心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年08月01日(月) イライラ3年、ぼちぼち5年

AAの僕のホームグループは、週に一回しかミーティングをやっていません。そこで月の奇数週はクローズド、偶数週はオープンのミーティングにしています。年に何回かひと月に同じ曜日が5回ありますが、このやり方だと第5週はクローズドになります。

うちのグループは、池袋の某グループのやり方をかなり真似ているのですが、そこのグループでは第5週は「お楽しみミーティング」と称して外部から人を呼んで話をしてもらっているそうです。面白そうだから、うちでもそれをやってみよう・・ということで、7月末から「お楽しみミーティング」を始めることにしました。

第1回は誰を呼ぼう・・・田舎だからそんなにアテがあるわけでもなく、近隣の断酒会の設立者で長年会長を務められたTさんご夫妻をお招きすることになりました。

Tさんは、断酒の始めの頃は別の断酒会に属していたのだそうです。しかしそこの会長が再三再飲酒し、責任を取って会長を辞任すると言っては、やがて前言撤回して会長の座に留まる・・歯を食いしばって酒をやめている新人会員もいるのにと腹立たしい思いをしたTさんは、「会長が辞めないなら俺がやめる」と言って2年経ったときに断酒会を退会してしまったのだそうです。

しかし、一人で酒をやめ続けることはできないことも分かっていたので、周囲の勧めもあって今の断酒会を設立。元の断酒会とは絶縁状態での始まりだったので、やっかみから「3ヶ月も続かない」と揶揄されたそうですが、苦労の甲斐もあって会は隆盛し、Tさんは県断連の役員を長く努められました。

AAに「彼は恨みとコーヒーポットを抱いて出ていった」という言葉があります。病気の人間の集まりであるのはAAも同じです。時にはメンバー同士のいざこざが深刻な対立に発展することもあります。一方が袂を分かって出て行ってしまうこともあります。しかし、出ていった者が自分に正直であれば、飲まないで生きていくためには仲間が必要であることに気づくでしょう。そうして新しいグループが誕生します。

アメリカでAAが始まった頃、しばしばそうやって新しいグループが誕生し、AAが増えていったのだそうです。オフィスを構えたばかりのビル・Wの元に届く手紙は、そうしたグループ同士の仲裁を依頼する内容ばかりだったとか。

Tさんの話も興味深い者でしたが、もっと関心を集めたのは奥様のお話でした。

「イライラ3年、ぼちぼち5年」という言葉が印象に残りました。

酒をやめた当人は3年ぐらいはひたすらイライラしています(本人側にその自覚はないけどね)。それがぼちぼち取れてくるのが5年ぐらい。離婚しなくて良かったかなと思えるようになるのが、およそ10年だとか。飲まれていた頃は、死んだって決してダンナと同じ墓に入るものか。自分の灰は山にでも川にでも撒いてくれればいい・・と思っていたのが、このごろは「そこまで意地を張らなくても良いかも」と思うようになってきたそうです(Tさんは断酒24年)。

以前ホワイト先生の講演で、どれぐらい酒をやめていれば回復と言えるかという会場からの質問に対し、「最低でも5年、できれば10年」というのが先生の答えでした。10年というのはここでも一つの目安になっています。(まあもちろんその間に薬物乱用とかナシで願いたいけど)。

AAでも最近は最初の年から週に一回しかミーティングに行かない人が増えていますが、断酒会はどうかとTさんにお尋ねしたら、断酒会も昨今は週に一回だけの人が増えたことを憂慮されていました。せめて週に3〜4回と出て、自分の会だけでなく、他の会のやり方を知ることで、「断酒会はこういうものだ」ということが分かっていく、それが大切だそうです。

奥様は、夫婦揃って例会に出席することの大切さという話をされていました。ダンナさんだけが出てきて回復している人もいるが、奥さんとしては「せっかく酒をやめたのに毎晩いない。週末は断酒会の催しで一泊二日で金ばかり使って・・」という不満が出てくる。それで旦那さんが断酒会に出づらくなり、やがて退会、再飲酒となりがちですが、一緒に動いていればそうはならないと。

小さい子供がいれば、その子に留守番させて夫婦で夜の例会に出るのはためらわれるかもしれません。しかし、奥様はこうおっしゃいました。子供にとっての幸せは、とうちゃん・かあちゃんの仲がいいことだ。夫婦揃って家にいても中が悪けりゃ子供は不幸せだ。だから二人で例会に行くことが大切で、少なくとも私はそう教えられたと・・そして、「あんまり小さいなら一緒に連れておいで」とも。

一時間半のお話しの内容は、とてもすべてここには書ききれません。Tさんは、抗ガン剤治療の疲れも感じさせないお達者ぶりでした。本人だけの集まりであるAAは、普段なかなか家族側の話を聞く機会がないだけに奥様の話は新鮮でした。

それにしても「イライラ3年、ぼちぼち5年」とは良い表現ですね。

さて次は9月にも第5週があります・・次は誰をお呼びしようか。


2011年07月28日(木) 治癒はないが回復はある。では回復とは?

