ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年06月14日(火) 依存症になった原因は重要ではない 統合失調症は「破瓜の病」とも呼ばれました。破瓜(はか)とは思春期を示す言葉で、そのころに発病する人が多いからこう呼ばれます。
息子や娘が精神病になると、親は悩みうろたえ、病気になった原因を探そうとします。そして受験や就職の失敗、失恋などが原因だったに違いないという考えになることがあります。その原因を取り除けば子供の病気が治るのではないかと期待します。そこでもっと易しい別の大学に入学させたり、別れた恋人によりを戻してくれるように(親が)頼むケースもあるのだそうです。
もちろんそれで病気は治りません(そもそも因果関係が逆で、病気の発症が先に起こり、症状が原因で受験失敗や失恋が起きていているわけです)。
なぜこのような話を取り上げるかというと、どんな病気であれ、病気になったときに人はその原因を考え、見つけた原因を取り除くことで病気を治そうとするものらしいのです。それは不条理に対抗しようとする人の心の動きなのでしょう。
東北の大震災がなぜこうも辛いかと言えば、それが不条理だからです。なぜ東北の人たちが大切なものを失って苦しまなければならないか、その合理的な理由がないからです。もし東北の人が悪人で、悪事を働いた結果罰が当たったのなら、それは因果応報と諦めることも可能かもしれません。しかし、そこにいるのは無辜の人々です。
病気も同じように不条理なものです(もし悪人だけが病気になるのなら、病院と刑務所の区別がつかなくなります)。だから人は病気の原因を探そうとするのでしょう。原因つまり因果がわかれば、不条理を条理にすることができるからです。
だから当然、依存症の人は「私はなぜ依存症になってしまったのか」という問いを発することになります。
アルコール依存症ならば、酒を飲んだのが原因でしょう。しかし、同じように飲んでも依存症になる人もならない人もいます。その違いはおそらく(遺伝的な)体質でしょう。ではなぜ自分がその体質に生まれてきたか(遺伝だというのならなぜ別の親から生まれなかったか)、それに対する答えは得られません。
酒を飲んだ理由も人それぞれです。親がアル中でアルコールに親和性があったという人もあれば、仕事の疲れを癒すために、うつの自己治療で酒を飲み過ぎたという人もいるでしょう。
実のところ原因探しは役に立ちません。
確かに、依存症になる人・ならない人がいる以上、なった人には特異的な原因があるに違いありません。しかし、その原因は依存症の本質でもなければ、回復に役立つものでもありません。たとえば、ビッグブックでは原因論には立ち入っていません。12ステップという回復の道具は、依存症になった原因を扱わないのです。
アルコール依存症ならぬ「アルコール以前症」という言葉を使う人がいます。アルコールを飲み出す前から自分はどこか変だったと感じている人が、「だから自分はアル中になった」という理由を説明するための俗語です。でもそれは回復が難しい理由にはなりません。依存症は原疾患であって合併症ではありません。依存症の元になった病(あるいは原因)を探しても無駄なことです。
アル中の中には親もアル中という人もいます。ご自身はAC(アダルト・チルドレン)かつアル中という立場です。この場合、AAのプログラムとACのプログラムとどっちを先に取り組んだら良いか、と言えば「当然AA」です。ACのケアもする必要があるでしょうが、酒を飲みながら、あるいはいつ酒を飲み出すか分からない不安定な状態でACのことをやっても効果が上がるはずがありません。だから、しっかりと酒をやめることが重要であり、AAの12のステップを先にやるのは当然です。(ギャンブルの場合も同様ね)。
ACの人は傷ついているから、AAの12のステップに取り組めないのではないか、という心配をする人もいますが、まったく心配は要りません。いままでのスポンシーのなかには親がアル中という人もいましたが、彼らの
AC性がAAの12のステップに取り組む障害になることはまったくなかった
と断言できます。(むしろ問題になるのは発達障害のほうですがそれはまた別の話)。
もちろん身体的にひどい虐待を受けたケースでは話が別で、そんな場合には自助グループでなんとかしようとせず専門家のケア(カウンセリングなど)を受けてください。そういった重篤なケースを除けば、AAで十分回復してからACのことに取り組むという方針でオッケーでしょう。AC性を12ステップに取り組まない言い訳に使っている人は少なくありません。それによって一番不利益を被っているのはその人なんですけどね。
僕はACや共依存や○○ノンのミーティングにはほとんど行ったことがありませんが、そちらには(回復していない)依存症の本人が混じってしまっていて、物事を余計にややこしくしていると話に聞きます。むべなるかな、です。
2011年06月10日(金) ゲームプレイヤーの自閉的特性 Aileはなぜプレイ動画に「激怒」したのか? 「徹底交戦」ににじむゲームメーカーの怒り
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1106/10/news014_3.html (魚拓)
ニワンゴが運営するユーザー参加型動画共有サービス「ニコニコ動画」には、プレイ動画と呼ばれるジャンルの動画が多数アップロードされています。
プレイ動画とは、PCゲームをプレイ中の画面をキャプチャしたもの。他人がゲームして遊んでいる画面を眺めて何が楽しいのかは知りませんが、明らかな権利侵害であるにも関わらず次から次へとアップロードされています。アクションゲームならいざしらず、ストーリーが一本調子に進むゲームでは、プレイ動画の存在はゲームをするものの楽しみを大きく奪っています。
それでも多くのメーカーがトラブルを恐れてプレイ動画を黙認、あるいは削除依頼のみで済ましている中、ギャルゲーの新参メーカーAile(エール)代表のみやび氏は、あえて「徹底交戦」の道を選び、アップロード者を相手に民事訴訟を起こす、というのが記事の内容です。
で、プレイ動画の是非は脇へ置くとして、みやび氏が最近のユーザー層について語っているところがなかなかに興味深いので引用しておきます。
> 例えば伏線ってあるじゃないですか。今のユーザーの傾向として、伏線を伏線として読み取れないケースが多いんです。あからさま過ぎるくらいでないとダメ。
> あと物語に隙間があってもいけない。イベントとイベントの間に何があったのか、ちゃんと全部書いてあげないと「話が分からん」って言う人が出てくるんですよ。
> ―― 行間を読めない?
