心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年03月28日(水) ステップ6・7について

年度末で忙しいですが、それでも雑記を更新。

ステップ4・5で棚卸しをすると、次にステップ6・7が待っています。

> 6. こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
> 7. 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。

これは自分の欠点を全て取り除いてくださいと神に求めるステップです。

ビッグブックでは、同じ言葉を繰り返し使わず、別の表現を用いる修辞法が使われています。だから、ステップ5では「過ち(wrongs)」、ステップ6では「欠点(defects)」、ステップ7では「短所(shortcomings)」と違う言葉が使われていますが、すべて同じものを指しています。

どうやってステップ6・7に取り組んだらよいか、という質問を受けることがあります。しかし、ステップ6・7は極めて単純なステップです。ちゃんとステップ4・5で棚卸しができていたなら、それによって自分の欠点短所が明らかになったはずです。そして、

「もう、こんな自分ではいたくない」

と思うようになったはずです。変わりたいという願望です。

そうならなかったならば、ステップ5が不十分だったということでしょう。ビッグブックでも、ステップ5が終わったときに、それまでの5つのステップが手抜き工事になっていなかったかチェックするように提案されています。

ステップ6・7は意欲を持つステップです。

12ステップは全体に「意欲→実行」というプロセスが並んでいます。ステップ1はまさに回復への意欲を作るステップです(動機付け)。そしてステップ3で行動を起こす決心をし、実際にステップ4から実行していきます。

ステップ6・7でも「変わりたい」という意欲を持ちます。つまり、ステップ5で明らかになった短所を取り除きたいという意欲です。実際にそれが取り除かれていくのは、この後のステップです。

埋め合わせのステップ8・9でも、埋め合わせする意欲を持つステップ8があり、次に実際に埋め合わせを行うステップ9の順になっています。

ステップ6・7はスコップのような単純な道具だと言われます。ビッグブックでもわずか1ページしか割かれていません。使い方は難しくはない。ただ、そのスコップを使うか使わないか、それは私たち次第です。

実際には私たちは「すべての短所を取り除いて欲しい」と願うのは簡単ではありません。中にはなかなか手放せない欠点・短所もあるからです。

実際に棚卸しをやってみるとわかりますが、例えば40才の人というのは、その人の短所を抱えたまま40年生きてきてしまったわけです。その短所を人生の早いうちに手放せていたとしたら、その後はまったく違った人生を歩めていたことでしょう。もちろん過去に戻って人生をやり直すことはできないのですが。

旅の途中で道を間違え、その間違いに気づかないままずっと旅してしまい、気がついたらもう戻れないところまで進んでいた・・というような気分です。

そうした自分の人生の虚しさや、妙なこだわりを手放せなかった自分の愚かさに気づくと、人は打ちひしがれた気分になります。今さら違う自分になろうとすることは、過去40年の自分の人生を否定することにつながる・・そう感じてしまうのは、まさに病んでいる証拠だと思うのですが、まあそう感じてしまうものです。

欠点のある自分が自分であって、それを手放したら自分ではなくなってしまうような気になります。そうなってしまうと、当然回復は止まり、逆方向へと向かってしまいます。

ステップ5で明らかになる以前にも、今までだって自分の欠点短所に気づかなかったわけじゃありません。でも、うすうす気づいても、自分を変えることはできなかったのです。チャンスはいくらでもあったはずなのに。それほどまでに、自分で自分を変えることは難しいのです。

だからこそ、ステップ6・7は、自分で自分を変える決意をするステップではなく、自分より大きな力である神に、欠点を取り除いてくださいとお願いするステップになっているのだと思います。

実際に私たちを変えてくれるのは、ステップ8・9(埋め合わせ)と、ステップ4〜9を日々繰り返すステップ10によってです。

私たちは外的世界との関係にばかり関心を持ってきました。他の人との関係、社会との関係、物質的なもの(金銭や財産や外見など)です。外的世界との関係にこそ苦しみがあり、その苦しみを取り除けば、内的世界(心)の安定がもたらされると信じてきました。

端的に言えば「苦しみは外から自分の中へもたらされる」と信じていました。

しかし、ステップ6・7まで来れば分かっているはずです。本当のトラブルは私たちの内側に存在しており、最奥部にある存在との関係こそ私たちが最も関心を持つべきものだと。その関係が良好であれば、外との関係もおのずと良好になると。

苦しみやトラブルは自分の内部に生まれ、それが外との軋轢を生んでいきます。だから、私たちの内側が回復したとき、外側にある社会的・物質的な苦しみも解決していったのです。


2012年03月16日(金) 渇望という言葉

アル中(アルコール依存症)に対するありがちな誤解を一つ挙げます。

「なぜ、私たちは酒を我慢できるのに、この人は我慢できないのでしょう?」と家族の方から聞かれることがあります。

その時に僕は「あなたは特に酒を我慢していないでしょう」と申し上げることにしています。

僕は職場の忘年会や歓送迎会で酒席に出ることがあります。そこで(依存症でない)普通の人たちの酒の飲み方を観察すると、それは明らかに依存症の人の飲み方とは違っています。ビール瓶を持ってお酌に回ることもありますが、相手がすでにビールを2〜3杯飲んでいるときは、「もう要らない」と言われることもありますし、儀礼上お酌はしても相手は口を付けただけで、実際にはほとんど飲んでいないこともあります。
これはつまり、「もう満足したから、これ以上は要らない」ということです。もう十分満足しているので、それ以上は飲みたくないのです。つまりそこには何の我慢もありません。お腹一杯食べたから、もう食べられない、と言っているのと同じです。依存症でない人は、我慢しなくても、自然にコントロールできてしまいます。

<アルコール依存症でない人は、ちっとも酒を我慢なんかしていません>

では、アルコール依存症の人の場合はどうか。アル中は2〜3杯のビールでは満足できません。もっと「しっかりした酔い」を目指して杯を重ねていきます。そうして飲み過ぎてはトラブルを起こします。なぜそんなに飲むのか。酒に意地汚いのか、酒が大好きなのか?

シルクワース博士は、多くのアルコホーリクを観察した結果(彼は生涯に5万人のアルコホーリクを診たそうです)、アルコホーリクには次の酒を求めてやまない強い欲求が備わっていることを発見しました。その強い欲求は、アル中が酒を飲まないでいる間は存在せず、アルコールを体の中に入れることで発生します。博士はこれを「渇望現象」(the phenomenon of craving)と名付けました。

この博士の主張はアル中たちの実体験とよく重なっていたため、ビッグブックでは「かつての問題飲酒者には、この博士の説明は実にしっくりくる。それ以外には説明のしようがない多くのことが、この理論で説明される」(p.xxxiii(33))と賛同を示しています。

この「渇望」は非常に強い欲求であるため、それに逆らって酒の量をコントロールするのは大変な苦労です。しかし、まともな生活を送ろうと思ったら、なんとか酒の量を抑えなければなりません。なので、依存症者は渇望に逆らって、なんとか次の酒に手を付けないように、ものすごく「我慢」をしています。

<アルコール依存症の人は、普通の人とは比べものにならないぐらい、一生懸命「我慢」している>

しかし、渇望はとても強いので、ついには負けてしまい、飲んだくれてしまいます。「彼らは逃避するために飲んだのではなく、自分の精神ではコントロールできない渇望に屈して飲んだのである」(p.xxxvii(37))。