アルコール依存症における治癒(cure)とは、飲酒がコントロールできるようになることを意味するのでしょう。ホワイト先生の『米国アディクション列伝』という本を読むと、アメリカではこの治癒を実現する様々な治療法が編み出されましたが、すべて歴史の中に消えていきました。数少ない事例ではうまくいっても、その手段が公表され多数に試されると、とたんにその有効性が失われてしまう・・・まるで競馬の必勝法のようなものです。結果として、今のところ依存症を治癒させる方法はない、という考え方がコンセンサスを得ています。

「唯一の解決法は、まったく飲まないことしかないと言わざるをえない」(AA, p.xxxviii)

「治癒(cure)はないが、回復(recovery)することはできる」という言葉を使い出したのは、AAの創始者の一人ドクター・ボブと一緒に活動した看護婦シスター・イグナシアだそうです。

アルコール依存症者が正常な飲酒に戻れる(つまり治癒可能)というのは、当時根強く残っていた偏見です。この偏見は現在もあります。この偏見を解かなければ、依存症者は正常な飲酒に戻ろうと再飲酒を繰り返してしまいます。「治癒は不可能だが、回復は可能」というのは、偏見を脱学習させるために彼女が考え出した表現ということです。それが世界中に広がり、現在でも使われています。

では、その「回復」とは何でしょうか?

思い出して頂きたいのは、ドクター・ボブやシスター・イグナシアが入院患者に施していたのは「12ステップ」という治療法だったことです。つまり彼らの言う「回復」とは、12ステップによって霊的な経験を経た結果、再飲酒の可能性を心配しなくて良くなった状態を指しています。

「再飲酒に対する心配をしなくて良い状態」という話をすると長くなりますから、AAのA類常任理事をされた大河原先生が書いた文章があるので、そちらを参考にしてください。
http://aajso.web.infoseek.co.jp/newsletter/n141.pdf

アル中が酒をやめていても、例えばこんなことをしたらその人が再飲酒してしまうのではないか・・飲まれてしまうと後々いろいろと面倒だから、それを避けるために周囲の人がいろいろと配慮を積み重ねる必要があるならば、それはまだ「回復」とか「酒がやめられた状態」とは言いにくいものです。

AAを始めた人たちは、その状態が霊的な経験を経ることによってもたらされると考えていました。ただし、霊的経験を得る手段が12ステップしかないとは言いませんでしたが。(しかしながら、なぜに12ステップが良いのか、という話はまた別の機会に)。

さらには、その「回復」は一度実現すれば自動的に一生保たれるものではありません。メンテナンスが必要であり、それを怠れば回復は衰えていき、しまいには再飲酒が起こりえます。

そんなふうに、AAの人たちが「回復」という言葉を使い出したときには、その意味はかなり限定されたものでした。しかし、時代を経るとその言葉の意味も拡散していきました。もはや回復とは何か、すべてを包括して定義することなどできなくなっています。AAにはAAの回復の定義がありますが、例えば一人で断酒している人にはその人なりの回復の定義があるのでしょう。

そうなると、回復とは「何でもあり」であり、自分が回復したと言えば回復したことになってしまうわけです。それはそれで構わないのかも知れません。しかし、アルコール依存症のケアに長くたずさわっている人たは、「回復とは何か」について言語化しづらい何らかのイメージ(回復像とでも言うもの)を持っており、それは人に寄らずある程度共通していると言えます。それに合致しているかどうかで、回復している・していないが判断されるのも確かなことです。

結局のところ、回復とは何かを知るためには、自分が回復してみるのが一番であるし、また自分が依存症でなくても依存症の人の回復に長く付き合えば自然と分かってくるものだと思います。


2011年07月20日(水) 三種類の酒飲み

ビッグブックのp.31〜33では、酒飲みを3種類に分類しています。

・ほどほどの酒飲み(moderate drinkers)
・大酒飲み(hard drinker)
・本物のアルコホーリク(real alcoholic)

