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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年08月27日(月) AAの共同体とは(その3) 自助グループというのは、「同じ問題」を抱えた人の集まりだとされます。問題はアディクションに限らず、SAD(社会不安障害)のグループには赤面症・あがり症・対人恐怖の人が集まりますし、自死遺族会には自殺で家族を失った人が集まります。
自助グループの始祖はAAであると紹介されることがあります。この情報は誤りです。少なくとも、AA以前にも多くのグループが存在しました。ただ、そうした先駆者はAAのように長続きすることがなかったため、存在が忘れ去られました。そうしたグループには、同じアルコールの問題を抱えた人たちが集まっていましたが、メンバーに共通する解決方法を持たなかったり、あるいは解決の方法が有効でなかったために、消えていきました。
AAが生き残ったのは、先達の欠点を克服したからです。AAの革新には様々な側面があり、その全てをここで紹介するのは省きますが、「共通の解決方法」を導入したのは大きな革新でした。
自助グループの要件が「同じ問題」を抱える人の集まりであるならば、解決方法は会員それぞれに違っていて構いません。アルコール依存症の人の自助グループであれば、ある人はノンアルコールビールを代替に飲んで酒をやめ、別の人は山に登ってストレス解消をし、会員が集まる会合(ミーティング)では、それぞれに違った解決方法が紹介される・・という進め方でも構わないことになります。
しかし、AAはそういうグループではないと明確にされています。再掲します。
「同じ苦しみを味わったということは、私たちを結び合わせる強力な接着剤の一つではあるが、それだけでは、いまの私たちのようには決してなれなかっただろう」
「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」
この共通の解決方法は12ステップのことです。だから、当然私たちAAのミーティングでは12ステップについて分かち合うことが必要になってきます。
AAメンバー一人ひとりの酒のやめ方が異なっていても良いのではないか? という疑問も出るかも知れません。しかし、AA以前の様々なグループが消えていったのは、彼らが有効な「共通の解決方法」を持っていなかったからだということを思い出していただきたい。AA以後にも、様々なアルコールのグループが誕生しましたが、世界的に見れば、存続期間・メンバー数の点で、AAほど成功しているグループは他にはありません。
日本以外の国では多くのメンバーを獲得しているAAなのに、なぜ日本にはわずか四千人か五千人のAAメンバーしかいないのか、という疑問を持った人もいるでしょう。いろいろな理由を考える人がいますが、僕は「共通の解決方法」がミーティングで分かち合われていないことが最大の原因だと思います。
現実のAA(少なくとも日本のAA)のミーティングは、AAという本(ビッグブック)に書かれた内容とはずいぶん違ってしまっています。ミーティングは12ステップによる「解決方法」の分かち合いから離れてしまっています。
良く批判されるのが、AAミーティングで(心の)「荷物を降ろす」ことや、「感情のゴミ捨て場にする」ことです。これは簡単に言うと、ミーティング場でグチをこぼしてばかりいることです。
酒を止めたばかりのアルコホーリクは、情緒不安定な状態です。これはアルコールの影響が脳から消えるのには何年もかかるので仕方ない面もあります。普通の人に取ってみれば何でもない出来事が、酒を止めたアルコホーリクにとっては大きなストレスになることがあります。
例えば、職場で上司にちょっと叱責されたとか、家族が自分の意見を聞いてくれなかったとか、自分より後で酒を止めたヤツが自分より褒められているとか・・、ありがちな話ばかりですが、それが酒を止めたアルコホーリクを妙に腹立たしい気分にさせてくれます。
人は自分の傷ついた感情や、腹立たしい気分を言葉にして、誰かに聞いてもらうことで、ホッと楽な気分になることができます。共感してもらえる。共感はしてもらえなくても理解はしてもらえる。そのことが人の精神的な安定に寄与します。
これはアルコホーリクだけでない、おそらく誰でもやっていることです。グチを聞いてくれる相手がいるのは幸せなことです。配偶者を失った人が淋しさを感じるのは、グチの聞き手がいないことに気づいた時だとも聞きます。
グチというものは、なにかのトラブルを、自分以外の誰かの責任にしたり、悪口を言ったりするものですから、あまり健全なものとは言えません。しかし、人間というのは100%健全にはなれませんから、必要なものなのかも知れません。
ただ、AAミーティングでそうしたグチを展開して良いものなのでしょうか。12ステップは、他者の落ち度ではなく、自分の落ち度を追求することによってトラブルを乗り越えていく手段です。だから、グチばっかりの話はAAミーティングには相応しくないと言えます。
ただ「ビギナーは仕方ない」と言われます。AAではビギナーはあらゆる点で多目に見てもらえます。ともかく彼らは酒を止め続ける必要があり、そのために、ミーティング場でグチをこぼして「心が楽に」なるなら、それもオッケーだろう、というわけです。
しかし、何ヶ月も何年も経てば、ミーティングで「心の荷物を降ろして楽になる」以上の事が求められます。自分を変えていくことが必要になります。
自分の話を黙って聞いてもらえることは、幸せなことです。酒を飲み続けているアルコホーリックは、トラブルばかり起こすし、恨みがましくなっていますから、徐々に人間関係を失い、クチを開けば逆に叱られるような関係ばかりが残っています。それが、自分の中のネガティブな感情を言葉に出しても、責められるわけでもなく受け止めてもらえる。これはビギナーには大きな安堵とカタルシスを与えます。
ただ、この種のカタルシスは、ミーティングへの出席を続けるうちに徐々に薄れていきます。古いメンバー達の関心もより新しいメンバーに移っていきます。2〜3年もすればその人はマンネリ化し、ミーティングに魅力を感じなくなり、グループから離れていきます。もっと早く離れる人もいます。
AAから離れても、すぐに酒を飲むわけではありません。多くの人は、数ヶ月か数年、あるいはもっと長く酒をやめ続けたあげくに、例の強迫観念によって最初の一杯を飲み、やがて飲んだくれに戻ります。その人は、過去に通ったAAのことを思い出すかもしれません。しかし、同時にこうも考えます。
「AAは私には効果がなかった」
この言葉を聞けば、真面目にやっているAAメンバーは怒るかも知れません。AAプログラム(12ステップ)を試すことなくAAを去ったのに、それに効果がないと言うなんて!
