心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2013年01月28日(月) 荒削りな人生学校

しばらく前のことです。ある人(AAメンバー)から、こんな事を言われました。

「ひいらぎさんは、僕らアル中とは違ったタイプの人間なんだと思ってましたが、この前のイベントで、やっぱり同じ仲間なんだなと思いました」

僕のことを(強いて言えば)バランスの取れたまともな人間だと勝手に思っていたのが、一泊二日のイベントをその人と一緒に過ごしたことで、僕もアンバランスなアル中であることが分かってもらえた、ということでしょうか。「化けの皮が剥がれた」とでも申しましょうか。元々僕は何ら特別なアル中ではないし、マトモでもありません。

僕の考えでは、どれだけ酒を長くやめようとも、どれだけ回復しようとも、やっぱりアル中はアル中であって、バランスが取れることもないし、マトモにもなりません。理想的な回復を遂げたアル中に会ったことなど一度もありません(キッパリ!)。

AAに入った最初の頃、地元のAAメンバーの姿に正直失望を感じていました。「心の平安」などという話をしている割りには、メンバー同士が些細なことで仲違いや諍いを繰り返していたからです。この地元の「先行く仲間」はダメであっても、日本のどこかにはもっとまともなAAをやっている人たちがいるに違いない・・・違いない、とそう期待しました。

その期待の先が関東のAAでした。何しろ日本のAAメンバーの半数が関東という狭いエリアに集中しています。その数多いAAメンバーの中には選りすぐりの人たちがいて、きっと理想的なAAをやっているに違いない・・違いない。しかし期待は現実によって裏切られました。確かに人数が多ければ、マンパワーもあるし献金も集まるので活動は豊富なのですが、些細なことで争いが起こるのは変わりありませんでした。

メンバーの中から選ばれてきた評議員や理事も、会議の席上でしばしば感情的にムキになって対立します。そして極めつきはAOSMという国際的なイベントにオブザーバー参加したときのことで、その国のAAを代表してやってきたAAメンバー同士が、つまらないことで言い争いをしている姿に、アル中はどこまでいってもアル中であるという思いを深くしました。(英語の聞き取りがろくにできなくても、話の中身が似たようなものであるのは容易に想像がつきました)。

性格上の欠点を取り除くプログラムだなんて言いながら、こいつら欠点だらけじゃないか、と自分のことを棚に上げて思ったものです。もう、うんざりだよ、と。

しかしながら、「だからAAはダメなんだ」とAAそのものに失望を持たなかったのはなぜか。

それは(口はばったいけれど)多少なりとも僕も回復を得たからではないでしょうか。

あるとき、ある医師が言った言葉に僕は深く共感しました。

「依存症の人は、いつも良い気分でいることに必要以上にこだわる」

普通の人が普通の人生を送っていても、いつも良い気分でいるわけではありません。なのに、アル中(とか他の依存症の人)はいつも自分が良い気分でいて当たり前だと思っています。生きていて、いつも良い気分でいるなんてあり得ません。普通の人は、不安になったり、腹が立つことがあったりしても、大体そんなものだと受け入れて暮らしています(それが精神の健康であるのですが)。

ところが、アル中の人は、不安になったり、腹が立つことがあったりすると、「これはおかしい。間違っている」と感じ、その状況を変えて気分を良くしようとします。時には状況を変えることに成功するかもしれませんが、むしろ変えられないことの方が多いわけです。そこで、アルコールや薬物やギャンブルによって、無理矢理気分を良くすることになったりするわけです。

人生とか、生活というものは、大小多くのトラブルの連続です。トラブルがない生活なんてものはなく、トラブルが来ても乗り越えていけるという手応えこそが幸せなのではないでしょうか。自分好みの解決じゃなくても、ともかく解決すれば良いんだし。

AAであれどこであれ、人間がそこに存在する以上、人間関係のトラブルは避けられません。こんなトラブルがあるからAAはダメなんだ、という考えは、トラブルがまったくなくて、心配事も腹立ちも何にもない生活が実現されて当たり前、というアル中の病んだ考え方そのものなのです。

そもそも、僕がAA嫌いだというのは、AAだけじゃなくて、AA以外の人間も、この世界も嫌だということだったのですから、それはやはり精神が病んでいたことによるのでしょう。

だから僕は不愉快になったり、いろいろ嫌になってしまった時は、「それは自分がいつも良い気分でいられるべきだ」という利己的な思考に陥っていないかチェックするようにしています。

精神を病んでいない健康な人からAAを見たらどう見えるのだろう。そういう疑問に答えてくれた人がいたのですが、AAは嫌なところというより、むしろ面白いところだそうです。その面白さは、どこぞのドタバタの新喜劇のようなものなのかも知れません。苦笑いなんでしょうけどね。

12&12のステップ11の最後には、私たちの周囲の極めて人間的なことのなかに一見神の意志とは正反対のことが現れたとしても、もはやそのために私たちが深く動揺することはない、と書かれています。

これからもAAの中ではつまらないトラブルが絶えないでしょう。そのために時にはうんざりする人もいるかもしれません。でも、その争いが「いかにして最も多くの酔っぱらいに最も良いことをするか」ということであれば心配要らないとビル・Wも書いています。

彼はAAを「荒削りな人生学校」に例えました。僕らはもう一度子供に戻って、そこで人生を学びなおしています。子供というのはそれに見合ったことをするものです。時には小学生のようにガキっぽく、また時には思春期のように青臭く、様々な「しょうもないこと」を繰り返すでしょうし、痛みも伴うでしょうが、一足飛びに大人になることは誰にもできやしないのです。例え過去に僕らが酒を飲んで大人になった気分でいたとしても。


2013年01月10日(木) 書評:ギャンブル依存との向きあい方(その2)

書籍『ギャンブル依存との向きあい方』の評の後半です。

さて、話をギャンブルに戻します。

ギャンブル依存の人が「借金を返すためにギャンブルをしている」と考えるのは自己欺瞞です。ギャンブルで借金を返そうというのは、まったく合理性を欠いた考えです。また、借金が整理されて返済の必要がなくなっても、彼らは再びギャンブルに手を出し、また大きな借金を抱えます。

こうしてみると、対象をアルコールからギャンブルに変えただけで、同じ依存症のように見えます。確かに強迫的ギャンブラーの一部が(アルコール・薬物と同様の)アディクションであることは間違いないでしょう。

しかし、同じだとすれば、再びほどほどにギャンブルが楽しめるようにはならないはずですが、ギャンブルについてはそうなったという例もあります(自然治癒例)。また、金銭問題がギャンブル依存の結果だというのなら、ギャンブルをやめたら金銭問題が無くなるはずです。ところが、やめた後も金の管理ができず、お金を使いすぎて困ってしまう人がいます。こういう人は実はギャンブルにはまる前から、金銭管理の問題を抱えていたことが分かります。