酒を飲む人の9割は「ほどほどの酒飲み」で、酒に関して問題はありません。

「大酒飲み」は、「徐々に身体も心もむしばまれていくような、たちの悪い飲み方をする」とあります。そのせいで寿命が縮んでしまうこともあるが、重大な危機に直面すれば、まだ酒をやめるか控えることもできる人たちです。もちろん、そのために医療を受ける必要がある人もいます。中には精神病院に入院するはめになった人もいるでしょう。

最後の「本物のアルコホーリク」というのが、AAが対象としている人たちです。AAは、本物のアルコホーリクは病気であり、意志の力で酒をやめることはできず、回復するためには霊的な体験をする必要があると言っています。そして、その体験を得るための手段はいろいろあるでしょうが、その一つが12のステップです。

ここで気をつけなければならないのは、「アルコール依存症」の人が全員「本物のアルコホーリク」とは限らないということです。「アルコール依存症」というのは医療が付ける病名です。一方で、AAは「本物のアルコホーリク」という別の概念を使っています。だから、この両者の間にズレが生じることもあります。

医者は医者の基準で「アルコール依存症」という診断を下します。だから、その中には「本物のアルコホーリク」ではない、単なる「大酒飲み」も含まれていることでしょう。そういう人たちもAAにやってきます。AAは「酒をやめたいという願望」を持った人であればウェルカムであり、医者の診断すら必要ではありません。そうなると、AAの中に「大酒飲み」と「本物のアルコホーリク」が混在することになります。

「大酒飲み」の人たちは12ステップをやらなくても酒をやめていけます。彼らは「仲間の支え」などによって安定して酒をやめていくでしょう。意志の力でやめることもできるかもしれません。一方、「本物」の人たちはステップを経験しなければ、待っているのは再飲酒だけです。AAの中には真面目にミーティングに来ているのにしょっちゅう再飲酒を繰り返す人もいれば、大した努力もしていないのに安定して酒をやめ続ける人もいます。この違いにも関係しているかも知れません。

本物と大酒飲みの間には体験にズレがあるため、共有できるものが少なくなります。だから、AAをやっていても喜びが少なく、何年かすればAAから去っていってしまいます。しかもそれで飲まないでいることもできます。だが皆がAAから去るとは限らないようです。

「私はステップをちゃんとやっていなくても、私は○年間飲まずにいるのだから、私は回復しているはずだ」という人がいます。

単なる「大酒飲み」であっても医者に依存症と言われたのなら酒はやめねばならないわけで、酒をやめていることは喜ばしいことですが、残念なことにAAの目的からはずれているのです。

大酒飲みには大酒飲みの酒のやめ方があります。しかし、そのやめ方では本物のアルコホーリクは回復できません。AAに通っていても酒がやめられないという人の場合、AAにいる「大酒飲み」の言葉を真に受けて、そのやり方に染まっているケースがあります。

「大酒飲みの言葉を聞いていたらアル中は死んじまう」

と言った人がいましたが、重大な真実を含んだ言葉だと思います。スポンシーがそうした誤学習をしているばあい、まずそれを脱学習することから始めねばなりません。ビッグブックの読み合わせをしている場合には、このp.31〜33のところで、その話をするようにしています。自分が単なる「大酒飲み」なのか、それとも「本物のアルコホーリク」なのかは自分で決めなければならないことです。

AAには「本物のアルコホーリク」ではない人たちもおり、彼らは12ステップや霊的な経験なしに酒をやめ続けています。彼らも酒をやめたいという願望を持つ限りAAの仲間には違いありません。だが、あなたが「自分は本物のアルコホーリクだ」と思うのであれば、誰の言葉に耳を傾けるべきか、おのずと分かることでしょう。


2011年07月12日(火) アンビバレンス

地元に「てくてく」という精神障害者の共同作業所を運営するNPO法人があって熱心に活動されています。そこのニューズレターに Wikipedia からの抜粋が載せられており、先日の号では「アンビバレンス」が取り上げられていました。同じように Wikipedia から抜き書きしましょう。

・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9

アンビバレンスとは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すことである。 例えば、ある人に対して、愛情と憎悪を同時に持つこと(「愛憎こもごも」)。あるいは尊敬と軽蔑の感情を同時にもつこと。
(略)
心理学の教科書などでは、アンビバレンスと「スプリッティング」を対置して、「人は幼児期には往々にして両親についてスプリッティングな見方をするが、成長するにしたがってアンビバレントな見方をするようになる」といったような説明をしていることもある。ここで言う「スプリッティング」とは、「ママが大好きだから、パパは大嫌い」というような精神状態。対象ごとにひとつの感情だけが割り振られている状態。何かの拍子に母親の事を嫌いになると、今度は「ママは大嫌いだから、パパが大好き」といった精神状態に切り替わるような状態。そのような精神状態が、年齢を重ね、精神が成長するとともにアンビバレントな状態になると、しているのである。すなわち大人になると一般的に「ママには好ましいところもあるけれど、好ましくないところもある。パパにも、好ましいところがあるけれど、同時に好ましくないところもある」という見方をするようになる、という説明である。