けれどその人を責めるにはあたりません。悪いのはAAのほうです。せっかくその人がAAに何ヶ月か何年か通っていたのに、その間にAAプログラム(12ステップ)に触れ、取り組むチャンスを提供できなかった責任がAAにあります。
なぜミーティングで共通の解決方法(12ステップ)の話をしなければならないのか? 新しい人を助けるため。AAをつぶさないためです。なぜ日本のAAはメンバーが増えないのか? それは、12ステップに取り組むことなくAAを離れる人が多く、AAが能書き通りの効果を発揮できていないからです。
日本のAAは二人のメンバーによって始まりました。その一人、ミニー神父の言葉にこんなものがあります。
「回復を望む人には、そのチャンスが与えられるべきだ」
日本のAAは、回復を望む人にそのチャンスを提供できなくなっているのではないか? 創始メンバーの理念が失われているのではないか、と危惧しています。
(さらに続くよ)
2012年08月20日(月) AAの共同体とは(その2) 前回の雑記では、アルコホーリックが集まる共同体の中から12ステップが生まれたのではなく、まず最初に12ステップ(の原型)が存在し、それを広めるためにAA共同体が誕生したという話をしました。ビッグブックのあちこちを参照しながら、ビル・Wの元に12ステップのパーツが揃っていく様をたどってみました。
では、ドクター・ボブはどうだったのでしょう。
彼の回復の物語は、ビッグブックの個人の物語のパートに『ドクター・ボブの悪夢』として掲載されています。そこにはビルとの出会いも書かれています。
実はドクター・ボブは、ビルと出会うより前に、オックスフォード・グループに参加していました。p.250には、彼が「ビールなら飲んでも大丈夫という実験」を繰り返している頃に、「見るからに落ち着いて、健康で、幸せそうに見える人たちのところ」に顔を出している記述があります。その集団は「何かしら霊的なこと」だと分かり、興味を持ったのですが、酒は止められませんでした。この集団がオックスフォード・グループです。
彼はその後の2年半オックスフォード・グループの原理を研究することで、ステップ3以降(相当部分)には相当通じていたでしょう。おそらくはステップ2についても同様だと思われます。つまりドクター・ボブは3つのパーツのうち、2つは手にしていました。彼は何度もこの手段を使っては失敗を繰り返していました(p.xxi(21))。
だが、残る一つのパーツ(ステップ1)を手に入れていませんでした。彼は自身が医者であったにもかかわらず、自分の病気についてはその本質を知らなかったのです。
そこへビルがやってきて、医者に対して「あなたの病気は・・・」と説明しました。それはp.251〜253に書かれています。そのおかげで、彼は「前には決して奮い起こせなかった意欲」を持って、オックスフォード・グループの原理を実践することができ、回復したのでした。これについては「再版にあたって」に書かれています。
その後、このアル中の集団がオックスフォード・グループから独立するのにはまだ数年かかるのですが、それは別の話にしましょう。
ビルもボブも、3つのパーツ(12ステップ全体)がすべて揃うことによって回復することができました。ここが大事なポイントです。
エビーがビルに伝えたことも、ビルがドクター・ボブに伝えたことも、12ステップをやった自分の体験でした。
AAは自助(セルフヘルプ)グループだと言われます。自助グループとは何か? 同じような苦しみや悲しみを経験したり、問題を抱えている人が、おたがいを理解し、助け合って問題を解決していくグループだとされます。
自助グループの要件が「同じ問題を抱える人」だとするならば、AAも自助グループに違いありません。
しかし、AAは同じ問題を分かち合うだけではありません。ビッグブックのp.26〜27には、こう書かれています。
「同じ苦しみを味わったということは、私たちを結び合わせる強力な接着剤の一つではあるが、それだけでは、いまの私たちのようには決してなれなかっただろう」
同じアルコホリズム(アルコール依存症)という苦しみを抱えた人が集まってもAAにはなりません。依存症者どうしの出会いは、現在の日本でもたくさん起きています。もし、アル中同志が出会うだけでAAが誕生するなら、日本の精神科病棟やデイケアで山ほどAAが生まれ、今ごろ日本はAAだらけになっているはずです。でも、そうはなっていません。それはなぜなのか?
「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」
ここでいう共通の解決方法とは12ステップのことです。つまりAAは、皆がアルコールという同じ問題を抱えるばかりではなく、皆が同じ解決方法(12ステップ)を使う集まりだということです。アル中同志が出会っても、そこに12ステップがなければ、決してAAたりえないということです。
ところが、現実のAA(少なくとも日本のAA)のミーティングは、この12ステップによる「解決方法」の分かち合いから離れてしまっています。
(続きます)
2012年08月16日(木) AAの共同体とは(その1) AAの12のステップは、3つのルーツを持っています。「12ステップは3つのパーツから成り立っている」と言ってもかまいません。
その最初の一つは「ステップ1」です。これについては、ビッグブックの「医師の意見」の章に詳述されています。
ドクター・ボブとの出会いの2年前、1933年にビル・Wはチャールズ・B・タウンズ病院に入院し、シルクワース医師からアルコホリズムの本質について教えられます。その場面は、第一章「ビルの物語」のp.10あたりに書かれています。
そこに出てくる「全米でも名の知れた病院」とはタウンズ病院のこと、「親切な医者」はシルクワース医師のことを指しています。医師がビルに教えたことと同じことが「医師の意見」の章に書かれています。
ただし、ステップ1だけを把握しただけではビルの酒は止まらず、彼はこの病院にその後さらに3回入退院を繰り返します。
さて、この出会いよりしばらく前、ローランド・ハザードという人物が、チューリヒでカール・ユング医師の治療を受けていました。ローランドは、ロードアイランド州でも屈指の裕福な家に生まれ、この当時は銀行を経営していました。
彼はお金持ちだったので治療にはいくらでも金をつぎ込めたのですが、酒を止めることはできなかったため、ヨーロッパに渡ってユング博士の治療を受け、治ったものと信じてアメリカに帰国しました。しかし、再飲酒してしまったのです。
ふたたびユング博士のもとを訪れたローランドは、なぜ自分が酒を止められないのか尋ねました。ユングの答えは、尽くすべき手だてはすべて尽くしたこと、見込みがあるとすれば、それは「霊的な体験」による人格の変化しかない、と彼を突き放します。この下りはビッグブックの第二章、p39〜42に詳しく書かれています。
ローランドはユングの勧めに従い、イギリスのオックスフォード・グループに参加し、帰国後アメリカのオックスフォード・グループで、カルバリー伝道所のサミュエル・シューメイカー師へとつながります。
このアルコホリズムの解決には霊的体験が必要である、というのがステップ2の主旨であり、それはユング博士から、ひとまずローランドに伝えられました。