依存症以外のタイプの人が混じってきている、それは間違いないことだと思われます。昔はアルコール依存症が病気だとは思われていませんでした。酒をやめられないのは、不道徳で意志の弱い、罪深い人間だとされてきました。様々な人の努力の結果、慢性アルコール中毒(後のアルコール依存症)は病気だということが、ようやく世間に認知されてきました。それは大変良いことでしたが、弊害もありました。

操作的な診断基準に従って、酒を飲んでトラブルを起こしていれば、誰でも彼でもアルコール依存症という病名がつけられ、専門の医療機関や施設やAAに紹介されてくるようになりました。それによって多くの人たちが助かりましたが、一方で、本当は依存症とは違う原因なのに、依存症のケアで混乱し、何年もの時間を無駄にしている人も少なくありません。問題が違えば、違った解決策が必要なはずです。

それなのに、大酒を飲んでいれば、それだけで依存症だと決めつけてしまい、病院に入れた後はAAミーティングに通わせるだけで、あとは良くなるもならないも本人の「やる気」次第・・・という過剰に単純化した援助がまかり通るようになってしまいました。この現状を嘆かずして、他に何を嘆けというのでしょう。

ただ幸いなことに、アルコールの場合にはそうしたミスマッチは少数派です。ところがギャンブルの分野では、このミスマッチが日常茶飯事で起きている、ということが、この本から見えてきます。

例えばこんな例はどうでしょう。ギャンブル依存とされたAさんは、子供の頃から自分で決めることが難しく、進学先も、就職先も家族(この場合は母親)が決めてきました。やがてギャンブルの問題を起こすようになり、GAというグループを探してきたのもお母さん(あるいは奥さん)でした。本人のお金の管理をさせると危ないので、家族が代わりに金銭管理をしています。ところが、いくらGAに通っても、なかなかしっかりとギャンブルがやめられず、時々細かな再発を繰り返します。

そこで家族がほうぼうに相談したところ、あるところから「手を離しなさい」「手助けをやめなさい」というアドバイスをもらうことになります。これはデタッチメントという手法で、周囲が本人に代わって問題を解決するのをやめることで、本人が問題に直面し(直面化)、底つきを経て回復へ向かう、というモデルを当てはめようとしています。このやり方が功を奏する場合もありますが、そうならないことも多いのです。

結果がどうなるか。たいてい、もっと悪化し、ギャンブルと借金の問題は深刻化します。おそらくこのタイプの人(Aさん)には、ギャンブル依存症とは違ったタイプの問題を抱えています。GAに通うことや、デタッチメント型のアプローチが効果をもたらさないのは、「アディクションとは違う問題が原因だから」という視点を持てれば、やり方を変えることができます。しかし融通の利かない支援者は、より苛烈なアドバイスを送り(例えば「家から叩き出せ」とか)問題をよりこじらせてしまうこともあります。

高澤さん、中村さんは、それぞれ日々の仕事でギャンブラーに接する中で、「アディクションとは違う問題」を幾つかにタイプ分けしています。発達障害タイプは、上に書いた自閉圏やADHDなどです。知的障害のタイプもあります。また、発達障害とも知的障害ともされなくとも、全般的にキャパシティが小さいタイプは、普通の人なら耐えられる負担でも大きなストレスに感じてトラブルに発展します(キャパ小タイプという名が与えられている)。いずれにせよ、本人の苦手なこと(例えば金銭管理)を無理にやらせるよりは、周囲が支える仕組みをうまく整えることによって、問題が解決していくことが多いわけです。個別の具体的な対応策については、ここで紹介しきれるものではないので、本を読んでいただくのが早いと思います。

もちろん、きれいにタイプ分けできるわけではなく、中間タイプもあるし、アディクションタイプの人もいるわけです。必要なのは、その人の生育歴や生活ぶりを調べて、どのような支援が必要かを調べ、個別のメニューを組み立てることです。その人がアディクションタイプであれば、GAに通って、経験を分かち合うことで内面的洞察を深めるやり方も奏功しうるでしょう。

彼らの発信する情報から、ひとつの明確な考えが導き出されます。「何かを乱用しているからといって、依存症とは限らない」ということです。ギャンブル乱用だからといって、ギャンブル依存症とは限らない。もちろんそのことは、アルコールや薬物にも言えますし、最近の新しい依存症のジャンルにも言えることでしょう。なるほど、ミーティングでの分かち合いや12ステップは強力なツールではあるのですが、何でも切れる矛(ホコ)ではありません。そのことは、12ステップを使って問題解決を手伝っている立場として、身に染みて感じることです。畑違いのことは、その分野の人に任せるのが良いわけで、何でもかんでも12ステップで解決しようとするのは頭が悪すぎる、専門性があるとは言いません。

もしあなた自身か、あなたの家族がギャンブルの問題を抱えていて、他の人のようにすんなり問題が解決していかないのなら、この本を手にとって通読されることをお勧めします。また、ギャンブル以外の分野の人にも一読をお勧めしたい。きっと視野が広がる体験をするでしょう。

また、この本の後ろ3分の1はワンデーポート理事長の稲村さんによる債務整理の説明になっています。ギャンブラーの人は借金の問題を抱え、「借金さえ解決すればギャンブルの問題も消える」と信じている人も少なくありません。しかし、借金には原因があるわけで、その原因を解決せずに債務を片付けても、再び借金ができるだけです。稲村さんは司法書士として債務整理に関わるなかで、そのことに気付かれてギャンブルの支援に入ってきた方です。

具体的には、借金が表面化した時(家族にばれたとき)こそが解決のチャンスであり、そのチャンスに向けて家族をすること。また、借金は片付けるよりむしろ返さないでおくのが良いとしています(片付けるのは本人の回復が軌道に乗った後)。そうは言っても、借りた金を返さなければ催促が来てしまうわけで、それにどう対応したら良いか。また家族はどうすれば良いか。法律の専門家の立場から解説しています。

ギャンブルの問題に関わるに当たって借金のことは避けて通れないわけで、特にご家族、支援者の人にこの項は必読だと思います。

最後にまとめになりますが、昔は依存症は病気だとは思われていませんでした。そこからひとつ進歩して、依存症は病気だということが知れ渡るようになりました。21世紀になって、そこからさらに進歩すべき時期が来たのでしょう。この本がその新時代を切り開く先鋒となることを期待を表明して、紹介を終えることとします。今後とも、このお三方の活動に注目していきます。

※アディクション関係の本は1,500冊売れれば御の字だと言われます。この本は初刷り1,500部が早々に品切れになり、アマゾンの中古が定価の数倍に跳ね上がるという現象を引き起こしました。幸い増刷もでき、現在は安定入手できる状況ですが、ご興味を持たれた方は早めの入手をお勧めします。

(この項終わり)

本人・家族・支援者のための ギャンブル依存との向きあい方
 〜一人ひとりにあわせた支援で平穏な暮らしを取り戻す
認定NPO法人ワンデーポート/編
中村努・高澤和彦・稲村厚/著
明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html
ワンデーポートFAX注文用紙
http://www5f.biglobe.ne.jp/~onedayport/fax.html
Amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4750335991/
セブンネットショッピング
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106174470/
PDFチラシ
http://homepage2.nifty.com/urawa-mahalo/akashi.pdf


