここで言う甘えとは「他者に対する不当な要求」です。

例えば僕はAAにつながったばかりの頃、人間関係が荒廃して寂しい状態でした。そんな僕のことを相手にしてくれるAAの「先ゆく仲間」の存在をとてもうれしく思い、毎晩のように電話してウザがられました。相手が迷惑している(自分が不当な要求をしている)ことに気づかなかったのです。健全な境界線を保つ方向に努力すれば、こうした形で人を傷つける(やがて自分も傷つく)ことは避けられます。

では境界線はどうやったら保つことができるのでしょうか?

(おそらく)健全な境界線を保っている人の多くは、「どうやったらそれができるか」なんて言語的に考えずに自動的に行っているのでしょう。つまり「場の空気を読む」というやつです。この場の空気を説明しみろと頼んでも、論理的にうまく説明してもらえるとは限りません。

前述の例で言えば、僕からの電話を相手が迷惑に感じていることが、相手の言葉やトーンから「それとなく」感じられれば、もうあんまり電話しない方が良いなと判断がつきます。

広汎性発達障害やADHDを抱えた人は、「空気を読む」「それとなく察する」ことが苦手です。人の気持ちを想像するという能力に障害を持っています。当人は自分がそれができない自覚を持っていません(空気は読めると思っている)。子どもの頃からの成長の過程で、周囲を観察し、ふさわしい行動を考えて導き出す訓練を積んでおり、それによってなんとか社会に適応しています。(彼らの「人と同じようにできる」の根拠はこれだ)。

しかし、それは「肌で感じる」ような自動的なものと違って気苦労も多いし、どんなに考えることに長けた人でも時に手痛い失敗をします。四輪駆動車が普通の車よりより困難な場所で立ち往生するのと同じで、能力の高い発達障害者ほど、より手痛いミスを犯します。結果として自己評価は下がり、自分はできない人だと落ち込むことになります(いやできないのは確かなのだが、だからとて人として劣っているわけではない)。

電話の例を続ければ、相手が迷惑がっていることに気づかずに電話を続けたとすると、やがて相手はやんわりと電話を断ってくるし、それにも気づかずに電話を続ければ、やがて怒り出します。その時になって初めて気がついたとすると、あんなに親切だった人がなぜ急に手のひらを返したように冷たくなったのか、と裏切られた気分になり、人間不信や自信喪失を味わうことになります。

発達障害の人は、自分の何が悪かったのかもわからないまま大変に傷つき、寂しい思いをし、自己評価を下げています。発達障害の問題を指摘し、納得してもらうことは、その人が子供の頃から持っていた「努力すれば人と同じようにできるはず」という偽りの完全性を突き崩すことになるので、一時的にはその人にマイナスです。しかし、やがてその人の自己評価を持ち上げ、自信を持つ結果へとつながるでしょう。

「場の空気をそれとなく読んで、ふさわしい行動を選択する」ことができないのは、何も発達障害の人に限りません。ふさわしい行動とは「見えないルール」のようなものです。人は育った家庭の中で、このルールを身につけていきます。しかし、原家族内のルールが世間一般と全く違っていたらどうでしょうか。育った家庭の中では通用したルールも、学校へ行き、やがて社会に出るようになると通用しなくなります。

アルコール依存症や薬物依存症の親がいる家庭では、世間とは違った「見えないルール」が適用されています。そこで育った子供たち(AC)が、社会に出たときに、いままでのルールが通用しないことでトラブルを起こ、人を傷つけ、自分も傷つきます。これは、

「ジャングルの中で育った人が、生活に必要なものだからとサバイバルナイフを片手に街角に立っているようなもの」

だと例えられます。ジャングル(原家族)で学んだルールではなく、街角(社会)でのルールを学びなおす必要があります。

こうして見直してみると、空気(見えないルール)が読めない人には二種類いることがわかります。ひとつは、発達障害に起因してもともとその能力を欠いている人。他方は、能力はあるのだけれど間違ったルールを覚え込んでしまったACです。適応障害という観点から見ているだけでは、この二つは区別がつきません。

こう考えてみると、AC概念に対して感じているモヤモヤ感が晴れます。つまり、自分をACだと言っている人の中には、実は原因が原家族(環境因)ではなく、発達障害(素因)による人がたくさん混じっていると考えられます。

クラウディア・ブラックの提唱したAC概念はスッキリしたものでした。ところが日本のAC論を読むとどうしても「霧が晴れない」印象をぬぐい去ることができません。この違いはどこから来たのでしょうか。おそらく、日本においてACの概念を、ACoA(アルコールや薬物依存の親を持つ人)から、ACoD(依存症でなくても機能不全の家庭で育った人)へと拡張された結果、症状が似ている発達障害の人たちがAC概念に飛びつき、問題をややこしくしてしまったのだと思います。

なにせACoAであるためには、親が依存症でなくてはなりません。そうでなければACoAにはなれません。ACoDの場合は、原家族が機能不全であればいいわけです。機能不全であるかどうかは(DVや虐待と同じく)外から観察することが難しく、性被害と同じで当事者の申告を重視せざるを得ません。「自分をACだと思えばACだ」との言葉の通り、発達障害の人がACを自認するにはなんの障害もありませんでした。

依存症の人の中に発達障害を抱えた人がかなりたくさんいます(実は依存症でなくて、発達障害の二次障害で乱用状態になっているだけの人も相当いるでしょう)。同じように、ACを自認する人の中に、実は別の問題=発達障害という人がたくさん混じっている、という印象を強く持っています。

境界線の問題は古くからあるものです(昔から人間は人間関係で悩んできたのですから)。それがACの概念を確立させる中で、ACの特徴の一つとして取り上げられました。境界線の問題についてのセミナーなども開かれています。しかし、本質が発達障害である人が、境界線のセミナーへ行ったり、本を読んでみても、得るものは少ないでしょう。それどころか、かえって傷ついてしまったり、トラブルを拡大する方向に行きかねません。本来のACである人は見えないルールを学び治すことができても、発達障害の人にとっては場所を変えて同じ間違いを繰り返すことになり、自己不全感を拡大するだけに終わるのですから。発達障害には発達障害に合わせた支援が必要です。

