心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年01月10日(火) 薬物依存症者のアルコール摂取

アディクションという観点から見たとき、アルコールとその他の薬物に違いはありません。なにしろ、エタノール(エチル・アルコール)も「薬物」の一種なのですから。

ではなぜアルコール依存症のグループ(AAとか)と、薬物依存症のグループ(NAなど)が別になっているのか。

アメリカにおけるアディクション治療は、禁酒法(Prohibition Law、1919〜1933年)以降に発展しました。この時代は麻薬の取り締まりが強化、厳罰化されていった時代でもあります。麻薬が止められない患者が医師の管理の下に少量の麻薬を使用する「維持療法」というものがあり、当時これを支持する医師も多かったのですが、厳罰化のあおりをくらって禁止されてしまいました。麻薬中毒者は治療を受けられずに刑罰を受け、一方アルコールへの禁止は弱まりアル中は自由に飲んでいました。

アルコールは社会に受け入れられ、麻薬は禁止されていた。この違いがアルコール依存と麻薬依存を分けることになりました。

世界的に見ると、どの薬物が許容され、どの薬物が禁止されるかは、国によって違います。イスラム教文化圏では飲酒は悪とされています。日本では大麻(マリファナ)は禁止されていますが、公然と販売されている国もあります(これもイスラム圏では禁止されており厳罰の対象)。

法律で禁止されているかどうかは、実は大した違いではありません。「俺はヤク中とは違う」と言っているアル中さんも、もし日本でアルコールが禁じられ、ハシシュが許容されていたら、立派な薬物乱用者になっていたことでしょう。

アメリカの治療施設では、アルコールも薬物も区別していません。区別する必要がないからです。

しかしビギナーにとっては、この違いは大きな違いです。アルコールを摂取した経験談と、覚醒剤を摂取した経験談には、表面的が違いがずいぶんあります。この違いに注目してしまうと、共感を得ることができません。ビギナーがやってきて、会場にいる他の人と自分が同じ問題を抱える「仲間」であると感じられなければ、その人はグループに定着できず、助けを得られないでしょう。(表面上の違いにとらわれず、共通の本質に気づくためにはビギナーの域を脱している必要があります)。

アルコールと薬物のグループが別にできたのは、ビギナーのために良かったと言えます。

薬物のグループというとNA(Narcotics Anonymous)が有名です。この Narcotics という言葉は麻薬という意味です。つまりアヘンを元に作られるモルヒネ、ヘロイン、コデインのことです。これはアルコールと同じダウナー(鎮静効果のある薬)です。

日本では薬物のグループが事実上NAしかないので、様々な薬物の人がすべてNAに集まるのですが、非合法薬物の筆頭が覚醒剤であるために、日本のNAは覚醒剤のグループといっても良いぐらいです。つまりアッパー(覚醒効果のある薬)のグループです。

アメリカでは薬物の種類ごとにグループが分かれています。NAのほかに、コカインの人はコカイン・アノニマス(CA)、大麻の人はマリファナ・アノニマス(MA)、処方薬の人はピルズ・アノニマス(PA)といった具合です。当然の事ながら、「コカイン依存のグループだから、ヘロインやるのはオッケー」ということはありません。グループは分かれていても、薬物という点では共通性があります。

余談になりますが、アメリカのAAとNAの親和性が高いのは同じダウナーのグループだからであり、日本のAAとNAの雰囲気が違うのはダウナーとアッパーの違いだという説があります。

さてさて、日本においてアルコール依存症になった人が、酒をやめて他の薬物に手を出すことはあまり心配されていません。それはヘロインやマリファナや覚醒剤が法律で禁止されており、入手性も悪いからです。(処方薬依存の問題はちょっと脇に置きます)。

逆に、薬物依存症になった人が、薬はやめたもののアルコールに手を出すことはどうでしょうか。何といってもアルコールは合法薬物であり、コンビニで買えるほど入手性良好です。そして、この問題はほとんど啓発されていません。薬物乱用で学校を中退した若者を引き取った大人が、一緒になってがんがん仕事をさせ、一緒にがんがん酒を飲んだりします(そして薬物が再発したり、今度はアル中になったりする)。

薬物依存症者にとってのアルコールの危険性はもっと強調されねばなりません。

NAのパンフレット「だれが、なにを、なぜ、どのように」に、こんな記述があります。
http://www.na.org/?ID=ips-jp-index

> アルコールは薬物ではないという考えは、非常に多くのアディクトを逆戻りに至らしめた。NAに来るまで、多くの人たちはアルコールは別のものだと思っていた。しかし、これはまちがいである。アルコールも薬物なのだ。私たちはアディクションという病気をもつ人間であり、回復のためにはいかなる薬物からも遠ざかっていなければならないのである。

ダルクのような薬物の施設では、施設利用者(つまり薬物依存症者)にアルコールを飲ませないことは徹底しています。しかし、それ以外のところではどうでしょう。覚醒剤依存の息子や娘を持つ親が、アルコールなら良いではないかと酒を飲ませた話はいくらでも聞きます。アディクションの観点ではなく、合法・非合法で判断してしまうミスです。

僕には薬物のスポンシーもいます。僕は彼が薬物だけでなく、アルコールの問題も抱えるまで、彼を手助けすることができませんでした。なぜなら、アルコールと薬は違うと「僕も」思っていたために、彼の飲酒を制止できなかったからです。彼は酒を飲み始めると(時間は長短あるもの)やがて薬も再発するというパターンを繰り返しました。飲酒は薬物再発の前駆症状であり、飲酒した時点で薬物もスリップとするべきでした。今では彼も回復していますが、若い時期の数年間を無駄にしたのには、僕の未熟さにも原因があります。忸怩たる思いがします。

ベンゾジアゼピン系の抗不安剤が依存を形成しやすいことは以前に書きました。しかし、処方薬よりアルコールのほうがより危険な存在です。一つの薬物の依存症になった人は、別の薬物の依存症にもなりやすく、すぐに多剤依存症へと発展してしまいます。一般の人々にとってアルコールはそれほど危険がないにしても、薬物依存症者にとっては再発の対象です。薬物の種類ごとにグループが分かれているのは、「俺はAという薬物の依存症だから、Bという薬物ならオッケーだ」と言わせるためではありません。

