ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年12月01日(木) 司会者の心得・ブルーカード Twitterのほうで、ちょこっとだけ話題になっていた件です。
僕のつながった頃のAAでは「司会者の心得」というリーフレットが使われていました。
紙の片側には「オープンミーティングの場合」とあり、司会者がミーティングの前に読み上げる形式でした。その内容をざっと紹介すると、「ここで話されたことはすべて個人の意見であって、AA全体を代表するものではないこと」、「ここで話されたこと、会った人のことは、この会場内にとどめておく」、「出席者のプライバシーを保護するために、写真撮影、テープ、メモはご遠慮下さい」というのが主旨です。
紙の反対側は「クローズドミーティングの場合」。こちらはミーティングの締めくくりに読むもので、「話されたことは、すべて個人の意見であって、AA全体を代表するものではない」というのと、「持ち帰りたいものだけを持ち帰り、それ以外はこの場に置いていって下さい」とあり、さらに「うわさ話や陰口が私たちの中に無いように」とあります。
なぜこの「司会者の心得」が使われるようになったのか。AAサービスの生き字引みたいな人に尋ねてみたところ、ずっと以前のAAで、プライバシーが守られない深刻なトラブルが起こり、注意喚起のために善意のメンバーたちが作ったリーフレットがやがて広まったものだ、と聞きました。まだ関東のセントラルオフィスができる前だったので、リーフレットはJSOで扱われるようになり、それがあたかもAAの共通認識であるかのような印象を与えたのであろう、ということでした。
そもそも、写真撮影、テープ、メモの禁止がAA共同体の意見として決まっていたわけではないし、自助グループとはそういうもの、という認識を広める意図があったわけでもありません。もちろん、AAのような個人的な事柄がシェアされる団体の中でプライバシーという人権を尊重することは大切で、AAの様々な出版物の中でもそのことは繰り返し強調されています。
ところが、AAの中でプライバシーのことばかり言っていられなくなった事情がありました。1990年代にはセクハラが社会問題として取り上げられるようになり、1999年には職場のセクハラ防止が法律で義務づけられました。社会全体がセクハラ・パワハラ防止に傾いている中で、AAも社会の動きと無縁ではいられませんでした。
当然ミーティング会場でセクハラを受けた人(主に女性)からは、被害の訴えがあちこちから出されてきました。AAは警察機構や懲罰制度を持ちませんから、できることと言えば、せいぜい皆で話し合って注意喚起するぐらいですが、それすらも満足にできない状態でした。というのも、「ミーティング場であったことは、外には持ち出せない」と言い張って、都合の悪いことを隠蔽する体質ができあがっていたからです。これでは話し合いすらできず、被害者は泣き寝入りするしかありません。
人は様々な権利を持っておりそれがバランス良く保護されねばなりませんが、どうやら当時のAAではプライバシーという人権だけが突出してしまい、その他の人権が軽視されるような事態になっていたのです。プライバシー偏重体質に「司会者の心得」も一役買っているのは明らかでした。
その頃、アメリカのAAでは、ミーティングの前に読むために「ブルーカード」という紙が作られている、という情報が入ってきました。これも1枚紙のリーフレットで、片側がオープンミーティング用、反対側がクローズドミーティング用となっています。ただ、その内容は日本の司会者の心得とは異なっています。
僕はアメリカのAAミーティングには出たことはありませんが、聞くところによれば、1970年以降AAには様々な「AA以外の」様々な考えが持ち込まれるようになったそうです。薬物依存やACの人たちが参加し始め、その人たちはアルコールとは違う問題について話し始めました。また解決手段も、ゲシュタルト療法やインナーチャイルドや承認欲求うんぬんという話が増えていきました。(とりわけアルコール依存と薬物依存を区別しない施設が、アルコホーリクでない人たちにAAを勧めることに批判がありました)。
結果として、AAにやってきた人が、ここはアルコールのグループなのかどうかとまどうようになり、12ステップに触れる機会も減っていきました。そして1990年代になるとメンバー数の減少が始まりました(アメリカの話)。AA全体が目標を見失って迷走を始めてしまったため、アルコホーリクがAAで助からなくなっていきました。そこで singleness of purpose(目的の単一性)といったスローガンが掲げられ、AAを本来の方向に戻す動きが始まりました。
ブルーカードもその目的に沿って作られたもの(1987年)で、「AAの目的は一つ」であることを強調した上で、オープンミーティングでは「アルコールの問題だけ」、クローズドミーティングでは「アルコホリズムにかかわることだけ」が分かち合われるようにAAメンバーに呼びかけています。
日本でも同じことが問題となっていました。日本で1975年に始まったAAは、当初順調にメンバー数を伸ばしていったものの、1990年代から明らかにその伸びが鈍化し、停滞が始まっていました。AAが本来の目的から逸れ、メンバーたちがアルコールの話や12ステップの話をすることが少なくなっていました。
日本の全国評議会の決議として、「司会者の心得」を廃し、ブルーカードの翻訳を採用することが決まったのが2003年のことです。こうしてブルーカードは司会者の心得に変わり、日本のAA共同体を代表する意見として採用されることとなったわけです。だからと言って「司会者の心得」の使用が禁じられたわけではありません。使い続けたいグループはどうぞご自由にという扱いになりました。単に「司会者の心得」の内容がそのグループにローカルな意見であり、AA全体を代表した意見ではなくなったということです。
話はこれだけで終わりません。
近年になって、アディクションフォーラムやアディクションセミナーという催しが全国各地で開かれるようになってきました。その内容は、講師を招いて講演をしてもらったり、様々なアディクションの当事者が体験を語るオープンスピーカーをやったり、自助グループや回復施設が模擬ミーティングを開いたりするのが一般的でしょうか。社会に向かってアディクションの情報を発信することで、無知や偏見を取り除き、新しい人が回復資源につながりやすくする効果を狙っています。
とはいえ、一般の人たちはなかなかアディクションには興味を持ってもらえません(身内に当事者でもいない限り)。わりと来てくれるのが、医療・看護・福祉の学生さんたちです。将来自分の仕事に役立つと思ってのことですし、理解のある人がそうした分野に増えることは歓迎すべきことです。ところが、その人たちは「学び」のために来ているわけなので、ノートにメモを取るのが当然だと思っています。