・・・

これを読んでアル中の回復(とか成長)というのを思い描きました。

よく「アル中の白黒思考」と言いますが、アル中というのは物事を「良い」「悪い」のどちらかに決めたがります。良いものはとことん良く、ダメなものはとことんダメという価値判断なのです。

例えば同じアル中の人に対しても、「あの人は回復した素晴らしい人」であるか、またはその逆の「回復していないダメなヤツ」であるかのどちらかです。自分のやり方を理解し共感してくれる人は「素晴らしき理解者」であり味方だとみなし、異論を挟む相手は「自分に悪意を持っている人」すなわち敵だと見なします。

しかも、この白と黒はしばしば入れ替わります。昨日まで素晴らしい理解者として尊敬と理想化の対象だった人が、ちょっとした小さな出来事がきっかけに、とんでもないこき下ろしの対象になることもあります。

Wikipedia を元にすれば、回復していないアル中は「スプリッティング」なとらえ方しかできないわけです。例えば Wikipedia に対しても、百科事典とはいえ素人が編集しているものだから信用できない価値のないものだと見なします。ダメな記事もあれば良い記事もあるというアンビバレントな見方を(Wikipedia相手にさえ)できないでいるのが、回復していないアル中の姿です。

しかし回復が進んでいけば、物事の多くは白と黒の中間のグレーゾーンにあることを捉えられるようになっていきます。

完全に回復した人などはおらず、どんな長い人でもどこかしら回復していない部分を抱えています。まったく回復していなさそうな人でも回復の萌芽を備えています。すべてにおいて自分の味方になってくれる人などいないし、自分の意見に何もかも反対する人もいません。

正しいと同時に間違っている、間違っていると同時に正しい・・そうした見方ができるようになっていくのが回復でしょう。

こうした白黒思考は依存症に限った話ではないようで、例えば境界性人格障害や自閉圏の症状としても取り上げられています。人が精神を病んだとき、あるいは何かの退行が起こったときに、アンビバレントなとらえ方をする能力が失われ、スプリッティングな白黒思考に陥ってしまうのではないか、と考えています。


2011年07月11日(月) 幼稚園で学ぶこと

テンプル・グランディンの本に、人が幼い頃に(たとえば幼稚園とか保育園で)同じ世代の子供たちと接しながら身につける社会的スキルが大切なのだと書かれていました。

例を一つあげれば「限られたものを皆で分かち合う」こと。一つしかないおもちゃは、それがどんなに魅力的であっても独り占めしてはダメで、皆で順番に遊ばなくてはなりません。

もう一つ、「自分の遊びに付き合って欲しかったら、相手の遊びにも付き合わなくてはならない」というのもありました。一人で遊ぶのはつまらない。一緒に遊んでくれたらうれしい。でも、自分の遊び方を相手に押しつけてばかりでは、誰も遊んでくれなくなってしまいます。相手の遊びがつまらなく思えても、それに付き合ってこそ、相手も自分の遊びに付き合ってくれるわけです。

これらは子供の頃だけに通用することではなく、大人の人間関係にも適用されることです。どんなに自分の意見が正しいと思っていても、その意見を押しつけすぎて相手の気分を害したり、相手を怒らせてしまったら、自分の正しさは相手に認めてもらえません。(自分にとっては間違った意見にしか思えなくても)相手の意見をある程度尊重しなければ、自分の意見は通らないのです。

普通の人が幼い頃に学んだスキルをほとんど無意識に使っているのに対し、自閉圏の人はそうしたスキルを幼い頃に学び損ねてしまっているケースが多く、社会適応の障害(=生きづらさ)につながっている、というのがグランディンの本の頭のほうに書かれていたことでした。

AAの12&12に

「おとなの人間のなかに加わっても安定した感情をもち続けたいと思うのなら、生きかたの基本を「ギブ・アンド・テイク」に置くべきだ」(12&12 p.153)

とステップ12のところに書かれています。自分の正しさばかり主張していたら、ギブ・アンド・テイクにはなりません。

幼い頃に社会的スキルを身につけ損ねたのか、それともいったんは身につけたものをアディクションのせいで失ってしまったのか・・・どちらかはともかく、回復成長のためには社会の要求する暗黙のルールを身につける必要があるわけです。