2013年01月09日(水) 書評:ギャンブル依存との向きあい方(その1)

書籍『ギャンブル依存との向きあい方』の評を何回かに分けてお送りします。

本人・家族・支援者のための ギャンブル依存との向きあい方
 〜一人ひとりにあわせた支援で平穏な暮らしを取り戻す
認定NPO法人ワンデーポート/編
中村努・高澤和彦・稲村厚/著
明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html

僕らは「ギャンブル依存症」という言葉を使いますが、まだそれは依存症として完全に認知されたわけではありません。病気の国際的な診断基準(IDC-10)でも、アメリカ精神医学界の基準(DSM-IV)でも、依存症のカテゴリに入れられているのは、アルコールその他の薬物だけです。

(病的賭博は別の「衝動制御の障害」というカテゴリの中に、窃盗癖や放火癖と一緒に入れられています。2013年に発表される予定のDSM-5では、アディクション(嗜癖)というカテゴリが設けられ、そこにアルコール薬物依存と一緒にギャンブル依存も入る予定ですが、反対もあるようで蓋を開けてみなければ分かりません)

医学が保守的に構えている一方で、当事者のほうは先に走り出していました。1957年にはアメリカでギャンブラーズ・アノニマス(GA)が始まり、家族のためには翌1958年にギャマノンが始まっています。(それぞれ1989年、91年に日本でも始まっています)。そこではアルコールや薬物と同様に、12ステップを使った解決が提案されています。

AAの12ステップとGAの12ステップの間には微妙な違いもありますが、基本的に同じ手段が使えるということは、アルコールがやめられないのも、ギャンブルにハマるのも「同じアディクションであろう」という考えにつながります。

人がハマるのはアルコール(薬物)やギャンブルだけではありません。セックス、買い物、ネットなど、様々なものにハマるのも「依存症」であると考えられ、20世紀後半には様々なグループが誕生していきました。そうした当事者活動の観察から、「依存症」を三つに分類するコンセプトが生まれました。

1. 物質依存・・・・(アルコール、薬物)
2. プロセス依存・・(ギャンブル、買い物、セックス、ネット、食べ物)
3. 人間関係依存・・(共依存)

※食べ物を物質依存にカテゴリする場合もありますが、ここではプロセス依存に分類しました。

こうして最初はアルコールと薬物だけだったアディクションの概念が、次第に拡大されていくことになりました。たくさん誕生した新しい「依存症」が、本当にアルコールや薬物の依存症と同じ仕組みの病気なのか、同じ手法が使えるのか、検証されることはなく、援助職や当事者の分野で、依存症概念の拡大はほぼ無批判に受け入れられていきました。

また、依存症概念が拡大されていった時代は、アルコール依存の援助の中で発見された概念が普及した時期でもありました。その概念を象徴するのが、イネイブリング理論、底つき理論、タフラブ、直面化などのキーワードです。これらの概念やキーワードも、プロセス依存や共依存の分野に普及しました。

現在、アルコール・薬物の分野では、イネイブリング理論や底つき理論の有効性への疑問が出され、MATRIXや動機付け面接など新しい手法が提唱されています。ただ、その話は別の機会にしましょう。

ここで取り上げたいのは、アルコールだったりギャンブルだったりと対象が違っていても、同じ仕組みの病気なのかどうか。もっと話を進めて、同じギャンブルに「依存」している人が全員同じ仕組みの病気なのかどうか。そのことを突き詰めて考えることをせず、みんな同じ依存症と捉えていたのではなかったか。そして、同じアプローチが使えると思っていなかったか、ということです。

本書の3人の著者のうち、高澤さんはアルコールの援助職をした経験を持つ人で、中村さんはギャンブル依存の当事者で、かつアルコールの施設で自身が回復した人です。どちらも、現在はギャンブル依存を対象として援助を行う仕事をされています。お二方とも、最初はアルコールの手法がギャンブルにも使えると信じて活動していたものの、やがて「みんな同じ依存症」という考えの限界に気付き、丁寧なアセスメントと個別支援という方向を打ち出した人たちです。

・・・

僕自身の話をしましょう。

僕は3年前、ある用事でGAのミーティングに初めてお邪魔しました。本当はクローズドだったのですが、特別な計らいで会場の隅で分かち合いを聞かせてもらいました。ちょうど過払い金訴訟の盛んな頃で、戻ってきた金で借金が清算できて楽になったという話を聞きました。もう勝って返す必要がないのでギャンブルもしなくて済む。そんな話でしたが、後日聞いた話では、そうやって過払い金で借金を清算しても、やがてギャンブルに戻っていく人は多いのだそうです。なるほど、ギャンブラーにとっての借金は、アルコホーリックにとっての肝臓の数値みたいなものか、と納得しました。

その時点では、「みんな同じ依存症」という考えの限界には何も気がついていませんでした。

話をいったんアルコールの分野に戻します。

僕がAAにつながって最初の頃、依存症からの回復には「やる気」が必要だと言われました。「やる気」という言葉は、AAで使われるテキスト『12のステップと12の伝統』のステップ3のところにあり、やる気(意欲)こそが回復の鍵であるとされています。

数ある病気の中には、放っておいても自然に良くなりいつの間にか治っている病気もあります。しかし、依存症はそうではありません。依存症からの回復には本人の行動が必要であり、意欲が必要です。しかし、あまりに意欲が強調されすぎると、回復するもしないも本人次第ということになりがちです。回復できない人は、「本人のやる気が足りないから」で片づけられてしまいます。

しかし、本人はやる気に溢れているのに、再飲酒を繰り返してなかなか回復できないという、痛ましい例も珍しくありません。そうなると「回復は本人のやる気次第」とは言っていられなくなります。そこで、いままでの方法論が悪いのではないか、という話になりました。従来の「ミーティングでひたすら体験を分かち合う」というやり方で本当に良いのだろうか、という疑いが生じたのです。

元々AAには「12ステップ」という回復の方法論があります。しかし、近年のAAではこの12ステップがないがしろにされてきたと言っても過言ではありません。そこで、21世紀に入ってから、12ステップの原点である「ビッグブック」に沿ってステップに取り組もうとする運動が発生し、一定の成果を上げてきました。ミーティングで体験を分かち合っているだけではなし得なかった数々の回復例が生まれ、それまで意欲を持つことができなかった人が「やる気」の鍵を使って回復のドアを開け始めました。

その喜びがあまりに大きかったために、この(ビッグブックの)12ステップの万能性を信じた人も少なくありませんでした。僕も例外ではありませんでした。「この12ステップという道具を使えば、誰でも回復できる」・・・実際にはそうは問屋が卸しませんでした。12ステップでも回復できない人は存在しました。しかも無視できないほど多く。方法論が曖昧だったころは、回復できない原因を本人の意欲に求めれば良かったのですが、明確な方法論が導入されると、今度はその方法論に合わない人たちの存在が際立っていきました。