飲み出せば、いつか必ず渇望現象が高まり、そのために酒をコントロールできなくなり、トラブルを起こしてしまう。解決は「まったく飲まないこと」しかあり得なくなります。

依存症でない人は、我慢しなくても自然にコントロールできます。一方、依存症の人は一生懸命我慢しているのですが、どんなに我慢しても結局は酒をコントロールできません。

さて、ここで「渇望」という言葉にまつわる話をします。

「酒をやめてもう半年になるけれど、いまだに渇望がある」と言う人もいるかもしれません。しかし、その種の欲求は「渇望」ではありません。シルクワース博士の言う「渇望」は、あくまで最初の一杯に手を付けた後に沸き起こってくるものです。酒をやめて期間が過ぎていれば、渇望はもうなくなっているはずです。でもなお「飲みたい気持ち」があるのでしょうが、それについてはシルクワース博士は「強迫観念」という別の言葉で示しています。

ネットの掲示板やブログでは「飲酒欲求」という言葉を見かけます。その言葉は概ね「酒をやめた後もまだ残っている、酒が飲みたい気持ち」について述べられています。それは渇望とは違います。

酒を飲みたい気持ちは、酒をやめる前にもあるし(渇望)、酒をやめた後もあります(強迫観念)。それを一緒くたにせず、明確に分けたところにシルクワース博士の功績があります。

自分の過去の飲酒体験に照らし合わせて渇望をよく理解すると、「なぜ再飲酒を避けなければいけないのか」が分かります。そうなると、酒をやめ続けたいという動機が生まれます。たいていのアル中には「次は違った飲み方ができるかも知れない」という妄想を、多かれ少なかれ抱えています。(でなければ、なぜ再飲酒するのでしょう?)

craving という言葉に「渇望」という日本語を当てたのは、あまり良くなかったのかも知れません。辞書で「渇望」という言葉を引くと、「のどが渇いて水をほしがるように、しきりに望むこと」とあります。これだけ読めば、最初の一杯を飲みたい飲酒欲求と区別がつきません。

シルクワース博士の説明や、それを受け継いだAAのビッグブックや12ステップでは、「渇望」はあくまで最初の一杯を飲んだ後にやってくるもので、最初の一杯に手を付けたい願望とは違います。しかし、渇望という言葉は、アディクションにまつわる精神医学全般でも使われており、そちらでは、飲む前と飲んだ後の区別を付けることなく使われていることが多いように思います。

どちらの使い方が合っているとか、間違っているとかの話ではありません。あくまでビッグブックの12ステップではこう使っているのですよ、という話です。

実は、その使われ方の違いは、僕も最近になるまで知りませんでした。ギャンブルへの依存が、アルコールや薬物の依存と同じであることを説明するのに、この渇望現象の共通性が言われることがあります。けれど、そこで使われている「渇望」が、必ずしもビッグブックでの意味と同じとは限りません。

もし、ビッグブックどおりの渇望の意味をギャンブルに適用すると、こんなストーリーが展開できます。

ギャンブルに問題を抱える人物がいます。彼はもう半年パチンコを断っています。けれど、彼の心の中には「もう一度パチンコを楽しみたい」という欲求が大きくなったり小さくなったりしています(これは渇望ではない)。ある日、彼はその欲求に負けてパチンコ屋に入ります。この段階ではまだ渇望は起きていません。

彼は、今日は五千円だけ楽しもう、そうすれば小遣いの範囲内だ、と考えます。しかし、五千円を使い尽くしても、まだ彼は席を立つことができません。彼の中に渇望がわき上がり、もっとパチンコをという強い欲求に彼は支配されてしまったのです。彼は財布の中身を全部使い切っても足りず、近所のサラ金で何万円も借りてきてパチンコを続け、閉店時間が来て店の外に出されたときには、大変な後悔に襲われています。

普通の人であれば、2〜3杯のビールで満足し、それ以上欲しがりませんし、次の用事をキャンセルしてでもパチンコを打ち続けたいとは思いません。けれど依存症の人は続けて「次」が欲しくてたまらなくなります。その背景には強大な「渇望」が存在します。この渇望の有無が、依存症の人とそうでない人を明確に分けるものです。

(ギャンブルで問題を起こしていても、どうみても渇望を備えていそうにない人もいます。もしビッグブックの考え方をギャンブルにも適用するならば、その人はギャンブルのアディクションではないことになります)

渇望現象、それから(この雑記には取り上げませんが)強迫観念、この二つで構成されているのがビッグブックのアディクション概念です。そして、アルコール以外の(例えば薬物やギャンブルも)このアディクション概念に当てはまるから、対象は違っても同じアディクションである、という主張があります。ならば、それらのアディクションも明確な渇望を備えているはずなのですが・・・、あまりそのことは理解されていないように思います。

AAの中ですら、飲酒欲求と渇望の区別がついていないことが多いのですから、こんな雑記も「とてもマニアックな話題」なってしまうわけです。


2012年03月13日(火) AAミーティングはナラティブセラピーなのか?

ナラティブセラピーとは、自分自身の物語を語り直すことによる治療法とでも言いましょうか。先ほどちょっとググってみたら、主にトラウマ治療の現場で使われているようでした。

ナラティブという言葉は聴きなれないかもしれません。ナレーション(語ること)という言葉がありますが、ナラティブとは物語を語ることです。

ナラティブセラピーと社会構造主義は密接な関係にあります。社会構造主義とは社会学の言葉で、現実やその意味は、すべて人の頭の中で作られたものであり、意識を離れては存在しないという考え方です。

客観的事実がどうかではなく、それを体験した自分が経験をどう解釈するか。その解釈こそが現実であり真実であるということです。だとすれば、過去の体験の解釈を自分が変更すれば、体験の真実もその意味も変わってくるはずです。

精神的にお加減の悪い人はだいたいが過去の出来事に圧倒されており、その支配から脱することができない無力感を持っています。それはつまり「体験の解釈を変えることができずにいる」と言い換えられます。そこで、自分が生きてきた物語を語ることを試みます。それは最初は辛いことかもしれません(不都合な真実だから)。しかし何度も語りなおすことにより、今までの自分の解釈とは違った解釈が成り立ってきます。そうしれば自分にとっての過去の体験の意味も変わってきます。

ナラティブセラピーでは治療者と被治療者の間に上下関係はありません。社会構造主義の立場からすれば、「正しい解釈」も「間違った解釈」も存在しないわけですから、治療者が望ましい方向に導くというわけにはいきません。治療者と被治療者は平等な立場で新しい物語を作っていくことになります。「答えはその人が知っている」とか「あなたが問題なのじゃない、問題が問題なのだ」みたいなキーワードが散りばめられるのがナラティブセラピーの特徴です。

12ステップでは表を使って、その人の中にある問題を外在化させます。べてる式当事者研究ではホワイトボードを使います。ナラティブセラピーでは「物語」という外在化の手法を使っていると考えればいいのじゃないでしょうか。

ナラティブセラピーが日本に紹介されたのがいつなのか知りませんが、関連書の出版年を見ると20年ぐらい前であることがわかります。ちょうどそれは、日本で様々なジャンルの自助グループが誕生し、拡大しつつあった時期でした。

治療者・被治療者の上下関係を否定しているところ、語ることを重視する点など、自助グループの文化とナラティブセラピーの文化は近いものがありました。だから、自助グループがナラティブセラピーのピア版(当事者版)であると誤解されてしまったのではないか・・・。僕はそう思っているのです。その結果、自助グループ文化がナラティブ文化に誘導されてしまい、12ステップから離れていってしまったのではないか、・・・そんな風に考えています。

例えば、「他では言えないこと(恥ずかしいことや辛いこと)をグループの中で話せるようになることが大事だ」だとか、「自分の飲んで酷かったころの話ができると回復する」なんて言われたことはありませんか? こんな考え方にはナラティブ文化の影響を感じるんですけど、気のせいでしょうか?