ところが、壇上で話をしている当事者のほうは、自分の話がメモを取られることにまったく慣れていません。さらには、新聞やテレビの取材もお断りだったりします。社会に向かって情報を発信するという目的と齟齬が生じています。
どうしてこうなってしまったのか。(AAには断酒会という先達はあったものの)、AA以外の様々なグループが「AAのやり方」を一つのモデルとして取り入れていったことは疑いもありません。その中の一つに「何が何でもメモは禁止」という誤解も含まれています。慣れ親しんだやり方を変えるのは誰にとっても簡単ではありません。この問題の解決は容易なことではないでしょう。
ずっと以前にAAメンバーたちが、自分たちの問題を解決するために作った一枚の紙が、アディクションの情報を発信するための足枷を作ってしまったわけです。プライバシーの保護と、情報の共有・発信とのバランスはどこに置けばいいのか。そのことを議論する(できる)人たちすらほんの一握りです。
2011年11月28日(月) ステップの「棚卸し」は癒しではない 12ステップのステップ4と5は「棚卸し」と呼ばれ、またステップ10にも日々の棚卸しという作業があります。「棚卸し」は12ステップのハイライトです。
棚卸しは癒しのために行うと考えている人もいますが、そうではありません(少なくとも僕はそう考えてはいません)。もちろん、ステップ4で棚卸し表を書き、ステップ5で誰かとその内容を話し合うことで、大きく癒されたと感じる人はたくさんいます。けれど、癒しで終わらせてしまうわけにはいきません。なぜなら、ステップ4・5は変化の始まりに過ぎないからです。癒されたという感じに満足して、そこでステップを止めてしまうと、結局その人は変化できないのです。
癒しとは何でしょうか。こんな例えを考えてみます。
小さな子供が転んで膝小僧をすりむいたとします。膝の傷を洗ってやり、消毒して、薬を塗る手当をします。それによって傷はきれいに治る。これが癒しです。
12ステップは違います。しょっちゅう転んで怪我をしている子供がいた場合に、「どうしてこの子はこう頻繁に転ぶんだろう」と原因を探って解決するのが12ステップです。
大人と違って子供は簡単なことで転びます。子育てしてみると分かりますが、子供は靴が少し大きくてブカブカしているだけでも転びます。足がどこか悪いのかも知れないし、目が悪いのかも知れません。平衡感覚に問題を抱えているのかも知れません。その子の転ぶ原因を見つけてあげることが大切です。
(僕自身も子供の頃はしょっちゅう転んで、田んぼの水路にハマっていました。片目の視力が悪いのが原因だと分かったのは、小学校入学時の身体検査時でした。もっと早く原因が突き止められていたら、視力向上の手段もあったのですが、すでに時遅し。医療水準の低かった当時の田舎では仕方のないことでした)
癒されることを求める人がいます。転んで膝をすりむけば、傷の手当ては必要です。でも対症療法を繰り返すだけでは解決にもならないことも多いのです。
生きづらさを抱えている人がいます。人生につまずいた人がいます。AAや他のグループに来て12ステップに取り組む人は、何らかの人生のつまずきを経験したからこそ、そこに来た人たちです。中には大きなつまずきが一度あったに過ぎない、と主張する人もいますが、実はその大きなつまずきは、それに先立つ小さなつまずきの繰り返しによってもたらされたものです。
アディクションやACの問題を抱える人は、言ってみれば「転んで怪我をしやすい子供」のようなものです。みんな傷ついて自助グループにやってきます(僕もそうでした)。けれど、その心の傷を癒して、低くなった自尊感情を持ち上げるだけでは、解決になりません。
生きづらさや人生のつまずきは、表面に現れただけのものです。問題の本質(原因)はもっと奧にあります。それを何と呼んでも良いのでしょうが、たまたま12ステップでは性格上の欠点とか短所と呼んでいます。他では違う言葉が使われているかもしれませんが、同じことを指しています。そうした原因が取り除かれれば、生きづらさやつまずきはずっと減ります。
転んで怪我をすれば痛い。転びやすい子供はやがて外で遊ぶのが怖くなり、家に閉じこもりがちになります。同じように、人生につまずき、生きづらさを感じている人は、不安が大きくなり、世の中の不条理をより感じやすくなります。「性格的欠点の多い人ほど傷つきやすい」という原則のとおりです。けれど、転ぶ原因が分かれば、その原因を取り除きたくなる人もいます(ならない人もいるけど)。原因が取り除かれ、転ばなくなればまた友だちと遊びたくなります。アディクトやACも、不条理な世の中を自信を持って泳ぎ渡っていけるようになります。(「自己評価の低さが私の生きづらさの原因」なんて言葉のナンセンスさが分かります)。
棚卸しでは、ひんぱんにつまずいてきた原因を分析します。そこから先のステップでは、その原因を取り除いていきます。
転ぶことが自分の個性、転びやすさが自分の個性だと思ってしまっている人がいます。卑屈になっているわけです。けれど、転びやすさを取り除くと、その人の本当の個性が現れます。それまでは、その人らしい個性は見えず、アディクションの問題、ACの問題に覆われてしまって見えません。本当の個性ではなく、アディクトであること、ACであることが、その人の個性代わりになってしまっているのです。周りの人も、その人のアディクションやACの問題が、その人の個性(人格)だと思いこんでしまっています。
2011年11月24日(木) 「これにしか使えない」の大切さ(その2) 前の雑記は、何らかの治療論・援助論があったとき、それがどの範囲に有効で、逆にどの範囲には有効でないかを示すことが大切であって、「何にでも使える」「これを使えばどんな人でも良くなる」という話ほど怪しいものはない、というお話しでした。
で、今回の話は、じゃあAAはどうよ、ということです。
AAは「どんなアルコホーリクでも回復可能」とは主張していません。AAが効くためには「自分に正直になる能力」が必要だったり、「プログラムに真剣に取り組む」ことが求められており、それができない人の回復率は平均以下だと堂々主張しています。
しかるに一方では「AAではどんな酷いアルコホーリクでも回復できる」という主張もあります。この「どんな酷いアル中でも」がどこから発生してきたのか。元をたどっていくと、日本でAAを始めたミニー神父の言葉にたどり着きます。彼は日本でAAを始めるに当たって、職業も家族もあるアル中は断酒会で助かっているのを見て、援助の手が届いていないドヤ街のアル中を対象とすることに決めました。そこが日本のAAとマック(メリノール・アルコール・センター)の出発点となりました。