どうやら依存症とは別の問題があるのではないか? 意欲が無いと見なされている人たちは、本当にやる気がないのだろうか。それともそう見えるだけなのか。僕がそう考えだしたのは、2009年ごろでした。僕がネットに書いている雑記にも、この頃から発達障害という言葉がちらほら出てくるようになります。

特に注目していたのは自閉圏の発達障害でした(アスペルガー症候群・広汎性発達障害・PDDと呼ばれるもの)。自閉圏の人は、人の話に共感することが難しい人たちです。

ミーティングで他の人が体験を話しているのを聞くと、自分にも同じような体験があるのが思い出され、自分が話す番が来たらその話をします。そうやって他の人の話と自分の体験が「重ね合わされ」ていくのが、ミーティングにおける「分かち合い」です。それによって、自分の過去の行動の意味や問題点に気付き、自分を振り返ることができます。

ところが、この「重ね合わせ」や「分かち合い」に乗れない人たちがいます。彼らは他の人が何を話していようと、お構いなしに自分の話したいことを話します。他の人の話の些末なところに着目してしまうこともありますが、大局的には他の人の話にはあまり影響を受けません。他の人たちが「分かち合って」いる中で、(同じ場所にいながら)その輪から外れているのですが、本人にはその自覚がないようです。過去の自分の行動の意味を振り返ることは難しく、自省に結びついていきません。

こういう人たちは「自分の問題から目をそらしている」(否認している)とか、回復への意欲がないと見なされがちです。場合によっては、罪悪感を持っていないとまで見なされてしまうこともあります。

発達障害について学んでみると、こうした行動は自閉圏の特性ゆえだということが分かります。彼らは共感や自省や罪悪感を持つことができないのではなく、単に「ミーティング」という方法が合っていないだけなのです。また、12ステップも(自閉的な特性を持たない多数派のために作られたものである以上)、自閉圏の人が扱いづらい曖昧な概念を使っているので、その人に合わないということが起こり得ます。

発達障害以外にも、知的な障害を抱えている人もAAに来ますし、精神障害を抱えた人も来ます。それは一部の人たちに限られた問題です。AAは全員に「共通する問題」を解決するために、ミーティングや12ステップという「共通の解決方法」を使うところです。その人に固有の問題を解決するのに、別の方法論が必要になってくるのは、考えてみれば当たり前の話です。

それを「みんな同じ」で、みんながミーティングや12ステップで良くなるというのは、かなり無理があった話と言わざるを得ません。

(続きます)

明石書店
http://www.akashi.co.jp/book/b102419.html
ワンデーポートFAX注文用紙
http://www5f.biglobe.ne.jp/~onedayport/fax.html
Amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4750335991/
セブンネットショッピング
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106174470/
PDFチラシ
http://homepage2.nifty.com/urawa-mahalo/akashi.pdf


2013年01月04日(金) 人の欲望の複数性

先ほど年賀状を郵便局に差し出してきました。

誰かを助けることは、あなたの回復の基礎である。
Helping others is the foundation stone of your recovery.
(ビッグブック p.140)

今年もゆるゆるとしたペースで雑記を更新して参ります。何らかの形で皆様の需要に応えることができれば幸いです。

はてさて。

ビル・Wは『12のステップと12の伝統』のステップ4の冒頭で、人間は欲望(欲求)を複数持っていることや、それらが競合して人間に葛藤をもたらすことを論じました。また、ジョー・マキューはそれを分かりやすい表の形にまとめました。

しかし、欲望の複数性を論じたのはビルが初めてではありません。例えばフロイトは、神経症を性欲と自我の葛藤として説明しました。ここでいう性欲は自由や自己実現を、自我は伝統的な価値観に基づく承認欲求を指していると考えられます。自由や自己実現への欲を持たない人はいないでしょうし、周囲からの承認が要らないという人もいないでしょう。普遍的であると見なされたからこそ、フロイトの考えは現在にまで残っているのではないでしょうか。

人の持つ複数の欲求を分類する試みはフロイトだけではありません。マズローは人間の欲求を5段階に分類しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
その階層構造はともかくとして、これらの5つの欲求を詳しく見れば、5つのすべてが自分にも、また他の人にも当てはまることは納得していただけると思います。また、これら5つの欲求とジョーの表には共通項が多いことにも気付かれるでしょう。

また、日本発祥の森田療法を作った森田正馬は、人の欲望を「生への欲望」と「死への恐怖」の二つに分け、強すぎる欲望が葛藤を生むことを説明しましたが、これらの欲求はさらに細目に分けられ、それを子細に見れば、やはりビルの主張やマズローの段階説と構成要素の多くが共通しています。

このように、人間の欲求に関する理論は、どれも欲求の複数性と、その欲求の構成要素が似ています。なぜでしょうか。それは、どの理論も人間という共通のものを対象にしているからです。分類の仕方が異なっているのは、(理論というのは実践のためにあるのだから)その後の治療の展開に都合の良いように、それぞれに合わせてあるのは当たり前です。

分類の仕方の優劣の議論は脇に置いて、一つひとつの構成要素が自分に当てはまるかどうか、またそれらの競合が自分に葛藤をもたらしていないか、自分に照らし合わせて考えることができる人ならば、「どの欲求理論であれ、自分に当てはめうる」ことは認められるでしょう。

そして、それが他の人にも当てはまるかどうかを現象学的に積み重ねれば、ビル・Wの言うことも、ジョー・マキューの言うことも、フロイトの言うことも、マズローの言うことも、森田正馬の言うことも、こと人間の欲求に関しては、アルコホーリクであれ、それ以外の人間であれ、すべからく当てはまることはうなづけるはずです。それぞれの説によって用語の違いがありますが、字面の違いに惑わされずに理解を深めることが大切です。

もちろん、複数の欲求説があるのには、どのように分類するかとか、それをどう役立てるかについて、それぞれの考えの違いがあるわけですが、あのビル・Wの文章の肝心なことは、人が複数の欲求を抱えていて、それらの競合が人に苦悩をもたらすということです。

どの欲求説を使うにせよ、それを自分に当てはめて考えられないのであれば、理解できているとは言えないのではないでしょうか。

ジョー・マキューの表がアルコホーリク以外にも当てはまるかどうか、という問いのナンセンスさはそこにあるわけです。もちろんそんなことは言わずもがなのことであるわけですが。

今年もよろしくお願いします。


2012年12月31日(月) 自助ではなく相互援助

今年も1年ありがとうございました。

Webalizerの出力データ(12/31 23:00現在)。

今年一年の統計データ
送出バイト数 225.0Gbytes
訪問者数 85万4千
リクエストページ数 932万
リクエストファイル数 1,067万
リクエスト数 1,143万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。

一日の訪問者数については、近年雑記の更新頻度が下がったため、1,700/日ぐらいまで落ちていたのですが、(理由はハッキリとはわかりませんが)今年の後半になって増加し、3,000/日を越えています。(ieji.orgドメインではないブログへのアクセス数はこの数に入っていません)。

今年は「心の家路」が10周年を迎えた年でした。

この10年の間に、僕の考え方もずいぶん変わりました。それが「家路」にすべて反映されているわけではありません。中には10年前に書いたものがそのまま残されている部分もあります。