(ミーティングで酷かったころの自分の話ができないと「正直になれないと回復しないぞ!」とか非難されちゃうんだうよなぁ。うまく話ができる人ばかりじゃないんだけど)

また、ライフストーリー形式の棚卸しなんて、まさにナラティブセラピーのピア版そのものじゃないかと思えてきます。話すほうはノートに書き溜めた自分の物語をひたすら話す。聞くほうはただ聞く・・・。30年ぐらい前の棚卸しの経験を聞くと、スポンサーはただ聞いているだけじゃなかったそうですが、いつの間に「ただ聞くだけ」になってしまったのでしょうか?

ビッグブックの12ステップをやってみて気づいたのは、12ステップでは物語を語ることは重視されていないことです。そして棚卸表を書くときは自分で自身を分析し、ステップ5で相手をするスポンサーは、スポンシーが正しい解釈へとたどり着くように手助けします。「正しさ」「望ましさ」の追求は12ステップ全体を貫く原理です。

こう考えると、12ステップとナラティブセラピーは対極的なアプローチです。だから、12ステップグループにナラティブ文化が及んできたとき、12ステップの力が弱まり、導き手たるスポンサーを求める人は減っていったのではないか・・・。ま、今となっては確かめようがない昔の話ですが。

ジョー・マキューは、他の治療法の影響によって、AAの12ステップが「薄まった」結果、AAの有効性が徐々に失われたと主張しています。同じことは北米だけでなく日本でも起きたんじゃないでしょうか。

もう少し、AAなどの12ステップグループはは本来語り重視じゃない、という話を続けます。

日本のAAでは、新しくやってきた人にも、なるべく早くミーティングで話をするように薦められます。もちろん話をせずに「パス」して、ただ聞くことに徹することもできますが、「話すことが回復につながる」という考え方があります。ところがアメリカのAAメンバーに聞くと、あちらでは新しく来た人に対しては、半年か1年ぐらいはミーティングで話をせず、他の人の話をだまって聞くように提案されるのだそうです。新しい人というのは身勝手な自己主張をすることが多く(いるよね、日本でもそういう人)、それが自省や回復の妨げになる、というのがその理由だそうです。

また drunkalogue(ドランカローグ)という言葉があります。drunk は飲んだくれ、logueは「語り」という接尾語です。いわば「飲酒譚」。酒を飲んでトラブルを起こし、社会的に次第に落ちぶれていくストーリーは、時に切なく、時には笑が取れる話で、聞いていて楽しいものです。しかし、あちらのミーティングではドランカローグをとうとうと語る人は好まれないのだそうです。

その理由のひとつが「酷かったころの自分の話」は、しばしば自慢話に過ぎなくなってしまうからです。人はポジティブなことばかりでなく、ネガティブなことも自慢します。もうひとつは、ドランカローグの内容は人によって違います。そのせいでAAの序文にもある「共通する問題」がぼやけてしまうからです。

AAミーティングは、人によって違う問題、違う解決法を分かち合う場所じゃありません。共通する問題、共通の解決方法を分かち合う場所です。ドランカローグは耳目を集めますが、メッセージを運ぶ手段としては良くないのでしょう。

日本のAAは人数がなかなか増えてくれません。けれど、AAミーティングには新しい人は結構やってきます。しかし、続けて出る人は多くありません。一番問題視されているのは、2〜3年するとAAを去っていってしまう人たちの存在です。メンバーシップ・サーヴェイを見ると、この年数あたりでメンバー数のグラフがどんどん縮んでいます。なぜ人がAAを離れていくのか。それはもうAAに魅力を感じなくなったからでしょう。その人たちも、自分自身の問題や自分なりの解決を見つけたからこそ、AAに留まっていたのでしょう。たぶんナラティブな効果によって。しかし、その間にメンバー皆に「共通する問題」や「共通の解決方法(12ステップ)」に触れることができなかったからこそ、もう自分にはAAは必要ないと結論付けて去ってしまったのではないでしょうか。

去っていった人たちが悪いのではなく、「共通する問題」「共通の解決」を提供できないでいる日本のAAに問題があるのだと思います。僕が「AAのメンバーを増やす最善の方法は、いまAAにいるメンバー一人一人が12ステップをやることです」と言うのはそのことです。

ナラティブセラピーは、その専門家に任せておけばいいじゃないですか。


2012年03月09日(金) 早期発見・早期治療は役に立ったか

3月11日もAAの病院メッセージに参加したりして、いつもと変わらずに過ごしていると思います。

広く日本のAAで使われている『12のステップと12の伝統』という本には、こういう下りがあります。

「AAの誰もが、まず底をつかなければならないというのはなぜだろうか。底つきを経験してからでないと、真剣にAAプログラムをやってみようと思う人はほとんどいない、というのが答えだ」

回復するためには、まず「底つき」(hit-bottom)をする必要があると言っています。さらには別のところで、AAの初期の頃には「どん底のケース」(low-bottom case)の人たちしかAAで助からなかったが、最近の若い人たちを助けるためには「底つきを、その人たちのために引き上げる(raise the bottom)」必要があった・・とも書いています。

この「底つき」はしばしば誤解されています。社会的立場を失って、社会の底辺に向かって落ちていくことであり、これ以上落ちようがないところにたどり着くのが底つきである・・という解釈は間違いです。

実際には社会的立場を失わなくても底つきを経験する人はいるし、一方でどこまで落ちていっても底をつかない人もいます。確かに、何かを失うことは底をつくチャンスではあります。仕事や家族を失うことが、底つきのきっかけになることもありますが、そうならない場合のほうが普通です。

12ステップをやった人には「底つき」が何であるかは明確です。意思の力で酒はやめられない(再飲酒は防げない)という自覚です。底つきをするのに何かを失う必要はありません。

おそらく10年か20年ほど前から、医療や援助職の人たちが「底つきの底上げ」ということを言い出しました。どん底に落ちる前に早めに底つきを経験させる・・という意味ですが、前述のような底つき概念への誤解に基づいた考え方でした。

この雑記のテーマは、この「底つきの底上げ」が何をもたらしたかを考えることです。物事には功罪両面があるのが普通であり、「底上げ」にも良い面もあれば、悪い面もありました。僕としては害のほうが大きかったと考えています。

「底上げ」のために医療や援助職の人たちが取った戦略は、早期発見・早期治療でした。そのために「アルコール依存症は病気である」という啓発活動が行われました。これは功を奏し、昔だったら依存症と診断されないような人たちも、依存症者として扱われるようになりました。

本当に重症化した人たちばかりではなく、まだそれほど深刻でないケースでも依存症と診断されるようになりました。12&12にあるように、「まだ元気で、家族もいて、仕事も失わっていない」という人たちが、問題(の一部)に気づき、酒をやめるチャンスが与えられたのです。早期発見・早期治療は実現しました。

ではその人たちが、「底つき」を経験したかといえば、僕は否だと思います。それは、社会的なものを失っていないからではなく、意思の力で酒はやめられるという方向へ誘導されたからです。

そうした早期診断が行われる前は、依存症と診断される人は重症化・深刻化した人たちばかりでした。自分の(意思の)力では、短期間しか酒をやめ続けられなかったため、断酒会やAAという当事者の継続的な援助を必要としました。

「底つき」とは言葉を変えれば「援助への希求」です。私には助けが必要だ、仲間やハイヤーパワーの力がなければ自分は再飲酒を防げない、という自覚が、援助を求める姿勢へとつながります。「底上げ」以前は、そういう流れになりやすかったのです。