もちろん、ACoAの問題と発達障害の両方を抱えた人もいるし、さらに親ばかりでなく自分も依存症になってしまった人もいるので、話はややこしくなるばかりなのです(重ね着症候群という言葉を紹介しておきます)。

依存症、AC、発達障害の入り交じった問題を、きちんと整理しなおす必要があるのでしょう。ACの問題を取り扱おうという人は、ぜひ発達障害のことにも目を向けて欲しいのです。


2010年12月03日(金) 一緒に食事を

数年前、AAのサービスのある役割を任されていました。同じ役割を任された者同士、東京にほぼ月に1回のペースで集まって会議をやっていました。会議は午前と午後とほぼ一日続くので、途中に昼食を挟みます。この昼食をメンバーで一緒に食べようと言うことになりました。

それは、限られた時間の中でお互いのことを理解するには、一緒にご飯を食べるのが一番良い、という意見があったからです。

「AAそのものは決して組織化されない」とはいうものの、AAのサービス活動に組織はつきものです。サービス組織の意志決定をするのに、各グループの代表が集まる地域集会というのが年に数回開かれます。関東の集会では毎回丸一日費やしています。当然昼食が挟まるのですが、みんなが会場外へ三々五々食べに出ています。

あるメンバーがアメリカの同じような地域集会に出たところ、昼休みにはみんなで一緒に食事をしていたそうです。たくさんの人が集まれる会議室を用意するだけでも面倒なのに、みんなが一緒に食事できる手配をするのはもっと大変です。なぜそんな面倒なことをするのか? 短期間で親しくなって、自由に意見交換できる環境を整えるためだそうです。つまりは会議の成功のため、サービス活動の成功のためです。

東京で僕らの昼食は、お互い意見が違っていて喧喧がくがくでしたが、時間が経った今でも昼食を一緒にしたメンバーには親しみの感覚が保たれています。「同じ釜の飯を食う」ではありませんが、衣食住の一部でもともにした人とは仲間意識や親しみが芽生えるのでしょう。

僕はそれまでAAの仲間と一緒に食事をするタイプではありませんでした。僕がAAにつながった頃は、メンバー同士ミーティング以外では親しくしないのが普通でしたし(これはたぶんAA以外のグループの影響が大きかったのでしょう。ACブームの真っ最中でした)。けれど、それからの僕は、機会さえあればメンバーと一緒に飯を食うことにしています。

特にスポンシーとは努めて一緒に食事をする機会を作ることにしています。なんと言ってもスポンサーシップは特別な間柄だし、個人的なことをたくさん話し合うのですから、信頼関係を築くためにも親しさはあった方がよいでしょう。ミーティングが終わった後にグループのメンバーとアフターに行くのも好きですし、施設の人たちと一緒に屋外でバーベキューをする企画もあって楽しみにしています。

僕の最初のスポンサーとも(これは偶然なのですが)病院メッセージの前に同じ食堂で昼食を食べたことが何度かありました。二人のスポンサーシップがうまくいったのは、その偶然も寄与していたと思っています。

一緒に食事をすることは、スポンサーシップをうまく成立させるための隠れた秘訣だと思っています。


2010年12月02日(木) 抗酒剤

体内に吸収されたアルコールは、肝臓でアルコール→アセトアルデヒド→酢酸へと分解されていきます。アセトアルデヒドは人体には有毒です。住宅建材に使われたアセトアルデヒドが人体に入れば「シックハウス症候群」になります。また酒を飲む人が喉頭ガンや食道ガンになりやすいのは、アルコールが分解される過程で体内のアセトアルデヒド濃度が上がるからだとされています。

アセトアルデヒドを酢酸に分解するのが「アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)」というタンパク質です。日本人を含むアジア人種(モンゴロイド)には、このALDHの働きが鈍い人がいます。これはALDHを構成する517個のアミノ酸のうち一つが別のものに変わっているからで、遺伝による体質です。

アセトアルデヒドの代謝機能が通常の1/16の人がおよそ人口の半分ぐらい(酒が弱い人)、まったく代謝機能のない人が約5%います(完全なる下戸)。ところが、コーカソイド(白人)、ネグロイド(黒人)には、こういうタイプがまったくいません。おそらく人類がアフリカから全世界に広がっていく過程で、モンゴロイドの一部に生じた遺伝的欠損が伝搬したのでしょう。

下戸の人が酒を飲むと、体内にアセトアルデヒドが溜まります。顔が真っ赤になり、心臓がドキドキし、頭痛がし、血圧が降下します。場合によっては救急車を呼ぶ事態になります。

抗酒剤は、ALDHの働きを人為的に抑えることによって、下戸の状態を作り出すものです。酒を飲んでも気持ちよくならず、具合が悪くなるだけなら「酒を飲むことを思いとどまるだろう」と期待されます。つまり抗酒剤は体に効く薬というより、気持ちに効く薬だと言えます。

抗酒剤の一つシアナミド(商品名シアナマイド)は、日本で作られました。石灰窒素という肥料を作る工場で働いていた人たちに「酒が飲めなくなる」という症状が出ることがわかり、調べたところ石灰窒素に含まれるシアナミドにALDHの働きを抑える効果があることがわかったのです。そんなわけでシアナミドがアルコール依存症の治療補助薬として使われるようになりました。

ただし抗酒剤は使い方の難しい薬です。例えば断酒の意欲のない人に処方すると、平気で飲酒してしまい、救急車の世話になることがあります。これは救急医にとっては大変迷惑な話です。自業自得だし、だいたい反抗的で危険なアル中は救急の現場では嫌われ者です。そこで、抗酒剤を処方した精神科医に激しい苦情が行くことになります。精神科医としてもそれは避けたいので、断酒の意欲が薄そうな患者には処方を避けることになります。