さて、依存症者は自らを例外の立場に置きたがる傾向があります。医者に「あなたは依存症で、もうアルコールをコントロールして飲めない」と言われれば、他のアル中はそうかもしれないが、自分は節酒ができる(つまり自分は例外)と考えるのがアル中です。一人では酒はやめられないと聞けば、自分は一人で止められるとか。
そうやってずるずる酒がやめられないまま病気が進行すると、今度は「他のアル中は酒をやめられるかも知れないが、自分はダメだ、飲んで死ぬしかない」という今度は逆の例外化がされ、否定的な自己像がべったり張り付いてしまいます。ミニー神父の「どんな酷いアル中でも12ステップを使えば回復できる」という言葉は、そうしたスティグマや否定的感情を引っぺがして、ドヤ街まで落ちたアル中たちに回復への効力感を与えるのに効果的な言葉だったのでしょう。役に立つ言葉であったと思われます。
後年、AAとマックが分離された後も、この言葉はAAに残り、さらには回復を希望するどんなアルコホーリクも拒まないというAAの指針(12の伝統)によって、この言葉に正当性が与えられました。
「AAはこういう人に向き、こういう人には不向きです」という情報がAAから発せられることはありませんでした。また医療職・援助職の人たちも、ほぼ無批判にAAを勧め、患者を送り込んできました。僕は最初主治医に「あなたは独身だから断酒会よりAAに行きなさい」と言われたのですが、これは乱暴ではあるものの、最低限のアセスメント?に基づいた判断だったと言えなくもありません。それすらも行われずに、なぜこの人がAAに合わないのかを考える人はいませんでした。
AAで「どんな人でも回復できた」わけでなかったのはハッキリしています。AAが合わない人はどんな人か調べれば、どうやればもっと合うようにAAを変えていけるかとか、あるいはAA以外の受け皿を作るとか、対応策が打てたはずです。それが行われずに「AAは実はあんまり効果がないよね」という話になってしまっているのは、残念なことです。
最近では12ステップはアルコール以外の問題にも広く使われるようになってきました。12ステップを理解してくれる人が増えることは喜ばしいことですが、この広がりが本当に良いことなのかどうかは僕には分かりません。12ステップを引用した書籍はたくさん出ていますが、最近NYのGSOから許可を得た書籍には、このような注意書きが掲載されているのをご存じでしょうか。おそらく12ステップの引用許諾の条件として、GSO側から掲載を依頼している文章だと思われます。
A.A. is a program of recovery from alcoholism only -- use of these excerpts in connection with programs and activities which are patterned after A.A., but which address other problems, or in any other non-A.A. context, does not imply otherwise.
「AAはアルコホリズムからの回復にのみ使われるプログラムです。本書における(AA書籍からの)引用が、AAに準じアルコホリズム以外の問題に取り組んでいるプログラム及び活動に関連して使われている場合であっても、あるいはAAとは関係のない文脈のなかで使用されている場合でも、(AAプログラムがアルコホリズム以外の回復プログラムたりうることを)意味するわけではありません」
AAは自分たちが「アルコホリズム」と呼んでいる病気以外の問題解決に12ステップが有効である、という言質を取られないように、ずいぶん気を使うようになりました。
これについては、もう少し話が続くのですが、また別の機会に。
2011年11月22日(火) 「これにしか使えない」の大切さ(その1) はいはい、雑記ね。書きます、書きます。
リンク集に 家族の回復ステップ12、じゅんさんのブログSTRONGESTBABY.comを追加しました。
さて本題。何度も取り上げている内田樹×春日武彦の対談、「中腰で待つ援助論」。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2613dir/n2613_01.htm
このなかに、
> 「ここには有効だけれども、ここから先には使えません」と言う、地域限定、期間限定、条件限定の、適用範囲が限定されている理論のほうが、僕は理論としてはずっと上等だと思うんです。「何にでも使えます」なんて怪しいですよ。
という一文がありますが、これは実に的を射た意見だと思っています。
アメリカのアリゾナ州に「アミティ」という治療共同体があります。犯罪者や依存症者の更正と社会復帰のための施設です。
常習的な犯罪者や薬物乱用者の中には、子供時代に親から虐待的を受けたり、イジメなどの被害的体験を経ていることが多く、思春期から逸脱行動(つまり非行)が目立ち、大人になってからも何度も犯罪を繰り返す傾向があります。彼らは「反省しろ」と言われても、どうやって何を反省したらいいのか分からない、という問題を抱えています。アミティでは、まず子供時代の被害体験を振り返ることから始めます。それによってまず被害者である自己を確立し、被害者がどんな感情を味わうかを捉えます。次に、自分の加害によって相手にどんな傷を与えたかを自覚する段階へ進みます。僕がいろいろ説明するより、ここらへん(アミティを学ぶ会)あたりを読んでもらったほうが話が早いです。
アミティは加害者更正プログラムとして高い評価を受けています。しかしどんな場合にでも使えるわけではありません。以前信田さよ子さんの講演を聴きに行ったら、アミティのモデルはDV男性の更正プログラムとしては使えない、という話をされていました。夫婦間のDVは、必ずしも別居や離婚に進展するとは限らず、同居の生活を続けなければならない場合も多いのですが、その場合、被害を少なくするためには更正プログラムは短期間で効果を上げねばなりません。アミティのプログラムは「変化に時間がかかりすぎ」て、同居の被害者を守りきれないのです。このため信田さんはアミティのモデルを採用することを諦め、カナダの司法当局が使っているモデルに切り替えた、という話でした。
これはアミティのモデルを貶めているわけではありません。単に犯罪常習者や薬物乱用者向けの更正プログラムが、DV加害者に適用できなかった、というだけの話です。それを無理に「アミティのモデルはどんな犯罪者にも適用可能だ」と推し進めれば、かえってアミティの価値を引き下げてしまいます。
昨日上京した際に、グリーフワーク(グリーフケア)に関する資料をもらいました。
グリーフは悲嘆と訳されます。例えば、人の死後、残された家族の悲嘆のことです。大切な人を失ったとき、人はまずショックを受け、次に大きな喪失感を味わい、やがて抑うつ的な絶望を経て、最後に死んだ人への愛着を手放し、新たな自己像を獲得する(再生)、という「悲嘆段階説」が信じられています。(悲嘆の段階についてはバリエーションが諸説あるようです)。