ところが依存症が病気だという啓発活動が奏功して、早期発見されるとともに、診断を下される人の数も増加しました。深刻化した人たちの割合は減り、自分の力である程度の期間(何ヶ月か何年か)やめ続けることが可能な人たちが増えました。

元々依存症の人たちは援助を求める能力が低いのですが、それが援助を求める方向へ転換するのが底つきです。早期診断を受けた人たちは、確かに酒をやめたかもしれません。でも援助を求める方向へは転換しませんでした。とりわけ当事者同士の援助である断酒会やAAにはつながりたがりませんでした。それを「とりあえず酒はやめられているから良いではないか」と追認する雰囲気が、医療や援助職の中に生まれたのではないか、そう考えています。

結局、早期発見・早期診断は実現したけれど、底つきの底上げにはつながらなかった、というのが本当のところではないかと思います。

最近こういうケースに接することが増えています。比較的早めに診断を受けて(最初は少し苦労するけれど)自力での断酒に成功している人たちです。この人たちが、何年かすると再飲酒します(場合によっては十年以上のケースも)。断酒の初期の頃に、短期間AAや断酒会の世話になっている場合もあるし、なっていない場合もあります。いずれにせよ、飲む人は飲みます。

依存症の人が再飲酒するのは、ある意味「当たり前」なので、そのことをとりわけ問題視する必要はありません。しかし、早期診断を受けて何年間か自力断酒が出来た人というのは、その後がこじれてしまう場合が多いのです。

一つには、自力で何年間か(10年以上も)やめられたという成功体験がアダになり、改めて断酒会やAAの援助を求めることがますます難しくなりがちです。もう一つ、「飲んでいない期間も依存症は進行する」という考え方がありますが、実際その通りだと実感させられます。まるで酒をやめていた期間などなく、その間も飲み続けていたかのような、急激な悪化を見せます。そのために、やめるのがますます困難になっています。

しかし、最も切ないのは子供のことです。最初の断酒が始まる頃には、子供が小学校に上がる前か、低学年くらいという年代が多いわけです(早期発見のおかげです)。それが、それが数年後とか十年ほど後になると、ちょうど子供が高校受験とか大学受験のころに差し掛かります。その頃になって、家族の悪夢が再現されるわけです。それまで以上に金銭が必要になる時期でもあり、ご本人もなんとか働き続けて稼ごうと思いますし、家族にもそれを応援しようとします。しかし、回復よりも仕事を優先すれば何が起こるか。再飲酒や入院、失職、離婚、自殺など。結局子供の人生は大きく狂ってしまいます。

最初の時にきちんとしていたら、こうはならなかった・・はず、なのになぁ、と残念な気持ちにさせられます。

早期発見・早期診断は良いことですが、それが継続的な援助を求める方向に向かわないのが大きな欠点です。医師からは「断酒会やAAに導きたくても、患者が診察室に現れなくなってしまえば接点を失ってしまう」と聞きます。

早期発見・早期診断は(少なくともそれだけでは)失敗だったと思います。何年間か自力でやめられる人たちを作り出したので、見かけの成果が挙がっているだけで、本質的な問題の解決には至っていないというだけのことではないかと。クライアントが目の前からいなくなれば問題は解決したことになる、それが医療や援助職の理屈であり、その理屈が「底つきの底上げ」作戦が成功したかのような幻想を作り出しただけだったと思うのです。

医療や援助職にとってはそれでいいかもしれません。でも当事者にとっては、中途半端な解決は悪夢そのものです。せいぜい数ヶ月か数年しかコミットしない専門家と違って、当人にとっては一生の問題なのですから。

もちろん早期診断が生涯の断酒に結びつく人もいるでしょう。しかし、その割合はそれほど多くないというのが印象です。具体的数字を持っているわけじゃありませんが、「底つきの底上げ」が言われるようになって10年・20年が経過し、年単位の断酒を経た後の再発の問題が顕著になってきているのじゃありませんか?

だから、早期の診断を、一生続く援助(つまり当事者活動たる自助グループ)へとどのように結びつけていくか。医療・援助側と当事者活動の橋渡しが必要なのだと思います。

「大事なのは最後の一杯を飲んでから何年経ったかじゃない。次の一杯を飲むまで何日あるかだ」


2012年03月05日(月) アディクションセミナー雑感

横浜のアディクションセミナーに行ってきました。正直、金曜日には疲れが溜まりまくっていたので、週末の予定を全部まとめてキャンセルしたいぐらいの気分だったのですが、約束していたこともあったので出かけてきました。

(とは言うものの、僕が行かなかったとしてもそれほどトラブルになるわけじゃありません。行かなければ誰かがちょっとだけ困るでしょうが、僕が空けた穴は別の誰かがきっと埋めてくれるでしょう。それは僕がそれほどの重要人物ではないということです。しかしやはり穴は空けるべきではありません。軽諾寡信とは老子の言葉)

午前中は自分たちの分科会の部屋にいたのですが、午後はメインホールの体験発表(スピーカー)を聞いたり、他の団体の分科会を覗きにいったりしていました。そこで感じたことをいくつかメモ的に書き残してお気ます。

アディクションセミナーには様々なグループ・団体の人たちが来ていますが、アルコール・薬物の物質依存系の人は少ない感じでした。薬物の人は多かったけれど、あれは昼休みに琉球太鼓を披露する人たちが来ていたからで、それがなければもっと少なかったのではないかと思います。あの琉球太鼓は、人前で演舞をすることで、いままでの生き方で張り付いてしまった否定的な自己像をぬぐい去る効果を狙っているのだと聞きました。AAの分科会も(毎度のことですが)10人以下のこぢんまりした感じでした。

午後のメインホールでのAAのスピーカーの人が、「AAメンバーは内向きで、AA以外のことに関心を持たない。今日来て初めて知ることばかりだ」と言ってましたが、AAメンバーが内向き過ぎるというのは、その通りだと思います。

だいたいAAのオープン・スピーカーズ・ミーティング(OSM)というのは、アルコホリズムのことや、そこから回復する手段であるAAのことを世間に広く知ってもらい、回復できる手段があることをまだ知らない人に伝えていくための手段です。だから「オープン」なのです。だとすれば広く世間に広報して、関心のある人に来てもらい、参加者のうちAAメンバーの占める割合が半分以下とか、もっと少なくても良いぐらいものであるはずです。

しかるに、現実に行われているAAのOSMは、参加者の実に9割以上がAAメンバーというとんでもなく身内感覚のイベントで、「(他地区・他県から)来てくれたAAメンバー数が多ければ成功」などという評価基準になってしまっています。これじゃあAAのメンバー数増加が頭打ちになるのも当然と言えます。AAメンバーの視線はAA内部に向けられていて、世間の中で「まだ苦しんでいるアルコホーリク」のことは無視されています。

むしろ、ギャンブルやACやひきこもりのような、物質嗜癖以外の分野の人たちが元気でした。HA(ひきこもり・アノニマス)は小部屋で分科会をやっていましたが、(確かめたわけではありませんが)HAメンバーよりそれ以外の人のほうが多く、ニーズがたくさんあるのだろうと感じました。

注目すべきは、午後のメインホールでのスピーカーで、お二人が発達障害について言及していたことです。お一人はADHD、もう一人はアスペルガーという話でした(どちらも女性)。発達障害が「生きづらさ」の原因になっている場合があり、その部分には12ステップが解決になってくれないわけで、回復しようと努力していても、何年経っても変わらないってことが起きてしまいます。その場合、変えられない部分は変えられないことを受け入れて、別の部分を変えようと努めるようにするしかないわけです。発達障害ゆえの特性は特性として、それ以外の二次障害の部分には12ステップによる変化あり得るということを示してくれたように思います。お二人のスピーチは賞賛に値すると思います。