> 一を聞いて十を知るということがあまりないんです。僕はよく「想像の翼をはためかす」って言うんですが、それが出来ない。自分で考えようとしないで、何でも「公式」でないとだめなんです。
なかなかに自閉性を感じさせる話です。
ゲームに限ったことではなく、最近のテレビドラマにも似た傾向があり、伏線はあからさますぎるほどハッキリと呈示され、俳優の演技はオーバーアクションでわかりやすすぎ、ナレーションはくどすぎ・・。見ているこちらがバカにされているのじゃないかと感じるほどです。でも、そうでないとドラマが楽しめない人が増えているからこその表現なのでしょう。(韓流ドラマが流行ったのも同じ文脈でしょう)。
「自閉的特性を持った人が増えてきたのではなく、時代とともに社会が変わったために、そうした人が社会から押し出され目立つようになってきた」
というのが僕の持論だったのですが・・・。必ずしもそればかりではないのかもしれない、と思い直すようになってきました。
つまり、自閉的特性を持った人が、昔(数十年前)より増えてきている、ということもあるのかもしれません。(この1行はそうした特性を持った人のためにわざわざ追加している)。
2011年06月09日(木) 映画「光のほうへ」 「アヒルの子」に触れたのであれば、「光のほうへ」にも触れておかねばなりません。
「アヒルの子」の主人公さやかの親はアル中ではありません。幼い頃の1年間に不幸なことがあり、その影響を後々まで引きずったにしても・・・客観的に見れば彼女の境遇は恵まれています。親も愛情あふれる親です。しかし親が差し出した愛情と、子供が欲しいと望んだ愛情の間にズレがあったわけです。いわば供給と需要のミスマッチです。
自分をアダルト・チルドレン(AC)だと自覚している人には、こうしたミスマッチ・タイプの人が実に多いように感じます。例えば親の金で大学まで出してもらっておいて、それで今ひきこもり同然なのは親が原因ですって言われてもどうよって気はするわけですが、あくまで「ACの問題は、親がどうしたかの問題ではなく、子供がそれをどう感じたかの問題」なのです。
「アヒルの子」の主人公さやかの物語は、ACの人がひたすら「行動」することで、主観の限界を突き破り、他者の視点を導入することで、自分がウソを信じていたことを知っていく物語でもあります。
ちょっと話が逸れるのですが、依存症本人も、その配偶者など家族も、あるいはACの子供の世代も、何らかのウソを信じています。どんなウソを信じているかはそれぞれに違いますが、何らかのウソを信じている点では共通です。そのウソはその人がそのままに(つまり回復しないままに)生きていくことを可能にしています。そのウソは、時にその人の信念ともなり、その人の一部ともなっています。回復とはそれを否定し捨てることでもあるので、当然に痛みを伴います。
痛みを伴おうが何だろうが、ともかく回復という出口があるのは良いことです。
映画「光のほうへ」は、そうした出口を持たないアダルト・チルドレンの映画です。
映画の冒頭、ティーンエイジャーの兄弟が登場します。二人は母親と同居しているのですが、この母は酒浸りでまるで頼りになりません。飲んだくれて帰ってきては、散らかりきったキッチンを引っかき回し、「私の酒がない! お前らが盗ったんだろう」と子供たちを責めます。挙げ句にキッチンの床に座り込んで寝てしまい失禁します。兄弟にとっては慣れた光景であるらしいのですが。
生まれたばかりの小さな末っ子の世話は、母親ではなく二人の役目です。お金がないので彼らは粉ミルクを万引きしながら懸命に幼い弟の世話をし可愛がります。そんな彼らが憶えたばかりの酒で酔いつぶれている間に、赤ん坊が死んでしまいます。その喪失感。映画はこの兄弟のその後を追います。
原題SUBMARINOの意味は、頭を水中に何度も沈める拷問の意味です。死にそうになると頭を引き上げられ、助かったと思うとまた苦しみの中に沈められる・・その繰り返し。
大人になった兄ニックは、母親と同じ飲んだくれになっています。刑務所から出所した彼は、ホームレス用のシェルターの世話になりながら、体を鍛えることと酒に溺れる生活を続けています。一方弟は結婚したものの妻を事故で失い、幼い息子と暮らしていますが、立派なシャブ中になっています。母親が彼にしたように、彼もまた息子に満足に食事すら与えられない生活になっています。
兄は弟を案じていますが、でも会いに行くことはありません。二人が再会するのは母の葬式。この映画ではバラバラになった家族を結びつける絆は人の死だけなのです。「ビールは安いからな」と言って兄は弟に遺産をすべて譲ってしまいます(そりゃ覚醒剤は高いよ)。でも、アクティブなアル中・シャブ中に金を持たせるとロクなことは起きないのはご存じの通り。
映画の結末にそこはかとない希望を感じる人もいるようですが、劇中の悲惨がその先も繰り返されないという保証はありません。水に頭を漬けられた人のように、もがき苦しみながらもなんとか生きようとする人々。希望のない状況の中でも人に思いやりを示そうと努め、しかしそれがさらなる悲劇を生み出していく連鎖。
日本映画のように、誰かが泣いたり叫んだり、説教するシーンはなく、淡々とストーリーが進行していきます。「物事の善悪を決めるのは人間ではない」というテーマで貫かれているかのように(たぶんそのとおり)。もちろんそうでなければ最後まで見られない映画になっちゃうでしょうけど。
これが実は福祉国家デンマークの映画なのです。いかに医療・教育・福祉が充実しようとも、恵まれない家庭で育った子供たちが、大人になって同じような家庭を作る。貧困が、低教育が、不健康が、暴力が再生産される。これがいわゆる「負の社会遺産」というもので、アディクションはそれに深く関わっています。
アダルト・チルドレンについて何か語ろうとする人には、ぜひ見ておいて欲しい映画です。
今月前半のシネスイッチ銀座をふりだしに全国を巡ります。
6/10(金)の最終上映後には、東ちづるさん×信田さよ子のトークイベントもあるそうです。
映画『光のほうへ』
http://www.bitters.co.jp/hikari/