これには「悲嘆は期限付きのもの」という思想が含まれており、悲嘆者はこの段階のどこかで立ち止ってしまい、次に進めないために肉体的・精神的なダメージが残ってしまう。そのため専門家のサポートを得て(グリーフワーク)、次の段階へと進んでいくことが大切だとされています。
僕はグリーフケアにはほとんど関心を持っていなかったため、この悲嘆段階説が疑問視されていることや、「正常な」悲嘆にある人に対する専門家のサポートは効果がないか、あるいはあってもごく僅かであるというエビデンスが出てきているとは知りませんでした。自死遺族会などでは悲嘆段階説とは異なる思想を持っており、悲嘆のどこかの段階にとどまることを否定的に捉えたり、死者への愛着を手放す論理に対して反論があるといいます。
もちろん悲嘆が長く続くために社会生活に支障を来している人はいるでしょう。しかしそうしたいわば「異常な」悲嘆へのケアとして有効だったグリーフワークを、自殺予防対策の名の下に自死の遺族への事後対応として専門家が無批判に採用してしまったことが、グリーフワークの評価を引き下げてしまったと言えます。
このように、何らかの治療論・援助論があったとき、それがどの範囲に有効で、逆にどの範囲には有効でないかを示すことが大切だと思います。「何にでも使える」「これを使えばどんな人でも良くなる」という話ほど怪しいものはないわけです。
ひるがえって、AAのことを考えてみます。
(続く)
2011年11月14日(月) 断酒の覚悟 vs. 行動 先月はAAのメッセージ活動で初めて刑務所内に入りました。今月は病院メッセージの輪番にあたっていて、県内の病院に行きました。精神病院には独特の匂い(病院臭)が漂っているものですが、ここは建て替えられたばかりですがすがしい感じです。その状態が今後も保たれるのかどうか関心があります。
さて、病院メッセージでは、AAメンバーが病院の一室にお邪魔し、入院中の依存症患者の人がそこへやってきて話をします。形式は様々で、病院の治療プログラムにしっかり組み込まれて患者の参加が強制されている場合もあれば、部屋をAAに時間貸ししているだけで患者が参加するもしないも自由という病院もあります。
中身もいろいろで、普通のAAミーティングに近い形式だったり、一方的にAAメンバーがしゃべるだけだったり、決まった形式はありません。
僕が担当するときは、終わる前に質疑応答の時間を設けることにしています。入院中の人は聞いてみたいことがたくさんあるわけですから。今月は僕が司会進行役ではなかったのですが、やはり質疑応答の時間が設けられていました。
その中で「ノンアルコールビールは飲んでもいいのか?」という質問が出ていました。それへの回答は省きます。その後で、質問された方自身が自問自答され、「ノンアルコールビールのことを聞くなんて、私はまだまだ(断酒の)覚悟が足りませんね」とおっしゃってました。それはつまり、まだ酒を飲みたい未練があるからこそノンアルコールを話題にしてしまうわけで、そんな中途半端な気持ちでは自分は酒をやめられない(再飲酒してしまう)かも、という不安の吐露であったことでしょう。
ノンアルコールビールに関心を寄せるのは、酒がまだまだ飲みたいからである・・・それは確かにその通りでしょう。じゃあ、酒への未練を断ち切って、断酒の覚悟を決めれば酒がやめられるのでしょうか? その答えはどうやらノー(否)らしいのです。
アメリカで1935年にAAが誕生する以前にも、様々なアルコホーリクのグループがありました。しかしそのどれもAAほど大きく成長できず、多くは消えていきました。なぜAAが成長できたのか、AAとそれ以前のグループを比較して論じている人たちがいます(ウィリアム・L・ホワイトとかアーネスト・カーツとか)。
今まで酒を飲んでいた自分を悔い、酒を断つ固い決心をする・・これをAA以前のグループは改心(reform)と呼び、どうやったらアルコホーリクにこの改心を呼び起こさせるかに腐心しました。しかしこの覚悟・決心・改心には欠点があります。「酒をやめるのは簡単だよ、俺はもう何十回もやめている」というジョークがあるように、覚悟では再飲酒を防げないからです。
そこでAAは戦略を変えました。AAに参加する資格は「酒をやめたい願望」だけですが、その願望ですらそれほど強く求められていないことは、現在AAにいるメンバーの多くが、AAにやってきた頃はそれほど酒をやめたいとは思っていなかった事実が証明しています。断酒の覚悟を語る言葉は信用されません。固い決心をしてもまたいずれ飲んでしまうのがアル中だからです。
その代わりAAは行動が大事であると説きます。行動とは、例えばAAミーティングへの出席です。話す言葉ではなく、ミーティング会場への登場を信用するわけです。そしてやがて行動がその人の気持ちを変えていきます。(ステップ3でも決心は求められていますが、それは断酒の決心とは別のものです)。
もちろんAAが成功した理由は他にもいろいろあるでしょうが、この改心の哲学から行動重視の哲学への転換はきっと大きな部分を占めているでしょう。
アルコール医療にたずさわっている人たちからよく聞かれる質問があります。「どうやったら入院中の患者さんたちに、AAメンバーのような断酒への意欲を持ってもらえるでしょうか? あなたの場合はどうでしたか?」という類です。
この質問の背後には、AAメンバーになる人には、まず最初に断酒への強い動機があり、それがAA活動という行動として発現している、という考え方があります。しかしAAメンバーの現実は逆です。つまり、何らかの境遇によってAAに通う羽目になった、という環境が最初にあり(そこにはなにがしかの強制があります)、そして、通い続けるうちに動機付けが行われた結果、やがて自発的にAAを続けるようになった、というわけです。
MATRIXでもSMARRPでも、どうやったら治療を中断せず継続してもらえるかに注意を払っています。最初から動機付けがされた人を相手にするのではなく、プログラムそのものが動機付けの役割を背負っているわけです。その点はAAも変わりありません。
だから、「どうやったら断酒への動機付けができるか」ではなく、その一歩手前「どうやったら動機付けをするプログラム(自助グループ含む)に参加してもらえるか」を考えるべきじゃないのか、と思うわけです。これを言うと「ええ〜!そんな初歩からですか?」と驚かれますが、そんなもんですってば。
2011年11月11日(金) ステップ4の訳のmoralについて AAの12のステップの4番目は、原文ではこうなっています。
Made a searching and fearless moral inventory of ourselves.