例えばこのサイトには「〜アルコール依存症からの回復と自助グループの勧め〜」という副題が付いていますが、僕はもはやAAを始めとした12ステップグループが「自助」グループだとは思っていません。

自助グループとは self-help group を訳した言葉です。20世紀の後半に「同じ問題を抱えた人たちが集まって、お互いに自分の経験を話す」というグループがたくさん生まれ、それに対してセルフ・ヘルプ(自助)・グループという名前が与えられました。自助グループには専門家はおらず(専門的な援助はむしろ否定される傾向があり)、同じ立場の人同士で、人の話を聞き、自分の身の上の話をすることで傷ついた自己イメージを修正し、問題を乗り越えていくとされています。

不幸だったのは、AAが自助グループの先駆的存在であるとか、代表的存在であると見なされてしまったことです。AAが自らを自助グループと名乗ったことは無いはずなのですが、外部の人たちがAAを自助グループに分類することで、「AAが自助グループである」と考える人がAAの中にも増えていったのだと思います。

そして日本では、1980〜90年代に自助グループ・ムーブメントとでも呼ぶべき運動が起こり、多くの「自助グループ」が誕生しました。その中には12ステップを使ったグループもあれば、使わないグループもありましたが、どちらも同じ自助グループというカテゴリに入れられました。あの当時、12ステップグループが自助グループであることを疑う人はおそらくいなかったでしょう。

僕も、医師から自助グループを薦められ、AAと断酒会の二つからAAを選びました。だから、AAが自助グループだと信じて疑いませんでした。それは多くの人たちも同じだったでしょう。日本のAAからも、AAを自助グループと紹介する文章が結構たくさん発信されたはずです。

12ステップグループは自助グループではない、という意見に接したのは2007年でした。self-help という言葉に代えて mutual aid group (相互援助・相互支援)という言葉が提唱されていました。なぜ「相互援助」なのか、その理由が分かるには、12ステップに対する自分の理解が深まる必要がありました。

AAのビッグブックの第1章「ビルの物語」には、エビーがビルを手助けする(支援する)様子が描かれています。また、「ドクター・ボブの悪夢」と第11章にはビルがボブを手助けする(支援する)様子が書かれています。11章の続きには、ビルとボブが3人目、4人目を見つけて助けていく様子も書かれています。

彼らが手助け(支援)をするのに使った道具が12ステップ(の原型)です。つまり、12ステップというのはAAが誕生した後で成立したのではなく、最初に12ステップ(の原型)があり、それを使って人を支援することを目的にAAが作られたのです。

「相互」支援とはいうものの、ビルとボブの立場は対称ではありません。ボブは「受け取ること」で助かり、ビルは「手渡すこと」で助けられています。この非対称性というのも12ステップグループの特徴なのでしょう。この一対一の関係を抜きに12ステップは語れません。

12ステップは「ミーティングで自分の正直な話をすることで回復していく」というやり方とはずいぶん違います。ナラティブなやり方に基づいた自助グループというのは、それはそれで役に立つことは疑いもありません。しかし、AAはあくまで12ステップが基本であり、AAは自助グループと呼ぶのは適切とは言いかねるのです。

(AAが自らを self-support と呼ぶことがありますが、これは伝統7による経済的自立を示すにすぎません)

しかし悲しいかな、相互援助グループなどという言葉を知る人は少なく、人々は「自助グループ」という言葉でネットを検索します。当面は自助グループという言葉を使った方が便がよいわけです。であるものの「AAは自助グループのひとつです」と言って済ませておくのもなんだかなぁ〜。

最近はこの雑記とリンク集ぐらいしか更新していませんが、2013年は全般に手を入れられたら良いな・・と思うのですが、まあ時間が取れたらってことにしておきましょう。


2012年12月25日(火) 信じることについて

クリスマスですから、何かそれっぽい話を書いた方が良いのでしょうか。

ウィリアム・L・ホワイト先生は、アディクションからの回復を担っているグループを3つに分類しました。

ひとつは宗教的なグループです。例えば Alcoholics Victorious(AV)はクリスチャン向けのグループです。またイスラム教徒向けのグループもあるそうです。こうしたグループへの参加は、その宗教の信徒であることが前提です。

一方、神概念を廃した世俗系のグループもあります。SMART RecoverやSecular Organizations for Sobriety(SOS)がここに入ります。日本の断酒会もここに入るのでしょう。

そして、この両者の中間に霊的(スピリチュアル)なグループが存在します。特定の宗教には属さないものの、神概念を使っているグループです。AAを始めとした12ステップグループがここに分類されます。

AAとか12ステップというのは、宗教と世俗の間に位置しているわけです。AAの歴史を振り返ると、両者の間でどちらか一方に傾きすぎないよう、微妙なバランスを保とうと腐心している様子がうかがえます。AAが宗教になってしまったらそれはもうAAではないし、また逆に神という概念を捨ててしまったら、それもAAではないのでしょう。

さて、12のステップ では、その2番目のステップで「信じる」という言葉が出てきます。その次のステップ3では「神」という言葉が出てきます。12のステップは、AAに来た人や、AAに関心を持った多くの人の目に触れます。なのでこれを見た人が「宗教にそれぞれ神があるように、AAにも神があって、それを信じろと言っているのか」と解釈してしまうのも無理もないことです。しかしそれは早合点というものです。

ステップ3に、単に神と書かれているのではなく「自分なりに理解した神」と書かれていることに注目してください。この「自分なりに理解した」というのは大事なことなので、常に太字あるいはイタリックで強調されて表示されます。

原文 God as we understood Him は「自分なりに理解した神」と訳されていますが、その真意は「自分が理解できる神」です。

多くの人が宗教に拒絶感を持つのは、自分が理解できない神を信じなければならないと感じるからです。宗教は言います「私たちのこの神をあなたも信じなさい」と。それが信じられる人は幸いですが、それができない人は立ち止まるしかありません。そして、自分には神を信じることはできない、と思い込んでしまいます。

実際には人にはそれぞれ信じることができる(理解できる)神さまがいるものです。自分はどんな神さまなら理解することができる(信じることができる)のか、自分に問いかけることが大事です。

ここで難儀する人には、僕はこう問いかけます。「あなたに金を与えてくれる神さまがいたら、信じてみたいと思いますか?」「カレシ(カノジョ)を与えてくれる神さまがいたら、あるいは地位や名声を与えてくれる神さまだったらどうでしょう?」。そのように、自分の欲望を都合良くかなえてくれる神さまだったら、信じられるのじゃないでしょうか。それが、「今のあなた」が理解できる神なのです。

もちろん、それに対して、神さまに自分の都合の良いことばっかり望むものじゃないよ、とたしなめる人もいるでしょう。そのことは、もっと理解が進んでから分かることで、ごく限られた理解しかできない状態にあっては雑音でしかありません。