映画『光のほうへ』予告篇
http://www.youtube.com/watch?v=FoUG7zg9srk
SUBMARINO (2010) - Trailer [HD]
http://www.youtube.com/watch?v=t2o-LFchkNQ
2011年06月07日(火) 映画「アヒルの子」 映画「アヒルの子」については、以前の雑記ですこし触れただけです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100517
映画の話をする前に、アダルト・チルドレンの話を少ししておきます。
アル中のいる家は他の家とルールが違うといいます。(ここで言うルールとは法律のような規則ではなく、人間社会を成り立たせている暗黙の決まり事を示します)。例えばアル中お父さんの酒に多くの金が費やされ、家計の他の部分を圧迫しています。大事にされるべきことが大事にされず、酒のほうが大事にされています。酒のせいで脳がやられて気難しくなったお父さんの機嫌を損ねないように、他の家族が気を使いながら生活しています。その他いろいろ違いを挙げていけばきりがありません。
子供はまず家の中で社会のルールを学びますから、アル中の親を持つ子供たちは一般社会とは違うルールを学びながら成長します。そんな彼らもいつかは大人になり社会に出てきます。多くの人たちは幼い頃から家庭で学んだルールと、一般社会のルールが一致しています。しかし、アル中の家のルールは他とは違っているので、その家で育った子供たちは、社会に出てみると自分の学んできたルールが通用しないことに気づきます。(いや、通用してないことに気づけば大したものだけど)。そこに彼らの悩み苦しみがあります。自分が子供の頃から身につけてきた「正しさ」と、社会の「正しさ」に齟齬があるわけです。
こんなたとえ話があります。ジャングルの中で生活する人は、大変過酷な環境を生き延びるために、様々なスキルを身につけます。例えばサバイバルナイフ一丁で狩猟も調理もしなくちゃならないし、服や家もそれで造らないとなりません。生き残るためにはその能力が必要なのです。そんな人が、都会に出てきたらどうなるでしょう。むき出しのサバイバルナイフを手にして交差点に立っていたら、たちまち警察につかまってしまうでしょう。環境が変われば、新しい環境に応じたルールを身につけねばなりません。
ここで、ジャングルとはアル中の親のいる家庭であり、そこで育った子供たちが出ていく社会を都会に例えています。サバイバルナイフで何でも加工できる能力は素晴らしいものですが、残念ながら都会ではそんな能力は必要とされていません。生き残るために別の能力が必要なのです。
アダルト・チルドレンの問題とは、彼らが不条理な家庭の中で生き残るために身につけた能力が、その家庭から社会に出て行くときに適合の足かせとなってしまうことです。そこには、自分の「正しさ」が通用しない社会への恨みと恐れがあります。いままで自分が信じてきた「正しさ」を否定する辛さと恐れがあります。間違った「正しさ」を教え込ませた親への恨みがあります。
さて、「アヒルの子」は日本映画学校(現在は日本映画大学)の卒業制作として撮られた映画です。
監督にして主役の小野さやかは、5才の時に親から離され、幸福会ヤマギシ会の幼年部に1年間預けられた経験を持ちます。ヤマギシ会は農業をベースとしたコミューン団体です。隆盛を極めたのは1980年代だったでしょうか。コミューン内に子供たちに理想の教育を施すための初等部・中等部・高等部を備え、小学校入学前の子供たちを親から預かって団体生活をさせる幼年部が存在した時期がありました。
1980年代と言えば、学校が荒れ既存の教育に疑問が持たれだした時期でもあります。ヤマギシ会の掲げる教育の理想に感化され、幼年部に子供を預けた親は全国にいました。しかし、数十人の子供たちを数人の「お母さん役」が面倒を見る仕組みは元々無理がありました。自由にのびのびというより、理不尽なことも多い環境だったでしょう。
しかし、これはヤマギシ会を指弾する映画にはなりません。親から1年間切り離された幼い彼女は、それによって「親に捨てられた」と強く感じ、家に戻って以降は二度と捨てられないために、自分を押し殺し周囲の期待に応える「いい子」を演じ続けます。そんな彼女が東京の学校に進み、家族から切り離されたことで、どうやって社会の中で生きていったらよいかすべを知らない自分に気づき絶望します。
「自殺する前に、自分をこんなにした家族をぶっ壊す映画を撮る」・・そうしてできあがった映画が「アヒルの子」です。
彼女は映画スタッフを引き連れ、家族の一人一人と対決していきます。次兄、長兄、姉、そして父と母。これはドキュメンタリー映画です。彼女の親はいずれもアル中ではないものの、現象面から見ればこれはアダルト・チルドレンの回復の物語と言って差し支えないでしょう。
内容については多くを触れません。ただ、彼女の回復はスクリーンの中より外で起こっていると言えます。(その意味では、映画を見るだけでなく彼女の話が聞けた僕は幸運です)。例えば上映後の舞台の話でこんなエピソードが紹介されていました。
映画は一人で撮れるものではありません。カメラも録音も編集も必要です。だからチームで作るのですが、彼女は他のスタッフをまるで信用していませんでした。「この映画が完成しなかったら、死ぬ前にお前ら全員殺してやる」と人を脅すことしか知らない危ない女だったわけです。さて、映画の最初のほうに彼女が次兄に肉体関係を迫るシーンがあります。ここはプライベートな部分なので他のスタッフは部屋に入らないのですが、人を信用しない彼女はカメラを全部自分でセッティングしました。・・・そのせいで、カメラの録音スイッチを入れ忘れてしまいます。一生に一度しか撮れないシーンが音声なし。その結果「人を信用しなければこの映画は完成しない」ということを知るのです。
完成した映画は、「甘えている」「人としてやっていけないことがある」などなど人々の非難に晒されることになりました。しかし一方で「もっと家族を壊して欲しかった」という感想も寄せられたのでした。それは、彼女と同じように家族の中で傷ついた人たちで、彼女の経験が多くの人たちの中で共有されました。結果、彼女はこの映画を公開し、より多くの人たちに見てもらうという目標を持ちます。
