mortals note
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「俺のうまれた村は、鉱山の麓の貧しい村で、戦がはじまってすぐ兵士が押し寄せてきた。鉱山を荒らすだけ荒らしてったんだ」 窓からそそぐ光を背に、フレイヤは凛と顔を上げて立っている。 まるで女神のような神々しいすがたに、体中がこわばる。咽喉はからからに渇いていた。 「鉱山が涸れて、兵士たちはいなくなって、村にはなにも残らなかった。鉱石が取れなくなったら、鉱山なんてただの荒れ果てた岩山なんだ。そんなところで暮らしてなんかいけない」
―――君から視えたのは、二本の大きな木が生えたうつくしい丘だ。
あの楽師の言うとおり、どれだけ故郷を離れても、生まれ育ったあの村を忘れたことなど一度もなかった。 「だけど、鉱山夫は鉱山じゃなきゃ生きられない。みんな散り散りに村を離れたけど、うまくなんてやっていけなかった。父さんは酒びたりになって、母さんもぶっ倒れて、どっちもあっさり死んじまった。妹は―――」 右の手にはまだ、ちいさな手のぬくもりが残っている。旅立ちの日に着飾ったエスリンが手探りで探し当てて、握った感触だ。 「妹は、ラインの乙女として死んだ」 彫刻のように立っていたフレイヤのおもてに、初めて驚きが広がった。 「遺体は返ってこなかった。どんな死に方したのかも教えてもらえなかった。あいつ、まだ十一だったのに」 残る感触を確かめるように、カイはゆっくりと右手を握り締めた。 「戦が全部持っていっちまった。俺は正義がどうとか国がどうとか、そんなことはどうでもいいんだ。ただ悔しくて苦しくて、何かしたかった。けど、何をしたらいいかずっとわかんなかったんだ。あんたたちのことは、噂で聞いてた。入れるもんなら入りたかった」 怒涛のように吐き出し、カイは深く息を吸った。 握った拳から顔を上げると、フレイヤが相変わらず女神の風格でこちらを見ていた。 その存在すら伝説だと言われてきた謎の反帝国組織。帝国に恨みを持つものにとって、ヒーローのようなものだった。 けれど。 「いざ飛び込んだら、またわかんなくなったよ。ここにいる奴らはみんないい奴ばかりだし、何かデカいことができそうな気がしてる。でも、どうしてもわかんないんだ。なんかさ、温度が違うんだよ。俺は……」 思わず一歩、足が前へ出た。 「俺はあんたの、何を信じたらいい」 机を挟んだ向こうにある、女神のような気高さに、縋ってもいいのだろうか。 「血筋とか金とか、俺はそんなものじゃわからない。むずかしい話をされても無理だよ。あんたは本当は何がしたいんだ。本当にただ、国のためだけに戦争をやめさせるためだけに、父親を殺すのか?」 美しい言葉なら、たくさん聞いた。 麗句がふくむ毒も知った。 掲げられた綺麗な旗だけで、すべてを信じることなどもう、出来ない。 大きな吐息とともに、フレイヤは真紅の瞳を伏せた。 迷いのない足取りで机を回り込み、カイの真正面に立った。 「わかった。すべて、おまえに見せよう」 己の背に腕をまわす。背骨に沿うように首のあたりまで続くボタンを器用にはずし始めた。 唖然とするカイの前で、フレイヤは喪服のような漆黒のドレスを、肩からするりと落とした。 何が起こっているのかに気がついて、カイは慌てて顔を背ける。 「べ、別に俺はそんな……!」 「見ろ、カイ」 耳まで赤く染まるカイに、フレイヤは叱りつけるような強さで言う。 「これがわたしが、聖都を追われた理由だ」 促されるまま、カイはぎこちなくフレイヤに視線を戻し―――声をなくした。 しみひとつない、雪のような肌。すらりと伸びた手足。 完璧な肉体に見えた。しかし。 胸と下半身とを見て、最後に姫の顔を見る。まばたきが出来なくなっていた。 美しい肉体にはどこにも、性別を示すものがなかった。 もう一度胸を眺める。なだらかな肌が隆起もなく、下腹部まで続いているだけだ。 救いを求めるようなカイの瞳に、フレイヤは口元にいびつな笑みを浮かべて見せた。 「わたしは、男でも女でもない半端者だ。わたしがいつまで経っても女にならぬと知って、父は私を忌み、遠ざけた。わたしにも今はもう分からないんだ。自分のしていることが一体、何なのか」 差し込む陽光に、白い肌が輝く。フレイヤはなめらかな胸に手をあてて滑らせた。 「戦がおかしいと思う自分も確かにいるのだ。国を憂う気持ちもある。けれど、もしかしたら父を倒したいという思いは私怨に過ぎないのかも知れぬ。しかし、わたしも黙ってなどいられないのだ。わたしは父を、倒すと決めた」 カイは呆然と、完璧な、けれども不完全な体を見つめた。 目の前にさらされた秘密を、うまく飲み込めずに戸惑っている。 フレイヤは毅然と、まるで挑むようにこちらを見据えている―――ように見えた。 毅然と? いや、違う。 そのとき、カイの内側で何かが音を立てて崩れた。 いつのまにか作りあげていた虚像、偶像かもしれない。 金縛りにあったような脚をぎこちなく動かして、カイは一歩、間合いを詰めた。 瞬間、まるで感電したかのようにフレイヤの体がふるえる。 そう。 彫刻のように毅然と凛々しく挑むようにだなんて、どうして思っていたのだろう。 大窓からの光を背負い、輪郭が曖昧に溶けているからよくは見えなかったけれど、彼女は先ほどからずっと、ふるえているのだ。 「もういいよ」 残りの距離を大股に歩み寄って、カイはふるえる肩を抱いた。 ふれあって初めて、肌の熱さを知った。 流れる血のぬくもりと、たしかなふるえ。 「もうわかった」 言葉だけで伝えることだって出来たはずだ。他人の前で裸になるには勇気が要る。姫として育てられ、更に誰にもいえぬ秘密を抱えた体なら、なおさらだ。 それを文字通り裸になってみせたのは、彼女の覚悟だ。 「わたしひとりでは、何も出来ない」 肩をつつむカイの腕に、フレイヤはそっと顔を伏せた。 「力を貸してくれ」 腕に触れた唇から、言葉はふるえとして体に響いた。 どんな美辞麗句よりもこのふるえが、確かなあかしだ。
美しいものも醜いものも、たくさん見てきた。 立派な言葉すべてを信じることなんて、もう出来ない。自分以外を信じることは、とてもおそろしいことだ。裏切られるかもしれないのなら、はじめから期待しないほうが賢い。 それでも。 信じてもいいと、自分の中の何かが囁いた。 「あんたについていく」 信じることは決して、愚かなことではない。
腕に触れた唇が、かすかにふるえた。
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