それと、経験した人は分かるとおもうのですが、先に酒を飲んで酔っている状態で、後から抗酒剤を飲んでもあまり効果が出ません(つまり酒が飲める)。それがどういう機序なのかはわかりません。おそらく研究する人もいないのでしょう。

「私に抗酒剤は効かないので処方されていない」と言う人もいますが、その人が飲酒実験をしたときには、たいてい抗酒剤の前に酒を飲んでいます。その日は飲んでなくても、前の日に飲んだアルコールがまだ体内に残っている場合もあります。だから、いったんアルコールを完全に解毒して、肝臓もそこそこ機能を取り戻してから、抗酒剤を服用すれば今度はばっちり効いてくれます。しかし、しらふの状態で改めて抗酒剤を勧めても「私に抗酒剤は効かないから」と抵抗に遭います。こういう人に医者が抗酒剤を出さないのは、体質だからではなく、単に断酒の意欲が薄いのを見抜かれているだけです。

ではあるものの、抗酒剤が効きやすい人、効きにくい人というのがあるのは確かです。

抗酒剤が効きにくい人ってのはどんな体質なのでしょうか。ALDHが関与する前に、まずアルコールをアセトアルデヒドに分解する過程があります。これに関わるのがアルコール脱水素酵素(ADH)です。ADHにはいくつか型があり、ADH1B低活性型というタイプではアルコールの分解速度が遅く、酒を飲んだ翌日まで体内にアルコールが残って非常に息が酒臭くなります(こういう人っているよね)。長時間アルコールが残るために依存症になりやすく、アルコール依存症の3割がこのタイプとなっています(一般の日本人では7%程度しかいない)。

ADH1B低活性型の場合、アルコールの代謝速度が通常の1/40ととても低く、酒を飲んでも体内のアセトアルデヒドが増えてきません。だから抗酒剤も効きにくくなると考えられます。したがって、この場合には抗酒剤の分量を増やす必要があります。病院によっては退院前に「飲酒テスト」を行って、どれぐらいの服用量が適正なのか決めていますが、手間がかかるので通院治療ではほとんど行われていません。

上にも書きましたが、抗酒剤は体に効くというより、断酒意欲を支える心理的効果を狙ったものです。だから「私に抗酒剤は効かない」と言っている人を見ると、確かにそりゃそうだと思ってしまいます。体に効く効かないの問題ではなく、心に効いていないのは明らかですから。

抗酒剤を処方されるということは、医者にそこそこ信頼されているという証(あかし)です。


2010年11月29日(月) アマチュアリズムの大切さ

AAのスポンサーは、広い意味では依存症の「治療者」「援助者」です。ただし、AAのスポンサーはプロフェッショナルではなく、アマチュアです。

ただし、ここで使っている「アマチュア」という言葉は、技術や知識が専門的なレベルに達していない素人レベルという意味ではありません。最近スポンサーを始めたばかりで技量の低い人もいれば、長年経験を積んだ素晴らしい人もいるでしょう。技量の高低ではなく、それによって金を稼がない、非職業的であるということです。

AAに先立つこと40年、フロイトが精神分析という分野を開拓しました。この精神分析を世界に広めるのに活躍したのが lay therapist(レイ・セラピスト=素人療法家)という人たちです。彼らは医療や心理の専門的資格は持たず、精神分析のトレーニングを積んだだけの素人でしたが、それで患者を治療し実績を積んでいきました。これが、非資格的療法家の始まりです。

AAもこの非資格的療法家をスポンサーシップという形で取り入れました。
スポンサーになるためには何の資格も要りません。スポンサーになるためのワークショップや研修制度もないし、資格認定があるわけでもありません。スポンサーは資格ではなく、AAの霊的な価値観をどれだけ実現できているかで判断されます。スポンサーに必要なのは、自分が12ステップをやった経験、それを人に伝える技量、意欲、そしてそのことに割ける時間です。

AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、素人であることをレベルの低さの言い訳にするためではありません。12ステップを伝えるという高い専門性を、素人であるがために(つまりそれで金を稼いで暮らしていないだけに)無料で提供できるわけで、素人であることを誇りにしているのです。

ある医師が講演で「私たちは患者さんを診察時間内しか相手してあげられないけど、自助グループに任せればスポンサーさんが24時間態勢で面倒見てくれる」とおっしゃっていました。スポンサーというのは素人ですから、たいていはAA以外のことで仕事をして金を稼いでいます。そして仕事以外の時間帯、つまり本来だったら家族や趣味のための時間を割いてスポンシーの相手をしています。僕もソーバー1年目には、夜中の2時にスポンサーを電話でたたき起こしたことがありました。そこまでの対応をしてくれる人ばかりではないかもしれませんが、多かれ少なかれスポンサーは生活の時間を捧げてスポンサーシップをやっています。

もしスポンサーシップが有料で、スポンサーがそのことで収入を得て暮らしているとするなら、どんな料金がふさわしいのでしょうか。AAが有料で高価なものになったら、12ステップをどれだけの人が手にできるでしょう? AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、無料で提供することに誇りを持っているからです。

またAAはプロフェッショナルということを完全に否定しています。もし精神科医であるとか、心理の資格を持つ人がメンバーになったとしても、そのことはAAの中では捨てなければなりません。また、依存症関係の回復施設のスタッフは、たいていはどこかのグループのメンバーでもありますが、グループのメンバーとして活動しているときには職業のことは伏せなければなりません。これを「(職業家としての)帽子を脱ぐ」と表現します。AAは素人の集まりですから、回復の業界で仕事をしている人でも、AAに来るときは素人にならねばならないのです。まわりのメンバーも、その人の「素人性」を尊重します。

もちろん、AAのメンバーが施設で働いて、そこで12ステップを伝えることで金を稼いでもちっともかまいません。ステップを伝えることを職業にしてもよいのですが、その場合は職業人として活動するときは、逆にAAメンバーであることを完全に伏せなければなりません。(しかるに、施設スタッフであるのに、某グループのメンバーでもあることが露わなブログをやっている人がいて、そこはきちんとして欲しいと思っているんですけど、まあそれはともかく)。