公開するには登場する家族の承諾を得なければなりません。内容が内容だけにこれは簡単な話ではありません。実際、完成から公開まで年単位の時間がかかっています。しかし彼女にはすでに目標があり、その目標のためには、自分が信じてきた「正しさ」を捨て、自分が「間違っている」と思っていた相手の気持ちにより添っていくすべを身につけていきます。その過程に回復があったのでしょう。
実は最初この映画を見る積極的な気持ちはまるでありませんでした。「今さらACの映画とか被虐待の映画とか見たってしょうがねえよ」とネガティブなことを言いながらスクリーンの前に連れて行かれたのですが、映画は強い印象を僕の中に残しました。おまけに翌日まるで関係ない場所で彼女にお会いする機会を与えられ、さらには今年の二月に僕の地元で上映会があり、スポンシー一人を伴って見に行き、さらに話を伺うことができました。いまではこの若き才能を応援する気になっています。神さまはまったく意外なことをされるものです。
スクリーンの中の彼女の顔は憎しみに歪んでいます。しかし、上映後の舞台に登場した彼女は輝きに包まれていました。人間には表面的な造形の美醜があるにはあるものの、結局人の好感度というものは内面の表れであるわけです。
全国あちこちで上映が行われているので、アダルト・チルドレンの回復に興味がある方はご覧になって下さい。
最新情報は
ドキュメンタリー映画「アヒルの子」
http://ahiru-no-ko.com/
直近では、6月18日〜24日
「川崎市アートセンター」
http://kac-cinema.jp/theater/detail.php?id=000408
ああ、なんか長い雑記になりました。もう一つアダルト・チルドレンの映画を紹介する雑記を書こうと思います。それは次回。
2011年06月02日(木) Nさんのメール 「家路」を読んだ方からメールを頂きました。
雑記への転載をお願いしたところ、快くお許しをいただけました。ありがとうございます。
ご感想などありましたら、掲示板か、あるいはひいらぎへメールでお寄せ下さい。
−−−−
はじめまして
末期のアルコール依存症から立ち直れずに
今月16日に心臓発作で亡くなったという事です
わたしは彼と6年間共に笑い、共に苦しみ
支えられたり支えたり・・限りなく魂の美しいアル中くんでした
27歳のころに依存症であると認め
病院にも入り、優秀な成績で卒業
その後、個人の依存症患者専門の病院で働き(食事を作る)
10年ほど酒とは縁のナイ生活を続け
又、同じように苦しむ人々を励ましながらまじめに働いていたようです
その後、先生自身の老齢もあり、病院閉鎖・・職業を失い
整体の免許を取得した後は自宅で整体師として頑張り
そのころの出逢いでした。
家族と本人が依存症であると認めるまでの彼はこのHPに記されている通りの
人生を歩み、職を失い、離婚、身内の疎遠、多額借金で母親を苦しめ
彼の家族の願いは死んで欲しい・・ただそれだけだったような気がします
そんな彼を引き取り(結婚はしておりません)
ともに生活を始め・・幾度もスリップし立ち直りスリップしの繰り返し繰り返し
病院だけはイヤだ自力で立ち直れる力はあるんだと・・
本当に素晴らしい男性でした
誰からも好かれ、笑顔が可愛く、動物を愛し、誰にでも優しく
彼がどうであれ・・最後まで見届けようと決めておりました
ゴールデンウィークの最後の方でケンカ
ケンカの原因はいつも隠れて飲むお酒の事
それしかありません。
そのころには・・根底を覆し
俺はアル中じゃないんだ・・お前は知らないだけで毎日適量を飲めていた
それ以上は飲まない・・仕事に差し支えるから
節酒出来る人間がアル中な訳はない
なんで誰でも楽しめる・・仕事の後の一杯が俺には出来ないんだ
もう何か月も飲んできた・・カップ酒1個それを飲んで寝ていた・・シアワセだった
だから俺はアル中じゃないんだ・・飲ませてくれよ・・取り上げないでくれ
お金もお酒も取り上げると
彼は家財を破壊しまくり・・出て行った
どうせ実家に帰って・・死ぬほど飲まされて
禁断症状が出て・・怖くなって・・お酒を自力で抜いて
ゴメンって言って帰ってくるのは目に見えていた。
何度もそれを繰り返し・・わたしは迎えに行っていたから
もうそろそろかも♪と自分の方が電話するのもしゃくだけど
大好きだったから・・電話を入れた 5月23日
母親が出て・・
亡くなったって
9日に様態が悪化
16日に心臓まひで死亡
解剖されて、お通夜も葬式も済んでいて・・
彼は跡形もなくわたしの前から消えていたの
どうやってこの死を納得すればいいのか
いまだにワカラナイでおります。
死亡してから一日が経過しており・・解剖
お酒だけを与えられ閉じ込められていたから
発見が遅かったのだと思います
睡眠薬は危険なのは本人も家族も知っていると思うのに
飲んだとわたしは思います
彼は不思議な人で
就職するたびに健康診断書を提出するのですが
病院の検査を受けるたびに先生に褒められておりました
タバコは吸っているけど・・肺はきれい
肝臓も胃腸も健康・・悪いところがないのです
毎日犬の散歩で早朝から走り・・山登りとスキューバが趣味な健康な肉体
それもあれだけ飲んで
床ずれができるまで寝ていて・・トイレにだってゆけない状態の
末期のアル中が・・いつもお酒を抜いた途端
3日で立ち直るのです・・元の普通の生活に戻れるのです
だから今回も・・「どうするの帰ってくるの?」
それだけのわたしの捨て台詞で・・彼は復活するはずだったのに
死んだって・・わたしは最後の顔すら見ていないのです
誰がこんなひどい病気を作ったのでしょうか
この病気を死ぬほど憎んでおります
・・けど彼は悪くはないのです
だれよりもお酒を憎み、嫌っていました
ワンコたちはいつ帰ってくるかと玄関の戸口にしがみつき・・
どうかみなさんには生き抜いてほしいです
彼のように死ぬ気も無いのに
間違って心臓が止まったなんて
そんな馬鹿な死にかただけはしてほしくありません