ビッグブックは「ほかの人が信じる神のことは考えなくてよい」と言っています(p.67)。また、自分の神の概念は「あまり適当でなくても、自分なりの考え」で良いと言っています。「出発に必要なのはそれだけ」です。

「そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても」

誰もが今自分がいる場所から出発するしかありません。長野にいる僕が旅行を始めようと思ったら、ニューヨークから始めるわけにはいきません。今自分がいる場所からです。「信じる」と言うことについても同じです。誰もが今の自分の理解から始めて、それを深めていくしかありません。

ステップ2で必要なことは、その「自分に理解できる、自分より大きな力を持った神さま」が、自分のアルコールの問題を解決できる能力も備えている、と信じることです(自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じる)。

だから12ステップが信じろと言っている神は、あなたがすでに信じている神さまです。それは周りの人が聞いたら眉をひそめるようなものかも知れませんが、それ以外のところから始めることはできないのです。それは、マイ・ゴッドであり、私のハイヤーパワーです。ビッグブックでも a higher power とか a god という表現があります。これは人それぞれに神があることを示しています。

そして、先のステップへと進んでいけば、それつれて理解は広がり深まっていくでしょう。ステップの効果が出て、神との自分との間の障壁が取り除かれるにつれ、自分の信じる神と、他の人の信じる神と違いが問題ではなくなっていきます。ビッグブックには Creator(宇宙の創造主)とか Father(父なる神)という表現がありますが、そうした「とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのこと」も受け入れられるようになっていきます。そうした、他の人の信仰に対して理解が及ぶようになるのも、霊的なめざめの一環でしょう。

ビッグブックを書いた最初の100人のうち半分は無神論者あるいは不可知論者だったそうです。無神論者というのは、神を信じないのではありません。彼らは無神論という神を信じている、と言われるように、「神が存在しないことを証明できる」と信じている人たちです。(だから日本には無神論者はほとんどいないでしょう)。そんな彼らもやがては信じるようになり、何かの宗教の信徒になることを好むようになったとあります。(宗教に入るかどうかは、その人それぞれの選択ですが)。

12ステップの実践も、霊的な事柄への理解も、今自分がいるところから始めて一歩一歩進んでいくしかありません。12ステップは「この神を信じなさい」とは言いません。けれど、あなた自身が、すでに何らかの神を信じている、ということは信じなければ始まりません。あくまで自分の力、自分の意志の力で酒をやめていこうというのなら、ステップ1の無力を認める以前の段階なので仕方ありませんが、ステップ1がきちんとできた人には、ステップ2はまったく難しくないことだと思います。


2012年12月24日(月) スポンサーの死

(最初の)スポンサーが亡くなりました。年賀欠礼のハガキが届き、奥様に電話を掛けてみたところ、ガンの闘病を終えて先週亡くなったと知らされました。スポンサーと最後に会ったのは、何年前だったのか思い出せません。それほど会っていませんでした。

僕が彼と出会ったのは、彼のソブラエティがまだ1年半ほどだったと思います。長野県内で断酒会が成立したのが1970年代だそうですが、その頃から彼は何とか酒をやめようと苦闘し、十数年後にようやくAAでまとまった期間、酒をやめ始めた、という頃でした。

気性の激しい人で、キレると男二人がかりでないと止められませんでした。エンコ(小指)がなく、「俺は酒のせいでヤクザもできなくなったんだよ」が口癖でした。刑務所の中の話も良く聞きました。その人が、理屈ばっかり言う僕のスポンサーをよくキレずに務めてくれたものだと思います。いや、キレそうになるのを堪えている様子はよく見て取れました。それまで失敗続きで、誰か一人ぐらい助けなくちゃと思っていた、と後年語っていましたが。

活動量の豊富な人でした。僕がつながったグループは実質彼と奥さんだけのグループでしたが、週に二回、水曜と土曜のミーティングを休まずに開けていました。それから当時隣県には県庁所在地に唯一AAがあるだけでしたが、その会場すら維持するメンバーがいなくなったため、毎週火曜と金曜の会場も開に行っていました。それから、僕の住んでいた街にあった月に1回の会場や、僕の入院した病院のAAメッセージを維持していたのも彼でした。現在、長野県内にはおそらく70人ぐらいのAAメンバーが酒をやめているでしょうが、県南部のAAの礎を作ったのが彼でした。また隣県のAAも、彼なしには維持されなかったでしょう。

さらに、僕が会うたびに「昨夜は東京のミーティングに出た」とか「先週は大阪に行った」という話を聞かされていました。易々と県境を越えてAAの活動していたメンバーが、20世紀にはたくさんいましたが、彼もその一人でした。

AAのグループやメンバーが増えて行くに連れ、彼はローカルなAAの先駆者として精神的なリーダーに祭り上げられていきました。AAにリーダー(指導者)がいないわけではありません。AAのリーダーは号令を掛けるのではなく、模範を示すことによって人々を導いていきます。どこであれリーダーは必要とされるものです。彼は「俺にはふさわしくない」と苦情を申し立てましたが、僕も含め周囲が彼を奉るのをやめることはありませんでした。

尊敬を受けることで彼の中に沸き上がる様々な欲が、彼自身をさらに悩ませ、最後彼はAAから身を引きました。そうして残された僕らは、自分で判断して、自分でその結果の責任を負う、という精神的自立を求められました。やがて彼の存在を知らないメンバーが増えていきました。

飲んでいた頃、酔っぱらいながら彼の家を訪問したことが一度だけあります。その時、僕は「あんたのAAを俺に任せたらメンバーを100万人にしてやるぜ」と彼を挑発したおかげで(!)、ずいぶん後になって彼から「お前は本当に狂っているから気をつけろよ」とからかわれることになりました。でも不思議なのは、まだ自分の酒すら止まっていなかった僕が、なぜ「あんたのAAを俺に任せろ」と言ったのか。彼のAAに対する無闇な愛情に、すでに僕も感化されていたのかもしれません。

彼はステップ1も2も3も、ともかくミーティングに行けとしか言いませんでした。当時のストーリィ形式のステップ5も聞かずに、他のメンバーに任せました。実のところ彼は、AAのプログラムのことなんか、まるで分かっちゃいなかったのだと思います。まるで分かっちゃいなかったけれど、それでもともかくAAを愛し、信じていた。仲間を助け、その中で自分も助けられるのだと信じていました。あの頃は、そういうタイプのAAメンバーがたくさんいて、その人たちによってAAは全国に広がりました。

彼らによってAAという「器」は全国に広がりました。後からやってきた僕らは、そのAAという「器」の中で、ともかく酒をやめることができました。今、僕らの世代に求められていることは、彼らが用意してくれた「器」に「中身」を盛ることなんだと思います。

彼がAAを離れてからは、滅多に会うこともなくなりました。彼が若い頃の無茶な生活のせいで体を痛めていて、しばしば入院するようになったことも聞いていましたが、見舞いに行ったのは一度きりでした。「俺の前に来るより、その時間で新しい人の相手をしろ」という言葉に甘えて、そのうちにと先延ばししているうちに、その日は来てしまいました。