で、現在の日本語訳はこれです。
「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った」
日本語訳と原文を対比してみると、moral という言葉が訳から抜け落ちていることに気づかれるでしょう。だからこれが不完全な訳であり、「モラル」という言葉を入れるべきだという指摘があります。
今回はこの moral がどんな意味なのかという話です。
その前にちょっと脇へ逸れ、この部分が日本の様々な12ステップグループでどう訳されているか調べてみましょう。ネットに12ステップを公開しているグループの moral inventory of ourselves の部分です。
・自分自身の棚卸し(現AA・OA・SA・SCA・EA・ACA)、生きてきたことの棚卸表(アラノン)、モラルの棚卸表(NA)、モラルの棚卸し(GA)、個人的棚卸し(MA)。
実に様々です。さて、moral の意味を問う前に、棚卸しとは何かという話をしなくてはなりません。これはもちろん商売の棚卸しを元にしたものです。ビッグブックには、それを説明した文章があります(p.93)。
Taking commercial inventory is a fact-finding and a fact-facing process. It is an effort to discover the truth about the stock-in-trade.
棚卸しは、事実を把握し、それに正確に向き合おうとする過程であり、在庫品の現状を知るための努力である。
日本語英語の言葉をを一対一に対比させてみましょう。
棚卸し = commercial inventory
事実を把握する = fact-finding
正確に向き合う = fact-facing
在庫品 = stock-in-trade
現状 = truth
これはステップ4の文章「恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った」に対応しているので、それも同じように日本語英語を対比させます。
棚卸し = inventory
探し求め = searching
恐れずに = fearless
自分自身 = ourselves
= moral
moralに対応する言葉がありません。日本のAAは2000年にステップの文章を改訳しましたが、それ以前に使われていた旧訳ではこうなっています。「探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った」。生き方という言葉が moral に対応しています。
(生き方) = moral
一つにまとめます。
棚卸し(commercial inventory) = 棚卸し(inventory)
事実を把握する(fact-finding) = 探し求め(searching)
正確に向き合う(fact-facing) = 恐れずに(fearless)
在庫品(stock-in-trade) = 自分自身(ourselves)
現状(truth) = (生き方)(moral)
商売の棚卸しと、ステップ4の棚卸しが、一対一に対比された表ができあがりました。ビル・Wの文章は論理的です。
この表を見ると moral が何を意味するかが見えてきます。ステップで言う moral とは、日本語のモラルや道徳という意味ではなく、「自分自身の現状」「自分自身の真実」を示しています。fact-finding も fact-facing も truth も、一つのことを示しています。
つまり、自分自身について、目を背けることなく、ありのままを表に書き記す。棚卸し表は回復の根源をなすものですから、そこにウソ偽りやごまかしがあっては回復の成果はおぼつきません。(だから、どうしても moral を訳せというのなら「ありのまま」とでもするしかありません)。
商売の棚卸しでは、帳簿上の在庫と現実の在庫を一致させます。帳簿上では存在しているはずの在庫でも、実際には万引きされてなくなっていたり、日焼けしたり腐ったり賞味期限を過ぎていたりで売り物にならないかもしれません。帳簿の数字が間違っていたらどうなるか。帳簿より実際の在庫が少なく商品棚に並んでいなければ、客は商品を買うことができませんから、売り上げが落ちてしまいます。逆に実際の在庫が多いのに、帳簿だけ見て少ないからと次の仕入れをすれば過剰な在庫を抱えてしまいます。「棚卸しをしない商売は、たいてい倒産する(p.93)」のです。
棚卸し表と実際の商売の姿がきちんと一致しなければ、商売が破綻してしまいます。世界的に有名な光学機器のメーカーも、何年も帳簿の数字をごまかし続けてきたために、大変な窮地に陥っているではありませんか。
ビル・Wは、人の生き方を商売に例えました。12&12でもステップ1の冒頭で人生を「私たちが営む人間商会」と表現しています。商売の仕方、つまり生き方が変わらなければ、私たちも破綻します。だから私たちはステップ4で棚卸しを行うのですが、その対象は自分自身です。
商売の棚卸しにおいて帳簿と在庫が一致しなければならなかったように、ステップ4でも実際の私たちの考え方や行動が棚卸し表にありのままに書かれなければなりません。だから怠ることなく探し求め、目を背けることなく向き合って、自分自身の真実を表に書きます。
こうして見ればわかるように、ステップ4では moral という言葉が「真実」あるいは現実・実際という意味で使われています。表(帳簿あるいは棚卸し表)と棚卸しの対象(在庫あるいは自分自身)が一致することが最も肝要な点ですから、それを fact-finding/searching, fact-facing/fearless, truth/moral と言葉を変えながら繰り返し強調されているわけです。
モラルがどうのこうのという議論は、12ステップのあの短い12個の文章だけを元にして議論しているわけですが、そこで使われている一つ一つの言葉がどんな意味で使われているのか、それはビッグブックに書かれています。ここまでの話は僕の考えではなく、緑本(『ビッグブックのスポンサーシップ』)のp.87に書かれていることです。緑本では moral を「生き方に即した」、truthを「事実に即した」と訳しています。
なぜAAの12のステップが moral を「モラル」と訳さなかったのか分かっていただけるでしょう。逐語訳をするよりも、原文の意味に忠実な訳を選んだほうが、読者に正確に伝わるからであり、回復をもたらすことができるからです。
2011年11月10日(木) 断薬について追記 前の雑記で、抗不安剤を中止すべきかどうか、見極めができる人材を増やすべきだと書きました。これは個別のケースごとに判断しなければならない、ということです。
いつも同じ判断をすれば良いのなら楽です。例えば「薬を飲んでいるのはソーバーじゃない」と言って、薬を止めさせる圧力を常にかけていれば良いのなら判断は要りません。その逆で「必要なら薬をどんどん飲めばいいじゃないか」と言っているのも、同じく判断は要りません。