オックスフォード・グループはルター派の牧師フランク・C・ブックマンが始めた霊的運動でした。20世紀のこの時期、アメリカでは非常に勢いがあったそうで、多くの人が参加していました。ただし、これはアルコホーリクのためのグループではなく、この世に生じる問題は、各人が霊的な変容を遂げることによって解決できると信じる人たちの集団でした。
オックスフォード・グループの原理を、アルコホーリク向けに整理したのはシューメイカー師でした。彼はこれを6つのステップに集約しました。その2〜6番目が、現在のAAの12ステップのステップ3〜12に相当します。
ローランドは、学生時代の友人エビー・サッチャーが飲んだくれているという噂を聞き、オックスフォード・グループの原理のひとつ(人を手助けする)に従ってエビーを訪れ、彼が酔っぱらって銃を撃った罪で投獄されそうだったところを助け出します。
ローランドと同じように、オックスフォード・グループで酒をやめたエビーは、学生時代の友人ビル・Wが飲んだくれているという噂を聞きます。そして、1934年11月、ビルを訪問し、キッチンで彼に酒をどうやって止めたかを説明しました。その内容は、アルコホリズムからの回復には霊的体験が必要なこと(ステップ2に相当)、そしてエビーがそれを得るために何をしたか(ステップ3〜12に相当)でした。この部分は、ビッグブックの第一章、p.13〜19に書かれています。
ビルはその話を聞かされてムカついたものの、結局自分が助かるためにはそれしかないだろうと受け入れ、タウンズ病院に最後の入院をして酒を切り、入院中にエビーの手助けでステップ3〜11に取り組み、回復しました。この下りはp.19〜21にあります。
ここまでを振り返ってみると、ビルは3つのパーツを全て手にした最初の人物でした。ステップ1はシルクワース博士から、ステップ2はユング博士からローランドとエビーを経由して、そしてステップ3以降はオックスフォード・グループから。
ビル・Wは12ステップ(の原型)を手にし、それを実践することによって回復しました。彼の霊的体験はp.21にはっきりと書かれています。そして、ビルは半年後にドクター・ボブと出会い、12ステップを伝えることで、AA共同体が誕生しました。
ここで強調したいのは、まず12ステップがあり、それを伝えるために仲間の共同体が生まれたということです。逆の順番ではありません。
○12ステップ→グループ(共同体)の順
×グループ(共同体)→12ステップの順
アルコホーリクが集まって、自分の体験を語り合って、その中から12ステップが誕生したのではありません。まず12ステップが存在し、それを伝えるためにアルコホーリクが集まった・・それがAAです。
(当然、続きます)
2012年08月05日(日) ステップQ&A: 全部 vs. 基本的に 重箱の隅を突くような話ですが、テクニカルな話は意外と人気があるので書いてみます。
ビッグブックの90ページに、こんな文章があります。ステップ3のところです。
「私たちの問題は実は全部自分で招いた結果なのである。私たちが自分で問題を起こしたのだ」
私たちは何かトラブルが起こると、相手が悪いとばかり思ってきたが、そうではない自分が悪いのだよ・・と言っているわけです。それも「全部」。何もかも、自分が悪いというのであります。
さらには、ステップ4のところで(p.98)、人のことはさておき、自分の過ちだけを見つめるとあります。「何もかもが自分だけのせいでそうなったのではないにしても、他人をまったく抜きにして考えてみる」とあります。
「全部自分が悪いのだ」と言われると、人は反発するもののようで、「いや、自分にまったく落ち度がない場合だってあるだろう」という議論になったりします。
この「全部自分で招いた結果」という部分の原文は basically of our own making です。ベーシカリィは「基本的に」だから、例外的なことだってあり得るわけで、「全部自分で招いた」というのは誤訳であると主張する人もいます。
今年の3月にジョー・マキューの弟子にして後継者のラリー氏が来たときに、この疑問をぶつけた人がいました。ラリーさんの答えは「<全部>という翻訳で正しいだろう」というものでした。
そう、全部なのです。字義的な意味では正確ではないかもしれませんが、ビッグブックの著者らの言いたいことを正確に捉えた翻訳になっていると思います。
でも、納得できないという人もいるでしょうから、すこし説明を加えてみます。
こういう話は極端な例を挙げた方が分かりやすいので、棚卸し表を書いているアルコホーリックが、子供の頃に大人から虐待を受けたり、性被害を被ったというケースを扱うとします。こういう場合に子供の側が悪かったということはあり得ません。なぜなら、子供の安全を確保するのは大人の責任だからです。
ほら、被害を受けた側は悪くないじゃないか。例外だ!
けれど、12ステップの棚卸しで扱うのは「恨み」という事柄です。ここで、恨みの性質についての話をしなければなりません。これはほぼジョー・アンド・チャーリーからの受け売りですが。
日常生活の中で「怒り」を感じることがあるでしょう。腹をたてて当然のことがあります。これはアルコホーリクであろうが、普通の人であろうが変わりありません。けれど、普通の人は、その時は腹を立てても、いつまでもそれに囚われておらずに、自分のいつもどおりの穏やかな生活に戻っていきます。
けれどアルコホーリクは違います。その時だけでなく、もっと後になってからでも、原因を作った相手のことを思い出すたびに、怒りの感情が再燃します。頭の中では、怒りを感じた場面を再現されています。それはまるでテレビのスポーツ番組で、リプレイのビデオが何度も繰り返されるようです。ビデオと違うのは、思い出すたびに、自分に都合が良く、相手を悪者にするように改変されていくことです。
せっかく良い気分で過ごしている時でも、恨んでいる相手が部屋に入ってきたり、原因となったことを思い出しただけで、私たちは腹立たしい気分を再現してしまいます。その気分は私たちの行動を支配します。つまり、私たちは恨むことで、相手に支配されてしまうのです。自由に生きたければ、恨みを手放すしかありません。
このように、何かが起きたときの怒りの感情と、あとになって繰り返し再現される恨みの感情を、分けて考える必要があります。
何かが起きたとき、自分にはまったく落ち度がない場合もあります。けれど、後になって何度も恨みを再現しているのは自分自身であり、もうその時は相手は関係ありません。相手の問題ではなく自分の問題になっているのですから、相手のことはさておき、自分の過ちだけを見つめることが出来ます。
では、子供時代の虐待や性被害の話に戻りましょう。その子供時代の被害について、自分の落ち度を追求するのはフェアじゃありません。でも、棚卸し表を書いているのは大人になった人です。大人として現在の自分の行動に責任を持つ必要があります。
子供時代の被害はたいていトラウマ(心的外傷)になっているもので、それがPTSDを引き起こしています。(PTSDの解離による場面の再現と、前述の恨みの再現は、区別した方が良いと思います。両者は地続きなのかもしれませんが、ここでは分けて考えた方が良いと思います)。恨みの表にこれを書く人は、PTSDを未治療のままにしているのがほとんどです。