「薬物依存症は病気である」、そう捉えるのなら、病気としてアルコールと薬物の共通性に気づいて下さい。決して合法・非合法の問題にすり替えることのないように願いたいものです。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは再発です。処方薬の取り扱いが難しいのは承知しています。なぜなら必要があって処方薬を飲んでいる人がいる以上、ゼロにすることはできないからです。しかし、酒を飲まなくても十分社会生活を送れることは、多くの回復したアル中が実証しています。その点、飲酒の可否について判断に悩む必要はありません。

もう一度ハッキリ言いましょう。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは薬物依存症の再発です。


2012年01月04日(水) 発達障害と発達凸凹(その2)

前の雑記では、人には能力の発達の凸凹が誰にでもあることを述べました。

その凸凹の特定のパターン(主に自閉圏とADHD)について、社会的な不適合が起きていればこれを「発達障害」と呼び、起きていなければそれは障害とは呼べず「発達の凸凹」というのが相応しいという話をしました。

では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?

それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

凸凹レベルであれば、社会生活を送る上での不適合がないので、何もしなくて良いことになります。しかし、凸凹が激しければ、そうとも限りません。何かの能力が弱いと、人は別の能力でそれを補おうとします。

例えば自閉傾向がある場合は「人の気持ちを読み取る」という能力が弱くなります。しかし、人の気持ちが読めないことと、他者への配慮が出来ないことは別のことです。人の気持ちを読みづらいぶん、逆に人の気持ちを気にかけるようになります。それが「人への思いやりと配慮に満ちた人」という評判につながることもあり得ます。

しかし、本来の能力を別の能力で補うのは、どうしても無理がかかります。例えば、人の気持ちに敏感になりすぎると、自分の気持ちが周囲の人の気分に左右されてしまいます。同僚が何かの理由で腹を立てて汚い言葉を口走っている場面を想像して下さい。その怒りの矛先が自分ではないことは分かっています。もちろん、隣に怒っている人が居るのは誰にとっても気分の良いものではありません。しかしながら、人の気持ちが気になりすぎて、自分の仕事が手に付かなくなってしまう、というのは誰にでもあることではありません。

他にも、自分としては他の人の気持ちを十分おもんぱかっているつもりでも、なぜか「人の気持ちの分からない人」という非難を受けてしまうとか。自分の行動や言葉が相手を傷つけてしまってないか、事後になって気になって仕方ないとか。

別の例として「二つのことが同時に出来ない」という例を挙げましょう。例えば、電話をしながら話の内容のメモが取れない、というやつです。話に集中するとメモが取れず、メモに集中すると相手の話を聞き逃すというパターンです。

同じことですが、仕事をしていて、別の仕事に割り込まれると、元やっていた仕事を忘れてしまう、というのもあります。この問題があるので、仕事をしているときに、電話がかかってきたり、上司に声をかけられると怒り出すこともあります。普通の職場では、作業中に上司に声をかけられたら作業を中断して上司と話をするものですが、発達障害の人を雇う特例子会社の職場では、作業中に声を掛ける上司のほうが悪いという理屈になります(環境調整の例)。

ADHDの場合には、整理整頓ができない症状が出ます。片づけや掃除が苦手なので部屋がぐちゃぐちゃになってしまいます。しかし逆に苦手だからこそ、強迫的にいつもきっちり片づけることもあります。こういう人がお母さんになると、子供が部屋を散らかすことにイライラします。小さい子供は散らかす存在であり、片づけない存在です。それを何とかしようと、親に過剰なしつけがしばしば虐待に発展していきます。

実行能力(遂行能力=executive functions)の問題もしばしば取り上げられます。これは、ある目標を与えられたとき、その期限から逆算していつ頃何をやるのか計画をたて、それを実行していく能力です。これは様々な能力の統合です。夕食にカレーを作るなら、何時頃買い物に出かけて、材料として何を買って、それを買うお金が足りないからまず銀行に寄って、という、計画し、そのとおり実行し、計画外のことが起きたら計画を修正しつつ目標を実現する能力です。この能力が弱いと、何月何日までに完成させろと仕事を与えられても、〆切の日に全然できてないってことが起きてしまいます。

代償的には、計画を細かく立てて、その通りに実現しようとします。計画通りに進めばいいのですが、計画外のことが起こるとパニックになったり、ストレスに感じられたりします。

いろいろな例を挙げましたが、発達障害のパターンは様々なので、ある能力の弱さとそれに対する補い方もこれ以外にたくさんあります。しかし、どれを見ても、なんだか負担が重そうで疲れそうですし、自分だけでなく周囲にその負担を押しつける結果にもなりがちです。その負担が「うつ症状」という形で出てきやすいのも想像できるでしょう。そうなれば、それは単なる凸凹ではなく「障害」ということになります。

では、発達凸凹の場合にはどうすればいいのか。

それは、自分が何を苦手としているか把握することです。無茶な適応戦略を採っているのなら、もっと自分にも周囲にも無理のない戦略に切り替えることが可能になります。杉山先生の本でも、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法を引いて説明しています。

もちろん、この場合難しいのは己を知ることです。例えば、人の気持ちを読み取る能力が弱い人に対して、それを指摘したとします。しかし、その人が無自覚のうちに能力の弱さを感じ取って、かわりに人の気持ちを推し量り配慮を効かせる代償戦略を採り、しかもそれにある程度成功していたとしましょう。この人は自分が「人の気持ちを読み取る能力が弱い」とは思っていないでしょう。むしろ、その能力が人より秀でている思っているに違いありません。

能力の弱さが認められなければ、別の戦略を採ることもなく、その人の生き辛さは解消されずに残ることになります。これが「己を知ること」の難しさです。

発達障害の支援をしている人たちで、センスの良い人たちは、当然「己を知る」ことにも長けるようになります。杉山先生はアスペルガー的傾向があることを認めてらっしゃるし、福島の星野先生はADHD傾向を認めた話を書かれています。もちろん不適合のない凸凹のレベルという話なのでしょうが。その他の沢山の人たちも同様です。

この雑記で発達障害の事を読み、それが部分的であれ自分に当てはまって不愉快な気分になる人もいることでしょう。

しかし考えてみて欲しいのです。人間とは不完全なものです。そして、大多数の人は自分が不完全な存在であることを受け入れ、納得しています。自分が完全な存在であることを期待するほうが、どこか病んでいるのです。

