Doritoの日記
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たった今『ハウルの動く城』を見た。宮崎ワールドはまだまだ深化を続けている。 この映画のテーマはまず「愛」だろう。宮崎アニメの中でキスシーンがあるのは『もののけ姫』の干し肉の口移しを除いて、(それがキス)と呼べるかどうかは疑問だが)『ハウル』だけである。宮崎アニメでのキスは新鮮だった。愛を叫んで戦争をやめさせるというのは、現代社会に象徴的な意味を投げかけていると言える。 宮崎アニメを解釈するときに問題となるのがその舞台がどこであるかと言うことである。『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』、はどこが舞台であるかは具体的に言うことができない。西洋を基調として、空想がいろどりを添えているのである。『ハウル』の舞台もその例に漏れず、様々な要素が混在しながらそれでいて統一感があり、どこか懐かしさすら感じさせるまさに宮崎ワールドである。 最近の宮崎アニメの傾向として、「ドロドロ」というのがあると思う。『もののけ姫』のタタリ神やデイダラボッチ、『千と千尋』のオクサレサマやカオナシなど、「ドロドロ」したものが頻出している。『ハウル』でもハウルの髪の毛の色が変わったときのハウルが「ドロドロ」した何かを分泌したり、マダムサリバンの「ドロドロ」した手下どもなど、「ドロドロ」のイメージが随所にみられる。一体この「ドロドロ」は何を意味するのだろうか?ひとつの解釈として、人間の醜い部分を象徴しているのではないだろうか?「ドロドロ」はマイナスのイメージとして使われている。『ハウル』でもそうである。 もうひとつ気づいたのは、全体として絵の質感が柔らかくなってきているということである。例えば『千と千尋』以来、涙の描写がコミカルになった。千尋がおにぎりをほおばる場面ではまるでぷよぷよのスライムのように大粒の涙が描かれる。『ハウル』でもソフィーが泣くときに同じ千尋とおなじような涙を流す。またキャラクターで言えば『千と千尋』の魔女や、『ハウル』での荒地に住む魔女など、ぶよぶよした印象を与えるキャラクターが増えてきた。『千と千尋』より以前の作品にはこういった極端にディフォルメされたキャラクターはいなかったように思う。 『ハウル』はとてもファンタジー性が強い。『ナウシカ』や『ラピュタ』の系譜を引いている。しかし『ハウル』は以前のファンタジー作品に比べて密度が凄く高い。ストーリーも複雑で、分かりにくい。簡単な紋切り型の解釈を与えないのである。『ハウル』アニメと言うよりも現代映像芸術と言ったほうが正確かもしれない。作品の解釈は大きく観客にゆだねられている。この映画に限って言えば、物語の背後にある意味を捉えようとするのは、むしろ間違っているのかもしれない。「そのもの」として見るのがいいのである。 しかし『ハウル』は、他の宮崎アニメがそうであるように、間違いなく心を浄化させるような作用を持っている。描かれている世界が何の障害も受けず、素直に胸に入ってくるのである。そして郷愁ともいえる感覚に支配されるのである。 とにかく、えがったってことです。主人公の声優がキムタクと聞いていたので、「えー」と思ってましたが、全然良かったです。芝居をするときのしゃべり方とは全く違い、ハウルのキャラに合ってました。ひとつだけ疑問に思ったのは、ソフィーの呪いはいつ解けたのかということです。あと最初のソフィーおばあちゃんはかなり醜く書かれているけど、だんだん若返っていくと言うか、場面によって違うというか・・・まあでもアニメはリアリズムじゃないから、細かいことヌキにして本当に良いものを見せてもらいました。ほんとジブリ大好きっす。日本の宝ですわ。ほんといいわー。『ハウル』は結構1、2位を争うくらい好きかも。
お別れの曲はスマップで「ライオンハート」です。もうキムタク万歳です。
Dorito
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