なんでそんなことを考えたかというと、「一人でAAグループを立ち上げたい」という相談を受けたからです。僕はいままで3回AAグループを立ち上げていて、そのうち2回は一人でグループを始めているので、そんな人間が言うのはおこがましいのですが、でもそんな経験から学んだことは、

「一人でAAグループを始めたいと思うのは、相当に病んだ考えだ」

ということです。その病み方が自閉的なのか、アル中的なのかはわかりませんが(似たようなものかも)。


2011年07月04日(月) ギャンブルと脳

日本には依存症の回復施設が100以上存在するでしょう。
そのいくつかから、毎月ニュースレターが送られてきます。入所者の書いた経験談や施設の活動の様子が載っているニューズレターを読むのは、楽しみと言えば楽しみです。こうしたニュースレターは施設の広報活動であるとともに、寄付(献金)の要請の意味も含まれているものです。我が家には余分なお金はないので、なるべく寄付はしないで済ませたいと思っているものの、誠実に運営されている施設は応援したい気持ちもあり、たまには送金しています。

ではどんな施設を選んで送っているかと言えば、情報公開をしているところです。例えば、先月は何人入所して、何人退所したので、現在利用者は何人。プログラム完了による円満退所は何人で、自己都合の中途退所が何人。あるいは寄付金は総額いくら頂きました・・などと書かれていれば、「ああここは真面目にやっている」という印象を受けます。

アメリカみたいな「小さな政府」を標榜する国は、税金が安い代わりに行政サービスも最小限になり、すると行政の福祉機能が薄くなるために、それを民間団体の活動が補っています。そして、寄付を税金から控除できる仕組みを用意することで、政府が寄付を促しています。政府が一方的に高い税金を徴収しサービスを提供するよりも、税金を安くする代わりに市民が責任を持って優れたサービスを提供する団体に寄付をする「寄付文化」が育っていると聞いています。

もう10年以上前でしょうか、日本も寄付した額が税金から控除できるようになれば、依存症の回復施設の運営も楽になるかも・・という話をしていたものです。NPO法人という仕組みはできたものの、単なるNPO法人に寄付しただけでは控除は受けられず、「認定NPO法人」の認定を受けたところへの寄付だけが対象となります。

脱税に使われないために、認定NPO法人の認定基準はかなり厳しく設定されており、全国に三万以上あるNPO法人のうち認定を受けているのは1%もありません。

ギャンブルの施設の「ワンデーポート」から、認定NPO法人の認定を受けたという喜ばしいニュースが届いたのが今年の春でした。おそらく全国の依存症の回復施設では唯一ではないかと思います。

話は変わって、以前見たギャンブル依存に関するテレビ番組では、ギャンブルをしている人の脳の活動を動画像化していました。(番組中に解説はありませんでしたが、おそらく近赤外分光法なのでは)。その動画では、脳の活発に活動している部位は赤く、そうでない部位は青く表示されていました。普通の人は、ギャンブルをすることによって興奮を味わい赤い領域が広がっていくのですが、ギャンブル依存の人は逆に青い領域が広がっていきました。興奮するのではなく、落ち着きを味わっているわけです。アルコールのような沈静系の薬物を飲むと、脳の興奮が静まって落ち着きを感じます。ギャンブル依存の人がギャンブルをしているときにも同じことが起きているのかも知れません。

ADHDの治療薬として使われるコンサータ(メチルフェニデート)は中枢神経刺激薬で、アンフェタミンのような覚醒剤に近いものです。コンサータを服用することによって、扁桃体の活動が賦活され、脳の過剰な興奮が収まってADHDの人が落ち着くと教えられました。覚醒剤にも似た効果があると考えられており、普通は覚醒効果を味わうために覚醒剤を常用することになるのですが、素因としてADHDを抱えていて、落ち着きたいがために覚醒剤に手を出す人もかなりいるのではないかと考えられます。

アルコール依存になる人は、落ち着いた安らいだ気分になるためにアルコールを薬として常用してしまうわけですが、(すべてとは言わないが)ギャンブル依存や覚醒剤依存になる人のなかにも同じ動機によって依存を形成させる人がいるのでしょう。きっとたぶん。

依存と脳の話題を始めればキリがありません。僕みたいな素人の話よりも、専門家の話を聞いた方が面白いかも。ワンデーポートでは、京都大学の脳科学者、村井俊哉先生を講師に招いて「ギャンブルに依存する人の脳で何が起きているのか」というセミナーを行うそうです。今度の日曜日です。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~onedayport/page12-1.htm