突然12ステップの話になってしまいますが、ステップ2で必要なのは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを知ること」です。こう言うと、自分が神でないことなど分かっていると反論される方がいます。自分は神でないと言いながら、一方で自分の完全無欠さを信じ、凸凹の存在から目を背けています。まさにそれこそが「神であること」です。

僕らは、アルコール(や薬物やギャンブル)をコントロールする「能力がない」と認めることが幸せにつながりました。もし「能力がある」ことにこだわっていたら、今ごろアディクションのせいで死んでいたでしょう。能力があることではなく、能力がないことを認めることが、人を幸せに導くのです。同じことは発達障害あるいは凸凹にも言えることです。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。難しいのは己を知ることです。せっかく発達障害という分野にふれる機会を持ったのなら、自分がどんな凸凹を持っているか知り、どんな無理をしているか知るように努めるべきだと思います。


2012年01月02日(月) 発達障害と発達凸凹(その1)

「心の家路」の更新履歴を見ると、このサイトは2002年1月24日に初公開しています。(雑記はそれ以前から書いていますがそれは含めないとして)。1月の末になれば10周年というわけです。

2012年は政治の年です。アメリカ、ロシア、韓国で大統領選挙が行われ、中国でも党大会が開かれます。日本でもおそらく総選挙になるのでしょう。

今年の総選挙で、日本人が本当に原子力発電所の撤廃を望んでいるのかどうかがはっきりすると僕は考えています。表現を変えれば、日本人の多くは原発の撤廃を望んでいることは間違いないと思いますが、その思いが実際の投票行動にどれだけ影響するか。撤廃が重要なことだと思っていれば、それを約束する政党が大躍進するでしょうし、そうならないのなら、皆が放射能のことをそれほど深刻には捉えていないということになります。日本人が本当のところどう思っているか、それが分かると思うのです。

さて、杉山登志郎先生の『発達障害のいま』という本を、ようやく読了しました。ここ数年の発達障害に関する進歩がまとめられており、発達障害についてある程度の知識をすでに得ている人には「次に読む本」としてお勧めです。

ところで、「ひいらぎさんの雑記を読んでいたら、あの人もこの人も発達障害っていう気になってきた」という問いかけを受けました。

それについて書こうと思っていたのですが、実はさらりと説明するだけで済まない話題なので先延ばしになっていました。

杉山先生がどこか(たぶん「こころの科学」)に書いていた文章に、こんな話がありました。看護師が杉山先生のところに着任すると、仕事に必要なので発達障害について学び始めます。そして数ヶ月すると、外来に来た人が「あの人も、この人も、みんな発達障害」に見えてしまう、という訴えをするのだそうです。もちろん児童精神科医のところへ来る患者が全員発達障害のはずがありません。

発達障害の「障害」は、元は「障碍」という字を使っていました。ところが「碍」が当用漢字に入っていないので、同音の害の字を使っています。「碍」は妨げるという意味です。妨害という言葉も元は妨碍と書きました。(碍子は電気の導通を妨げる装置です)。

だから障碍(障害)とは、何らかの妨げによって、その人の能力に障りがあることを意味します。能力の発達が阻害されたのが発達障害です。

ところで、人は様々な能力を持っていますが、全ての能力が均等に発達することはあり得ません。例えば学校のテストで5教科すべてが同じ点数という生徒はまずいません(教科ごとの難易度の違いを差し引いても)。得意な科目もあれば不得意な科目もあるのが人間です。勉強以外の様々な能力についても同じことが言えます。

人は誰しも能力の凸凹を持ちます。それは能力の発達の凸凹です。前出の看護師は、その凸凹を敏感に感じ取ってしまったと言うわけです。

その凸凹が激しい人もいれば、あまり凸凹が目立たない人も居ます。そして、凸凹が激しい人のなかに、その凹の部分が足を引っ張って、社会的に不適合を起こしてしまう人が出てきます。その状態に発達障害という名前を付けているのです。

人はなぜ発達障害の診断を受けるのか。何も問題が起きていないのに、「いっちょ診断でも受けてみっか」と専門医を訪ねる人はいません。やはり何か問題が起きているからこそ医者にかかるのです。

だから、同じ程度の能力の凸凹を抱えていたとしても、社会的不適合を起こしていなければ(つまりその人も、周りの人も困っていなければ)発達の凸凹にすぎないわけで、不適合を起こすことで発達障害という診断に至ります。

その不適合とは、例えば仕事に就けないこと、学校に行けないこと、暴力を振るうこと、迷惑行為を繰り返すこと、依存症になること、うつ病などになることなどなどです。

というわけなので、僕が雑記で発達障害の様々な表現形について書いたことが、自分あるいは他の誰かに当てはまると思っても、その人に社会的不適合が生じていないというのなら、発達障害ではなく発達の凸凹と捉えてもらえばよいのです。言っておきますが、凸凹の無い人はいません。誰しも得手・不得手があり、人が人生につまずくときは、得意なこと(凸)でつまずくのではなく、苦手なこと(凹)でつまずくのです。

さて、発達障害にも様々な種類がありますが、目立つのは何と言っても「自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)=ASD」と「ADHD(注意欠陥多動性障害)」です。

僕の雑記の中に書かれた発達障害についての表現が、自分や他の誰かに当てはまると思うのならば、やはりそれは自閉圏(ASD)あるいはADHDの傾向を、いくぶんか持っているということでしょう。それが「障害」と呼べるレベルかどうか、それだけで判断してはいけません。

大切なことは、人は全能力が均等に発達した「真円」ではなく、様々な能力が凸凹に発達したいびつな存在であり、その不完全さこそが「人間らしさ」です。

はてさて、この雑記を書き起こしたのは、

「では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?」

ということを書きたかったからです。それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

(続く)


2011年12月22日(木) 閑話二題

日本とアメリカの両方のAAミーティングに出た人の話です。

アメリカでは、AAのビギナーは1年間はミーティングで話をせず、他のメンバーの話に耳を傾けるように言われます。子供の頃から自己主張することを訓練されてきたアメリカ人は、AAミーティングで話をさせると自己主張するばっかりで他の人の話が耳に入ってこない。これでは回復できないから、まず1年間は人の話を聞いてもらう。