数年前、某イベントでアメリカの回復施設の若いスタッフが「どうしてAAメンバーってこうなれなれしいんでしょう」と不満を漏らしているのを耳にしました。その人は、有名施設で働いている自分をAAメンバーが上座に奉ってくれないのが不満だったようですが、そうした不満を持つこと自体が霊的価値観を実現できていない証左であり、それにふさわしい扱いを受けただけのことだったと僕には思えます。

繰り返します。AAがアマチュアリズム(素人性)を大事にしているのは、素人であることを技量の低さの言い訳にしているわけではありません。スポンサー初心者は経験不足でしょうし、経験を積んでも技量がなかなか向上しない人もいるでしょう。けれど皆が良いスポンサーになろうと努めています。良いスポンサーとは、回復を伝えるために高い専門性を持つということです。

回復施設をもっと良く12ステップを伝えられるように改革していこうという動きが始まっています。それは必要なことですが、僕はそれだけでは足りないと思っています。施設を退所してきた人たちを受け入れる自助グループの側にも質が求められます。回復施設の改革と、自助グループの改革は、車輪の両輪です。

スポンサーをやる人たちは、高い専門性を無料で提供することに誇りを持って欲しいと思います。それを職業としてないことに引け目を感じる必要はまったくありません。むしろそのことが、霊的な価値観の実現に大きな意味があります。ただ同時に、そのプライドに見合っただけの技量を身につけるために自己研鑽を怠らないで欲しいです。僕も良いスポンサーになるための努力を続けたいと思います。


2010年11月26日(金) ドクター・ボブの言葉の真意

ビッグブックの初版が出版されるまで、12ステップは人から人へ(スポンサーからスポンシーへ)と口伝で伝えられていました。しかし、その方法ではAAはじれったいほどの遅いスピードでしか広がらなかったでしょう。その間にも酒をやめられないアルコホーリクは世界の各地で命を落とし続けることになります。

そこで、初期のAAの人たちは本を書き、それを媒介として、12ステップという「酒をやめる方法」を全世界に伝えることにしました。その時AAメンバーはまだ40人しかいませんでした(本を書いている間に100人に増えたのですが)。

AAというのは、この100人が全米、全世界に散って、各地でアルコホーリクを助けてAAグループを作っていった・・わけではありません。AAの評判を聞いて、ビッグブックを買い求めた人たちが、その本の中身通りにステップをやって回復し、各地でグループを始めていった、というのが正解です。つまり初期メンバーの意図通り、本がステップを伝える手段になってくれたのです。もちろん本を読んでも分からないことがあれば、ニューヨークのAAオフィスに問い合わせするほかはなく、そうした手紙にはビル・Wの女性秘書たちが一通一通丁寧な返事を書きました。ついでに言うと、AAの月刊誌「AAグレープバイン」を創刊したのも女性たちでした。AAが広がったのは、本による伝達と女性の力あってのことでした。

ビッグブックがステップを伝える能力を持っていることを再確認させたのは、1970年代から始まったステップの再興運動でした。ジョーとチャーリーのBig Book Studyによってステップのやり方を学んだ人もたくさんいます。

このように「本によってステップを伝える」というのは、AAがその最初期から持っている基本コンセプトの一つなのですが、それに異を唱える人たちもいます。「そこを否定してどうするんだよ」と思うのですが、その人たちによれば、ステップというのはスポンサーからスポンシーへ直に伝えられていく以外ないというのです。もちろんそう考えるのは自由なのですが、彼らが根拠にしているのがビッグブックに載っているドクター・ボブの体験談の<ある部分>だというのです。しかし、その根拠というのが誤解に基づいているものなので、どこかでその誤解を解くための文章を書いて置いた方が良い、と思っていました。この文章はそのためのものです。

飲んだくれの外科医ドクター・ボブは、ニューヨークから来た株式ブローカーであるビル・Wと会って話を聞き、彼と同じやり方をすることで酒をやめました。これがAAの始まりでした。

酒をやめるように他の人からもさんざん説得されても酒をやめなかったドクター・ボブが、なぜビルと会って酒をやめられたのか? その疑問に対して、ドクター・ボブはこう書いています。

読者の脳裏に自然と浮かぶ疑問は、「その彼は他の人と何か違ったことをしたのか、あるいは言ったのか」ということだろう。(p.252)

彼はアルコホリズムの情報を私にくれ、それが役立ったのは疑うべくもない。何より大切なのは、彼は自分自身の体験からアルコホリズムなるものが何なのかを身をもって知っていた、私が話した初めての人間だったことだ。言い換えれば、彼は私の考えを話した。彼はすべての答えを知っていたが、それは本から得た知識ではなかったのだ。(p.253)

ドクター・ボブは医者であり、それまでもアルコホリズム(依存症)に関する本をたくさん読んでいたと書いています。にもかかわらず酒がやめられたのは、本ではなく同じアルコホーリクであるビルと出会ったからである、というのです。

そのことには疑いがありません。しかし、これをもってして「ステップはスポンサーから渡してもらう他はなく、本から得た知識で行うのは無理である」と結論づけるのは早計であり、誤解を招くだけです。

ドクター・ボブは、ビルと出会う前に、「このビール実験のころ、私は、見るからに落ち着いて、健康で、幸せそうに見える人たちのところに顔を出すことになり、大いに興味を持った」と書いています。この見るからに幸せそうな人たちとは、AAの回復の原理の基礎となったオックスフォード・グループの人たちです。

ドクター・ボブはオックスフォード・グループのメンバーでした。またビルの物語に出てくるビルのスポンサー(ビルの友人エビー・T)も、オックスフォード・グループのメンバーでした。もちろんビル・Wも含め、ビッグブックを書いた40人のAAメンバーは全員がこのグループのメンバーでした。AAがオックスフォード・グループから独立するのはその後のことです。