けれど現実には一件一件判断を重ねなくちゃなりません。今の日本の精神科医療の仕組みでは、その判断をすべて医者任せにするわけにもいかない、という事情があります。ましてやその薬がアディクションに通じていない精神科医や、さらには内科医から出ている場合には。
とは言うものの、依存症以外の病気が絡んでいる場合には、医者の判断を優先するのが基本でしょう。これまで一連の話はベンゾジアゼピン系の抗不安剤に限りました。睡眠薬として使われる機会の多い薬です。それ以外の、例えばうつ病患者に抗うつ剤を飲むなとか、統合失調の人に抗精神病薬を飲むな、と素人が言っていいとはちょっと思えません。また、ベンゾジアゼピン系の薬も一時的に必要なこともあるでしょう。それ以外の病気についても同じことで、てんかんの人が抗てんかん薬を飲まなかったら、てんかん発作を起こすのは当然の話です。
統合失調症を患う知り合いがいます。彼はアディクションの問題も抱えていました。統合失調の人がしばしばアルコール乱用やギャンブルへの没頭をすることは以前に書きました。それをアディクションとして捉えるよりも、統合失調のケアをしたほうが本人のためになるということも書きました。彼がそれに該当するケースなのかどうか、詳しく話を聞いてみたわけではないので分かりませんが、その可能性は十分あります。
統合失調の場合には、時折のアディクション再発は「スリップ」と捉えないほうが良い。再発の背景には統合失調の症状悪化があるもので、医者の出番です。12ステップとか言っている場合ではありません。
だから、彼がスリップを契機にアディクションの施設に入所したと聞いたときには、少々驚いたのですが、分野は違えど24時間ケアしてもらえる環境も悪くないかも知れないと思っていました。
ところが先日機会があって彼に会ったときに、顔から表情が消えているのでまたまた驚いてしまいました。彼らしい快活さも消えていました。それを見て「陰性症状」という言葉が浮かんでこなければ、よほどのボンクラです。さらに後日、彼が薬をやめていると聞いて暗い気分になりました。
統合失調の場合、最も避けたいのは人格の荒廃です。陰性症状を治療せずにおくと、やがて、思考が散漫になって現実とのズレが大きくなり、感情は平板で無為、コミュニケーションがとれない状態になってしまい、その悲惨さから人格崩壊とか人格荒廃と呼ばれます。統合失調の治療が進歩する以前は、多くの患者がそうした結末を迎えたために、恐ろしい病気と見なされた時期もありましたが、幸い非定型精神病薬など治療法の進歩により、運が良ければ完治し、完治しなくてもサポートを受けながら社会生活を十分送れる普通の病気になってきました。良い予後のために最も必要なことは、早期の治療開始とその後の治療継続です。
服薬の中断はその正反対の選択です。時にこうしたことが起こるため、日本のアディクションの施設が、乱暴なところ、信用に値しないところと見なされてしまうわけです。犠牲になるのは常に弱者です。そもそも彼を入所させようと思うあたりがボンクラです。
日本でアディクションの施設を運営するのは経済的に大変で、スタッフの待遇も決して良くありません。でもそんな環境の中で、良心的なケアを提供しようと真剣にがんばっている人が多数です。しかし、一部の不届き者のせいで、弱者を食い物にする貧困ビジネスと全体が見なされてしまいかねないのです。
2011年11月08日(火) 処方薬への依存について(その3)常用量依存の治療 アルコールとベンゾジアゼピン系は、同じ鎮静系の薬物として作用のメカニズムの多くが共通しています。だからこそアルコール解毒時の離脱症状に効果があります。また、アルコール依存症者はベンゾジアゼピン系への耐性を獲得しやすいことにもあり、常用量依存になりやすいのです。
常用量依存の何が問題なのか、前の雑記をまとめると、
・認知機能の低下
・注意力や集中力の低下
・反射的運動機能の低下
こうしたデメリットがあるにもかかわらず、なぜ服用が続けられるか。もちろん反跳や離脱症状が理由なのですが、アルコール依存症者の場合には別の事情もあります。アルコールの離脱は強い飲酒欲求を呼びます。ベンゾジアゼピン系の退薬も飲酒欲求を呼び起こしてしまいます。下手に中止して「酒を飲まれるよりまだマシ」だからという理由です。
しかし断酒が安定してきたら、睡眠薬・抗不安剤の中止も検討されるべきです。昔のAAは(いまでも?)薬を飲んでいるのはソーバーじゃないとか言って、向精神薬の中止圧力が高かったわけですが、それは常用量依存についてエビデンスがない時代でも、経験的にデメリットが知られていたのでしょう。もちろん、そのおかげで必要な薬をやめてしまい、症状が再燃するトラブルもあったわけですが。
急激に中断しても反跳や離脱症状が起きない人もいます。しかし、多くの人は薬の飲み忘れによる不眠や不安を経験済みなので、反跳や離脱症状に対して恐怖感を持っています。だから、1/4や半量ずつゆっくりと減量していきます。それでも1週間程度は不眠気味になりますが、それは我慢せざるを得ません。そうやって漸減し、やがて完全に中止します。僕の場合には、半年以上かけ、その間に薬を減らすたびに反跳の不眠が起きて辛かったのですが、おかげさまで寝るのに薬は要らなくなりました。
県内の古い医師が、「薬を突然止めると眠れなくなることは患者も分かっているから、中止すると『先生、薬を出してくれるまで帰りません』と言って診察室からテコでも動かない。仕方ないから別の薬、たとえば風邪薬を出しとくんだよ、あれも少し眠気が出るからさ」と経験を語っておられました。
風邪薬を使うのは少々乱暴な気もしますが、非ベンゾジアゼピン系の薬への置き換えも行われています。不眠に対してはアタラックスとか、不安にはセディールとか。いったん別の薬に置き換えてベンゾジアゼピン系の離脱を緩和し、やがてそちらの薬も中止します。
海外ではベンゾジアゼピン系の販売量は減ってきているのだそうです。長期服用ではメリットよりデメリットが大きいことがその理由だと聞いています。日本ではなぜ減らないのでしょうね。
アルコール依存症とは別の病気も抱えていて、長く薬を飲まなければならない人もいます。いつ中止するかは医者と相談して決めてください。「薬が必要な患者は飲みたがらず、薬が要らない患者ほど飲み続けたがる」とは医師の弁です。
昔と違って依存症という概念が広く知られるようになり、依存症以外の病気も同時に抱えている人や、依存症と言えるかどうか微妙な人たちも医療がすくい取るようになってきました。その結果、アディクションの世界の中に「長く薬を飲まなければならない人」の割合が増えてきました。その影響で、睡眠薬や抗不安剤の中止圧力は下がり、「薬を飲んでいるのはソーバーとは言えない」という言葉も下火になっていきました。それはそれで現実に合わせた変化だったのですが、結果として、純粋なアルコホーリクなのに薬を飲み続け、質の良くない断酒をしている人も増えてきてしまった、・・という話をすると、結構頷いてくれる人が多いんです。わかるでしょう?