一方、日本のAAミーティングでは、ビギナーでもどんどん話をするように促されます。日本人は自己主張することが苦手で、特に中年以上の男性はそもそも主張するべき自分の意見すら持っておらず、社会の意見に流されているだけ。自我(self)を取り除くには、まず取り除かれるべき自我を育てなくちゃならない。

こうして見ると、日米の文化の違いが分かって面白い・・という話でした。僕はアメリカのAAには出たことがないので、「へえ〜」と言うばかりですが。

さて話は変わって、wired.jp にこんな記事が掲載されていました。

Facebookは「人間的なつながり」を壊すか
http://wired.jp/wv/2010/11/12/facebook%e3%81%af%e3%80%8c%e4%ba%ba%e9%96%93%e7%9a%84%e3%81%aa%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%8a%e3%80%8d%e3%82%92%e5%a3%8a%e3%81%99%e3%81%8b/

通信手段が発達していなかった頃は、友人と連絡するためには直接会いに出かけるか、使者を遣わすしかありませんでした。やがて郵便が手紙を運んでくれるようになり、電報や電話が生まれ、さらには電子メール、TwitterやFacebookと、人と人を結ぶ技術は発展していきました。

これによって僕らは人間としての限界を突破し、常に多くの友人とつながっていられるようになりました。Facebookユーザーの平均「友だち」数は、世界平均が130人、日本では108人だというニュースがありました。もしコンピューターネットワークがなかったら、100人の友人を持てる人がどれだけいるでしょうか。

しかしJonah Lehrer氏の記事では、どんなに熱心なFacebookユーザーであったとしても、信頼を寄せる親しい友人の数は数人に限られ、これはFacebookがなかった時代とちっとも変わっていないことを指摘しています。

「情報伝送のコストが非常に低くなっているため、われわれはより多くの知人と接触するようになっている。しかしそれは、われわれがよりたくさんの友人を持っているということを意味するわけではない」

技術革新は(親密さを築く)人間の能力を拡大するには至っていない、ということなのでしょう。


2011年12月20日(火) 助けにくい人たち

あまり雑記を更新しないままだと叱られるので、軽いテーマで。

昨夜はステップミーティングでした。ステップ12。どうやって新しく来た人にAAのメッセージを運んだらいいか。もしそれが分からないのなら、自分がAAに来た頃に、どうやって「先ゆく仲間」から助けられたか思い出せばよいのです。たぶん忘れているでしょうけれど。

AAの序文はこういう文章で始まっています。

「アルコホーリクス・アノニマスは、経験と力と希望を分かち合って共通する問題を解決し・・・」

共通の問題とは何でしょう。ミーティングにやってくる人は、男もいれば女もいます。職業も学歴も家族構成も様々で、どこに共通点があるのか。

僕が初めてAAグループに属したとき、そこには3人のメンバーがいました。一人の男性は中卒のヤクザで両手の小指がありませんでした。彼はキレると、男が二人がかりでないと止められない「狂犬」と呼ばれた男でした(後に彼は僕のAAスポンサーになってくれた人であり、まさに恩人です)。もう一人の女性は、彼が精神病院入院中につかまえた奥さんで、やっぱりアル中でした。もう一人の男性は、高速道路のサービスエリアにおみやげ物のお菓子を補充して回る職業でした。年若く世間知らずだった僕は、そんな職業があることを初めて知りました。

そこに僕がやってきました。ビックブックには「私たちはふつうなら出会うことさえもなかった者同士だ」とありますが、まさにそんな感じでした。いったいこの4人にどんな共通点があったのでしょう。

彼らは「かつてどのようであったか」。つまり酒を飲んでいた頃はどのようだったかを話してくれました。僕もたいていの人と同じように、最初の頃は「自分はこの人たちほど重症じゃない」と思っていたものですが。

でも、何ヶ月か経った後に、「もう俺たちは気持ちの良い酒なんて飲めないんだぜ」と言われたときに、僕もその通りだと認めざるを得ませんでした。飲み始めの早い時期は気持ちの良い酒を飲めたのですが、飲んでいた最後の頃は、確かに酔っぱらいはするのですが、全然気持ちよくありませんでした。それでも酒がやめられませんでした。そして、いまは飲んでいなくても、やがて酒に手を出す可能性が高いことも認めざるを得ませんでした。

AAにやってくる人は「アルコールの問題」を抱えています。それが「共通の問題」です。ミーティングではそれを話さなくちゃなりません。

酒がやめられないと言う人もいるでしょう。また飲んでしまったという人もいるでしょう。そういう人をAAメンバーは叱ったり、説教したりしません。かわりに「私もあなたと同じだった」と言うのです。でもいまは飲んでいないことは相手にはわかるでしょう。すると相手は「どうやって問題を解決したのか」と疑問を持つようになります。アドバイスに効き目が出てくるのは、それからです。

AAミーティングは「自分の背中のほくろを見る作業」だと言われます。背中のほくろは直接見ることはできません。自分の顔だったら鏡を使えば簡単に見られます。けれど背中のほくろは鏡を使っても難しい。2枚使えば良いと言われるかもしれませんが、実際やってみるとこれが意外と難しいものです。

だから僕らは、ミーティングではつまらないプライドという服を脱ぎ捨てて、自分の背中を相手に見せるのです。つまり飲んでいた頃の過去の話をします。「ほら、俺の背中はこうなっているんだぜ」と。すると相手はこう思うかも知れません。「あいつの背中がこうなっているのなら、俺の背中も同じかも知れない」。

自分の抱えている問題というのは、それほどまでに直視するのが難しいものです。だから、こういった技法が必要になるのです。

9月に松本俊彦先生の講演を聞きました。依存症者は援助希求能力が低いという話でした。援助を求める能力が低い。助けてくれと言えない人たちです。

これから年末は町に酔っぱらいが増えます。酔っぱらいに「大丈夫か?」と尋ねてみれば、「らいじょうぶ、らいじょうぶ、れんれんらいじょうぶ」という答えが返ってくるでしょう。全然大丈夫じゃないのにね。でもこれは酔っているからだとお考えかもしれません。