なぜ治療しないのか。その理由の一つは、単に治療可能であることを知らない場合です。治らないと思っているケースです。さらに、別の理由として、自分が治療をしなければならないことに対して、腹立たしく思っているから、つまり恨みです。
こんなケースを考えてみてください。駐車場にとめておいた車に戻ってみたら、窓ガラスが割られ、中の荷物が盗まれていました。この場合、車を駐めておいたあなたに落ち度はなく、車上荒らしが悪いのです。けれど、あなたはやるべきことはやらねばなりません。警察に届け、車を修理し、必要なら保険の請求をするのはあなたです。
それを、「私には何も落ち度はないから、何もしなくて良いはずだし、元の状態の車を受け取る権利がある」と言って、何もしなかったら、車は壊れたままです。後で犯人が捕まれば、修理費や慰謝料を請求できるかも知れませんが、とりあえず車は修理しないといけません。それは自分がやるのです。
同じように、トラウマを抱えた人は、自分に落ち度がないからという理由で、自分を治す行動を取らず、壊れたままにしておく人が珍しくありません。そうして、援助を受ける機会があったとしても、それを拒み続けます。その原因は恨みです。アルコホーリクは助けづらい人たち(援助希求能力が低い人たち)だと言われますが、恨みは、他人も自分も信じなくさせ、援助を拒ませています。
12ステップはPTSDそのものにはあまり効果がないようですが、恨みの棚卸しがきちんとできた人は、(PTSDを含む)他の様々な問題の解決のために、必要な行動を取るようになっていきます。援助を求める能力を取り戻していきます。
日本にはPTSDの専門家はまだ少ないので、近くには見つからないかも知れません。けれど、近くにないからと諦めてしまってはもったいない。もしガンにかかったとき、近くの医者に「私には手術できない」と言われたらそれで諦めるでしょうか。遠くの手術できる医者まで出かけていくはずです。PTSDだって同じではないでしょうかね。最近はEMDRのような良い治療法もできているのですから。
恨みは許すことで消すことができると言う人がいます。それは「忘れよう」と言っているに等しいことですが、恨みの性質から言って忘れるのは難しいことです。それよりむしろ、恨みによって自分で自分を傷つけていることが棚卸しで分かれば、バカバカしくなって恨みを手放そうという気になれます。相手が来て謝罪してくれれば気分が晴れると言う人もいますが、謝罪するかどうかは相手次第です。相手が謝罪するまで気分が悪いままだというのなら、自分の気分・自分の幸せは相手次第だということになります。それは自分の幸せ・不幸せを相手にコントロールさせているということで、これまたバカバカしい話です。
少々極端な例を挙げて説明しましたが、恨みというものが自分に不利益をもたらす以上、恨みを大切に育ててきたのは<全部>自分の落ち度でしかない、ということが理解できると思います。だから、あの90ページの文章の訳は「全部自分で招いた結果」であっているのです。
2012年07月27日(金) ステップQ&A:ステップ1 12ステップは「勉強する」ものではない、と言う人もいます。ましてや「教える」なんてとんでもない、とも言われたりします。
教えてもらうことも、学ぶこともなしに、どうやって12ステップを身につけることができるのか?
モーツァルトは4才の時に、誰も教えていないのにヴァイオリンが弾けるようになったそうです。周囲の大人たちがヴァイオリンを演奏しているのを、見よう見まねで憶えたのだとか。だがそれは、モーツァルトが天才だったからこそ可能になったことで、普通の子供はヴァイオリン教室に通いながら、教えてもらうことで弾けるようになっていきます。
AAが12ステップを教えることも学ぶこともない場所だとするなら、天才しか回復できない場になってしまいます。僕はそんなAAは嫌だ。誰でも回復できる場所であって欲しい。その為には、AAに12ステップを教えたり、学んだりする仕組みが必要です。それがスポンサーシップだったり、集団でステップを学ぶ仕組みだったりします。
12ステップというのは「生き方」です。ところが生き方というのは、教えるのも身につけるのも、時間と手間がかかります。だから、人はその手間を嫌って、もっと楽なやり方ですまそうとします。その人は、もっと良い人生を送る能力があるのに、その能力を活かす方法を教えてもらおうとはしません。ステップは教えてもらうものではないと言いながら、古い考えにしがみつく方を選び続けるのです。
さて、「ステップ1ではアルコールに対する無力を認めれば良いのか?」という質問をもらいました。
ステップ1は、「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」という文章になっています。
ステップ1が要求していることは、アルコールに対する無力を認めることです。他のものに対する無力を認めろとは言っていません。
私たちは、アディクションの対象(酒・薬・ギャンブルなど)に対して無力であるばかりでなく、他の様々なことに対しても無力です。しかし、ステップ1の段階では、他の色々なことに対して無力を認めろとは言っていません。アルコールだけです。それはなぜか。
第二章の先頭には、私たちAAメンバーが「出身地も、職業もさまざまなら、政治的、経済的、社会的、宗教的背景もいろいろで、ふつうなら出会うことさえもなかった者同士だ」とあります。あるAAミーティング会場に集まった人が、たまたま中年の日本人男性ばかり、ってこともあるかもしれません。でも、他の会場に行けば、若い人も年寄りもいるし、女性もいます。外国の人もいるし、宗教や職業もバラバラです。
すべてのAAメンバーに共通することは、アルコールの問題だけです。他には共通点がないと言ってもかまいません。AAは共通する問題を抱えた人たちの集まりです。(もっと言えば、AAは共通の問題ばかりでなく、共通の解決(12ステップ)を持つ人の集まりでもありますが、それはここでは脇に置いておきます)。
AAメンバーはアルコール以外のことに対しても無力かもしれません。しかし、人によってその中身は違います。例えば僕は車のエンジンが壊れたら自分で修理できません。つまり車の故障に対して無力です。だから、自分で解決したくても、どうにもなりません。「自分を越えた大きな力」であるところの自動車修理工場に頼んで、修理してもらうのが正しい選択です。
けれども、もしあなたの職業が自動車修理工なら、僕とは違ってエンジンを自分で修理できるでしょう。ならば、あなたは車の故障に対して無力ではありません。僕とあなたは共通ではない、ということになります。
12ステップはすべてのAAメンバーに共通する問題を扱っています。ステップ1だけでなく、12ステップ全体を通してそうなっています。もっと先のステップに進めば、アルコール以外にも私たち全員に共通する問題があることが見えてきますが、ステップ1の段階でそれを気にする必要はありません。
皆に共通する問題。アルコールに対して無力を認めれば十分です。
大事なことは、「思い通りに生きていけなくなっていた」ことです。そして、それがアルコールを飲んできた結果であると認めることです。アルコホーリックは、酒のせいで仕事や家族やお金や信用を失います。人によって、何をどれだけ失ってきたかは違いますが、酒の問題がなければ、もっと違った人生、違った結果があり得た、ということを認めなくてはなりません。