ただどちらもACのジャンルの人たちでした。発達障害は分野を問わず、アルコールの人にも、薬物の人にも、ギャンブルの人にも、またそれぞれの家族の立場の人にも存在するはずで、将来、そうした立場の人で発達障害を自認する人の話が、ここで聞けるようになると良いのですが。


2012年02月28日(火) 恨みの感情は人の心に何をもたらすか

ビッグブックの表形式の棚卸しは、まず「恨み」の表を書くことから始めます。

なぜそんな表を書くのか、という理由を説明すると12ステップ全体の話をしなければならなくなるので省略します。そのかわり、恨みが人の心にどんな影響を及ぼすかという話をしましょう。

恨みとは何でしょう。私は誰も恨んでいないと言う人も少なくありません。「恨み」という言葉で表現するほど強い気持ちじゃなくても、「気に入らない相手」「顔を合わせたくない人」「その人の言葉を聞きたくない」と思うような相手はいるのじゃないでしょうか。その人と接したり、接しなくてもその人のことを思い出しただけで嫌な気分になる・・その時に心の中に存在する感情が「恨み」です。

会いたくない人、避けたい人に対しては、私たちは恨みを持っているものです。

さて、怒りの感情は誰でもあります。それは正常な反応です。生きていれば理不尽な目に逢うこともあります。例えば満員電車で足を踏まれれば、痛いので頭に来ます(その痛みが快感だという人はちょっと黙っていてくれ)。自動販売機でおつりを取り忘れれば、自分に対して腹が立ちます。自己憐憫の気持ちです。しかし、そうした感情はその場限りのもので、過ぎ去っていきます。足を踏まれるからもう電車に乗らないとか、おつりを取り忘れるからもう自動販売機で買わない・・とはなりません。

恨みの感情は一過性ではありません。相手のことを思い出しただけで、嫌な気分になります。その人と同じ部屋にいるだけで(相手がなにもしなくても)楽しい気分が台無しになったりします。

なぜ相手を恨むのか。それは相手が過去に私(たち)を傷つけたからです。傷つけたといっても、身体的な意味に限りません。傷ついたのは私たちの自尊感情や名誉かもしれません。陰口を言われたとか、私の金を無駄遣いされたとか、責任を果たしてくれなかったとか。あるいは、セックスを拒まれたとか。私たちの傷つき方は様々です。

そうした過去のことを思い出すたびに(しばしば必要もないのに思い出すのですが)、私たちは過去の被害を再体験します。まるでビデオをリプレイするように。(ただビデオと違うのは、場面が正確に再現されず、リプレイするたびに脚色が施されるということです)。

私たちは恨みは正当なものだと感じます。だって、私たちを傷つけたのは相手ですから、相手が悪いのであり、反省するとすれば相手であって、私たちが何かする必要はない、と。

しかしここに罠があります。この理屈では、私たちが良い気分になるためには、相手が態度を改め、反省をし、行いを変えねばならないことになります。しかし、そうするかどうかは相手次第です。確かに相手が態度を変えてくれれば、私たちは良い気分になれるかも知れませんが、相手が変わらなければ私たちは悪い気分のままです。ということは、私たちの気分は相手次第ということです。

これはつまり、私たちの気分(心)を相手にコントロールさせ、支配させているということです。相手は別にこちらの気分など支配したいとは思っていないでしょうけど、こちらが勝手にそうしてしまっているのです。嫌な相手に自分を支配させ、コントロールさせる・・何とも自虐的な趣味です。

だから、自由になりたければ恨みを避けねばなりません。私たちは強い気持ちを持っていれば、相手を変えられると勘違いしてしまうことがありますが、しかしたいていの場合、どんなに強く相手を恨んでも、相手は変わってくれません。ますます自分の気持ちを相手次第にさせてしまうだけです。

だから私たちは「道路のこちら側を掃除」します。つまり、相手の落ち度ではなく、自分の側の落ち度を見つめます。態度を改め、行動を変えるべきは相手ではなく、自分であると。それは慣れないうちはラクではないことかもしれません。けれど、相手ではなく自分に問題があるというのは福音です。なぜなら、相手は変えられないけれど、自分は変えることができるからです。

そうして私たちは自由を取り戻し、良い気分で生きることができます。変えられないものを変えようとしないから疲れにくくなりますし、当然抑うつ気分も改善していきます。

さて、ここからは応用編です。

相手を恨んでいれば、気分を支配されてしますが、それは嫌な体験です。酒や薬やギャンブルで、その嫌な気分を解消するのも一つの手段です。しかし依存症になってしまうと、その手段は使えなくなります。すると人は別の手段に手を出します。

なんとか支配されている気分をごまかさなければならないので、例えば「腹を立ててはいないが、相手を軽蔑している」という言い訳を自分にします。しかし、この場合の軽蔑とは、恨みを別の言葉で言い換えただけで、なんとか気分を支配させないぞと強がって見せているだけです。

「自己憐憫」は相手に対する恨みが自分に向かった状態です。おつりを取り忘れたとき、自動販売機を恨むわけにもいかないので、自分を恨むのです。相手が人の場合には、相手との力関係で恨みづらいとか、自分の側の落ち度に自覚的の場合に、恨みは相手ではなく自分に向かって自己憐憫となります。(この場合、実は相手を恨んでいることを自覚することから始めたほうがいい)。

ありがちなのは、例えば親や職場の上司や同僚に恨みの感情を持っている人が、自分と同じ立場の人(例えば自助グループの仲間)に対して恨みを持っていないと主張することです。普通はそういうことはあり得ません。というのも、回復以前の恨みがましい人は、自分の周囲360度の人にまんべんなく恨みの気持ちを持っているものだからです。(なぜなら、問題を抱えているのは周囲の特定の誰かではなく、その人自身だからです)。

しかし、その人は恨みの感情が自分を傷つけ、相手との関係も悪くしてしまうことを体験的によく知っているものです。同時に、自助グループはその人にとって「大切な居場所」であり、社会の荒海を渡っていくための船着き場みたいなものです。だからそこで居づらくならないように、グループの仲間に対して恨みを持たないように気を使います。恨みを持ったとしても、そんな自分をなんとかごまかそうとします。

そうした自己流の対処法は、たいていうまくいきません。一つには、そこで堪えたぶんだけ、仲間以外の人に対してより恨みがましくなります。もう一つは、結局そのグループにもやがては居づらくなります。すると今まで「大切な仲間」と言っていた相手に対して、失望したなどとして評価が180度反転します。こういう人は、何年もかけて、あっちこっちの自助グループを転々としている場合が多いのです。まさに「自分に正直になれない」人というのは回復の率が低いのです。

人はどんなに好きな相手にも、同時に恨みの感情を持っているものです。そういうアンビバレントな存在なのです。だからこそ、そういう偏った表を書いてきた人には、実は仲間のことを大変恨んでいるということに気づくようなガイダンスをしてあげなければなりません。そうしなければ、その人が自分の本当の姿を見ることができなくなり、回復が難しくなります。また、どんなに恨んでいる相手に対しても、その相手のことを評価し、認めている部分も発見します。