じゃあ、酒をやめたばかりのアル中に、助けは要らないかと尋ねてみれば、どんな答えが返ってくるでしょう。「大丈夫です。酒は一人でやめられます」。これが援助希求能力の低さです。しらふになっても全然変わっていません。助けにくい、助けづらい人たちなのです。

(松本先生の話はこんな話じゃありませんでしたよ、念のため)。

AAメンバーである僕らも、酒はやめているとは言え、まだまだ幼稚で過敏なところは抜けきっていません。だから、相手が深刻なアルコールの問題を抱えているのに、それを軽く見ているのに出会うと、イライラしてしまいます。ついつい、それを指摘し、アドバイスし、時には説教をかましたくなります。でも、相手はそれを受け入れる状態にないってことを忘れてはいけません。

とは言うものの、時には具体的なアドバイスがなければ、前に進まないこともたくさんあります。僕らはアドバイスを与えるときは、スポンサーシップという一対一の関係を結びます。スポンサーはスポンシーのソブラエティの実現に積極的に関わっていきます。スポンサーをやってみるとわかりますが、スポンシーは酒を飲んでしまったり、AAをやめてしまったり、時には死んでしまうこともあります。

スポンシーが飲んだときに「もっと別のやり方をしていれば」と思ったり、死なれたときに「あいつの死には俺にも責任があるんじゃないだろうか」と悩まない人はいません。だからスポンサーは相手のことを真剣に考えてアドバイスをします。それは、イライラを解消するために、つい口をついて出てしまう皮肉とは180度反対のものです。

お分かりでしょうか。僕らは新しい人たちに「教え」たり「導い」たりしたくなってしまいます。けれど、相手の準備が整っていないうちに、そんなことをしても無駄なばかりか、時には有害です。それ以前に、相手に自分の背中を見せてあげなくちゃなりません。つまり「共通する問題」を分かち合うのです。

僕らはAAにやってきたときに、どのようにして仲間に助けられたか、しばしば忘れてしまいます。人というのは不思議なもので、ずっと昔から今の自分だったような気がしてしまうものです。でも、そうじゃなかったはずです。もっとヒドい状態だったはずです。それを忘れているから、新しい人に余計なことが言えるのです。

飲んでいた頃の話ができなくなったら、AAメンバーとして新しい人の手助けをする能力を失ったことを意味します。今日起きたことや、今週起きたことをミーティングで話している場合じゃありません。そういう人は自分にしか関心がありません。

僕らが相手にしているのは援助希求能力の低い人たち、助けにくい人たちであることを忘れてはいけません。僕ら自身がかつてはそうだったことを思い出しましょう。そんな僕らに対して、先ゆく仲間たちは、辛抱強く僕らが分かるまで、「共通の問題」について分かち合ってくれたのではありませんでしたか。それとも、もう忘れてしまいましたか。

かつては目の前の相手と同じだったという事実、それを分かち合う言葉こそが、医師にもカウンセラーにも持てない、当事者たる僕らにだけ与えられた特別な力であることを忘れないで。

だから僕らは、相手を手助けしようとするときに、飲んでいた頃の自分はどうだったか、という話をすることから始めるのです。12番目のステップとはそうやってやるものです。物事には順番があり、まず最初に問題について分かち合うのです。相手がいつ背中のほくろに気がついてくれるか。そのタイミングを知っているのは神様だけです。あなたが神様にかわってそのタイミングを決めてはいけません。

そういう説教臭い話をミーティングでしたのです。


2011年12月15日(木) Think Insights で「心の家路」を見る

2ちゃんねらーは「高齢で低学歴」 グーグル「Think Insights」に暴かれてしまった
http://news.livedoor.com/article/detail/6081001/

というニュースを読み、じゃあ 2ch.net じゃなくて、ieji.org(「心の家路」のドメイン)を入力したらどうなるか・・を調べてみました。

Google の doubleclick ad planner による推定

ドメイン:ieji.org

ユニーク ユーザー数(Cookie による推定値) 10K
ユニーク ユーザー数(ユーザー数) 7.1K
リーチ 0.0%
ページビュー数 53K
合計セッション数 14K
Cookie あたりの平均セッション数 1.4
サイトの平均滞在時間 5:20

年齢
 35-44才 48%
 45-54才 52%

性別
 男性 55%
 女性 45%

学歴
 高校卒業 34%
 大学卒業 66%

世帯年収
 3,000,000-4,999,999円 68%
 5,000,000-5,999,999円 32%

他の利用サイト
 wt.tiki.ne.jp 311.8x
 nsknet.or.jp 31.6x
 synapse.ne.jp 28.8x
 tiki.ne.jp 19.7x
 health.goo.ne.jp 7.6x
 mhlw.go.jp 5.2x

さすがに2ちゃんねるとはずいぶん違った結果になっています。

チキチキインターネットはたぶん二郎さんのサイトでしょう。あとはGooヘルスケアや厚生労働省のサイトが目立ちますが、ほかはわかりません。

Google経由で「心の家路」を訪問するユニークユーザーが一ヶ月に約1万人(推計)。

年齢層は中年、男女比はほぼ半々、大卒の人が多く、世帯年収は全平均よりやや低めかな・・というのが「心の家路」をご覧になっている方の平均的プロフィールでしょうか。

もっともこのGoogleによる推計がどれほど当たっているか、という問題は残りますが。


2011年12月12日(月) 愛という言葉を使わない

土曜日は高速バスで新宿に出て、その足で埼玉県川口に移動して、リビングライブラリーというイベントに参加しました。

これは人間を「生きている本」として貸し出す図書館という試みで、何らかの誤解や偏見を受ける可能性のある人たち、例えば障害者や性的少数派、ホームレスなどなどの人の語りを聞きます。講演会などと違うのは、聞き手がごく少人数であることと、話の途中で質問を挟んでも良いということです。社会に存在する無知や偏見をとても地道なやり方で取り除こうとする試み、と言えるでしょうか。

リビングライブラリー
http://living-library.jp/

今回は午前中1枠(30分)しか参加できなかったので、どの方の話を伺おうか迷ったのですが、買い物依存症の人のお話しを聞かせて頂きました。

受付でカンパを含めて500円払ってから財布の中を見ると、千円札1枚と硬貨少々しか入っていませんでした。しまった財布の中身を確かめずに出てきちゃった。これで昼食と夕食をまかない(帰りの切符はあるからいいけど)駐車場の料金も払わねばなりません。その日は何とかなったのですが、翌日AAの病院メッセージに行く途中で、スポンシーと会い、ガストでメニューを広げたところで、財布の中に全然金がないことに気がつきました。う〜む。