12ステップの中で、ステップ3以降のすべてのステップは、オックスフォード・グループから受け継いだものです。

そしてドクター・ボブはその原理について「手当たり次第に、ありとあらゆるものを読み、それについて知っていると思われるあらゆる人々と話をした」(p.250)とあります。つまり、ドクター・ボブは回復をもたらす霊的原理についてはとても詳しかったわけです。また、彼はオックスフォード・グループのメンバーから、酒の問題を解決するには霊的手段しかないことも提案されていました(つまりステップ2です)。

にもかかわらず、ドクター・ボブは「毎晩酔っぱらっていた」とあります。彼の得た霊的原理には何かが不足していたのです。

欠けていたものとは何か? それはシルクワース博士が発見したアルコホリズム(依存症)の情報、アル中は酒に対してなぜ無力なのかという病気の知識です。つまりステップ1です。彼は医者であるにもかかわらず、自分の病気のことは知識がありませんでした。そして、その知識を得たとき、回復に必要なすべてのピースが揃い、彼は酒をやめることができ、AAが始まったのです。

つまり、ビル・Wがドクター・ボブに運んでいったものは、ステップ1だったのです。2以降のステップに関してはドクター・ボブはすでに知っていたのです。

ということからすると、ドクター・ボブの文章を根拠として言えることは、本からではなく同じアルコホーリクからしか受け取れないのは、12ステップ全体ではなく、ステップ1のみである、ということが正しい。p.253の文章を根拠として、本からステップを受け取った人のステップを本物でないと主張するのは、単なる勉強不足、経験不足の露呈です。

では、本当にステップ1だけは本から受け取ることは無理で、同じアルコホーリクから受け取るしかないのでしょうか。

僕の経験でもステップ1にはAAミーティングで話を聞く経験がとても必要でした。同じ依存症の人から経験を聞き、自分も同じだと思うことが必要だったのです。そういう意味では同じアルコホーリクの経験に触れることはどうしても必要だったと言えます。

しかし、これについてもビル・Wや初期のAAメンバーたちは解答を用意しています。僕の使っているビッグブックは文庫版で、巻末にはドクター・ボブの物語しか載っていません。しかし、分厚いハードカバー版には、同じアルコホーリクの経験談がたくさん載っています。もちろんその経験談は、読んだ人がAAミーティングに参加したのと同じ効果を得るのを狙って収録されているわけです(表紙カバーのビルの文章を参照)。

そして、その狙いはあたりました。そうでなかったら、AAは今のように全世界に広がってはいなかったのですから。ドクター・ボブがビルからステップ1を受け取る必要があったのは、その当時はビッグブックがまだ書かれていなかったからです。

12個のすべてのステップは、ビッグブックという本から受け取ることが可能です。スポンサーではなく、本から受け取ったステップを「本物ではない」と非難されたとしても、その非難は相手の誤解が原因として片づけておけばいいでしょう。

もちろんステップをやったスポンサーが近くにいるのなら、その人に「ステップを渡してくれ」と頼むのが一番楽です。なにもわざわざ苦難の道を選ぶことはありません。しかし、手近に適任者がいないのなら、ビッグブックを読んでそのとおりに実践すれば大丈夫です。その時にあなたに必要なのは、「意欲と、正直さと、開かれた心」(p.268)です。

もし、あなたがビッグブックだけで回復できなかったとするなら、それは意欲が足りなかったか、正直でなかったか、心が偏見に満ちていたかのいずれかです。その場合にはスポンサーに手伝ってもらうしかありません。


2010年11月24日(水) 現世利益

「AAにいる私たちは霊的原理に従っている。最初はやむを得ず、そして最終的にはそれに従うことによってもたらされる生きかたが好きだから従っている」(12&12 p.237)

12ステップは酒をやめるためにやるものです。しかしそれだけでなく、副次的にいろいろな効果をもたらします。ある人は、ステップをやった結果、奥さんとのセックスレスが解消したとうれしげに報告してくれました。また別の人は家族と別居状態だったのですが、戻ってきてくれと奥さんに頼まれたそうです。どちらも自己評価は上がりまくりで、「ステップやって良かった」という感想になるのもうなづけます。仕事でプラスに評価されるようになったとか、就職できたという話はいくらでも聞きます。

そうした即物的な報酬をあてにしてステップをやるのは間違っている、という意見もあるでしょう。確かにそのとおり。もしこの人たちがセックスレスの解消や、家族との同居を目指してステップをやったとしたら、このような結果に結びついたかどうかは疑問です。あくまで回復という本来の目的のためにステップをやった結果でしょう。

けれどステップをやっていると、しばしば現実的な成果を手にします。つまり、僕らの抱える「性格的欠点」というやつは、それほどまでに僕らが成果を手にするのを邪魔していたというわけです。だからそれが少しでも取り除かれたときに、僕らは成果を手に入れられるようになってきます。

努力に対して報酬が与えられると、人は努力を続ける動機(やる気)を得ます。そうしたフロー効果が起きているときは、ステップに対する理解やハイヤーパワーへの信頼は急速に深まっていくようです。

もちろん、成果を与えるかどうかは神さまが決めることですから、結果が出なくても自分の努力不足だと嘆く必要はないのでしょう。けれど、一生懸命やっているのに成果に乏しいときは、自分の方向性を見直してみたほうがいいかもしれません。

もちろんビッグブックには、ステップをやれば金持ちになれるとか、素晴らしい伴侶を手にできるとか、良い仕事に就けるとは書いてありません。酒がやめられると書いてあるだけです。けれど、その他にあんな良いことや、こんな良いこともあったという記述が、ビッグブック全体に散りばめられています。そこをあえて読み飛ばす必要はありません。

何の報酬も得られないのに努力を続けられる人はいません。「見返りを求めずに奉仕」と言ったって、それ以上のものが与えられるからこそ、即物的な見返りを期待しないだけの話です。

僕らは生活に便利な家電製品を手に入れると、「これは役に立つから気に入った」と思い、それが生活に必要なものだと思います。ステップも同じことです。ビル・Wは霊的であるということは、現実的であることだと言っています。

ステップによって僕らは利益を得ます。それは来世の利益ではなく、今この人生にもたらされる現世利益です。何よりも酒がとまるのです。アル中にとってこれ以上の現世利益があるでしょうか?