かといって、昔みたいに圧力を高めりゃ良いってものでもないし。中止すべきかどうか、見極めができる人材を増やしていくしかないのじゃないでしょうか。小難しいことを考えねばならない時代になったものです。
(抗不安剤依存の項おしまい)
2011年11月06日(日) 処方薬への依存について(その2)常用量依存 依存と中毒を説明した雑記にも書きましたが、依存と依存症(アディクション)は別の概念です。依存とは身体依存のみを示す概念です。離脱症状があるからといって依存症とは限らないし、離脱症状のない依存症もあります。
常用量依存(臨床用量依存)には「症」がついていませんから、アディクションではありません。
それを説明する前に、また言葉の説明をしなくてはなりません。
午後11時に寝て朝6時に起きる、という理想的な睡眠を必要としている人がいるとします。この人が午後11時に布団に入ってもまんじりともせず、2時間ほど経って午前1時ぐらいになってようやく眠れるとしましょう。2時間も眠れずにいるのは辛いことです。するとこの人は「眠れなくなった」と考えるでしょう。
この人が医者にかかって不眠を訴え、医者がベンゾジアゼピン系の薬(例えばハルシオン)を睡眠薬として処方したとします。そして言いつけ通り10時半頃に薬を飲んで布団に入っていると、11時頃には眠れるようになりました。1週間ほど服薬を続けて、毎晩よく眠れるようになったので、薬を飲まなくなっても、やはり11時に眠れる状態に戻っている・・・これが理想的な経過です。
ところが薬を止めてみたら、夜1時にならないと眠れない元の状態に戻ってしまった・・これを「再燃」と呼びます。薬の効果が切れたら元に戻っちゃったのでまだ治療が必要だ、という分かりやすい状態です。
薬を止めてみたら、午前1時どころか、3時4時まで眠れなくなったとすれば、これは薬を飲み始める前と同じ不眠の症状ですが、それがさらに酷くなっています。これを「反跳(現象)」と呼びます。英語では rebound。ダイエットをやめたとたんに元の体重より増えてしまうことをリバウンドと呼ぶのをご存じでしょう。あれと同じです。
薬の反跳現象は一過性のものです。ベンゾジアゼピン系の場合には1〜2週間程度。その期間が過ぎれば、不眠が治っていれば11時に眠れるようになるし、再燃するにしても元の午前1時には眠れるように戻るわけです。
元と同じ症状(この場合は不眠)が出る場合は再燃あるいは反跳です。しかし、元とは違う症状が出る場合もあります。不安感が強まったり、頭痛、筋肉痛、食欲不振、知覚過敏、知覚異常などなど。てんかんの素質を持っている場合はそれが出たりします。これを「離脱症状」と呼びます。
再燃・反跳現象・離脱症状、この3つがあります。
で、アルコール依存症の人が断酒をすると、離脱症状として不眠傾向になるのは珍しくありません。そこで睡眠薬としてベンゾジアゼピン系が処方されます。それが1〜2週間で済めばいいのですが、その後もずっと飲み続けることになる場合があります(いやむしろそれが普通?)。
だからと言って処方薬依存「症」というわけではありません。それがアディクションではないのに、なぜ飲み続けているのか? それは薬をやめるとまた眠れなくなるからです。(抗不安剤として処方されている場合は、薬を止めると不安がぶり返すから)。つまり反跳現象や離脱症状を避けようとしているだけです。それを乗り越えれば、不眠や不安は解消して寛解状態、つまり治っている場合でも、長期間薬を飲み続けている場合が珍しくありません。
これを常用量依存(臨床用量依存)と呼びます(症がついていません)。
アルコール依存症の人は、元々不眠や不安を解消しようとしたのが酒の量が増えた原因だったりします。だから、睡眠薬を減量中止することで起こる反跳現象を嫌い、時には不眠への恐怖感すら持っています。このため減量による反跳不眠に強い不安を抱えます。これは離脱症状とは違うため、偽性離脱症状と呼ばれます。
常用量依存がODや依存症に発展しないのなら、何が問題なのか?