まさかスポンサーに昼食代貸してくれと言われるとは思わなかったでしょう。次の時に返しますね。

さて、全然関係ない話ですが、「ひいらぎさんは愛という言葉を使いませんね」と言われることがあります。

もちろんそれには理由があります。愛という言葉はアディクション領域で頻用するには危険すぎるからです。

例えば、依存症の家庭にはしばしばDV(ドメスティック・バイオレンス)があります。身体的暴力に限らず、精神的な暴力や言葉による暴力も含みます。DV夫たちは、妻に暴力をふるったのは「愛しているからこそ」だと主張します。いたらない妻、ダメな妻に「きちんとして欲しい」からこそだったと。身勝手な愛が暴力や強制を正当化してしまっています。

同じことは、親による子供の虐待にも言えます。しつけがエスカレートして虐待に発展する背景には、「この子がこのまま大人になったのでは将来困るだろう」という親の愛があります。

アディクションの領域でも、例えば覚醒剤での服役を終えて家に戻った息子に対して、親たちが「反省させるため」と称して暴力的懲罰を与えた話や、家族に借金の尻ぬぐいばかりさせるギャンブル依存症者を家から締め出した話など、いずれも愛すればこその行為です。

または愛情という言葉が、女性に対し、男性への盲目的な献身と自己犠牲を強制する装置として使われる、という批判はフェミニズム領域から繰り返し出されています。

(愛情そのものではなく)愛もしくは愛情という言葉は、暴力性を帯びる危険を常にはらんでします。愛という言葉によって、暴力や理不尽な強制が正当化されてしまうからです。

先日のギャンブル依存に関するテレビ番組では、家族を愛するがゆえに借金の尻ぬぐいを繰り返す過ちが紹介されていました。

愛は崇高なものだとされています。だからこそ、愛は正しく、その言葉に反論することは許されない、という雰囲気があります。虐待されても親に従えない子供は「親の愛情を感じ取れない子供」とされ、飲んでいるアル中夫に尽くせない妻は「夫を愛していない妻」とされてしまいます。

だからこそ、僕らは「愛」という言葉を使わずに語らねばなりません。

医療であれ、福祉であれ、行政であれ、愛という言葉は持ち出さないようにしているのにお気づきでしょうか。例えば介護の仕事はキツいわりには賃金は安くなっています。それが「愛」とか「献身」という言葉で待遇の悪さを覆い隠すようになったら、それはもう単なる労働搾取になってしまいます。

もちろんアガペーであれエロスであれ、愛そのものについて語るときは愛という言葉を使わざるを得ません。しかし、使わなくて良い時に、愛という言葉を持ち出す人は、何かしら別の目的を隠しているものです。愛ほど崇高でない、もっと現世的な利益を追求する人が「愛」という言葉を使いたがります。愛、愛と騒々しい人にはお気を付けあれ。愛情あふれる人であったためしがありません。(この文章にも愛という言葉はいっぱい出てくるのですが)。


2011年12月10日(土) ネットワークやらノットワークやら

最近ある相談機関からアディクション関係の事例について相談を受けています。公的機関は必ずしもアディクションに対応するノウハウを持っているとは限らないので(というか持っていないのが普通)、個々の事例についての助言を求めらています。もちろんそれによって収入が発生するわけでもなく、仕事の休み損ということになるのですが、こちらからもスポンシーを送って相談に乗ってもらったりしているので、お互い様です。

僕はアマチュア(非職業的)活動なので法的な守秘義務を課せられているわけではありませんが、それに準じたものはあると思っています。だから詳しく書けませんので、概略だけ。

ある方にアディクションの施設に入所していただく話が進んでいます。ダルクという名前を出しても構わないでしょう。施設長さんは受け入れオーケーだと言って下さっているし、ご本人も承諾済みです。でも、この話がずいぶん長く停滞したままで、入所に至っていません。

その理由は、施設を退所後の生活がデザインできていないからだそうです。退所後にどこに住み、およそどんな仕事をし、どんな生活をするか、そのために何をすれが良いか。その目処を付けずに、ただ施設に入所させるというのは無責任であり、そういうやり方はしたくない、とその機関の方はおっしゃります。なるほどプロフェッショナルだなと納得しました。

僕らはついつい「○○さえやれば良くなる」という考えに陥りがちなので、気をつけなければならないと思います。「12ステップさえやれば良くなる」とか「あそこの施設に入れば良くなる」とか。その考えは幻想に酔いたいだけですね(酔いたいという意味では全然治ってないわけだ)。もちろん12ステップは大事であり、そこから多くの人生が再スタートしていったのは事実です。でもそれはスタートにすぎない、という視点を失ってはいけないと思います。

前述とは別の施設長さんの話ですが、その方が10年余り前に施設を始めたときには、各地に同様の施設を作り全国展開する未来を思い描いていたそうです。アルコホーリクとしてその野心にはとても共感できます。それが実現すればきっと各地で多くの依存症者が助かることでしょう。素晴らしいことじゃありませんか。

でも、その構想は途中で諦めたのだそうです。それはなぜか。

入所してくる人の抱えている問題は、アディクションだけとは限りません。ほかの悩みも抱えているのが普通です。もちろんその困難の内容は人によって違いますから、すべてに対する解決を、ひとつの施設だけで提供できるわけがありません。他の機関や施設に協力を仰いでいくうちに、地域に根ざした回復資源のネットワークが出来上がりました。何年もかけて作り上げたネットワークこそが、その施設の強みだというのです。

この話を聞いたとき、選択と集中というビジネスの基本を思い出しました。強みを生かすためには全国展開より地域性。理にかなった戦略です。

僕の住む長野県には前述のダルクのみでアルコールの施設がありません。だからアルコールの人は県外の施設に入所することになります。県外の施設から戻ってきて、地元に無事に定着できた人は数えるほどしかいません。いずれも「力のある」人たちです。むしろ、施設終了後もその周辺にとどまった人のほうが、順調にやっている率が高いように見受けられます。東京や神奈川のAA会場に行って「長野から来ました」と発言すると、実は俺も長野出身なんだという告白をしばしば聞くことになります。