好きであると同時に嫌いでもある。白であると同時に黒でもある。人と人との関係とはそういうものだと納得することが大切なことだと思います。

怒りや恨みは大変強いエネルギーを持った感情であり、大きな被害を受けた人が、恨みを生きるエネルギーに転化している場合もあります。生きるために、恨みのエネルギーしか頼るものがない場合もあります。しかし、見てきたように恨みの感情は自分自身を蝕むものです。最初は頼りになった酒や薬が、やがて自分を蝕みだしたように、蝕まれていることが分かっていても酒や薬がやめられなかったように、頼りになった恨みの感情が、やがては自分を蝕みだし、それでも恨みを手放せなくなってしまうことは多いものです。

光市母子惨殺事件の上告棄却について、被害者の夫の方が記者会見をしていました。最初の頃は、妻と子どもを殺された恨みがこの人の人生を支えていたことは間違いないでしょう。しかし、いつまでも恨みを頼って生きていくことはできません。変わってしまった人生から、また新しい物語を紡いでいくには、別のものが必要です。もちろん、そうした変化は容易なことではなかったでしょうが。

恨みの話をすると、「もう恨みは手放します」と言いだす人がいます。しかしそれができるのだったら、もうずっと前にしていたことでしょう。やはり能動的な何かが必要であり、棚卸しもその一つです。こう考えてみると、回復とはやはり単に酒や薬やギャンブルが止まっていることではなく、人生の転換です。棚卸しの相手をするということは、人生の転換点に立ち会うことですから、そこには感動があります。せっかく転換点に立ち会ったのに、そのままの人生を歩み続けていってしまう人もいます。残念と言うしかありませんが、相手をする側の技量不足という面もあります。


2012年02月21日(火) 伝統破り?

> だからAAにいる私たちは霊的原理に従っている。最初はやむを得ず、そして最終的にはそれに従うことによってもたらされる生きかたが好きだから従っている。
> (『12のステップと12の伝統』p.237)

> AAの回復のステップと伝統は、私たちそれぞれの目的のために必要なおおよその真理を表していると私たちは信じるようになった。ステップや伝統を実践すればするほど好きになる。だからAAの原理が、今あるかたちで護り続けられていくことに疑問の余地はない。
> (『ビルはこう思う』86)

AAの12のステップは、酒をやめた後で人格を磨くために取り組むものである・・というのがありがちな誤解です。12ステップはまさに「酒をやめるため」の手段です。

とりあえず今は酒を飲んでいなかったとしても、再飲酒を繰り返していた頃と考えが何も変わっていなければ、次の再飲酒は遠くない未来にやってくることになります。それでは「酒をやめられた」とは言えません。再飲酒を防ぐためには、変化を起こす必要があり、その変化こそが回復です。12ステップとは必要な種類の変化を起こす手順です。

12のステップの字面を読むと、ずいぶんストイック(禁欲的)なことが書かれていると思われるかも知れません。なんか、反省を強いるような印象があります。確かに、12ステップの作業はあまり楽しいこととは言えず、AAメンバーもついつい「もっと易しい、もっと楽なやり方」、つまり安易な方向へと流れてしまいがちです。だから、AAメンバーでも12ステップをやっていない人がたくさんいます。

しかしステップをやっている人たちは真剣です。なぜなら、なんとか再飲酒をふせいで、生活を立て直し、良い人生を送りたいからです。それに必要な変化を我が身に起こしたいと願うからです。

だから人は最初は「やむを得ず」12ステップに従います。

しかし、やった結果は「酒がやめられる」以上のものです。それは実際にやった経験のある人に聞いてみれば分かります。人生の様々な問題に以前よりずっと上手に対処できるようになり、退屈や疲れやすさもなくなっていきます。人生が楽しめるようになれば、それを手放したくないと思うのが人情です。だから、12ステップをやった人は12ステップが「好きになる」のです。

見かけは不味そうで最初は敬遠しているけれど、勧められて食べてみると美味で好物になる。12ステップもそういう食べ物みたいなものです。

さて、AAの「12の伝統」というのは、そうして(霊的)変化が起きた人たちのグループを、どうやって維持していくかという原理です。そして「12の伝統」についても、12ステップと同じ事が言えます。

それは、12ステップに取り組む前の人にとって、12の伝統は「ルール」に感じられるということです。ルールは外から人を縛るものです。束縛を受けることは誰だって不自由で嫌だと感じますから、12の伝統のことも好きにはなれません。だから、つい自分の考えに任せて、そこから逸脱しようとします。そして「12の伝統はそれほど厳密なものではない」と言い訳をします。

しかし、12のステップによる回復を経た人は、12の伝統の価値も分かるようになります。最初は「やむを得ず」しぶしぶと従っていたのが、「好きになる」というのもステップと同じです。自分が価値を認めるもの(12の伝統)から、わざわざ逸脱したいとは思いません。

伝統に共感できず、それを不都合な制約と感じるのは、ステップによる回復を経ていないからです。だから12の伝統に対する態度は、その人の回復をみきわめるリトマス試験紙になります。12ステップで回復したのに12の伝統を尊重しない人はいません。尊重していないのなら、その人は回復していないのです。そういう人に「伝統を守れよ」と圧力をかけてみても、その人は理不尽な押しつけを受けたとしか感じられないでしょう。それよりも、12ステップをやったほうが良いよ、というアドバイスのほうが適切です。

12ステップの効果が出ているかどうかは、その人が12の伝統やアノニミティ(無名性)を尊重しているかどうかで推し量ることができます。


2012年02月16日(木) またまたDSM-5

NHKスペシャル「ここまで来たうつ病治療」は、やはり残念な番組だったようですね。見てないので、あちこちのブログの評判から判断しているだけですけど。TMS(経頭蓋磁気刺激)の素晴らしさみたいな話は聞きますが、じゃあなんで今までECT(電気痙攣療法)が避けられてきたのかっていう話は出て来なかったのでしょう。

以前「リサーチ200X」っていう、一見科学的でありながら「そんなわきゃねーだろ」とツッコミを入れながら見るのが楽しみという番組がありましたが、最近のNスペもそういう路線ですか?

さて、DSM-5への改訂作業は1999年から始まっているそうですが、ようやくホームストレッチにさしかかったようです。

DSMについて簡単に説明しておくと、アメリカ精神医学会(APA)の定めている、「精神疾患の分類と診断の手引(Diagnostic and Statistical Manual)」のことで、精神医学の診断バイブルとも呼ばれています。現在使われているのはその第4版改訂版(DSM-IV-TR)です。DSMの変更はアメリカ国内のことですが、やがて日本にも影響が及んでくることは間違いありません。

雑記でもDSM-5については何度か言及しています。
DSM-5ドラフト
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100224

ドラフトに対しては、いろいろな反応があるようです。まず発達障害関係では、自閉症・アスペルガー症候群・PDDNOSなどが「自閉症スペクトラム障害(ASD)」に統合されることになっていますが、合わせて行われる診断基準の変更によって、多くの人たちが該当しなくなるという指摘があります。

DSM-5:自閉症の多くが診断クライテリアから外れる可能性
http://kaigyoi.blogspot.com/2012/01/dsm-v.html

[自閉症]DSM-5:自閉症スペクトラム障害の診断基準変更に伴うインパクトに関する報道について
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20120122

自閉症の範囲が狭くなると、グレーゾーンの人たちが健常だと判断されることになり、必要な福祉サービスや支援を受けられなくなる、という問題があります。

自閉症の線引きを縮小したほうが、国の負担が減ったりとか、あるいは以前に書いたようにADHDへ患者を振り向けてADHDの治療薬を売りたい製薬会社や、支払額を減らしたい保険会社の思惑があったりする・・のかもしれません。

依存症関係では、DSM-IVで「物質関連障害」と呼ばれていたものが、ドラフトでは「嗜癖およびその関連障害」という表現に変わり、「依存」という言葉は捨てられています。