ご活動心より応援しております。
2011年05月31日(火) 家族の抑圧 前回の雑記で、アル中本人が(病気のせいで)自分で望んでいないことをやり続けざるを得ないために、自分の真の感情を抑圧する防衛システムを作り上げるという話をしました。
「望んでいないことをやり続けざるを得ないので、真の感情を抑圧する」という点では家族も同じです。
例えばアル中の奥さんの立場を考えてみます。
「アルコホーリクは、他人の人生を巻き添えにして巻き上がる竜巻のようなもの」(AA p.119)なので、アル中と暮らしていれば、やがて奥さんの人生も子供の人生も台無しになっていきます。遅かれ早かれ、彼女(奥さん)は人生が台無しになることを予感します。
経済的な問題を考えてみます。彼女は専業主婦かも知れませんし、働いているかも知れませんが、いずれにせよダンナの稼ぎに多くを依っています。ダンナが酒でトラブルを起こして収入が減ったり無くなったりすれば、彼女や子供の生活と将来が脅かされます。それを防ごうと、トラブルの尻ぬぐいをし、トラブル予防の世話焼きをして、ダンナが社会的立場を失うのを防ごうとします。
イネイブリング理論では、この尻ぬぐいや世話焼きが良くないのだと言います。そうした妻の行動によってトラブルが覆い隠されてしまい、本人が自分の起こしているトラブルすなわち病気に直面する機会を失わせ、酒を飲み続けることを可能にするとされています。手助けを避ければ、トラブルが表面化して回復のきっかけになるというコンセプトです。これにより、仕事や家族を失って社会の底辺に落ちることが底つきだという誤解も生まれました。その理屈で言えば、まだ仕事や家族があるうちは底つきができなくなってしまいます(もちろんそうではない)。
彼女は離婚を考えるかも知れませんが、離婚は経済的支えを失うことも意味するのであり、まして子供があればその父親との関係がゼロになるわけでもありません。もっと状況が悪化すれば離婚が現実的な選択肢になるかもしれませんが、多くの奥さんは「いつの日かダンナが無気力から立ち上がって、意志の力を使い始めることを期待」するほうを選ばざるを得ません。ダンナの手助け以上に、自分の生活や子供の将来を守る「必要性」があることを忘れてはいけません。
そうやってダンナに期待し信じたところで、現実にはトラブルが頻繁に起こり、家族は打ちのめされます。だから、信じられない、信じたくないという気持ちになったとしても、でもなお期待し信じなければ今日の生活が守れない立場に置かれます。そのように家族も「望んでいないことをやり続けざるを得ない」という立場に置かれて、抑圧を発達させます。
アラノンやギャマノンの目的が、この抑圧だと誤解している人もいます。ダンナが飲み続けて家に帰ってこず、どこにいるのか分からないにもかかわらず、「ダンナのことはちっとも気にならない。私は私の人生を生きているから幸せよ」という人がいたとします。しかし現実にはダンナの飲酒(あるいはパチンコでの借金)によって彼女の生活や、子供の将来が脅かされている・・・生活の根幹が崩れつつあるのに幸せだと感じているのなら、それは精神が病んでいるとしか言いようがありません。
本人が病気のどのステージにあろうとも、家族は感じている気持ちを抑圧し続けます。その結果、他者への恨み、後悔、自己憐憫に支配されるようになる点は本人と同じです。家族の中で酒を飲んでいる(ギャンブルをやっている)のは一人だけかもしれませんが、家族全員が同じ病み方をします。アルコール依存症と診断されるのは一人だけかも知れませんが、他の人の病も同じです。これが、疑似アルコホリズム(para-alcoholism/co-alcoholism)と呼ばれたものです。これがアルコール以外の依存症にも拡大され co-dependence/co-dependency という名前を獲得し、それが共依存という日本語に訳されるようになりました。
だから、例えばアルコール依存と共依存を違うものと考えたり、違った回復戦略が必要だと考えるのは間違いです。AAとアラノンはまったく同じ12ステップを使って同じ回復を成し遂げることを目的としています。
子供の世代についてここで深入りするつもりはありませんが、基本的には同じです。例えば子供は「お父さんが酒をやめないのは、自分のせい(自分が悪い子だから)ではない」と頭で理解することはできても、なお自分を責める感情はなくなりません。妻なら離婚できても、子供の立場で親の問題から逃げるのは現実的には無理なことなのです。ここでも同じ構図が成り立っていることに気づかれるはずです。(ダンナが酒をやめる前に離婚してしまった奥さんもおなじ感情を抱えている話はよく聞きます)。
共依存概念とは、「家族にアルコホーリクが一人いれば、家族全体が本人と同じように病む」という考えから生まれてきたものです。本人と家族を対立するものと考えたり、違いを探すことではなく、同じところを探すことでしか共依存概念を理解できないでしょう。アラノンの12ステップのステップ1は「アルコールに対して無力」だと言っています。問題が同じであれば解決も同じ、それを手に入れるためのステップ3から先の行動も同じです。
ただし、アル中がどうやって酒を切るかという話は12ステップには含まれていません。まず入院して酒を切ってこいとビッグブックにあります。そこは12ステップの担当範囲外なのです。同様に家族がどうやって本人を治療に結びつけるかという話も12ステップの範囲外で、別にインタベーション(介入)の手法が必要になってくるわけです。介入は専門家の手ほどきを受けながら家族が行うもので、日本でもその情報が提供されるようになってきています。
共依存概念は誕生以降、どんどんその守備範囲を広げているようです。それだけに何が問題なのか見えなくなってきています。僕は共依存という言葉をなるべく使わないようにしています。本人がアルコール依存症になり、家族が共依存になるという表現をすると、まるでそれぞれ違った問題を抱え、違った解決があるかのような誤解を与えるからです。その言葉はCoDAの人たちが取り組んでいるような「相手の回復成長を妨げる支配関係」に限って使うべきだと考えています。アル中の家族にもそのような共依存症の人はいるでしょうが、すべての家族がそうではありません。