アルコールと、今の不本意な生活との間に因果関係が成り立っていることを認められれば、人はもう酒には手を出さないようにしたい、と思うものです。にもかかわらず、何週間か何ヶ月、あるいは何年か先には、また最初の一杯に手を出してしまうだろう。その再飲酒を自分の力では防げない、と認めることがステップ1です。
2012年07月24日(火) 回復している・していない AAでは「回復している」とか「回復していない」という言い方をします。
「回復」は英語のリカバリー(recovery)を訳したものです。ではリカバリーとは何なのか。
リカバリーという言葉をアルコホリズムに対して使い出したのは、シスター・イグナチアだそうです。彼女は、AAの共同創始者の一人ドクター・ボブと一緒に、セント・トーマス病院にアルコール病棟を立ち上げ、アルコホーリックの治療にあたりました。
彼女は、アルコホリズムは病気であること、二度と正常に酒が飲めるようにはならない、つまり治癒(cure)はないが回復することは可能だと説きました。
この病棟では治療プログラムに12ステップを使っていましたから、当然それによる「回復」とは12ステップの目標である「霊的体験(霊的目覚め)」を達成することを示します。だから、「回復」という言葉の使われ始めにおいては、回復=霊的体験(霊的目覚め)でした。
しかし、その後、アルコホリズムが病気だと社会に受け入れられ、対策が進むにつれ、「回復」という言葉は霊的な事柄以外にも使われるようになっていきました。現在では、身体的、精神的、社会的な事柄についても「回復」が言われます。例えば、アルコールのせいで仕事ができなくなった人が再び仕事に就くことも「回復」であるし、飲み過ぎで胃が食べ物を受け付けなくなった人が、解毒が済んで固形食が食べられるようになるのも「回復」と呼んで良いのかもしれません。
それでも12ステップという面から見れば、「回復」とは霊的な次元での話でありましょう。
AAはアルコホリズムから回復するための団体なので、人が回復している・いないは関心の対象となります。では、回復している・していないを、どうやって判断したら良いのでしょうか。それは、霊的目覚めは、外から観察して分かるものなのかどうか、という話につながります。
『12のステップと12の伝統』のステップ12のところ(p.141/144)には、霊的目覚めが存在することに疑問の余地はなく、本物の霊的目覚めには共通性があると述べられています。この本にも、またビッグブックの巻末の付録の所にも、その変化は周囲から見て分かるものだと書かれています。
では、その人のどこを見れば分かるのか(もちろん、そんな判定法はAAの本にも書いてないのですが)。
少し前の雑記で、具合の悪い人は「気分が良いこと」にこだわる、という話を書きました。人間が生きていて気分が良いことばかりじゃない、むしろそんなことは少ないぐらいが普通なのですが、アディクションの人にはそうでないわけです。(酒や薬は、いつもその期待に応えてくれました。最初の頃だけですが)。
酒や薬を使っていない素面の時に、なぜそんなに「気分が良くないのか」を考えてみることは、あまりしないのです。
僕はいままで正義感を持たない人に会ったことはありません。皆が正しく生きようとしています。また、何かを手に入れるのに努力が必要であることも、人はちゃんとわかっているものです。
一方で、同じ人が、自分の「正しさ」がどこでも常に通用して当然だと思っていたり、努力には常にそれに見合った成果があるべきだと考えていたりします。その考えを点検してみることをしません。自分が間違っているとか、それほど努力をしていないのに過大な要求をしているとは思わないのです。
こんな状態では、努力するほど欲求不満が高まります(頑張るほどにヘンなものが手に入る)。憤慨し、人や世の中を恨んでみたり、努力を嫌い無気力、厭世的になったりします。
その人が気分良くなるためには、世の中がその人を中心に周らなくてはなりません。もちろん、そんなことは起こりえないのですが。
時には物事が順調に進むこともあります。回復していようが、いまいが、物事が順調な時には気分が良いものです。だから、順調さや気分の良さで回復は計れません。
回復が分かるのは、その人の思い通りに物事が動かない時です。「気分が良くなるため」に努力してきた人は、思惑通りに進まなくなったときに、恨みがましい行動に終始しがちです。自分が正しいと信じていることや努力の方向性を点検してみることはしないものです。
「私たちが自分で自分のみじめさを作り出したのははっきりしている」(p.141)
酒を飲んでトラブルを起こし、そのペナルティを食らったから惨めになったのではありません。アルコホーリックは素面の時にも自ら惨めさを作り出す生き方をしているのです。努力の方向性が、自分が「気分良くなるため」なのだから当たり前です。
2012年07月13日(金) ステップ4・5偏重主義 最近はゆっくりテレビを見ることが少なくなりました。(録画してもどうせ見ないし)。
以前たまに見ていた番組の一つが『プロフェッショナル 仕事の流儀』です。各分野のプロ中のプロの仕事のやり方、信念などをドキュメンタリー形式で紹介する番組です。
何年か前、その番組にある外科医が出演していました(名前は忘れました)。外科医という職業は手術の巧さを追求するもののようです。彼は若い頃、手術の巧さとは手術の手早さである、と信じていたそうです。アメリカでの修業時代、彼は同僚のアメリカ人医師より短時間で手術を終えることを内心誇りにしていました。しかし、赴任して時間が経つと、彼はあることに気がつきます。
同僚の手術した患者のほうが、彼の患者よりその後の入院期間が短く、早く退院していきます。しかも、術後のトラブルも少ない。彼は自分の誤りに気がつき、以後、手術の巧さとは早さではなく、その後の回復のスピード、順調さであると信念を変えることとなりました。
ぼんやりその番組を眺めながら、僕は「彼の教訓から自分が学べるものは何だろうか」と考えていました。
12ステップについて言えば、ステップ4から9は自分の中の「良くないもの」を取り除く作業ですから、「手術」に例えることもできるでしょう。取り除くのはステップ5では「自分の過ち」、ステップ6では「性格上の欠点」、ステップ7では「短所」と表現されていますが、これらはすべて同じことを示しています。(ビッグブックが書かれた当時は、そのような修辞法が流行っていたのだそうです)。
ステップ4と5の棚卸しは、メスで体を切り開いていくように、自分の内面の問題を探り当てていきます。おそらくここを丁寧に丹念に行うことが必要なのでしょう。
「私たちはおごりを捨て、どのような性格のゆがみにも、過ぎ去った過去の暗い裂け目にもくまなく光を当てていく」(p.108)
ビッグブックのやり方の棚卸しでは表を作ることになっています。僕は「恨みの表」「恐れの表」「性のふるまいの表」の三つを使います(さらに四つ目の表を使っている人たちもいます)。僕はスポンシーにまず「恨みの表」を書いてきてもらい、そのステップ5を聞きます。一回のセッションは数時間なので、恨みの表が一回では終わらず、何回かに分けることになるのが普通です。これが終わると、次に「恐れの表」を書いてきてもらいます。恨みの表と内容がかぶっているので、わりと早く終わります。性の表は人によって長かったり短かったりいろいろです。