2010年11月23日(火) あいさつ

あるスポンシー君がカウンセラーの先生から「挨拶をきちんとするように」という指示をもらってきました。おお、先生ナイス! なんて今の彼にフィットしたアドバイスでしょうか。

職場にでたら「おはようございます」、先に帰るときは「お先に失礼します」と大きな声で言う。こんなシンプルなことがなかなか徹底できていないのです。(ちなみに自分が先に帰るときに「お疲れ様でした」と言うのは不適切)。

ミーティング場を維持しているのにメンバーが増えない、せっかく来た仲間が繋がらずにどんどん消えていってしまう、という悩みを持つ人がいます。AAは宣伝を使わず「ひきつける魅力(attraction)」を使うとありますから、回復した人が魅力を発散していればいいのでしょう。

ではその「魅力」とは何か? それは目に見えないオーラのような、体のどこからどうやって出したらいいか分からないものではなく、もっと具体的な行動であると僕は思います。その一例が挨拶です。

もしあなたがミーティング会場のドアを開けて入っていったとき、先に椅子に座っているメンバーたちが誰もあなたを振り向かず、声もかけず、下を向いて暗い顔をしていたとしたら、あなたはその人たちに回復の魅力を感じるでしょうか? 「こんばんは」とか「よくきたね」とか「最近寒くなったね」と声をかけてくれる人の方に好感を持てるのじゃありませんか?

ちやほやしろと言っているのではありません。ごく普通のあいさつでかまわないのです。帰るときには「おやすみなさい」とか「お疲れ様」とか「気をつけてね」と言えばよいだけです。忙しければ、視線を合わせて会釈するだけでもいいし。

それが他者に対する思いやり(AA用語で言えば配慮とか関心)が行動となって現れたものであったときに、(つまり形だけ真似たものでなかったときに)人はそれを「魅力」として受け取ってくれるのでしょう。

だからグループに魅力があるかどうかは、ドアを開けて入った瞬間に分かります。(それ以前に入り口付近の灰皿の人だかりを通り過ぎたときにわかることもある)。

ステップをやって回復したつもりなのに、誰も自分にスポンサーを頼みに来ない、という悩みを持つ人もいます。その人の内面に変化があったとしても、それが行動の変化となって外に出てこなければ人にはわかりません。(てゆーか、行動の変容を伴わない回復って回復と言えるのか?)

「私たちの場合ほとんどの人が、限られた人しか愛せなかった。迷惑をかけられない限り他人には無関心だった。そしてそれ以外の人たちのことは、まさに嫌っていたし、憎んでいたことを認めないわけにはいかない」(12&12, p.121)

自分のことを「挨拶ができる人間」だと思っていても、実はお気に入りの人だけ相手にし、他の人には礼節を欠いている姿を見られているのかもしれません。

12ステップを小学校で教えてくれればいいのに、と言った人がいましたが、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本があるとおりに、単に僕らが子供の頃にそれを受け取り損ねただけの話なのです。


2010年11月18日(木) 特別なニーズのために

ビッグブックを使ったステップのやり方に出会うまで、僕にとって依存症は「難病」でした。断酒は可能であっても、またいつ飲んでしまうかも分からないリスクが大きい病気だと捉えていました。また、AAでは後から来た仲間を手助けしろと言われるのですが、どうやって手助けして良いか確実な方法を知りませんでした。とりわけ最初のスポンシーでの手痛い失敗以来、僕はスポンサーになることに臆病になっていました。

ところが何の運命のいたずらか、2003年に始まった「(関東)ビッグブックの集い」という集まりに巻き込まれていくことになります。これが僕とビッグブックのやり方との接点でした。2004年には表形式での棚卸しを2回人に聞いてもらっています。2005年にはスポンシーと一緒にビッグブックを読み合わせての分かち合いを試みたのですが、この時は彼を回復に導けず、後にスポンサーシップを解消しています。JoeMのやり方を学んだ僕は、2年後に同じ人にこのやり方を試し、これがうまくいったのです。

それから3年、数人にこのプログラムを手渡すことができました(中にはまだ途上の人もいます)。限りある時間の中で自慢できるような実績ではありませんが、僕は手応えを感じています。自分はこのやり方を深めていけばアルコールに対して安全だし、問題を解決した人たちの共同体も成長していくでしょう。ビッグブックの集いは2008年に活動を終えてしまいましたが、それ以外のいろんな流派?の人も含めて、いまやたくさんの人たちがビッグブックのやり方でステップをやり、それを伝え、実績を積み上げています。

12ステップにはアルコール依存の問題を(他の依存の問題も)解決する力があると確信するようになりました。僕は7年前、8年前とは違った気持ちでAAをやっています。

そのように気持ちが変化すると同時に、スポンサーとしてステップを伝える以外の能力も必要であることに気がついてきました。例えばステップが途中で止まってしまう人がいます。その原因を「やる気の不足」で片づけてしまっていいのでしょうか。特別なニーズを抱えている人がいるのではないでしょうか。

僕としては(依存症の問題を抱えていたとしても)なるべく普通の生活をしたいと思っています。同様に他の人たち(スポンシーとか)にも、なるべく普通の生活ができるようになって欲しいと思っています。働いて、家族と一緒に暮らし、社会の中で責任を果たしていって欲しいのです。もちろん、現実には制約があるし、最初はミーティングだステップだと、普通とは違った生活かも知れません。とりわけ1年目には集中的にミーティングに通って欲しいと思います。すべてが人並みになるわけではありません。