残念なことに当日は別件があって行けません。行ける人がいたら感想をお聞かせ願いたいと思っております。


2011年06月24日(金) 県の薬物依存の調査

長野県精神保健福祉センターで、「薬物依存の相談機関における薬物依存症の相談・支援の実態」という調査報告を出しています。
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/medicine/chair/pmph/shinshu-kouei/zassi2011_5_1/23.pdf


この調査はダルクに集中している薬物依存の相談の現状を把握するのが目的です。これを見ると、薬物依存症者の姿もすこし見えてきます。

当事者(本人)の年齢は20代〜30代が多く、40代からはぐっと減ります。これは以前県外のダルクスタッフの方にうかがったのですが、薬物(特に覚醒剤)の人は早くに亡くなってしまうケースが多く、なかなか40才まで生き残れないのだそうです。だからダルクの入所者で40代以降の人は少なくなるわけです。

薬物の人は若い人が多いのですが、それにはこうした事情があるわけです。

また、薬物というと覚醒剤を思い起こしますが、実際に問題となっている対象薬物を見ると、(たしかに覚醒剤も多いものの)、次に目立つのは「向精神薬」です。つまり処方薬の乱用・依存です。町中の薬局で睡眠薬や安定剤が比較的簡単に変えた時代があり、その頃は売薬の乱用が多かったわけですが、規制が厳しくなった昨今は医者が出した薬の乱用が多くなっています。

薬局で買いにくくなったのはブロンなどの鎮咳剤も同様。有機溶剤(シンナー)の規制も厳しくなったと聞いています。

医者が出した睡眠薬や安定剤は危険なのか? いや、決してそんなことはありません。今の向精神薬の安全性は高いものです。・・・ただしそれは、「普通の人にとっては」という限定条件付きです。

一つの化学物質(例えばアルコール)の依存症になった人が、別の化学物質の乱用や依存症にもなりやすいことはもう50年も前から言われていることです。アル中になって酒はやめたけれど、医者の出した処方薬の乱用でダルクに入所することになる・・という話もふつうにあります。

この調査で一つ不満なのが、「初めて使用した薬物」の選択肢に「アルコール」が入っていないことです。この質問の選択肢に「アルコール」を入れればそれがナンバーワンになるはずです。最近大麻をゲートウェイドラッグと呼んで大麻取り締まりを重要視する風潮が生まれてきていますが、実際には未成年の飲酒こそがまさにナンバーワンのゲートウェイドラッグなのです。

県では薬物のパンフレットも作っています。

「薬物の問題でお困りのあなたへ」
http://www.pref.nagano.jp/xeisei/withyou/inform/yakubutupannf_cl.pdf
「ご家族の薬物依存症でお困りの方へ」
http://www.pref.nagano.jp/xeisei/withyou/inform/yakubutupannf_fa.pdf


2011年06月21日(火) ビッグブックの分かりにくさ

前回、ビッグブックこそがAAの12のステップを説明した本である、という話をしました。だから、AAの12のステップについて知りたければ、ビッグブックを読むのが一番です。

ビル・Wもドクター・ボブも、オックスフォード・グループの一員で、初期のAAはオックスフォード・グループの一部として活動していました。そこには6つのステップからなる「教義」がありました。それがアルコホーリクを回復させるのに十分な効果を持っていたなら、彼らはオックスフォード・グループに留まったままで、AAは誕生しなかったでしょう。

彼らは新しいものを作る必要がありました。当然痛ましい失敗もありました。ビルとロイスの家の居間で自殺したアリコホーリクもいました(AA p.24)。彼らは失敗したやり方を捨て、うまくいった方法を残しました。そうやって試行錯誤と取捨選択を経た結果、完成したのが「12のステップ」であり、それを記録したのがビッグブックです。だからビッグブックには彼らの失敗についても書かれています。僕らはそれによって、「何をすべきか」だけでなく「何をしてはいけないか」も学ぶことができます。(だから僕らは車輪を再発明する必要はありません)。

ではなぜこの本がこんなに小難しいのか。それは当時はテレビがなかったからだ、とジョー&チャーリーは言っています。テレビがない時代に人々は楽しみを活字から得ていました。だから今よりずっと本が読まれていた時代であり、人々の教養もずっと高かったわけです。ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』がベストセラーになる時代です。だからまっとうな本の文章は格調高く(つまり小難しく)なくてはならなかったわけでしょう。