こうやって丁寧にやると、問題点が明確に分かって良いのですが、難点もあります。棚卸しに日数が必要になりますが、連続何日も時間を割くことはお互いできませんから、どうしても日付が飛び飛びになります。スポンサー、スポンシーどちらかが忙しければ間隔が開いて、全体が何ヶ月にも渡ってしまうこともあります。間延びしてしまうわけです。
その間も、表で明らかになった問題点を意識の片隅に置いておければ良いのですが、日常の忙しさに紛れて失念してしまい、次に再開したときに「えーと、なんだっけ?」ということになりかねません。下手をすると、棚卸しの目的が「表を完成させること」になってしまいます。(棚卸しの目的は表の完成ではなく、自分の性格的欠点や傷つけた相手を把握すること。表は手段に過ぎない)。
最近自分が忙しくなってきて、この間延びの悪影響が目立ってきました。すこし考え直さないといけないと思っていたところです。
ジョー・マキューは12ステップを短期間で行うことを主張していました。例えば1ヶ月、あるいはもっと短い日数で12ステップ全体をこなします。そうなると、棚卸しにもそんなに時間はかけられないでしょう。
ラリーさんはジョー・マキューの弟子にして後継者ですが、数ヶ月前に来日した彼のスピーチを聴く機会に恵まれました。彼は一晩で3つの表を書き上げ、翌日の午後にジョーにステップ5を聞いてもらったそうです。詳しく確かめたわけではありませんが、おそらく表を書くこと・聞ことを合わせて「丸一日」ぐらいでしょう。僕の今までの考え方からすれば、ずいぶん短く感じます。
ジョーが作り、今はラリーさんが所長をやっている Serenity Park という施設では、12ステップを治療プログラムとしています。当然棚卸し(ステップ4・5)にも取り組みます。そのステップ5を聞くのは施設の職業カウンセラーの役目ではなく、外部のボランティアAAメンバーなのだそうです(あるいは入所者が選んだAAスポンサー)。その人たちは、ステップ5を聞くために施設のトレーニングを受けているものの、プロフェッショナルではありません。
なぜこんな面倒なことをしているのか。アメリカの職業カウンセラーには「通報義務」があり、児童虐待などの事実を把握した場合には当局に通報する義務があるのだそうです。通報の是非はともかくとして、自分が子供を虐待していることを明かしたら通報されると分かっているクライアントは、その事実を表に載せなかったり、打ち明けなかったりするかもしれません。そうなるとステップ5の効果は失われ、クライアントが回復できなくなってしまいます。
そうした事態を避けるために、あえて非プロの(通報義務のない)聞き手を採用しているのだそうです。(ちなみにヘイゼルデンでは、ステップ5の聞き手はカウンセラーではない牧師の資格のスタッフが務めるのだそうです)。
こうした外部協力者は、昼間は自分の仕事をしていて、夕方になると施設にやってきて、施設利用者のステップ5の聞き役を務めます。施設プログラムは30日で12ステップ全体をこなすので、ステップ5に費やせるのは長くてもせいぜい二晩か三晩、合計数時間でしょう。この時間で三つの表すべてをこなすわけです。
数時間程度のステップ5であっても、十分効果が出ているようです。(そうでなければ、施設があれだけの評判を取り存続し続けることができようはずがありません)。
だとすれば、ステップ4・5の他にも、その後の回復を左右する要素があることになります。それは何でしょうか。
自分自身や自分のスポンシーばかりでなく、周囲のいろんな事例を見てみると、きちんとした回復を成し遂げているのは、ステップ4・5ばかりでなく、その先の埋め合わせ(ステップ8・9)に意欲的に取り組み、ステップ10で日々の棚卸しを続けている人たちであることが分かります。
中にはステップ4・5の段階では顕著な効果が出なかったのに、埋め合わせや日々の棚卸しに地道に取り組むうちに、回復の見本として取り上げたくなるような変化を遂げた人もいます。一方で、時間をかけてステップ4・5に取り組んだものの、ステップ10に取り組まないおかげで、徐々に酒に近づいているような人もいます。
どうやら僕はステップ4・5を重視しすぎて12ステップ全体のバランスを欠いていたのではないか、というのが最近の気づきです。(気づいてみれば当たり前のことなのですが、気づきとは常にそういうものです)。
日本における旧来の12ステップのやり方では、ステップ4・5が非常に重要視されていました。回復施設マックにおいては、ステップ4・5を済ますことがプログラム修了・退所の条件だったこともあります。AAでもステップ4・5が「一人前のAAメンバー」になるための通過儀礼的な扱いになっていました。今の日本のAAでは棚卸しに取り組むメンバーが少ないのですが、その先のステップに取り組むメンバーは(今も昔も)さらに少ないのです。
そのようなステップ4・5を重視する日本のAA文化の中で、僕はソブラエティを得て、後にビッグブックのやり方に切り替えたものの、最初に身につけた考え方の影響は大きい・・と、つくづく思った次第です。スポンサー・スポンシーお互い時間があるのなら、じっくり棚卸しに取り組むのは良いことだと思います。ただ、限られた時間の中で成果を出さねばならない場合もあるわけです(仕事だと常にそうですが)。
2012年07月02日(月) 回復は上り坂 回復は上り坂であり、上り坂はしんどいものである、ということ。
最近はAAだけでなく、回復施設にもちょっとだけ関わっています。施設に入所するということは端から見ていて「大変そう」だし、実際入所中の人たちに聞いてみれば「結構しんどい」という答えが返ってきたりします。今回は、何がどう「大変」であり、どう「しんどい」のかという話です。
施設に入所すると、たいてい仕事を続けることはできなくなります(少なくともいったん休職は必要)。また家族と一緒に暮らすこともできなくなります。その期間は施設によって様々ですが、少なくとも数ヶ月、長ければ数年におよぶこともあります。仕事からも家族からも離れて、何をするかと言えば「回復」に専念するわけです。そして、この回復することが「大変」であり「しんどい」のです。そのことは、施設入所だけではなく、AAや他のグループにおける回復にも当てはまります。
病んでいる状態は本人にとっても気持ちの良いものではありません。だから病んでいる人は健康な状態に戻りたいという願いを持つはずです。
上とか下という話をします。「健康な状態」「機能している状態」のところに一本の線を引くとすると、病んでいる状態は、その線より上に位置しているのでしょうか、下に位置しているのでしょうか。イメージ的には、病んでいる状態は健康な状態より下にあるとしたほうが分かりやすいでしょうね。
「回復」てゃ病んだ状態から、健康で機能的な状態に戻ることですから、つまり上り坂を上ることです。平坦な道や下り坂より、上り坂がしんどいのは当然です。それが回復の「大変さ」であり「キツさ」です。回復を「成長」などと他の言葉に言い換えてみても、変わりません。
12ステップは楽しいかと問われれば「特に楽しくない」という答えになります。自分の抱える欠点をあぶり出す棚卸し作業や、自分が恨んでいた相手に謝罪に行く埋め合わせなど、誰だって楽しくはないでしょう。途中から自分が回復している手応え(効力感)を感じるようになるので、それを楽しいと表現する人もいますが、やるべきことそのものは楽しくはありません。