前述のように共依存概念の成立は1970年代・80年代です。アラノンはそれよりずっと前から存在しているわけで、そのところを頭に置いて欲しいと思います。
2011年05月30日(月) アル中の自己防衛システム アル中は本当に酒を飲みたいと思っているのでしょうか。
飲んでいればトラブルがやってきます。仕事ができなくなる。金が稼げなくなる。家族や友人との約束も守れなくなる。そればかりでなく人に迷惑をかける様々なことをしでかしてしまいます。長い目で見ればその人の人生も、周りの人たちの人生も台無しになってしまいます。
アル中の人は、そんな風に物事を台無しにしたいと思っているのでしょうか。
いや、決してそんなことはありません。彼(彼女)は、できることなら、健康的で、人に迷惑をかけない、社会的に自立した生活を送りたいと願っています。
けれど依存症という病気が強迫性や渇望によって彼(彼女)に酒を飲み続けさせてしまいます。そのせいで、アル中は望んでいない人生を送ることになります。彼(彼女)は本当はそんなことはしたくない。人に迷惑をかけたり、信頼を裏切ったり、自分や家族の将来を台無しにしたくない善良な人間です。であるにもかかわらず、彼(彼女)が現実にやっていることは、結果からすれば物事を台無しにすることばかりです。
しかもそれは誰に強いられたわけでもない、彼(彼女)が自分でやっていることです。やってはいけない悪いことを自分の意志でやっている・・まるで自分が道徳観念の欠如した悪人か、立ち直る気のない意志薄弱者のように思えてくるし、まわりもそう見なすようになります。彼(彼女)はそこから抜け出そうと努力しますが、たいていは成功しません(病気だから)。
人間はそのような自分の姿を真っ正面から見ることに耐えられません。激しく自尊心が傷つき、最悪の自殺に発展しかねません。だから、彼(彼女)は自分自身を守るために、自己正当化を行います。つまり、理由付けです。
例えば酒を飲まなければならないのは、ストレスのせいだと言い出します。ストレスに耐えてやって行くにはどうしても酒が必要なのだ。だから悪いのは自分ではなく、家族や職場の連中、あるいは社会が悪いと言います。育った環境や親のせいにすることもあります。単に自分は酒好きだと言う場合もあります。
最初は自分にウソをついていることを自覚していますが、やがてそのウソを信じるようになっていきます。自分は善良な人であり、身の回りで破壊的なことが起きているのは周囲の悪人たちのせいだという「防衛」を完成させます。この防衛によって彼(彼女)は、善良に生きたいという自分の理想と、破壊的な現実の行動との折り合いをつけ、自殺せずに生きていくことを可能にしているのです。アル中の自己正当化というのはこのように形作られます。
残念なことに、この防壁は酒をやめても消えずに残ります。彼(彼女)は鏡に自分の姿が映るのを避けるように、正確な自己像を捉えることを拒みます。酒をやめてしまった以上、辛い現実に直面しても酒に逃げ込むことができなくなるからです。他者への恨み、後悔、自己憐憫が相変わらずその人を支配しています。この世の中はクズばっかりだし、自分の人生はもはや生きるに値しないと感じています。そうした感情や、その態度によって発生する他者との軋轢が、彼(彼女)を再び飲酒へと引き戻してしまうことは良くあることです。
アル中の回復とは酒をやめることであり、酒をやめるとはこの「防衛」が取り除かれることです。そのためには、どんなに嫌でも鏡に映った自分の姿を見るしかありません。ただ、それを一人でやることに慣れている人はいませんから、何らかの他者の手助けはどうしても必要なことです。
他罰性、尊大性、被害的認知、自己正当化などはこの防壁の現れです。防壁が取り除かれたとき、その陰に隠されていた善性が再統合され、自分自身に対する信頼、他者に対する信頼を取り戻すようになります。彼(彼女)は自分が思っていたほどの善人ではないかもしれませんが、自他の不完全性を受け入れて生きていけるようになります。
まとめると、アル中は自分が最もしたくないことをせざるを得ない状況に追い込まれ、生きていくためにやむなく「防衛システム」を身につけます。自分に嘘をついて人を責めることが上手になります。それがアルコール以上に彼(彼女)を生きづらくさせています。そして、回復とはそれを取り除くことです。
では家族はどうなのか? 実はこの文章は家族のことを書くための前説です。なので、次回に続きます。
2011年05月29日(日) 良いことが起きたときだけ 良いことが起きると「これは神さまのおかげ」と感謝する人がいます。
その人にとって、神さま=自分に都合の良い存在、ということです。自分に都合の良い事をしてくれるのが神さまであり、良いことが起こればそれは自分の信仰の証しであると考えます。
悪いことが起これば、「私は真面目にやっているのに、なぜ神さまはこんなヒドいことをされるのだろう」と恨むのです。あるいは、自分の信仰心が足りないのではないかと悩んで見せたりします(まあそれは否定しないけど)。
神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。
「神は父であり私たちは子である」(AA p.90)
僕らは神という大人に面倒を見てもらっている幼い子供のようなものです。子供は歯を磨きたくないかもしれません。けれど、それを放っておくわけにはいかず、大人が代わりに歯を磨き、やがて本人が自ら歯を磨くように仕向けます。遊んでいたいけれど勉強させたり、夜遅くまで起きていたいけれど寝かせることをします。いずれも、本人の将来のためであり、本人の希望通りにすることが良いことではありません。
ママはいつも夜早く寝ろってうるさいけど、ママが実家に泊まる日は、パパと一緒に夜更かしするの。でも次の日にパパと昼まで寝ていると、帰ってきたママがすごく怒るの。だからママは嫌い、パパが好き・・・良いことが起きると神さまのおかげだと感謝する人は、こういう子供みたいな存在なのです。