以前、依存とは離脱症状のことだと書きました。しかし乱用薬物の中には離脱症状のハッキリしないものがあって、依存を頼りに診断するのは不適切です。またまた頭痛薬や胃薬や花粉症の薬にも離脱症状があって、それはアディクションとは言えません。結局依存というのはアディクションを表現するのに適切な言葉ではなかった、という反省があります。(さらには、アディクションの対象が物質以外にまで広がるに当たって、人が何かに「依存すること」そのものが悪だという誤解まで生じてしまいました)。

さらにドラフトがチャレンジングだったのは、対象をアルコールや薬物に限らず、ギャンブルを含めたことです。ギャンブルは「病的賭博」として衝動制御障害の中に入っていたのを移動させました。さらにインターネット嗜癖とセックス嗜癖をAppendixに置きました。

これは物質使用(アルコールとその他薬物)とそれ以外のアディクションの間にあった垣根を取り払い、アディクションとして一つの分野に統合しようという、とても意欲的な取り組みでした。しかし、パブリック・コメントを受けて、病的ギャンブルは元の衝動制御障害に戻っています。統合は頓挫した形です。

最近は日本でも、ギャンブル・買い物・セックス・ネット・食べ物などのグループも増えてきました。そういう人たちと付き合ってみると、たしかにアルコールや薬物と同じアディクションが成り立っている人もいますが、別のアプローチのほうが効きそうだという人も少なくありません。安易なアディクション概念の拡大は慎んだほうが良いと思います。

DSM-5はこの春に最終ドラフトが発表され、2ヶ月間のコメント受付期間があり、それを受けて最後の修正が行われ、来年早々に採択される予定です。医者ではないので特別な関心を持っているわけではなく、しかも二次情報の後追いばかりですが、当事者活動にもいずれ影響は及んでくると思います。


2012年02月14日(火) 受容と承認

心理学や哲学は、人間の欲望を解明しようとしてきました。フロイトの性欲説、マズローの欲求段階説、アドラーの優越追求説、ロジャーズの自己実現と承認欲求の対立。いずれも、人間の欲求を構造化することで把握し理解しようとする試みです。

『12のステップの12の伝統』のステップ4では、人間の欲求を、共存本能・安全本能・性本能の3分野に分類するという独自の構造化が行われています。

共存本能の例としてあげられているのが「仲間作りの欲求(companionship)」です。これは人の集団に所属したい、仲間として受け入れられ、価値ある存在として認められたいという欲望です。マズローの欲求段階説で言えば、第3段階の所属と愛の欲求・第4段階の承認の欲求にあたるのでしょうか。

12ステップでは人間の本能(欲求)を「神から与えられた善いもの」として必要なものであり、どれが良いもので、どれが悪いという扱いはしていません。ただ、いずれかの本能(欲求)が暴走すると、自分の持つ他の欲求を抑圧したり、同じように欲求を抱えた他者との衝突を招きます。そうした偏りを招くのが、私たちの持っている欠点だとしています。

ついでに言うと、そうした欠点が首尾良く取り除かれれば、自分の中の様々な欲求を、同じような他者との関係を見極めつつ、バランス良く充足させて生きていくことが人にはできる・・という性善説というか、楽天性が12ステップにはあります。そうした楽天性は、親に存分に愛されて育った人が持っている楽天性に通じるものだと思います。ほら、そういう人って、心にぽっかり穴が開いた人間から見ると鼻持ちならないほどの自己効力感の持ち主だったりするじゃないですか。でもそうした楽天性を持っていたほうが、逆境に強く、自分の能力を発揮して生きていけるように思います。

で、所属と承認欲求の話に戻ります。普段この雑記にはスポンシーだとか僕の身近な人々のことは書きません。それは書いて欲しくないだろうと思うからです(どうせロクでもないことしか書かないし)。でも、たまには書いてしまいます(もちろん気を使いながら)。

ずいぶん前になりますが、AAスポンシーが「僕はホームグループのみんなに受け入れられているのでしょうか?」と尋ねてきたことがありました。「受け入れられているか?」という質問は、裏返せば「受け入れられていないように感じる」とか、「受け入れられていないような気がして不安だ」という意味でしょう。一緒にいてもなんとなく疎外感を味わっているとでも言いましょうか。集団の中の孤独感。

じゃあ、彼がこう言っているんだけど、とグループの他のメンバーに伝えたとしたら、みんなは首を横に激しくふるでしょう。受け入れてないなんてとんでもない! 存分に仲間扱いしているじゃないかと。もし彼がASD(具体的にはアスペルガー症候群)だということを皆が知っていなかったら、中には「言いがかり」だと言って怒り出す人もいるかもしれません。いないけど。

どうしてこのようなギャップが生じてしまうのか。きっとそれも発達障害の特性ゆえではないかと思います。

自閉の三要素は、想像力の障害・コミュニケーションの障害・社会性の障害です。社会性の障害は、前者二つの障害の結果だとされます。よく「空気が読めない」と表現されるのは、想像力の障害にカテゴライズされます。そして、先ほどの、十分に受け入れられているのに、受け入れられていないと感じるのは、このKY特性ゆえではないかと、僕は捉えています。

人間同士のコミュニケーションには、非言語的なメッセージもたくさん使われています。その中には、「あなたは私たちの仲間ですよ」「受け入れていますよ」というメッセージを、表情や身体的な所作で表現することも含まれています。(逆に邪魔だからとっとと出て行けという非言語的メッセージが発せられる場合ももちろんある)。

グループの仲間、あるいは職場の同僚や、家族。そうした自分を囲む人たちが、「私はあなたを受け入れています」というメッセージを発していたとしても、そのメッセージを受け取ることが苦手であれば、受け入れられていることが実感できず、疎外感すら感じてしまうでしょう。その苦手さに発達障害の特性が絡んでいるだろうという話です。

よく「自分の意見が否定されたとしても、自分という存在が否定されたわけじゃない」と言います。意見を否定されることと、所属と承認を拒否されることは違うということです。しかし、意見が言語的コミュニケーションで否定されつつ、同時に所属と承認が非言語的に伝えられるとしたら、自閉圏の人たちはどう受け取ってしまうでしょうか。意見を否定された以上、自分という存在はここでは望まれていないのだ、と捉えてしまうことが十分あり得るでしょう。

「仲間作りの欲求(companionship)」というのは、とても強いものです。しかし自閉圏の人は、その欲求を満たそうとする努力に見合っただけの成果を受け取れない(受け取っているのに感じられない)という困難を抱えているのではないか、というコンセプトです。

感度が鈍いんだったら、強く刺激すりゃいい、っていう考え方もあります。AAグループの中にも、大変真面目で、なおかつホモソーシャルな雰囲気のところもあります。妙に体育会系のノリだとか。そんな風に文化を単一化すれば、それに合わせることができる人は、所属と承認を十分に感じることで安心感を得られます。ある依存症施設では、「愛」や「仲間」という単語が使われ、ハグをして仲間意識を高めあっています。アイコン的単語を繰り返し、ハグというオーバーアクションの分かりやすい所作によって、疎外感を取り除く努力とでも言いましょうか。なるほど、そういうやり方もあるのか、と納得です。