僕らが手にするビッグブックは現代の日本語を使っています。つまり僕らは翻訳というフィルターを通してビッグブックに接しているので、その古めかしさはダイレクトには伝わってきません。しかし、現代のアメリカのAAメンバーにとってはその古さは当惑の対象だそうです。彼らがどう感じているか、日本人の僕は想像するしかありません。当時の日本の文章はどうだったでしょうか。坂口安吾が1935年に書いた文章です。
青空文庫:文章の一形式 坂口安吾
(旧仮名がよけい古さを感じさせますが)。

ビッグブックを現代的にもっと分かりやすく書き直すべきだという意見もありますが、それが実現することはないでしょう(理由はビッグブックの前書き p.xv に書かれています)。AAやビッグブックが誕生した歴史を調べてみると、それはいくつかの奇跡と言っても良い偶然が積み重なった結果であることがわかります。そして、奇跡は狙って起こせることではありませんから、現代英語で新しくビッグブックを書き直しても、それがオリジナルと同じ効力を持つという保証は誰にもできません。

であるにしても、ビッグブックの分かりにくさは現実的な問題です。そこでビッグブックとは別に12ステップの解説書が出版されています。AA本体はそうした解説書を出すことを拒否しているので、そうした本はすべてAA以外から出版されています。日本語に翻訳されたものだけ挙げても、回復研から出されている『「回復」のステップ』(赤本)、『ビッグブックのスポンサーシップ』(緑本)。ジャパンマックから『スツールと酒ビン』、秋には "A Program For You" も訳出されるとか。

こうした本はビッグブックの代わりになることを狙っていません。だからまずビッグブックを読むように、と巻頭あたりに必ず書いてあります。

そうしたビッグブックの使いにくさは、一対一のスポンサーシップによって補われています。人間対人間が基本であり、本は「AAメッセージの一貫性を保つ(AA p.xxx)」ための脇役に過ぎないとも言えます。

ではAA以外の12ステップグループの基本テキストについてはどうか。それについてはまだ僕にもよく分かりません。NAのホワイトブックについては、いつか薬物のスポンシーと読み合わせて分かち合ってみたいと思っています。先日7千円ほど使ってGAの日本語になっている本を一通り買ってみました。しかし、そういったものに手をつけている時間がないのが僕の問題です。ただ、薬物のスポンシーも、ギャンブルのスポンシーも、AAのビッグブックで何とかなっています。


2011年06月20日(月) 12のステップ

AAの12のステップはここに掲載されています。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/fsteps.htm

この短い12個の文章を読んだだけで、12のステップを理解できる人がいたとすれば、その人は超能力者か何かでしょう。というのも、この短い文章は言ってみれば「本の目次」みたいなものだからです。

目次を読んだだけで、本の内容もなんとなく理解できてしまう、ということもあります。だがそれで知ったかぶりをして本の中身について語ったりすれば、いずれどこかで大恥をかく羽目になります。

12のステップについても、人々がこの短い12個の文章から様々な想像を巡らせています。こうした想像が12ステップを巡る混乱が作り出された第一の原因でしょう。

内容を理解するためには、目次だけでなく中身も読む必要があります。でも、いったいどんな本を読んだらいいのか。実はAAには『12のステップと12の伝統』(通称12&12)という本があり、前半の12章が12のステップに、後半の12章が12の伝統にあてられています。そのせいで、

「この本が12ステップの解説書である」という誤解

が生まれてしまいます。実はこの本は12ステップの解説本ではありません。

12&12はAAの共同創始者のひとりビル・Wの著作です。12のステップはAAとほぼ同時に誕生し、アルコホーリクが酒を飲まずに生き残る指針を提供しました。それから10年以上が経過し、様々な経験が積み重ねられる中で、どうやら「AAグループ」が生き残るためには12のステップとは別の指針が必要だと分かってきました。そのためにまとめられたのが「12の伝統」です。

ビルは12の伝統をAA全体に広めようと努力し、そのために本の出版が企画されました。しかしその本は人気が出ないだろうと予測されました。というのも12の伝統そのものに人気がなかったからだと伝えられています。アル中は例え酒を飲んでいなくても、自分のやっていることにヨソから口出しされることを嫌います。だから新しい指針を押しつけと感じたようです。

そこで当時の理事たちは知恵を絞り、12ステップに関する文章も追加すれば、本を手にとってもらえるだろうと考えました。そうしてステップと伝統がカップリングされた本ができあがったのです。