神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。僕らから見たら理不尽としか思えないこともいっぱい起こります。でもそれは、僕らが神さまのような全知全能ではないから、何が本当に良いことか分からないだけかもしれません。
会社が倒産したり、恋人が心変わりをして去っていったり、アル中が酒を飲んで死んだり・・・それが必ずしも悪いことだとどうして言えるのでしょう? それはあくまでもあなたの(あるいは僕の)判断に過ぎません。
信仰心を持っているつもりで、実は神さまに「あれをしなさい」「これはしてはいけません」と指示を飛ばして、いつのまにか神さまより偉くなろうとしている人は困った人です。
世の中には良いことも悪いことも起こります。信仰心を持とうと持つまいと、そのことを受け入れている人たちがいます。神という言葉を使わず神を意識することがなかったとしても不合理不条理な世界を嫌わずに生きている人であれば、それは立派に信仰を持った人だと言えます。
悪いことが起きると神さまを恨んでいるようなら、信仰心がその人を劣化させたと言う他はありません。それは「不可知論者」の態度です。橋を渡ったつもりでまだこちら岸にいるのです。
2011年05月25日(水) 怒りと恨み ここで言葉の意味をはっきりさせておきます。
怒り(anger)は僕らが良く経験する感情です。例えばあなたが道を歩いている時に誰かがぶつかってきたら、怒りの感情を覚えるでしょう(身体的安全の問題)。誰かが話している言葉が、あなたを怠け者だと指弾しているように聞こえたら、あなたはその相手に対して「私のことを何も知らないで何を言うか!」という気持ちになるでしょう(自尊感情の問題)。
怒りの感情は必要なものです。怒りの感情によって、僕らは自分の安全安心や、自己評価や、そのほか大事にしているいろいろなものを守ることができます。怒りは僕らが生きて行くために必要だからこそ与えられているものです(程度問題ではありますが)。
では恨み(resentment)とは何か。ジョーのステップでは恨みを、re と sentment に分解して説明しています。re という接頭子にはいろんな意味がありますが、ここでは「再び」とか「何度も」という意味です。sentment という英単語はありませんが、sentient(知覚)と語源が同じで「感じる」という意味です。
つまり恨みとは「何度も何度も怒りを感じる」ことです。例えばあなたが「怠け者」と言われたら、その時に「何も知らないで何を言うか!」という怒りの感情を抱きます。その数日後にまた「怠け者」と言った相手に会ったとします。するとあなたの中で数日前の「怠け者」という言葉が思い出され、「再び」怒りの感情を抱きます。さらには、別に相手に会わなくても、その人のことを思い出しただけで、同じ感情がぶり返されます。これが恨みです。
この時、相手は一度だけ「怠け者」と言っただけです。(それも言ったかどうか本当は分かりません。ただあなたがそう感じただけかもしれません)。けれど、あなたは何度も何度も恨みの感情をぶり返し、傷つきます。(相手は何もしていないのに!)
あなたが折角良い気分で楽しんでいても、部屋に相手が入ってきたとたんに、あなたの心に恨みがわき上がり最低の気分になります。これは「自分の感情を相手にコントロールさせている」ということです。相手に謝罪や反省をしつこく要求する人もいます。相手に頭を下げさせればスッキリするかもしれませんが、逆に相手が頭を下げなければいつまでも最低の気分でいることになります。そして、相手が頭を下げるかどうかは相手次第です。つまりこれも「相手に自分の感情をコントロールさせている」のです。
なんとか相手に謝罪させようという努力は、自分が相手をコントロールする努力に見えますが、実は逆で相手に自分をコントロールさせる努力になってしまっているのです。相手はあなたの感情をコントロールしたいとは思っていないでしょう。しかし、あなたが勝手に(恨むことで)相手に自分の感情をコントロールさせているのです。「どうか私を支配して下さい」と頼んでいるようなものです。
僕はそんなのは嫌です。誰の支配も受けたくないし、自由でありたい。自分の感情は自分でコントロールしたいと思っています。だから恨みは手放す努力をします。相手に謝罪を要求することもありますが、相手にその気がなければそれ以上の努力は自分を傷つけるだけに終わります。
恨みがましい人間の感情を支配するのは簡単です。ちょっとその人の気に入らないことをやってあげれば、いつまでもこちらを恨んできます。世の中にはそうやって恨みがましい人をからかって遊ぶ悪い人もいます。恨まれるのは楽しいことではないものの、それで相手の気分をコントロールすることを楽しめるなら安い代償だと考える人もいるということです(恨みがましい人は無視したりスルーすることができないから)。つまり恨むことによって傷つけられやすい立場に身を置いてしまうということです。
恨みという感情は自分が疲れる感情です。脳が疲れれば鬱になります。鬱の人は恨みを抱えているものです。せっかく休息や薬で鬱が改善しても、恨みがましい癖が抜けないので、また鬱に戻っていきます。
恨む人は「私は正しい、あいつが間違っている」と言います。恨むことは、相手にコントロールされること、支配されることを望むことです(歪んだ愛情)。恨む人は幸せと健康を拒み、不幸と鬱を愛する人たちです。
2011年05月23日(月) 伝統に関する議論 掲示板で伝統7(AAの経済的自立)についてのスレッドが続いています。
スレッドの流れとは別にメモ的にちょっと書いておきます。
日本のAAのミーティング会場は、たいていキリスト教の教会の一室か、公民館のような市町村の施設の部屋を借りて開かれています。
AAが教会の部屋を借りている場合には教会に使用料を支払っています。使用料を支払うことによって、教会とAAグループが別の団体であることをハッキリさせる意図があります。使用料といっても名目上のものであることが多いでしょう。おそらく教会側としては献金として受け取っているのでしょうが、真面目な信徒の方が毎月献金する額にくらべたらわずかな額にすぎません。AAの支払う使用料は、教会の財政運営にはほとんど寄与できていないはずです。