そうなる理由は、施設にとどまるうちにその人の困難をサポートするネットワークができて、施設周辺にとどまるメリットが大きいからでしょう。逆に地元に戻ってくると、AAこそあるものの、その他のサポート資源を失ってしまうために、回復の維持が難しくなってしまいます。地元でネットワークをコーディネートしてくれる支援も得にくいのが現状です。

AAスポンサーとしても、スポンシーにより多くのサポート機関を紹介できねばならないと思っています。そのためにはネットワークを構築しなければなりません。しかし信頼に基づいた関係を作るためには、前述の相談機関との関係のように、「お世話になってます」という顔の見える間柄を地道に何年もかけて作っていくしかないのだろうと感じています。営利企業のサラリーマンをやりつつ、空いた時間にそれをやるのはしんどくないと言えばウソになりますが。

田中康雄先生によれば、ネットワークではまだ弱く、ノットワークでなければならないとか。


2011年12月08日(木) 豊川一家殺傷事件について

この雑記ではあまり時事問題を取り上げませんが、今回は

豊川一家殺傷の長男に懲役30年 名古屋地裁支部判決
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011120790151544.html

を取り上げます。

15年間ひきこもり状態だった30才の長男が、回線を解約されインターネットが使えなくなったことを恨んで両親や同居の弟一家を包丁で襲って殺傷、自宅に放火した事件です。とりわけ1才の姪まで殺害したことは凶悪とされ、地裁の判決は懲役30年でした。

長男(被告)はネットでの買い物の借金が200〜300万円あったとされています。ひきこもり状態で無職の被告になぜ多額の借金ができたのか。それは父親名義でクレジットカードを作って買い物をしていたからだそうです。また、ワイドショーでのレポートなので信憑性は不明ですが、父親の給料は長男が管理し、父親に5万円、母親に4万円渡し、残りを全額長男が使っていたとされています。

長男は中学卒業後、菓子製造会社に1年ほど勤めたものの退職。その後はひきこもり状態。他に新聞配達の次男が同居(事件時は外出していて無事)。さらに、事件の一年前には三男が派遣切りにあい、内縁の妻と1才の娘(長男にとっては姪)を連れて実家に戻ってきました。その頃からトラブルが急増。姪の夜泣きにキレた被告が怒鳴り声をあげ、男同士の口論が絶えなくなり、しばしば警察が呼ばれました。

ネットではアイドルの写真集やアニメのDVDを購入。さらにネットオークションで人に競り勝って落札することに熱中したといいます。手に入れたのは、壊れた家電製品や段ボール箱100個など無用のもので、家に届いてもほったらかしだったといいます。

事件の数日前には、長男が父親の身分証明書を使って銀行口座を開設しようとしたために、110番で自宅にパトカーが呼ばれていました。

父親は借金が増えるばかりで口座引き落としすらままならなくなり、ネット接続を解約しました。この判断が、相談を受けていた警察の助言によるものなのかどうか、そこは曖昧でハッキリしません(させたくないのかも)。

ネットという「ライフライン」が使えなくなったことに逆上した長男は、深夜に懐中電灯を片手に家族を包丁で刺して回り、放火、血まみれの姿で燃える自宅を眺めているところを逮捕されました。生き残った家族は検察求刑時のインタビューに「死刑にして欲しい」と答えています。

・・・

さて、この事件をどう読み解けばいいのでしょうか。

アディクション的な解釈では、長男はインターネット依存であり、買い物依存だということになります。そして、家族が長男に買い物を許してきたのは「イネイブリング」という間違った対応であり、それによって依存症が進行して深刻化、ついには家族が生活を防衛しようとネットを切断したことが最悪の結果を招いた、ということになるのでしょうか。

アルコール依存に対比させれば、家族が酒や金を与えたり、(自分で稼いで飲んでいるなら)その他のトラブルの尻ぬぐいをすることで、本人が自分問題を直視せずに飲み続けることを可能にしている、という「イネイブリング理論」です。家族が手助けを拒否することで、本人が問題に直面化できるという理屈です。

ところがこの事件にはこれが当てはまりません。捜査と裁判の中で、被告(長男)は発達障害であることが明らかになっています(自閉症と知的障害)。障害の詳しい内容は報道されていませんが、ネットへののめり込みには自閉的特性が関係していることは明らかです。また、買い物にブレーキをかける力の弱さは、知的な弱さが影響しているでしょう。こういう人をアディクションとして扱って、依存症治療の枠組みに入れてもなかなかうまくいかないという報告は最近あちこちからあります。

(間違ったやり方ではありましたが)家族が手助けしなければならないのには、本人の能力不足という理由があり、手助けすること自体を「イネイブリング」とはとうてい呼べません。

必要であれば入院治療を経た上で、自立支援の福祉施設で生活訓練を行い、生活自立を目指すことが正しい対応でしょう。おそらくは小学校・中学校時代は普通学級だったのでしょうが、特別支援学級のほうがふさわしかったのかもしれません。

第一審では、検察側が殺意と完全な責任能力を主張して無期懲役を求刑。弁護側は、けがをさせるつもりで殺意はなく、責任能力は限定的で心神耗弱状態だったと主張しました。判決では完全な責任能力を認める一方で、「誰にも障害に気付いてもらえず、支援を受けられなかった。家族の行為が結果的に被告を追い詰めた」という事情を酌み、無期懲役を選びませんでした。その量刑が相応しいかどうか、僕にはわかりません。

皮肉なことに、この長男は凄惨な事件を起こすことで、障害を見つけてもらい、支援を受ける見通しが立ちました。あまりにも遅すぎる発覚、遅すぎる支援ではありましたが。

アディクションの世界にいる僕らはこの事件からどんな教訓を読み取ればいいのでしょうか。

一つは、××にのめり込んでいれば××依存症、という単純な図式を捨てることです(例えばパチンコのめり込んでいればギャンブル依存症とか)。人が何かにハマるのには様々な理由があります。アディクションである場合もあれば、違うこともあります。そして違っているのに、アディクションの図式を当てはめた支援を行うと、本人のためにも、家族のためにもなりません。

