mortals note
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2005年09月10日(土) |
IE/047 【INSOMNIA】 01 |
1.wormth/境界線
胡蝶の夢、という言葉を知っているか? 古代の思想家が、蝶になる夢を見たのだという。 やけになまなましい夢で、体の隅から隅までも、完璧に蝶になった気分になったのだという。 端と目が覚めて、彼は考える。 私は蝶になった夢を見たのだろうか。 それとも、蝶が私になった夢を見ているのだろうか。 夢なのか、現なのか。 どちらでも、それは別に、変わらないのかもしれない。
*
三十六度前後。 人間が、触れて安堵する温度なのだという。 ぬるま湯に浸かるのが気持ちいいのは、人肌の温度と同じだから、なのだろう。 ―――本物には勝てないけれど。
耳元にくちづけてみる。かすかに香水のかおりがする。 男と女とでは、肌のつくりまで違うような気がする、と毎回感じる。 体を構成する組織が、違っている。 そんなはずはないのに、そんな気がする。 やわく、脆い。 それなのに、寛容で、頑丈だ。 男なんて、肝っ玉が小さくて、虚勢を張るくせにすぐに尻尾を巻く生きもので。 その点、崖ッぷちに立つと女って奴はたくましい。 男は一生、女の懐の中から抜け出せないんじゃないのか。 自分より華奢な体を抱き寄せたりするたびに、そんな哲学みたいなことを考える。 「今日は、仕事はいいの?」 甘さを含んだ声がすぐ傍で聞こえる。 試されているんだろう。 時間、大丈夫なの? 仕事は平気なの? いざというときに、現実に引きずり戻すような問いを投げかけるのは、女が持ち出す試練だと思う。 強かで狡猾だ。それがまた”女らしい”。 「いいの」 髪に指先を絡ませてやって、こめかみあたりに唇を押し当てると、小さな笑いが咽喉から零れる。
女らしい女は、いざとなったら逞しい。 それを理解して利用している自分は、卑怯者だ。 ひとつところに留まる度胸なんてないくせに、人肌の心地よさから離れられない。 なんて女々しい。 「もう、いいから」 黙れよ、と格好よく言おうとしたところで。 けたたましく、携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
今まさに、相手に体重をかけて押し倒そうとしていたところだった。 がっくりと、恋はうなだれる。 しばらく黙っていたら鳴り止まないだろうかと祈ってみたのだが、部屋の入り口付近に脱ぎ捨てたジャケットの内側で、携帯端末は激しく自己主張を続けていた。 「……悪い」 続行を諦めて、恋はスプリングをきしませて、ベッドを下りる。 上着を拾い上げて、鳴動を続ける端末を引きずり出した。ランプの色は、赤。 見紛うことなく、とあるところからの呼び出し、だった。 耳元に当てると、音声ガイダンスが集合時刻と場所を告げる。
「ひとつ、言ってもいい?」 ベッドのほうから、しらけた声が投げつけられた。 出来れば聞きたくはないが、そういうわけにも行くまい。 申し訳なさそうに振り返れば、不機嫌な顔と目が合った。 「なんていうか、毎回毎回おんなじ展開なんだけど。っていうか、アンタ一体何の仕事してるのよ?」 据わった目に睨まれる。 弁解の仕様もない。 「……だから、警備会社だって言ってんじゃん」 言い訳をする子どものような口調になってしまった。 「バカッ!」 一喝。 「こんなにぽんぽんと呼び出しが掛かる警備会社なんてどこにあるのよッ! アンタまだ私に嘘ついてるでしょ!」 「ついてないって! ホントごめん! 今度埋め合わせするから!」 こう言うときは逃げるが勝ちである。 恋は、いそいそとジャケットを着込むと、脱兎の如く逃げ出した。 俺だって、逃げたくって逃げてるわけじゃないっつーの。 盛大に肩を落としつつ、恋は扉を閉ざした。 何かがぼすり、と扉に当たる音が聞こえる。おそらく枕だ。
強かで逞しい女らしい女は、こう言うとき強い。 ……だから助かるのだ。
建物の外に取り付けられた、金属の階段を駆け下りる。けたたましい音がそこいら中に響き渡った。 手すりを引っつかんで、踵を高らかに鳴らして地上を目指しながら、恋は端末を操作する。 短縮ナンバーを押して、耳に当てた。