ひとつは認知機能が障害を受けることです。ベンゾジアゼピン系の中止前と後で、記憶機能の検査を行うと、断薬後のほうが記憶機能が改善します。
少し話がそれるのですが、WISC-IIIという知能検査があります。このIQの数値は、言語性(VIQ)と動作性(PIQ)に分けられますが、それぞれにさらに下位項目があります。人によってIQは高い・低いの違いがあるのは当然ですが、VIQ・PIQも下位項目もそれなりにバランスが取れているのが普通です。グラフを描くとほぼフラットになります。ところが発達障害の人の場合、このバランスが崩れしばしば凸凹が出現します。認知機能や処理能力にバラツキがあることがわかるわけです。
ところで、定型発達の人でもベンゾジアゼピン系の薬を飲んでいると、この凸凹が出現することが知られています。おかげで薬を飲んでいると、凸凹が薬のせいなのか発達障害のせいか、これだけでは判断できなくなってしまいます。このことは、薬が認知機能や処理能力に影響を与えることを示しています。
睡眠薬や抗不安剤を飲んでしばらくは、昼間もふらつきやめまいを感じた人は多いと思います。これは反射的な運動機能に影響しているわけです。しばらくするとめまいを感じなくなるのは、耐性が形成されたためです。前述の認知機能についても、耐性の形成により影響がなくなるのじゃないか、と期待されたわけですが、影響は長期的に残ります。
ベンゾジアゼピン系を飲んでいる人は、飲んだのが前夜ですでに作用がきれていても、昼間からどよよーん、ぼややーんとしたぼやけた印象を与えることが多いものです。これは認知機能や処理能力の低下が現れたものでしょう。だからわざわざ聞かなくても薬を飲んでいることは分かります。
もう一つは不安に対して不安剤として使っている場合です。長期服用者の場合、断薬することでむしろ不安が軽減することは珍しくありません。服薬のメリットよりデメリットのほうが大きくなっているわけです。また、注意力や集中力が断薬によって向上するという報告もあります。
すでに元の症状は寛解しているにもかかわらず、断薬による反跳や離脱症状を避けようと服薬を続け、それによって様々なデメリットを被っていることがわかります。これが常用量依存のデメリットです。
もちろん薬を飲み続けることが必要な人もいますから、飲むこと・やめること、それぞれのメリット・デメリットを考える必要があります。
(続く)
2011年11月04日(金) 処方薬への依存について(その1)ODと依存症 掲示板で、抗不安剤の依存について書いてくれとリクエストがありました。
よく名前を聞くベンゾジアゼピン系の薬を列挙してみます。
ハルシオン(通称青玉)、エリミン、ユーロジン、ドラール、ソラナックス、コンスタン、セルシン、ホリゾン、ホリゾン、デパス、ワイパックス、レキソタン、セニラン、セパゾン・・・。(デパスはチエノジアゼピン系だけど)。
これ以外にもたくさんありますし、最近はジェネリック医薬品もあるので、とてもすべてを挙げられませんが、精神科にかかって服薬したことのある人ならば、たいていベンゾジアゼピン系を飲んだことがあるはずです。
現在、睡眠薬や抗不安剤を処方されている人はたいてい当てはまるでしょう(非ベンゾジアゼピン系のアタラックスP2みたいな薬の場合もあります)。「安定剤を処方されている」という人も、メジャートランキライザーではなく、抗不安剤(マイナートランキライザー)としてワイパックスあたりが処方されていることが多いものです。
ベンゾジアゼピン系の乱用・依存問題を分類すると、大きく三つに分けられます。
・OD(オーバードーズ)
・依存症
・常用量依存(臨床用量依存)
ODは、何十錠、何百錠の薬を一度に服薬する自殺企図あるいは自傷行為です。松本俊彦先生は自傷行為が嗜癖化することを指摘しています。リストカットは一時的に生き延びる力を人に与えますが、やがてその効力が薄まるにつれ、生き延びる術を失って自殺念慮を抱くようになります。大量服薬も同じ線上にあります。(リスカをやる人とODをやる人は重なる)。
http://www.ieji.org/dilemma/2011/08/post-350.html
次に処方薬依存症ですが、これは他の薬物依存症と同じと考えて下さい。依存症の診断基準を満たすものです。つまり、まず耐性が形成され以前と同じ量では効果がなくなります。効果を求めて使用量が増え、薬を手に入れるために精神科医や薬局を2軒、3軒と周り、時には内科医からも薬をもらいます。量が増えたために酩酊している時間が長くなり、社会生活に影響が出てきます。
ベンゾジアゼピン系はそれ以前に使われていたバルビツール酸系に比べれば「安全」とされています。耐性ができたり、量が増えたりしにくいし、致死性も低いというわけです。しかし、依存症になる人がゼロというわけじゃありません。
特にアルコール依存症者はベンゾジアゼピン系薬物の依存症になりやすいことが指摘されています。作用機序が同じなのかどうかは知りませんが、抗不安剤のもたらす気分がアルコールのもたらす酩酊感と似ていることも関係しているのでしょう。また、アルコールとの併用によって効果が薄れ、抗不安剤の使用量増加を招きやすいこともあります。依存症者には慎重に投与するようにと注意喚起がされています。
特にハルシオンのような短期型のものを睡眠薬として使うと、すぐに効果が現れ、自然に近い睡眠が得られ、目覚めがスッキリしていることから、依存症者に好まれます。しかしこのタイプのほうが依存症になりやすいという落とし穴があります。
睡眠薬として使う場合には就寝30分ぐらい前に飲めば良く、すぐに布団に入っても構いません。しかし、アルコール依存症の人はこれを夕食後に飲んで薄い酩酊感を味わい、アルコールの代用にしたりします。短期型の場合には就寝前に効果が薄れて不眠になったり、中途覚醒でも服用して、耐性が形成され、使用量が増えてきます。やがてはより強い酩酊感を常時求める・・という依存症へと発展してしまいます。
きちんと服薬指導が行われればいいのですが、依存症に理解のある医者ばかりではありません。
例によって話が逸れるのですが、未断酒のアルコール依存症者の場合には飲酒量が増加するという指摘もあります。ベンゾジアゼピン系薬物にはアルコールへの欲求を強化する効果があるのでしょう。(アカンプロセートで飲酒欲求を低減しても、睡眠薬で飲酒欲求を強化したんじゃ意味がないのでは?)。確かになかなかきちんと断酒できない人は、抗不安剤や睡眠薬の服用が続いているものです。
ここまでODと依存症という二つの問題を取り上げました。ベンゾジアゼピン系は「安全」と言いますが、それはそれ以前の薬に比較しての話で、リスクは確かに存在します。医師や薬剤師はきちんと服薬指導して欲しいものです。過剰に心配しろというのではなく、正しい使い方を心がけねば、という話です。
アル中が睡眠薬や抗不安剤を飲みながら年単位で断酒を続けることはよくあることです。その全員が処方薬の依存症かといえばそんなことはありません。処方どおりに正しく薬を使っています。では問題ないのか・・・、実はそこに依存症とは言えない依存、常用量依存とか臨床用量依存と呼ばれるものが存在しています。
(続く)
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