だから、AAに来る人はほぼ例外なく「もっとやさしい楽なやり方」を探してしまうわけですが、上り坂を上らずに上る手段はみつからないのです。
「私は回復しようとしているのに、なぜこんなに苦しいのでしょう?」と真顔で尋ねられることがあります。それは回復している最中だからであり、上り坂を上っているからです。平坦な道や下り坂を選べば楽かも知れませんが、それは現状維持、あるいは病気がより進行する方向へとつながっています。
3月にある先生の講演を聞きました。その中の独白的な部分だったので、名を挙げて紹介して良いか迷うので、伏せておきますが、先生曰く
「アディクションの人は、<気分が良いこと>にこだわる。人生を生きていて、そんなに良い気分でばかりいられないし、そうでないことが多くて当たり前なのに、なぜかアディクションの人は、いつも気分が良くなくちゃならないという思い込みがある」
そんな私たちを手っ取り早く<気分良く>させてくれたのが、アディクションの対象(アルコール・薬物・ギャンブルなど)でした。確かに気持ち良くさせてくれるのですが、乱用すればやがて効果が薄れ、量を増やさねばならず、メリットよりデメリットが大きくなってきます。
そして酒や薬を止めざるを得なくなったとき、その人が「回復」に対して描くイメージは、酒や薬がなくてもいつも<気分が良く>いられる状態が「回復」であり、12ステップが気持ちよさをもたらしてくれる道具である、という誤解です。(そうした誤解は12ステップ以外の手段に対してもしばしば起こります)。
そういう人は、回復を手助けしてくれる人(援助者)に対して、自分の気分を良くしてくれることを要求します。慰めてくれる人、あなたは悪くないと言ってくれる人を求めますが、そうした慰めの効果は酒や薬よりも短期間しか効果がありません。
<気分が良いこと>にこだわる人にとって、自分の気分を害してくる人は自分にとって悪者です。気分が良くなりたければ相手に態度を変えてもらわなくちゃなりません。しかし、たいてい相手は態度を変えてくれません。気分が相手次第になってしまいます。生きていれば不愉快な体験をせずにはいられませんから、「私の気分を害させる悪い人」は増えてくるし、どこへ行っても悪い人ばかりで安らぎがなく、閉塞感につつまれて生きる気力すら奪われてしまいます。
アディクションに限らず、精神的に具合の悪い人は(ACだろうがなんだろうが)、こういう悪循環に陥っている例が少なくないように思います。
生きていれば理不尽なことや不愉快な体験は避けられません。むしろ毎日がその連続です。そういった理不尽に巻き込まれずに、自分のやるべき事をやって人生を楽しめるというのが健康です。その健康に向かって上る手段の一つが12ステップです。上り坂はしんどいから、途中でちょっと休んだり、時にはちょっと下ってやりなおしたりもするのですが、基本的には自分で上り続けるしかないものです。
けれど、やはり上るのはしんどいので、上るエネルギーを補給してくれる存在とか、導いてくれる存在は必要です。12ステップであれ他の手段であれ、孤立した人がなかなか回復できないのには、そういう理由があるのではないかと考えています。
2012年06月29日(金) 発達障害ネタ スポンシーさんとステップワークをやっていました。彼が持ってきた紙束の中から、棚卸し表を取り出そうとするのですが、なかなか見つかりません。「あれ、どこ行っちゃったかな。忘れちゃったかな」と言いながら数分探し続けたのですが見つかりません。こちらも、表がなかったら今日はどうしようかなどと考えながら待っていると、そのうち「あ、ここだ」と脇に置いてあった棚卸し表の束が見つかりました。
鞄から他のものを取り出すのに邪魔だったので、棚卸し表を取りのけて脇に置いたのを、すっかり忘れてしまっていた、という話でした。
実は彼は発達障害の疑いで専門医を受診しているのですが、医師によれば、そのように「ついさっき物をどこかに置いたことを忘れて探し回る」というのは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の典型的な症状なのだそうです。
・・・そんなんだったら、いくらでもある僕です。
実は先日の夜も、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし終え、メガネをかけようと周囲を探したのですが、メガネが見あたりません。普段だったら、ドライヤーをかける前にメガネを外してテーブルの上などに置くので、あちこち探したのですが見つかりません。埒があかないので家人にも手伝ってもらうのですが、それでも見つかりません。「風呂に置いてきたのではないか」「二階にあるのではないか」と言われ、自分の記憶はハッキリしてないのですが、普段どおりこの辺に置いたはずなので、風呂や二階という可能性はないはずでした(ええ、そうに違いありません)。
数分後、ふと気がついてお風呂を見に行ってみると、湯船の底にメガネが沈んでいました。メガネをタオルでぬぐいながら風呂から出てきたら、家人にはすっかり呆れられてしまいました。
こういうADHD的な僕が、アスペルガーとか自閉圏の多いIT業界で働いているので、結構気疲れするわけです(慣れますけどね)。
この雑記では以前、発達障害に関する連続記事を書いたことがありました。知的障害→自閉圏と話を進めて、次にADHD、最後に杉山先生が唱える「第四の発達障害」(虐待による発達障害)で締めくくる予定でしたが、ADHDの話の前で途切れてしまいました。
最近、雑談の中で聞いた話だったので、元ネタはどこか忘れましたが、発達障害と診断される人で、純粋なADHDの人はほとんどいない、という話でした。でも、実際にはADHDと診断される大人は結構いるわけです。それは、発達障害の診断に慣れていない医師が、心理検査の結果に頼りすぎて、目の前の患者の特性を見落としてしまった結果、ADHDという診断を下してしまうからではないか、という話がくっついていました。
国際的な診断基準では、ADHDと自閉圏の症状が重なっている場合には、自閉圏の診断を優先する決まりです。だから、アスペルガー症候群とか、高機能自閉症とか、PDDNOSとか、広汎性発達障害とかの診断名がつくはずのものが、ADHDという診断になってしまっている。実際にその人の社会適合を妨げているのは、ADHDの症状より自閉的な症状であるのに、それが無視される結果になっているわけです。
僕も、純粋なADHDの人で、発達障害の診断を受ける大人は珍しいのではないかと思っています。いるとすれば、余程症状の激しい人でしょう。以前テレビでADHDの女性の生活を放映していました。それは最初はキッチンで料理をしている場面で始まります。そこで宅急便が来て呼び鈴を鳴らすと、鍋を火にかけたままそれに応対しようと玄関に向かいます。戻ってくる途中で洗濯が終わっているのに気づき、洗濯機から取り出して干し始めます。そこへ電話がかかってきたので、話に夢中になり、やがて焦げ臭い匂いに気づき・・という流れでした。さすがにここまでの人は珍しいでしょう。
ADHDは子供の頃は顕著なものの、脳が成長する連れてバランスが取れて症状が治まっていき、成人する頃には目立たなくなるケースが多いわけです。(それが連続記事が途絶えた理由でもある)。むしろ自閉の社会性の障害のほうが、適応の障害になりがちです。