《恋、今どこですか》 「おーまーえーなぁッ!」 間髪いれずに帰ってきた女の声に、恨み辛みをぶつけてやる。 「いいか? 俺は今日休暇だぞ、休暇。いいか分かるか、休みだ! ホリディ!」 手を変え品を変え、休みだということを連呼してやる。 一瞬、端末の向こう側が押し黙った。 効き目アリか? と思ったのも束の間。 《今どこですか》 単調な女の声は、同じことを繰り返した。 「……分かってるんだろそれぐらい。お前についてるGPSは飾りモンか?」 怒鳴る気力も失せて、恋は階段を駆け下りるのも止めた。 とん、とん、と残りの階段を緩やかにおり始める。 この分だと、相棒は近くまで来ているのだろう。 《そろそろ、近くに到着します。大通りに車を回しますから、出てきてください》 「休日出勤分の手当ては出るんだろうな」 《それは課長に言ってください》 ぷつり。 愛想悪く、通話が切れた。 沈黙した端末を見下ろして、恋は一際渋い顔をする。 緊急の呼び出しが、嬉しい報せだったことはただの一度もない。 「あー、今度はどうやって埋め合わせすっかな……」 一二発、平手は覚悟しておかなければならないだろう。 これから与えられる仕事と、飛び出してきた部屋の主と。 どちらに思いをめぐらせても、憂鬱だった。 残りの段差を足早に降りて、狭く荒れた裏路地から大通りを目指して歩き出す。 掌におさまるサイズの携帯端末を、ジャケットのポケットに押し込んだ。
*
路地から大通りへ出ると、図ったように黒塗りの車が滑り込んできた。 恋は不機嫌を顔に出して、助手席の扉を引く。 「お疲れ様です」 「まったくだ」 お定まりの挨拶に、棒読みで応えた。 座るなり、シートを後ろに大幅に倒す。 「シートベルトはしてください」 「息苦しい」 「警察に捕まったときに恥ずかしい思いをして、なおかつ課長に怒られるのは貴方ですよ」 無言で、恋はシートベルトを引き寄せた。 二十六の男を捕まえて、怒られるという表現が適切かどうかは置くとして、本当に怒られるのだから、仕方がない。 ゆるやかに、車が滑り出す。 恋は横目で、運転席におさまる美女を盗み見た。 曲線を描く金の髪は肩から滑り落ち、肌は陶器のように白く、真っ青な目は大きい。 万人が認める美女である。 つくりものめいた印象は仕方がない。事実、彼女はつくりものなのだから。 「で? 今回の召集は何が目的だ? お呼びが掛かってんの、俺らだけじゃないだろ」 視線を相棒である補佐用サイボーグからフロントガラスの向こう側に移して、恋は本題に入った。 「殺人事件です」 「あ?」 項のあたりで両手の指を組み合わせて、顎をそらす。 聞き間違いでもしたのかと、恋は聞き返した。 「猟奇的な殺人、と言うべきでしょうか」 律儀に、相棒は言い直した。 「ちょっと待てよ、殺人事件?」 「聞こえませんでしたか?」 「……殺人事件は警察の管轄だろが」 殺人事件。しかも猟奇的な殺人だなんて、恋の勤め先が担当する案件とは違うのではないだろうか。 「そういうわけにもいかないようです」 涼やかな美貌のサイボーグは、フロントガラスの向こうを真っ直ぐに見据えている。 「殺人現場に手紙が残されていて―――」 フィメはハンドルを右手に切った。王宮へと続く、なだらかな上り坂へ差し掛かった。 「手紙には封印が」 「封印、ね」 旧い慣習だ。貴族が今も好んで行う手法でもある。 手紙の封に熱した蝋をおとし、その上から自分の紋章が刻まれた判を押す。その手紙が、自らのものであるということを知らしめる、自己顕示欲の強い人間が好む手法だった。 「その紋章が、若くして亡くなられた先王弟、カルゼン様のものでした」 「なんだって?」 とうとう、恋は背もたれから身を起こした。 おざなりに流せる内容ではなかった。 相変わらずの鉄面皮で、フィメは前方を見据えている。その横顔からは、何の感情も窺い知ることは出来なかった。 こういうとき、彼女が機械であるということが憎たらしく思える。 「殺人犯が誰であるとしても、王族の名がそこに使われている以上、看過するわけにはいかない。それが、近衛課の総意です」
それ以上の説明は求めずに、恋は再びシートに身を埋めた。 吐息をひとつ落とし、双眸を閉ざす。 目蓋の裏に、長い廊下が浮かび上がった。 赤い絨毯が敷き詰められた道のつきあたりに、大きな扉が控えている。 向こう側に押し開くと、眩しい光が溢れ出す。そう、彼の部屋はいつも、光に溢れていた。 青々とした葉を伸べる植物を、傍に多く置きたがる人だった。 私室には、天蓋つきの寝台がひとつ。 彼は、まるで生まれたときから定められていた場所であるかのように、そこにいた。 眩しい光を背に、顔は見えない。どんな顔の人だったか。 ベッドの傍らへ歩み寄ると、本から顔を上げて、微笑む。 幼い頃のおぼろげな記憶を手繰っても、顔の仔細まで思い出すことは出来ない。ただ、その人は儚かった。それだけは覚えている。
