ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年02月16日(日) 一粒の種

雨上がりの曇り日。気温は14℃まで上がり暖かな一日となる。

ご近所に寒桜の樹があるのだが例年ならそろそろ咲く頃であった。

しかしわずか百メートル足らずの距離を歩くことが出来ない。

情けないことである。ささやかな春を目に浮かべるばかりであった。


サニーマートで古い友人に久しぶりに会った。

マスクはしておらず肌艶の良さにはっと驚く。

彼女は人一倍行動力を備えており躊躇わず何処にでも行く。

以前には岡山の倉敷まで一人で行ったこともあった。

アマチュアカメラマンで県下でも認められておりその腕前は凄い。

コロナ禍前までは度々あって写真を見せてもらうのが楽しみであった。

けれどもこの四年程の間にそんな機会も遠のいてしまっていた。

友人と呼んで良いものか。彼女には大勢の友人がいるようである。

ほんの立ち話であったが彼女が眩しくてならなかった。

私がどれ程努力をしても彼女に手が届くことはないだろう。




山里の義父の事が気掛かりであったが電話もせずに過ごしていた。

おそらく安静にはしていなかったことだろう。

工場は休みだが田植えの準備をしなければならない。

まるで米作りに命をかけているように思われる。

明日は会えるが少しでも元気を取り戻していることを願って止まない。



最低限の家事だけで後はひたすら寝て過ごす。

「また夜眠れなくなるぞ」と夫に云われ3時には起き上がっていた。

退屈でならずまた昔の日記を読み返すばかりである。

今日は8年前の2月と3月の日記を読んだ。

あやちゃんは4歳、めいちゃんは2歳である。

その頃はよく一緒にお風呂に入っていたようで懐かしくてならなかった。

今では着替えをしている姿でさえ見ると怒られてしまうのだ。

もう幼子ではない。二人とも少女の階段を上り始めている。

あやちゃんはもう大人の階段と云っても過言ではないだろう。

ふれあうことは殆ど無くなり会話も随分と少なくなった。

ただ二人ともおじいちゃんの夫とはよく話すようだった。

私はきっと「ウザい」のだろう。それも過度の老婆心のせいかもしれない。



いつまでも変わらない事など在りはしないのだと思う。

この私でさえ数年の間に随分と変わったと自覚している。

足が不自由になったせいもあるが行動力はすっかり失せてしまった。

日に日に老いが身に沁みるようになり「いのち」の不安が付き纏う。

前途が心細くてならないのだ。未来などあって無いに等しい。


けれども生きたくてならずもがき続けているような日々であった。

種を蒔けば芽が出てやがて花が咲く日も来るだろうが

その種を蒔く行為に躊躇っているように思う。


たった一粒の種を手のひらに載せひたすら春を待っている。


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