ステップを使って回復したとしても働くことが難しい人がいます。それはステップでは解決できない特別なニーズをその人が抱えているということです。それはメンタルな健康問題かも知れません。発達障害だとか、ひきこもり、トラウマかもしれません。もちろん、その専門家になる必要はありません。いろんな問題についてよく理解し、スポンシーがその問題を抱えていたらアドバイスをし、その分野の専門家にうまくつなげてあげられることが必要なのです。

「スポンサーの役目はステップを伝えることだけだ」と言う人もいます。それでもいいのかもしれません。依存症以外に問題を抱えていない「純粋なアルコホーリク」ならば、ステップを受け取るだけでいいのでしょう。それがボリュームゾーンにちがいありません。

しかし、AAには依存症以外の問題を抱えた人(double disorder=DD、重複障害)も結構たくさんいます。専門家のケアを受けている人も少なくありません。僕が最近発達障害に注目しているのも、それがいままで見過ごされてきたのではないかと考えているからです。大人の発達障害を診断できる精神科医は日本にはまだ少ししかいません。だから非定型うつ病、躁うつ病、人格障害などと誤診を受けてきた可能性があります。あるいは病名もつけられず、単に回復しない(するつもりのない)依存症者としてきたり、ステップをやってもその効果が現れない・現れにくい人として扱われてきたということも考えられます。

ビッグブックのステップが始まる前にもAAは存在し、そこでそれなりに多くの人たちが回復してきました。そこで回復できなかった人には「やる気がないから」というレッテルが貼られてきました。そういう不適切なレッテルを貼った人たちには、自分たちのやり方が万能であるという価値観を心のどこかに持っていたに違いありません。

ビッグブックのやり方が広がって、より多くの人が回復できるようになりました。しかしそれですべてがカバーできたとは思えません。こんどはビッグブックのやり方をしている人たちの中に、「自分たちのやり方が万能である」という価値観が忍び込みつつあるようです。こっちはこっちで、回復できなければ受け取る側に問題があるかのように捉えられてしまうことがあります。(そういったケースのフォローアップを2件やった)。

歴史は繰り返す、ということでありましょうか。

僕もこの3年間の間に1件明確な失敗をやらかしています。それをスポンシーの資質の問題として片づけては、僕は進歩できないと思います。それともう一つ、発達障害については、僕はニッチな分野を相手にしているのだと思っていました。しかしこれは意外なボリュームゾーンかもしれないと考えを改めているところです。

自分のスタンスはどうあるべきかを考えながら書いたので、いつもより長い時間がかかりました。


2010年11月17日(水) ミーティングのテーマ

僕のホームグループ(AAで所属するグループ)では、毎回ビッグブックを読んで分かち合いをしています。ミーティング・ハンドブックという小冊子は使っていません。クローズド・ミーティングでは12ステップに関する部分を読み、オープン・ミーティングではステップ1と2に関係する部分とドクター・ボブの物語を読んでいます。つまり話はアルコールのことか12ステップのことです。

日本のAAミーティングでは、分かち合う話題として毎回違った「テーマ」(つまり今日のお題)を決めているところが大多数でしょう。僕らのグループではそういったテーマは決めず、「お話しは今日読んだところに沿った内容でお願いします」と言っているだけです。

これはどういうことかというと、

「文章を読んでその内容を理解し、内容に沿った自分の体験と考えを数分で話せ」

ということです。やってみると結構難しく、最初に話をする司会者からしてすでに逸脱することもしばしば、というのはご愛敬です。無理して本に話をあわせることをせず、今の自分に必要な話をする人もいます。ともあれ「ビッグブックに沿ってアルコールかステップの話に集中しよう」という理想だけは高く掲げています。(そうすれば同調圧力も働くしね)。

たまに隣のグループにお邪魔するのですが、そこでは12&12かビッグブックを読んでミーティングをしています。司会する人によってはテーマを決めることもありますが、本を読むのであればいつものホームグループと同じスタンスで話をすればいいので気楽です。

実は昨夜、仲間のバースディミーティングで普段行かない会場を訪れました。そこではハンドブックの3章を読んだ後、テーマが出され、すぐに分かち合いに入りました。僕がAAにつながった頃は、こういうスタイルのミーティングばかりでした。今でもたまにこういう「テーマミーティング」に出ることもあります。だから、慣れているはずでした。

ところが、出されたテーマを聞き、これはどのステップの話だろうと考え出したら、頭が真っ白になってしまいました。悪いことに司会者とバースディの人の次に順番が回ってきてしまい、何を話したらいいか頭の中で考えるヒマもありませんでした。よっぽど話をパスしようと思ったのですが、せっかく来たのだから「バースディおめでとう」ぐらいは言いたいこともあって、その後しどろもどろな話をしてしまいました。とほほ。

これは、何が良いとか悪いという話ではなく、自分の普段のスタイルと違う慣れないことをするのは戸惑いの元だという話です。逆に普段テーマミーティングにばかり出ている人が、僕らのミーティングに来たら「なんだこれ?」と思うかも知れません。

「アメリカには日本のようなテーマミーティングはない」と断言する人もいますが、実際にアメリカに行った人によれば必ずしもそうではないようです(似たようなものはある)。topic を決めて分かち合うのは discussion meeting というのだそうです。ただ、そのトピック(=テーマ)は「何でもあり」ではなく、回復の役に立つAAのプログラムに沿ったものが意識的に選ばれるそうです。

NYのGSOのサイトに「ミーティングお勧めテーマ」が掲げられています。

SUGGESTED TOPICS FOR DISCUSSION MEETINGS
http://www.aa.org/subpage.cfm?page=120

一般的なトピック

・12のステップ
・12の伝統
・「ビッグブック」の各章
・「ビルはこう思う」を読んで
・「どうやって飲まないでいるか」を読んで
・AAのスローガン(おのれはおのれ人は人、気楽にやろう、第一のことは第一に、HALTなど)