もうひとつは、そろそろイネイブリング理論は有効性を疑われるべきだろうということです。少なくとも単純に手助けをやめれば良いとは言えなくなっているのではないでしょうか。最近の新しいアディクション治療では、周囲の関与を求める傾向になっています。

さらにもう一つ。家族にも支援が必要となる可能性です。両親の二十数万円の収入を長男が管理したと聞けば、暴力によって家族を支配していたのだろうと想像してしまいます。しかし実は両親が金銭管理が苦手で、数年前より長男に管理をまかせており、ATMを操作させるために父親が長男を銀行に連れて行くこともあったとされています。両親にも援助が必要だったわけです。

小学校時代の長男は学校ではしゃべらず、イジメやからかいの対象にされ、家庭での虐待やネグレクトをうかがわせるエピソードもあります。中学になるとゲームやパソコンに熱中。卒業後は菓子製造工場でパンを包装する単純作業を黙々とこなし、働きぶりを評価されたものの、1年後に後輩たちが入社してくると指導ができずに仕事を辞めてしまいました。その後見つけた仕事は、最初に30万円を支払うと仕事を紹介してくれるという詐欺に近いもの。それに失敗したことが、社会に背を向けてひきこもりを選ぶきっかけになりました。

どこかで支援が入っていれば事件は防げたように思います。もちろんその支援は、ネット依存症や買い物依存症という視点からのものではないはずです。


2011年12月06日(火) 趣味と回復

先週末土曜日は、関西アルコール関連問題学会の京都大会で「アディクションと発達障がい」という分科会に話題提供者として出席していました。なぜ僕ごときが呼ばれるかと言えば、アディクションと発達障害の関係について取り組んでいる人が全国的にまだまだ少ないからに他なりません。

質疑応答の時間に、子供の発達障害を扱っている人が質問をされていました。子供はアディクションにはなるとは思えないので、発達障害の情報を求めに来られたのでしょう。その「少しでも多くの情報が欲しい」という気持ちが、僕にも分かるようになってきました。

アディクションからの回復には様々な手段が提供されていますが、結局一つのことを目指しているように思われます。断酒会のひたすら酒害体験を話すことでも、AAの12ステップでも、アミティの手法でも、どれも自己洞察の深まりこそが回復という点は共通です。目指すことが一つならば、いろんな手段に手を出すより、一つのやり方に習熟するほうが明らかに良いです。

ところが発達障害というのは千差万別です。そりゃ診断名はアスペルガーだADHDだLDだと分かれていますが、抱えている特性(能力の凸凹)は人それぞれで、別個の対応をしなくてはなりません。個別対応、個別支援が合い言葉になります。目の前の人にどんな手段が合うかを考えるためには、たくさんの情報に触れる必要が生じてきます。

その分科会で リカバリースペース みーる の取り組みが紹介されていました。みーるはアディクションの人も、発達障害の人もいる通所型の施設です。興味深かったのは、「べてるの家」の当事者研究の手法を取り入れていることです。

当事者研究については活字でしか知らないので、あまり詳しく説明できないのですが、自分で自分のことを(つまり当事者が)研究するという手法です。自分の抱えている困難を自分で解明し、その困難(病気)に自分で名前を付け、ホワイトボードなどを使って自己開示し、どうやってその困難を乗り越えていくか仲間からの提案を受け話し合いながら、解決策を見いだしていく・・というやり方です。生活上の困難という問題に着目したとき、その人の医学的な病名(統合失調症とか発達障害とかアディクションとか)はもはや意味をなさなくなります。

そのみーるのスタッフの山崎さんという方との雑談の中で、「アスペルガーの人は、孤立を望んでいるように見えて、実は内面は淋しくて、人との関わりを望んでいるんですよね」という話ですこし盛り上がりました。人と触れ合いたいのに、触れ合うことが苦手でもあることが彼らのディレンマです。淋しさゆえに人の集まるところに出かけていき、でも人と一緒にいても触れ合った気がしない不全感があり、精神的に疲れて帰ってきて「もう二度と行きたくない」と後悔しつつ、でも淋しいからしばらくするとまた行きたくなる、というサイクルを繰り返しているように観察されるのです。

淋しくても一人でいることを選ぶ人もいるでしょう。疲れても人と関わることを望む人もいるでしょう。どの立ち位置を選ぶかは、その人の人生の選択と言えるのかも知れません。

ただ発達障害の人には一人で楽しめる趣味を持つことは役に立つと考えています。趣味の中には人数が集まらないとできないものもありますが、一人でできる趣味もたくさんあります。山へ登るのも、魚を釣るのも、写真や絵も、スポーツ観戦や観劇や映画鑑賞、ジムで体を動かすのも、泳ぐのも良しです。定型発達の人は人に気を遣い遣われることが心の疲れを癒しますが、発達障害の人は気を遣ったり遣われたりする場でかえって疲れしてしまうことが多いのです(特に自閉圏の人は)。一人で楽しめることを持つのが大切です。

とある施設にAAのメッセージ活動にお邪魔したとき、「趣味を持つことは断酒の役に立つか?」という質問が出されました。当然答えは「役に立ちません」でした。ことアディクションに限れば、この答えは真です。趣味を持つことに自己洞察の深まりは期待できませんから。趣味がいけないわけではありませんが、大事な時期には回復に時間を割いたほうがその後の人生が違ってきます。しかし発達障害の人だったら、趣味を持つことは断酒の維持に役立つと思います。(ただ趣味さえあればいいってもんでもありませんが)。

人は誰でも淋しさを抱えており、人と交わりたいと願っています。しかし、人と一緒にいても心が触れ合っている気がしない不全感が、アスペルガーをはじめとする自閉圏の発達障害の人の淋しさを際立たせています。どこへ行っても、自分はここの仲間に入れていないかも知れない、という不安に付きまとわれているように見受けられます。おそらくは情報選択能力の問題で、押し寄せる情報の中から「私はあなたを受け入れていますよ」という情報をすくい取ることが苦手なのだろうと解釈しています。

京都から東京に移動し、日曜日午前中は某12ステップ勉強会。午後は吉祥寺の成城大学で開かれたJDDネット(日本発達障害ネットワーク)の年次大会を聴きに行きました。お目当ては就労支援と高等教育の就学支援。その話はまた後ほど。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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