しかし、ビルは新たに12ステップの文章を書くに当たってビッグブックとの重複を避けました。したがってこの12個のエッセイ(12&12にはこれがessayであると書かれています)には、ステップに関する重要な情報が欠落しています。例えば問題の本質として表現される「アレルギー」については、12&12にはほんのわずかしか触れられていません。12ステップのハイライトであるステップ4の棚卸しの書き方や、ステップ9の埋め合わせのやり方も書いてありません。

12&12におけるビルの文章は優れたものだと思います。それには彼の十数年にわたる進歩が反映されています(例えばその間にビルはカール・ユングと書簡を往復しており、その内容の反映があるといいます)。しかし、どうしても12&12は「ビッグブックの注釈集」みたいな様相を帯びてしまいます。ステップの基本を押さえた上で、より深く学ぶ人には適しているでしょうが、最初から12&12に取り組むのは迷路に迷い込むことになります。注釈ばかり読んで本文を読まないようなものです。

このように『12のステップと12の伝統』がステップの本だと思われ、皆がそれを手にしたことが、ステップに関する混乱が生じた第二の原因でしょう。

結局のところ、AAの12のステップを理解するためには、そのために書かれた本であるビッグブックを読むしかありません。ビッグブックがAAで basic text (基本的な教科書)とされるゆえんです。しかし、このビッグブックが決して分かりやすい本とは言えないことも困ったことなのですが、それについては次回。


2011年06月17日(金) スポンシーの数

僕にはアクティブな(=ステップに取り組んでいる最中の)スポンシーが現在4人います。一人は現在ステップ9の埋め合わせ中、もう一人はステップ4・5のところ、もう一人は最近始まったばかりでまだステップ1が続きそうです。残る一人はステップワークは別のスポンサーとやっており、僕はソーシャル・スキル担当です。

正直これでも忙しく、一人ひとりのスポンシーに十分な時間を割けているとは言えません。もっとじっくり相手をすべきだと思いながらも、そうできずにいることを申し訳なく思っています。週末は土日どちらか(あるいは両方)スポンシーと時間を過ごし、平日の晩を使うこともあります。4人のうち2人は毎晩電話で定期報告をしてきます(しなくてもいいんだけど)。

要するに引き受け過ぎなのです。普通に働きながら、空いている時間を使ってスポンサーシップをやるのなら、同時進行で2~3人が限度でしょう。あるアメリカのAAメンバーは生涯で八十数人のスポンシーを持ったそうです。その人がどれぐらいAAで活動したか知りませんが、仮に30年だとすれば、1年平均で2~3人。まあそんなものでしょう。

人の時間は有限であり、仕事を増やしすぎれば質が落ちることになる。それはスポンサーシップでも同様です。

何十人とスポンシーを抱えている人もいるのだそうです。スポンシーの数については、ジョー・マキューはこう書き残しています。

「一人しかスポンシーを持たない人もいるが、10人、20人のスポンシーを持つ人もいる。しかし、スポンサーシップを成功させるには時間が必要である。果たして、それほど多くのスポンシーを抱えて、真の助けができるだろうか。私には、それがスポンサーのエゴのように見えることが多い。それに、多くのスポンシーを持つことは、他のアルコホーリクがスポンサーになる機会を奪うことにもなってしまう」(ビッグブックノスポンサーシップ、p.36)

同時にたくさんのスポンシーを持てば、ひとりに割ける時間はわずかなものになり、相手の助けになれなくなってしまいます。それはつまり「誰の助けにもなれなくなる」ということでもあります。「たくさんのスポンシーを持つ」ということが、その人のエゴ、思い上がりではないかという指摘は当たっているでしょう。

もう一つ、他の人がスポンサーをする機会を奪ってしまう、こちらのほうが問題のように思います。誰しもスポンサーとして最初は初心者で、次第に経験を積んで慣れていきます。どうせスポンサーを依頼するなら経験豊富な人に頼みたいと思うでしょうし、頼まれた方も自分がやるのが一番良いと思ってしまうものでしょう。しかし、それは単なる善であって最善ではありません。伝統一を引き合いに出すまでもなく、ひとりが突出しても全体の利益にはなりません。全体のレベルが底上げされてこそ、つまりスポンサーを引き受けられる人材が豊富に存在するほうが、全体の益になるのです。その点でも、スポンシーを引き受けすぎるのは個人のエゴです。

「どうやってステップをやったらよいか」を伝えるのがスポンサーです。しかし、そればっかりやっていると、他の人のチャンスを奪ってしまいます。次は「どうやってスポンサーをやったらよいか」を伝えて、他の人たちの活躍を応援できるようにならねばなりません。その点については僕もまだまだこれからです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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