特定のトピック

・受け入れること
・感謝の気持ち
・ハイヤーパワーへの信仰
・自己満足(ひとりよがり)
・調べもしないで頭から軽蔑すること
・依存
・恐れ
・許し
・ソブラエティで得た自由
・グループの棚卸し
・希望
・謙虚
・アイデンティフケーション(=自分をアルコホーリクだと認めること。話の始めにアルコホーリクの××ですと名乗ることも含む)
・不全感
・棚卸し
・怒りを手離す
・友人とは友好的に(=専門家援助職との協力)
・今日一日を生きる
・埋め合わせをする
・黙想
・開かれた心
・参加して活動する(=AAに)
・忍耐と寛容
・個人的な霊的体験と霊的目覚め
・やることの計画を立てる――結果(の計画)ではなく
・私たちのすべてのことにこの原理を実行する
・個人ではなく原理(に信頼を置く)
・幻影――未来の残骸の中で生きる
・恨み
・私たちの責任
・徹底した正直さ
・(心の)平安
・サービス
・スポンサーシップ
・最初の一杯を遠ざける
・全面降伏
・三つのレガシー、回復、一体性、サービス
・12番目のステップを行う
・12の概念
・アノニミティを理解する
・AAのメッセージを運ぶ方法
・ソブラエティとは何か
・意欲
・仲間と共に

・・・ちょっとハードルの高いトピックかもしれませんが、こういうテーマでミーティングをすればグループもメンバーも成長できるように思います。


2010年11月15日(月) 回復研フォローアップ

先週末の回復研の集会で質疑応答のコーナーがあり、そのなかでACの方から、

「ステップ4で過去のことを棚卸し表に書こうとすると、フラッシュバックが起きて具合が悪くなってしまう」

という質問がありました(言葉は正確ではないけれど、だいたいこういう意味だったと思う)。司会者が僕に振ったので、僕が答えたのですが、限られた時間の中で説明できなかったこともあるので、ここに少し書いておこうと思います。

僕は棚卸しでフラッシュバックが起こる人をスポンシーに持ったことはないので、経験からどうしたらいいかという話はできません。だから、他の人が分かち合ってくれた経験を伝えることにします。回復研というのは、ジョー・マキューという人が確立したステップのやり方を紹介していくのが目的です。AAやNAのメンバーがこのやり方でステップをやれば、それは「ジョーのステップのやり方」でやったということになります。これを回復施設のプログラムとして仕立て直したのが「リカバリー・ダイナミクス(RD)」です。

この「ジョーのステップ」とRDを日本に紹介したのがIさんです。ジョーのやっている施設に一ヶ月滞在して日本に戻ったIさんは、さっそくこのやり方を何人かに試してみました。この時期たまたまIさんの周りにはACの色彩が濃い人たちが集まっていたようです。ところが、その人たちがステップの途中で具合が悪くなってしまいました。そこで、まだ存命中だったジョーに相談したところ、強いトラウマは12ステップではなく、専門家の手によって解決すべきだというアドバイスをもらったそうです。(しつこく何人も試さず最初の一人か二人で気づけよってツッコミはともかく)。

また(僕は記述箇所をみつけていないのですが)、ジョー&チャーリーの本にも強度のトラウマは棚卸しではなく専門家の手によって解決すべきだとあるそうです。

もちろんステップによってトラウマの問題を乗り越えた経験を話している人もいますし、ビッグ・レッド・ブック(BRB)のステップでは被虐待の問題を取り扱っており、ステップがトラウマの解決に役に立たないわけではないでしょうが、強度のトラウマには専門家による解決をお勧めすることにしています。

つい何ヶ月か前、西澤哲先生の一般向け講演を聞く機会に恵まれました。この先生は被虐待やトラウマの専門家で、プレイ・セラピーという手法を使われています。その技法はステップとは異なるものです(何らかのバリエーションではないという意味)。話を聞いた印象では、トラウマを乗り越えて得た自己像と、12ステップによって回復した人たちの自己像は、共通するところがたくさんあるように思いました。おそらく精神の健康という点では共通しているからでしょう。また、最近日本に紹介されているEMDRもステップとは異なる手法です。

とすれば、「ステップがトラウマに歯が立たないとは言えない」ものの、強いトラウマを抱えた人がステップにこだわるのはリスクが大きく、専門家の手にゆだねた方がよいと言えます。トラウマを乗り越えてからなおステップをやりたければ、その時にやればいいと思います。

それとは別に発達障害のことを書いておきます。発達障害を抱えた人にRDが効果があるかどうか、というのは大事な話です。

今年の2月にダルクの招きで、ジョーの後継者であるラリー・Gが奈良でRDのワークショップを行い、僕も参加させてもらいました。発達障害のことを尋ねてみたかったのですが、皆に関係のある話でもないので質疑応答の時間は使わず、昼食を済ませたあとのラリーをつかまえて質問してみました。

「セレニティー・パーク(RDの本拠的施設)では発達障害の問題に対して何かケアをしているのか。また、アメリカでの依存症と発達障害の重複障害の現状を教えて欲しい」

という僕の尋ねに対し、セレニティー・パークでは発達障害を抱えた人は扱っておらず、他の施設へ紹介している。アメリカでは発達障害を抱えた依存症者は、その人たち専門のグループに通い、専門的なケアのできる施設に通っている、という答えでした。

ジョー&チャーリーにせよ、RDにせよ、すでに30年以上の経験が積み重ねられています。その中で強度のトラウマや発達障害に対する適用には慎重な姿勢が作られてきました。僕はそうした実体験はありませんが、先達の経験は尊重するべきです。ジョー、チャーリー、ラリーの経験に対して異を唱えて無謀をする必要はありません。彼らの自らの限界を知る姿勢は好感を呼びます。

何でもステップで解決できるわけではなく(当たり前の話)、個別の問題には個別の対応が必要です。自助グループでスポンサーをやっている人が、そうした専門的な技量を持つ必要はないし、それを求められてもいません。ただ、自分の限界をよくわきまえておき、必要に応じて専門家につなげることが求められているわけです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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