僕のやり方は彼のやり方とは全然違います。でも彼の目標を僕の目標として受け継いでいる、という自負はあります。感謝を伝えることは滅多にしなかったけれど、彼があの頃キレるのを堪えたことは、決して無駄ではなかったと思ってもらいたい。それが僕のするべき感謝の示し方だろうと思っています。彼が身を引いた苦しみ悩みもよく分かります。だが、あえてそれを引き受ける者がいても良いと思います。

スポンサー夫妻は、AAミーティングに部屋を借りている教会の信徒になっていました。教会の定例のミサの中で彼のことを追悼すると聞いて、半日仕事を休んでミサに出席させていただきました。奥様が一番良い写真を選んだのでしょう。「別人みたいだね」と皆でうなずきあいました。泣いている人もいましたが、自分はまず泣かないだろうと思っていました。だが、「また会う日まで」と賛美歌を歌いながら、ああもう会えないのだと思うと、ふいに涙が溢れました。

神ともにいまして 行く道を守り
  あめの御糧もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
  神の守り 汝が身を離れざれ


2012年12月19日(水) 頑張らない(発達障害)

発達障害を抱えたスポンシーと話をしていました。

彼は仕事(あるいは勉強)を「よし頑張ろう」と心に決めると、仕事や勉強を頑張るだけでなく、コップを洗うとか、その他いろんな事にも頑張りすぎてしまうので、1時間もするとへとへとに疲れ果ててしまうのだそうです。

う〜む。

「頑張らない」(頑張りすぎない)っていう言葉がありますが、これはまさに発達障害の人のためにあるような言葉だなと思った次第です。

過集中の結果で頑張りすぎてしまう場合もあるでしょう。また自閉的特性がある場合は、ほど頑張るという「ほどよく」という曖昧なところが把握できないから頑張りすぎてしまうこともあるでしょう。

この「ほどほど」とか「ちょうど良いところ」が分からないのも発達障害の特性の一つです。

発達障害の解説本に出てくる例を挙げれば、ほうきを手渡して「この部屋を適当に掃き掃除しといて」と頼んでも、その「適当に」がわかりません。なのでむやみに時間をかけて丁寧にやっていたり、あるいは逆にずさんだったり、または「適当に」が分からないので混乱して途方に暮れたりとか・・・。

だから例えば「3分間かけてこの部屋全体を掃いて、最後にちりとりでゴミを集めて捨てたら終わり」という具体的な「適当さ」を指示することが必要なのでしょう。それができて、さらに「今日は汚れが酷いから3分じゃなくて5分かけてやろう」とかいう調整が自分でできるようになれば、適応に問題なくなると思います。

(ただ、掃き掃除のほどほどが把握できても、それがぞうきんを使った拭き掃除に応用できるかどうかは別ですが)。

だから、先ほどの頑張りすぎてしまう、集中しすぎてしまうっていうことに対しても、ただ「頑張らない」「頑張りすぎない」って言っているだけではダメなのでしょう。例えば「1時間のうち、20分間は意識的に集中して取り組んで、30分は集中できなくていいのでともかく取り組んで、残り10分は休憩」とかいう具体的な話をすれば(あくまで例ですよ)、ほどほどに頑張ることができるってわけなのでしょう。

話は変わって、AAのビッグブックはビル・Wの修辞に満ちた文章で書かれています。

 修辞:ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること〜広辞苑より

発達障害を抱えた人がビッグブックを読むと、ビルの修辞法によって混乱させられてしまうことはしばしばです。

例えば42ページには「最初はか弱く見えた葦が、実は神の力強い愛の手であることがわかった」という文章があります。これだけ読んだら「なんのこっちゃ」ですが、前後の文章や、ビッグブック全体の組み立てを見れば、意味は分かります。

ビッグブックが書かれた時代、つまり初期のAAメンバーたちは、12ステップ(の原型)によってアルコホーリクが回復できるのか心許なかったわけです。「か弱い葦」というのは頼りなさの表現です。けれど、最初はビル・W一人から始まった12ステップが、3年ほどで数十人を回復させるだけの実績を残しました。その結果、彼らは12ステップには確かにアルコホーリクを回復させる力があると確信を深めた、というわけです。それが「力強い神の愛の手」という表現です。

ところが「ここに出てくる<神>って何だろう」というような細部に囚われてしまうと、ビルの言いたいことがくみ取れなくなってしまいます。

だから、「最初はか弱く見えた葦が、実は神の力強い愛の手であることがわかった」という文章を、「最初は私たちも12ステップでアルコホーリクが回復できるのか自信がなかったが、多くの実績が積み上がるにつれ、確かに12ステップで回復できるのだと確信を抱くようになった」というふうに修辞を解いた文章にして伝える必要があるわけです。

他にも、ビル・Wは同じ事を同じ言葉で表現することを嫌い、別の言葉で言い換える傾向が強くあります。

12ステップの文章を見ても、ステップ5では「過ち」とあり、ステップ6では「欠点」とあり、ステップ7では「短所」とあります。(それぞれ英語では wrongs、defects、shortcomings)。これはすべて同じ事を指し示しています。それを「欠点」と「短所」ってどう違うのか、っていう細部にとらわれてしまうと、そこで理解が止まってしまいます。

他にも、ビッグブックには「酒をやめる」という言葉が何度も出てきます。逆に酒が「やめられない」という言葉も出てきます。ここでいう「やめられない」とは、毎日飲んでいる酒を切って断酒することができない、という意味で使われているケースは(あるにはあるが)少ないのです。そうではなく、自分の力で再飲酒を防ぐことができない、ということを指して「酒がやめられない」という言葉を使っています。

だから「飲み始めの早いうちだったら、私たちのほとんどは酒をやめられたろう」という文章の意味は、アルコホーリクになる以前だったら、自分の(意志の)力で再飲酒を防いでいくこともできただろうが、もう本物のアルコホーリクになってしまっているなら、意志の力は酒の魅力の前にいつかは敗れ去り、未来のどこかで飲んだくれに戻ってしまうのじゃないか・・という問いかけの一部なのです。

ビッグブックってのは、なんで70年以上前の、こんな分かりにくい文章のまま使っているんでしょうね。その理由は僕にも分かりませんが、聖書もシェークスピアもそのまま使っているじゃないか、と答えることにしています。


2012年12月12日(水) 上から目線

上から目線についての話をする前に、世の中の序列について話をしなければなりません。

世の中、何にでも序列ができるのは避けられません。例えば、あなたがスイミングスクールに入って水泳の上達を目指すとします。スクールの会員は全員平等です。しかし、目的が水泳の上達なので、そこに優劣が生まれます。泳ぎのうまい人は、このようなフォームだと早く泳げるとか、息継ぎやターンのやり方、トレーニングの工夫など、いろいろなスキルを持っています。ビギナーにはそれがありません。だから、ベテランはビギナーに教えることができます。

世の中、どこへ行っても、こうした何かの基準で序列や上下関係が生まれることは避けられません。

けれど、例えば会員が集まって忘年会をやりましょう、という話になったとき、ベテランの意見が重視されるとは限りません。むしろ親睦を深めるために、新しい人たちの都合にあわせて日取りを決定することも十分あり得ます。これが平等性というものでしょう。

