Doritoの日記
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2005年05月26日(木) 不眠症

 当たり前のような毎日は、本当は当たり前じゃないんだなあと思います。ほんとに人間っていうのは千差万別ですね。「どう生きるか」っていうのは究極の課題です。自分の生き方が正しいのかと不安になったり、他人の人生を見て嫉妬心を抱いたりします。「生きている」ということは何なのか?意味があるのか?という問いを問うこと自体馬鹿げているかもしれませんが、人生の意義について考えない人はいないでしょう。

 人生には意味が無いと言い切る人がいます。そうかもしれません。地球で人間が一人生きていくために、いくつもの地球上の生命が殺され、環境がどんどん悪化しています。「生きている」と言うこと自体悪です。キリスト教はそれに説明を与えてくれています。人間とはもともと罪深い生き物であって、人間の罪を購うために、キリストが人類のために犠牲になったのです。そのためにキリストの言ったことを信じなければならない。つまりキリスト教は人間の罪悪感が根源となっているのです。この原罪の思想は、考えてみるととても消極的な発想です。人間だけではどうしようもないことをキリストという絶対的な存在に押し付けて解決しようとしているわけです。「救済」とか「許し」とかいう概念が根底にあり、人間存在を罪深く苦難に満ちたものだと捕らえているのです。

 動物だったら人生の意味を単に生殖と種の繁栄という点に見出すことが出来ます。しかしながら、人間はそれだけでは満足できないのです。人間は欲深い存在です。しかもそれを認識する知性が備わっているというのが問題なのだと思います。理性と欲望の葛藤から生まれる苦難は数え切れないほどあります。さらに人間は社会的な存在でもあり、社会という外界とのコミュニケーションのなかに存在しています。社会的な苦痛を全くもたない人はいないのではないでしょうか?そう考えると、こんな苦しみに満ちた人生に意味は無いという思想も出てくるわけです。それに比べ、動物はおそらく人生の意味など考えていないのではないでしょうか?(考えていたら考えていたで面白いですが。)人間がいろいろな肉体的苦痛以外の苦痛を感じるのは、明らかに人間の知性のせいです。罪悪感、嫉妬、欲望、煩悩、憎しみなど、数え上げたらキリがありません。するとこんな苦痛を味わうなら生きている意味がないじゃないか、と言うようになるわけです。その苦しみが許容範囲を超えてしまうと、自殺する人も出てくるわけです。

 しかしながら、生まれてきたからには死に向かって毎日泳ぎ続けなければなりません。泳ぐのをやめることは生きていることよりももっと罪深いことです。そこで何をよりどころに生きればいいか、というと個人的に「感謝」ではないか思います。

 全てのモノに感謝する。友達、家族、恋人、科学、宗教、今時分が持っている知性、そして与えられている時間。今立っている長い時間のなかのこの一点はこれまで全ての歴史的関連性によって支えられているのです。ここにいるということ自体、神の存在の是非とは関係ないですが、”神秘的”なことなのです。自分がいまこうやってパソコンのキーを打っているのも、全てのものの因果関係に支えられているのです。全ては必然なのだと思います。その必然に感謝するべきなのではないでしょうか。

 この考え方はあまりにも綺麗ごとかも知れません。人生には必ず不条理性が存在します。例えば戦争で両親を殺された子供達や、アフリカの難民などのことを考えると、それを必然といえるでしょうか?当事者達は明らかにどこか間違っていると考えるはずです。勧善懲悪や隣人愛といった思想は全く通用しません。そのような不幸な状況の人々を気休めにして「アフリカの子供達のことを考えればこれくらい」などと、自分の苦しみを和らげ平和な社会にくらす現代人がいます。僕もその一人あることを認めなければなりません。これはまさに江戸時代の「えた・非人」の思想となんら変わりありません。人間は他人に嫉妬や憎しみを感じる反面、自分よりも劣った他人と比べることで慰めを得たりするわけです。これは人間のどうしようもない根底的な汚点であると思います。

 生の不条理性と人間の醜い特性、それを全てひっくるめて今に感謝することが必要です。「認める」と言ったほうが正しいかもしれません。もしかすると、全てに感謝するということ自体とても苦しいことかもしれません。自分の両親が殺されたり、両手を切り落とされたりしても、自分は生きていることに感謝することが出来るでしょうか?自信は全くありません。でも僕はあえて全てのものに感謝しようと思います。少なくとも、現時点ではその意思があります。

 人生は無常ですから、やはり考え方は変わっていくものだと思います。しかしながらそれも、歴史的必然です。未来の自分の考え方について今考えるのは、少し馬鹿げているような気がします。「今なすべきことを必死にせよ」と言ったのは武者小路実篤ですが、まさにその通りではないかと思います。結果的に、全てはに必然になるのです。

 その意味で僕は運命を信じています。運命とかdestiny言う言葉はあまり好きではないのですが、それ以外にうまく考えを表す言葉が見つかりません。人生の最大の要素である人との出会いはまさに運命の産物であると言えます。やはりそれに感謝するべきなのではないでしょうか?

 とりあえず、ありがとう!と世界の中心で叫んでみましょうか。脈絡が無い文章なのは、今朝5時で多分脳内にアドレナリンが出ているからです。あ、そーいやあしたテストだ・・・

 最近生活のリズムが崩れっぱなしなので気を引き締めたい、と最近毎日言っている。今朝の5時21分って・・・


Dorito

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