別の話ですが、病名のかっこよさ悪さってのはあると思います。
佐々木倫子の『おたんこナース』というマンガに、糖尿病という病気はかっこわるいという話が出てきます(病名に尿がついているから)。精神科の病名だと、統合失調症という病名は忌み嫌われるけれど、うつ病だったらオッケーという風潮があるように思います(昔だったら神経症とかはオッケーだった)。
発達障害というジャンルにも、似たような雰囲気があって、例えばアスペルガーっていうと「なんか頭がよさそうな感じ」とか(実際には自閉の症状がやや重度という意味)。自閉症よりADHDのほうがマシに感じられるとか・・・。
そういう雰囲気を背景に、自閉よりADHDのほうが本人も家族も受容しやすいというので、そちらを選んでしまう医師がいる・・・というのは雑談レベルの話なので、まともに取り合ってもらっちゃ困りますけどね。
ある場所で自分をADHDだと言っている人の話を聞いていたのですが、待ち合わせの予定に遅れるのがADHDの症状だと言っていました。確かに、待ち合わせの予定そのものを失念してしまうのは、ADHDの症状としてありがちなことです。でも、話の中身は、待ち合わせの予定から逆算して、何時に家を出れば間に合うか計画を立てる能力のことを言っていましたから、それは自閉の問題です。適切な支援策を受ければ、問題は緩和するはずなのですけどね。ADHDという診断がミスマッチを招いているわけです。
話はさらに飛んで、アメリカのAAはADHD的文化で、どんどん変えていくのを良しとし、日本のAAは自閉文化で、いつまでも変わらないことを良しとする、なんて言った人がいました。(日本人からすれば、そもそもアメリカという国全体がADHD的に感じますけど)。
日本のAAでは「先ゆく仲間からの述べ伝え」などと言って、先達から受け継いだやり方を変えないことが良いという雰囲気があります。たぶん始めたときにたまたまそうなっただけで、そうした意味は大してないのに、ともかく「変えてはいけない」という雰囲気が強いのです(自閉的こだわり)。
例えばバースディミーティングとかも、そのグループのやり方が「式次第」みたいに決まっていて、ちょっとでも変えると「違う!」とか指弾されちゃったりして。新しく司会進行役をする仲間が、オールドタイマーから何か言われやしないかと緊張しまくりとかね。(ADHD的な)僕に言わせれば、本質が保たれていればやり方なんてどうだって良いじゃねーかよ、と思うんですけどね。
えーと、何の話でしたっけ。
2012年06月18日(月) 12の伝統の解釈自由度 AAの12ステップは個人の自由な解釈の余地を大きく残しています。
だから、ある人のステップのやり方を「間違っている」と断ずることはなかなかできるものではありません。
ただやはり、12のステップには「本質」とでも言うべき事柄はあるように思います。それは二つ。一つは「棚卸し」(ステップ4・5)です。これは自分のどこが間違っていて、どこが悪かったのか、書き出して、他者から指摘を受けるステップです。もう一つは「埋め合わせ」(ステップ8・9)です。こちらは、自分の過去の過ちを相手に謝罪しに行くステップです。ステップ10はこの二つの繰り返しです。
だから、「棚卸し」と「埋め合わせ」の両方がそれなりにできていれば、ステップとして効果が出てくるだろう・・というのが僕の考えです。この二つが欠けてしまうと、いくら12ステップを自由に解釈して良いとは言え、効果が期待できなくなるんじゃないかと思います。
棚卸しのステップ5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」となっています。「もう一人の人」は自分以外の人です。誰だって自分の間違いを他の人に認めることはしたくありません。まして、その相手がもっと鋭いツッコミをしてくる可能性があれば、なおさら嫌です。だから、このステップ5を避けて通ろうとする人は少なくありません。
最近こんなことを聞き及びました。某所で、「この<もう一人の人>は、自分の中の<もう一人の人>ではいけないのでしょうか?」と聞かれた精神科医が、「それで良い」と答えてしまったという話です。たぶん、その先生は12ステップには詳しくなかったのでしょう(普通医者は12ステップには詳しくない)。
自分の中の<もう一人の人>というのは、例えば自分の良心などを指した言葉でしょう。それを<もう一人の人>にするわけにはいかないでしょうね。他者に評価してもらうのがステップ5の肝心なところです。先生は善意でアドバイスしてくださったのでしょうが、真に受けたメンバーがいたとしたらご愁傷様です。
さて、12のステップが個人の回復に関わるもので、12の伝統はAAグループに対する指針です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit.htm
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit2.htm
12の伝統も、12のステップと同じように、どのように解釈するかは各グループに大きな自由度を許しているのでしょう。であるのに、「伝統」が「ルール」であるかのように思い込んでしまう人もいます。
自分の12ステップの解釈を人に押しつけようとするメンバーは嫌われがちです。同じように、12の伝統の自分の解釈を人に押しつけようとすれば嫌われるでしょう。
伝統の11番には、AAの広報活動は「宣伝よりもひきつける魅力」に基づくべきだとあります。promotion ではなく attraction であるべき、という話です。日本のAAメンバーは、これはAAの宣伝をしてはいけないという意味だと解釈する人が多いようです。
しかし、海外ではテレビやラジオでAAのコマーシャルが流れており、YouTubeで探して見ることもできます。WSM報告書には、オーストラリアで駅にAAの広告を出したところ、ホームページのヒット数が激増したという報告が載っています。
海外のやり方が間違っているとも、日本の伝統の解釈が間違っているとも言いづらいものです。12の伝統の解釈がそれぞれに違っていて構わないということでしょう。例えば、国内で、あるAAグループはローカル新聞に広告をだして存在を世間に知らせ、別のグループはそうしたことはしない・・というのもありでしょう。
伝統の6番は、AAの外部に対してAAの名前を使うべきではない、とあります。AAメンバーが個人としてどんな活動に参加しようと自由だけれど、AAが団体として別の団体の傘下に入るのは良くないという趣旨です。
ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。
これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。
でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。
評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。
評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。
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