じゃあ、ひいらぎ、お前はなぜそういう戦略を取らないのだ、と言われるかも知れません。

ホームグラウンドに戻ればいつでも仲間が分かりやすく受容してくれる、ってのは素晴らしいことに違いありません。けれど人はそこだけで生きているわけではなく、ふつーのメッセージが飛び交う世間の中で生きていかなければなりません。たとえ感じられる受容と承認のシグナルがか細くても、確かに自分は受け入れられているという確信を持って進んで欲しいと思うからです。その為には、人は誰でも基本的には信頼できる、という人間存在に対する根源的な信頼を身につけて欲しいし、その為に12ステップは有効だと思うからです。つまり環境を変えるばかりではなく、本人が変わって欲しいわけです。(ま、だいたいAAはハグの文化じゃなくて、握手の文化だしね)。

受容と承認のメッセージは、おそらく親から子に向けられて発せられるものが最も強いのだと思います。「私は親から愛されなかった」という人は、それがアダルト・チルドレンとしての自覚につながっていることがしばしばあるのですが、その「愛されなかった」というのは果たして本当だろうか、と僕は疑いを持ちます。客観的に見れば、存分に愛されていることもしばしばだからです。となると、親が発するシグナルの絶対量が不足していた可能性ばかりでなく、子どもの側が信号を受け取る能力が弱い可能性にも目を配らなければならなくなってきます。

いずれにせよ、受容と承認は人間にとって大事な欲求だということでありましょう。


2012年02月09日(木) 情報メディアと人間の不安

毎年年末には「心の家路」のWebalizerのデータをまとめているのですが、昨年末は忙しくて手が回らなかったので、今頃になってまとめです。

2011年一年間の統計データ
送出バイト数 54.6Gbytes
訪問者数 63万2千
リクエストページ数 298万
リクエストファイル数 445万
リクエスト数 510万

一日あたりの訪問者数は、以前は2,000人/日ぐらいだったのですが、昨年は1,700人/日ぐらいまで落ちています。日々雑記の更新頻度がすっかり落ちてしまったのと、FC2ブログに同じ内容を載せているので、そちらを見ている人はカウント数に入ってないことも影響しているのでしょう(スマホから見るのであればFC2のほうが見やすいし)。

ただ今年に入って少し増えて、また2,000人/日ぐらいに戻っています(謎)。

(人/日といっても、検索エンジンのロボットも含まれており、実際の人間を数えているわけではないので、それは割り引いて考えてください)

さて、話題を変えて。昨年3月11日以降、多くの人が感じたことのひとつは「マスメディアへの失望」ではないでしょうか。政府や電力会社が情報を隠蔽しているのではないか、そして新聞・テレビ・ラジオなどのマスメディアは、その隠蔽に加担しているのではないか、という疑いが生まれました。いわば、メディアの公平性への失望でしょうか。

多くの人たちが見落としているのは、新聞であれ、テレビであれ、企業が運営しているということです。営利である限り、売り上げが必要です。毎年8月15日になると戦争反対の論陣を張る新聞ですら、第二次大戦中には翼賛体制の中に組み込まれていました。百人、千人単位の雇用や、会社やメディアの存続を考えたとき、それ以外に選択肢はありませんでした。

新聞は購読料だけでは成り立たないので広告主が必要です。ましてテレビ・ラジオの民放ともなれば、収入の大部分を広告料が占めます。メディア各社にとって「大事なお客様」とは購読者・視聴者ではなく、広告主です。コンテンツに広告主の意向に従ったバイアスがかかるのは当然のことです。

では民間企業ではない国営メディアはどうかといえば、当然政府の介入があります。

純粋に購読料や視聴料だけで成り立っているメディアがあれば、もっと公平性が担保されるかもしれません。しかし、ニュース専門チャンネルの加入数が伸びないところを見ると、どうやら人々は公平性に金を払うだけの価値を認めていない、ということになります。

フィルターのかかっていない情報が見たければ、2ちゃんねるやTwitterがあります。ただし、そこにある情報は玉石混淆で、真偽は受け取る側が判断しなければなりません。基本的な情報リテラシを養う教育も施されない中で、人々に自己責任ばかり求めるのは酷だと感じます。

反原発デモがニュースに取り上げられないことを、酷い話だと言った人がいましたが、公平性を期待すること自体が間違っているという視点は持っていないようでした。そもそも公平性とは何か。反原発デモがニュースに取り上げられないと言っていた人も、某宗教系政党が行った人数がより多いデモがメディア各社にまったく無視されたことには憤りを感じないだろうと思います。

そもそも、人はフィルターのかかっていない情報に価値を認めていない側面があります。最もフィルターの少ない報道として挙げられるのが、NHKの国会中継です。あれはフィルターやバイアスが皆無とは言いませんが、他の番組に比べれば格段に少ない。しかし、国会中継の放送が面白くて、好きで好きでたまらないという人にはお目にかかったことがありません。

人々はフィルターを経てバイアスがかかった情報を欲しがっています。ただ、そのバイアスのかかり方が自分好みであるかどうかが気になります。だから昨年起きたことは、大手メディアの信頼性への失望ではなく、大手メディアが自分の好みのバイアスがかかった情報を提供してくれない事への失望だったと言い換えることができます。

3月原発事故以降、放射線関係の書籍の売り上げが大幅に伸びました。それはビジネスチャンスでした。ところが、出版関係の人のブログによれば、そのブームも夏には沈静化してしまったそうです。人々の関心の移ろいは早いものです。しかし、来月は事故の一周年にあたります。再びビジネスチャンス到来です。おそらく皆さん商売に精を出されることでしょう。商売はそんなに悪いことではないと思うのです。

ここで「そんなに」悪いことではない、と限定を付けたのは、実は結構悪いことも起きるからです。

いまの日本はモノがあふれており、そんな中で商売をするには、人々の不安を煽るに限ります。つまり、髪の毛が薄くなるのは良くありませんよ、と不安を煽れば、育毛剤やカツラが売れます。インポテンツが良くないと不安を煽ればバイアグラが売れます。結婚できないのは良くないと不安を煽れば、婚活産業が流行ります。ほら、これを手に入れないあなたは不幸です。不幸であることも知らないなんて、可哀想なあなた・・、というメッセージであふれています。原発事故や放射線関係の出版や放送も、この不安を煽るという手法にうまくマッチしています。

解消できない不安は、精神に対しても、肉体に対しても、健康を害することが知られています。「ヤマアラシのジレンマ」のブログの方に二つほどあげておきましたが、実はチェルノブイリの原発事故では、放射性物質による外部被曝・内部被曝による健康被害よりも、放射線による健康被害が強調されるあまり人々が不安に陥った事による被害のほうが深刻だった、という見積もりがあります。

福島の事故ではどうかは後年の検証を待たねばなりませんが、原発事故がもたらした被害より、人々の不安を煽る情報が流布した事による健康被害のほうが大きくなると予測します。というのも、チェルノブイリの時代よりも情報メディアが発達し、人々が不安な情報に触れる機会が増えているからです。(もちろん個々の例でいえば、直接被害のほうが大きい例はたくさんあるでしょうが、全体としての話)。

東京電力は商売の上で健康被害をもたらしたことで激しく非難されています。それは非難されて当然です。しかし、同じく大きく健康被害をもたらしている商売が非難されることはありません。(善意において不安情報を拡大している人たちはどうか)。

パソコンが誕生し、インターネットや携帯電話、FacebookやTwitterとメディアは進歩を続けてきました。しかし、メディアが人間にもたらす混乱は、僕が30年近く前に大学で情報について学んでいた時代とまったく変わっていません。なぜなら、メディアは変わろうとも、人間はちっとも変わっていないからです。おそらく、千年後も(人類が滅亡していなければ)変わらないでしょう。

メディアの問題なのではなく、それに接する人間の側の問題なのです。つまり自分の問題というわけですが、多くの人はそれを自分の問題として捉えていません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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