(だから教会によっては無料で貸すと言ってくれるところもあるほどですが、それを断って純粋にAA側の都合で使用料を受け取ってもらっているわけです)
教会にとっては経済的なメリットがないにもかかわらず、なぜそのような善意の取り計らいをしてくれるのか。その事情については詳しくないのですが、おそらく教会が地域のコミュニティーセンターのような役割を担うべきだという思想があるのでしょう。昔のテレビドラマ「大草原の小さな家」をみると、村で何かが起こるたびに皆で教会に集まって話し合っています。公民館や公会堂のような役割がそこにはあるのでしょう。あるカトリックの教会ではAAミーティングをやっている間に、別の部屋では日系ブラジル人の人が茶話会をやったりコンサートの練習をしていたりします。
ではAA会場に市町村の公民館のような施設を借りている場合はどうでしょうか。そういうところでは、部屋の使用料や冷暖房費が決められていて、使った団体がそれを支払うことになっています。一方で、何らかの公的な意義のある団体の場合には、団体登録をして利用料減免申請書を出すと、部屋を無料で貸してもらえるという制度を設けている市町村がたくさんあります。これは、行政がそうした団体に便宜を図ることによって、運営を助けているわけです。本来支払うべき利用料を払わずに済むわけですから、間接的にはその団体に助成金を与えているに等しいことになります。
どういった種類の団体の利用料減免をするかは市町村ごとに規則が違いますが、例えば手話サークルのような福祉目的の団体であればたいていどこの市町村でも減免対象にしているようです。で、AAも(AA以外の自助グループも)この減免制度を利用しているケースがたくさんあります。
僕は数年前にAAサービスの役割を与えられていました(いまはサービス組織から離れてAAの隅っこにいるだけです)。その頃に「AAグループがこの減免制度を利用することは、伝統7の経済的自立を妨げているのではないか」という議論がありました。AAは外部から寄付金や助成金を受け取らずに、あくまでメンバーのお金で運営する・・・はずなのに、減免制度を利用すると、間接的に行政から助成金を受け取っているのと等しいことになるのではないか、というわけです。
AAは統治機構を持たないので、もしこれが「伝統に反する」ということになっても、やめさせる命令を出せるセクションはありません。けれどもし伝統違反ならば放置しておくことはよろしくないわけで、何らかの注意喚起はしなくてはなりません。だから、減免制度利用は伝統7に反するかどうか、という議論が続きました。
例を挙げると、わが家の一番近くのAA会場は市の公民館の会議室を借りています。30人入ってもまだ余裕の広さの会議室の夜間枠(4時間)の利用料は1,400円です。民間の会議室を借りればこの数倍必要でしょうから破格の値段ですが、それでも月に四回ミーティングをすれば6千円近くになります。この公民館では必要ありませんが冷暖房費を取るところもあります。もし減免制度を利用しなければ、毎月これだけの財政負担が生じることになります。少人数のグループが献金袋で集めるお金で、この負担に耐えられるでしょうか。また、グループの負担が増えたらオフィスの運営はどうなるでしょう。
減免制度利用に賛成の人も反対の人もいましたが、どちらの側の人も相手を納得させるだけの議論はできませんでした。そこでNYのGSOにメールを書いて経験を分けてもらうことになりました。各国のオフィスはそれ自体が権威を持っているわけではありませんが、各グループは自分たちの経験をオフィスに送ることで、他のグループがそれを利用できるようにしています。だから困ったことがあればオフィスに尋ねてみて、他のグループでの成功や失敗の体験を分けてもらうことができます。とりわけAAの歴史が長いアメリカのGSOに集積された経験は尊重されます。
GSOからの返事はこんな感じでした。ちょうどそれに当てはまる経験はないが、AAでコンベンションを開くためにホテルの部屋をたくさん予約すると、何部屋ぶんか料金を割引してくれる。割引してもらうことは、ホテルから(つまりAA外部から)寄付を受け取ることにならないか、という議論があったが、ホテル側がAAに特別な便宜を図っているのではなく、他の客に対するのと同じ割引をしているのであれば、AAが寄付を受け取っていると考えるのはふさわしくないということになった。
これには皆が納得しました。つまりAAが特別待遇を受けているかどうかが問題というわけです。誰もが受け取れるものであれば、私たちが拒否する必要もない。ところで、どんな団体を減免制度の対象にするかは、市町村によって大きく違っていることも分かってきました。減免制度の利用の有無という単純な線引きは適当ではなく、もっとケースバイケースであり個別の事情を聞かなければ判断のつけようがない問題だという認識が広まりました。グループの自律性にまかせるべきだということになって話が終わりました。
たった一つのことを判断するのに、皆が知恵を絞り、時間も手間も使いました。挙げ句に結論は「これだけじゃ判断できないよ」という曖昧なものでした。でも伝統を守っていくということは、そういうことだと思います。伝統は僕らに考えることを要求します。けれど、僕らは考えることを厭います。
もし「減免制度利用は伝統7違反」というルールみたいなものができたら、これは考える必要もありません。個別の事情も考えなくてかまいません。その市町村の減免制度を調べる手間も要りません。考える必要がないので楽でいいのですが、でも伝統は僕らにルールに頼らず、考えることを要求しているように思うのです。
12の伝統に関する議論に無駄はないと思います。一つの結論を出す必要もありません。皆が一つのテーマについて考え、自分とは違う考え方をする人がいることを知る。世界は自分の想像より常に広いことを知るわけです。
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