―――私は君の父上に感謝しているんだ。 いつだったか、あたたかい手を頭の上に優しく乗せて、彼はそう言ったことがある。 ―――私はこんな体だから、兄上の助けにはなれないからね。 ―――叔父上は博識で視野が広いから、とても助かると、父上は言っていました。 今にも消えてしまいそうなその人を励ましたかったのか、幼子は父の言葉を素直に伝えた。 やわらかく頭を撫でる手がふと止まり、叔父の瞳は大きく見開かれ、そして困ったように笑った。 こちらの髪を、より一層いとおしむように撫でた。 木漏れ日の中で静かに呼吸している。叔父について記憶しているのは、それだけかもしれない。
破裂するように、扉が開かれた。 息せき切って駆け込んできた衛兵が、顔から色を無くしている。 敬礼も忘れるほど取り乱し、震える唇で。 ―――カルゼン様が!! 次の瞬間には、走っていた。 長い、赤い絨毯を引いた廊下が今は揺れていた。地面が揺れているのではない、ひたすら、走っていたのだった。苦しげな自分の呼吸が聞こえる。 儚げな笑顔が幾度も過ぎって消えた。 どうしてこんなにもこの廊下は長いのか。どうしてこの足はこんなにも、泥の中でもがいているようなのか。 叩き割る勢いで扉を開け放った瞬間、目に飛び込んできたものは―――。 床に転がっている、飴色の瓶だった。 ぽつりぽつりと、まるで菓子のようにぶちまけられている錠剤と、病的なほどに白い、その腕。
「カルゼン様は病死ということになっていますが」 相棒の単調な声に、恋は記憶の底から引きずり戻された。 「表向きは、な」 億劫に、恋は答える。 「薬物自殺というのは、本当なのですか」 サイボーグは、相棒に冷えた青の視線を流す。 恋は視線を合わせようともしないまま、沈黙で答えた。 「……妙ですね」 どうも腑に落ちないらしく、フィメが呟いた。 「何がだ?」 優秀なサイボーグは柳眉をひそめていた。 「件の殺人犯は、どうも復讐を謳っているようなのです」 「復讐だって?」 「自分は暗殺されたのだと」 恋は大袈裟に、唇をへの字に曲げた。 「それは、そいつが偽者だからだろ」 「現場に残されていたのは、暗殺のあらましを克明に記した手紙だそうです。それをあなたに見せたいと、グレゴリ卿が。あなたの意見を聞かせて欲しいようです」 「馬鹿げてる。暗殺なんてありえないだろ、妄想だ」 「しかし、世間には病死としか発表されていないにも関わらず、その手紙には”薬物自殺に見せかけた暗殺”という表記があるようです。いささか妙だとは思いませんか」 「カルゼン殿下は元々病弱だったとはいえ、病死にしては突然すぎたんだ。黒い噂がいくらでも当時は飛びかってたさ。そのひとつに色をつけただけじゃないのか」 あくまで恋は懐疑的だった。 現場に残された手紙が的を射ていたとしても、本人の姿が確認されたわけではない。それなのに近衛課が臨時収集をかけるのは、大袈裟にすら思える。 「私も、カルゼン殿下がご存命だと信じているわけではありません。ただ、執務官の方々がどうも落ち着かないのが気になります」 どうやら今回の臨時収集も、近衛課長飯田亜津子の手によるものではなく、もっと上部の執務官たちから発せられたものであるらしい。 「珍しいな。奴ら、何焦ってんだ?」 ポケットから煙草を引きずり出し、恋は半ばあきれた様子で相棒に訊いた。 「世間に全てを公表するつもりだ、と書かれていたようです」 「暗殺のあらましをか? へぇ?」 全く興味は湧かなかった。小馬鹿にしたように言い捨てて、恋は煙草に火をつける。 「ばらされて困ることがありすぎるんだよ、あいつらは」 「そうなのかもしれませんね」 フィメは大袈裟に頷いて見せた。 「手紙には、暗殺事件のあらましがとても克明に記されているようです。そのうえ―――」 思わせぶりに、美女は一拍をおいた。
「現在、国政に携わっている人物の名が、首謀者として挙げられているんです」
【TO BE CONTENUED】
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