目的が序列や上下関係を作り出す。しかし、目的とは無縁な評価基準はここに持ち込まないのが集団の平等性、民主制ということでしょうか。

泳ぎがうまくなりたい人は、コーチやベテランから教えられても「上から目線が気に入らない」とは思わないはずです。思わないのは、教えてくれる相手の持つ技量への敬意があるからでしょうね。自分もそれを欲しいし。

一方、初心者が別の初心者の泳ぎを見ながら「あいつは息継ぎが下手だなあ。具体的には××が○○で・・」などと言っていたとすれば、「お前も初心者で、自分もできてないのに、上から目線で何を言っておるんじゃ!」となるでしょう。

つまり「上から目線」と感じるかどうかは、相手の態度の問題というより、自分が相手をどう評価しているかにかかっています。自分が相手を高く評価していれば「上から目線」とは感じないし、相手を低く評価していれば「上から目線」と感じる、というわけでしょう。「上から」という表現そのものが序列を前提とした言葉です。

ところで、最近ネット上では「上から目線」に対する批判が目立つような気がします。

確かに「上から目線」は気持ちの良いものではありません。しかし、そう感じるかどうかは自分の問題ですから、「上から目線は良くない」と主張するのも何かしっくりきません。

そこで言われている「上から目線」は、上の例で言えばベテランに教えてもらっているのに、それが気に入らないという怨嗟の声です。(会社の新人教育担当者の態度が上から目線で気に入らないので、入ったばかりの会社を辞めちゃった、みたいな)。

「上から目線」への抗議は、ルサンチマンなのではないでしょうか。

ルサンチマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3

上に書いたように、社会の中ではどこでも序列が発生しうるため、人は誰でも何らかの序列の下位に置かれることを避けられません。その人に能力や意欲があり、周囲の状況が許すのであれば、その序列の上を目指すことができます。しかし、それができない時に、人はルサンチマンによって自分を正当化します。

貧乏から抜け出せない時に、金持ち(資本家)を敵と想定して、「あいつらは悪人だ、だから俺たちは善人なんだ」という正当化がなされるわけです。これは想像上の復讐です。

努力しているのに貧乏から抜け出せないとか、何らかの制約によってその努力すらできない、という人がルサンチマンに一時の慰めを求めるのは理解され、同情されるべきことなのかもしれません。

しかし、「上から目線」への抗議は、同情されるべきルサンチマンとはどこか異なっている気がします。自らの無気力や怠惰に気づきつつ、それを自己正当化するために、問題を相手に転嫁する独善的な臭いが漂ってくるのです。「あいつは上から目線だから良くないのだ。だから私のこの反感は正当なのだ」という論理です。

では、自分がその類の自己欺瞞に陥らないためにはどうすればよいか。その答えは平安の祈りの中に見つかるのではないでしょうか。


2012年12月07日(金) 常識を疑え!

常識が非常識になる(Common sense would thus become uncommon sense)とは、ビッグブックの「ビルの物語」に出てくる言葉です。それまでの自分にとって常識だと思っていたことが、実はそうではなかったという気づきを示しています。

ジョー・マキューの言葉によれば、狂気とは「真実でないこと(虚偽、false)を信じること」です。回復とは、それまでのその人の常識が、実はそうではなかったと気づきがあるプロセスです。

僕が初めて出席したAAミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」と呼ばれるスタイルでした。人が話をしている間は黙って聞き、自分の番が来たら話す。クロストークが排除された形式で、AAで最も一般的なやり方です。そのグループのミーティングはすべてそのスタイルでしたし、他のグループも同様でした。

AAのオープンスピーカーズやセミナーと呼ばれるミーティングでも、同じスタイルでした。AAと似たようなグループでも、概ね同じ形式のミーティングをやっていました。

だから、AAの「すべての」ミーティングが「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルで行われているはずで、AAとはそういうものだ、という常識が僕の中に形作られました。後になってそれは勘違いだったと分かるわけですが。

2004年頃に、スクリプト・ミーティングというのに出会いました。スクリプトとは台本のことです。通常の「言いっぱなしの聞きっぱなし」ミーティングに台本なんてありません。誰が何を話すか分かりませんから。けれど、スクリプト・ミーティングは参加者が台本を読み上げることによって進行しますから、内容は台本どおりになります。(実際には短い体験の分かち合いや質疑応答もあるので、厳密に毎回同じではないけれど)。

スクリプト・ミーティングに対しては「そんなやりかたはAAミーティングとは言えない」という意見もありました(僕も最初そう思った)。「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルのミーティングが最もポピュラーなのは間違いがありませんが、それ以外のミーティングを行ってはならない、という決まり事はAAにはありません。

この雑記でよく取り上げる「ジョー・アンド・チャーリーのビッグブックスタディ」は、ジョーとチャーリーの二人が聴衆に向かってひたすら語るという、いわば講演形式ですが、でもこれもAAのミーティングとして大変に人気があり、これを聞いた人は20万人とも50万人とも言われます。

また、1950年代までのアメリカのAAでは、教室形式でビギナーに12ステップを教える「ビギナーズ・クラス」が行われ、高い成果を上げていたそうです。

数年前にある人がアメリカのAAミーティングに行ったところ、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を書きながら12ステップを説明していて驚いたそうです。これが普通のAAグループのミーティングとして毎週行われているというのです。こうしたやり方に対して反発はないのか心配して聞いてみたところ、「全くない」という返事でした。これが嫌なら別のミーティングにいけばいいのだから、何の不都合があるのだ? と逆に問い返されたそうです。

「言いっぱなしの聞きっぱなし」のミーティングでは参加者の体験が分かち合われます。このスタイルのミーティングしか出席したことがなければ、AA(や他のグループ)は分かち合いをするところで、分かち合いこそが目的であると考えてしまっても不思議ではありません。それが僕の勘違いでもありました。

すべてのAAミーティングには共通した目的があります。12ステップを伝えることで参加者一人ひとりに回復をもたらすのが目的です。分かち合いはそのひとつの手段に過ぎません。目的達成のために、別の手段を使うのもありでしょう。

もちろん、「言いっぱなしの聞きっぱなし」スタイルには利点があるから大部分を占めるに至ったのでしょうし、今後もAAで最もポピュラーな形式であることは疑いありません。

神さまと違って人間の能力は限られているので、全てのことを見聞き出来るわけではありません。自分の手に入る限りの情報から導き出した結論が、実は真実ではない、ということもあり得ます。まったくのウソではないにしても、局所解に過ぎないってことはよくある事です。

実際に講座形式のミーティングをやってみたら好評でした(講座というより会議みたいだったという話もありました)。僕が「ミーティングとは言いっぱなしの聞きっぱなしのみ」という虚偽の情報に囚われていたら、この新しい体験は得られなかったでしょう。

(自分の中の)常識を疑え!、というのが大切な姿勢だと思います。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加