書泉シランデの日記

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『たったひとりのクレオール』
2006年05月27日(土)

副題に「聴覚障害児教育における言語観と障害認識」とある。著者の上農正剛氏は長年聾児の教育に携わってきた人。

周りに聾者がいないと、そもそも聾であるということがどういうことなのか、実際のところはわからないのではないだろうか。耳が聞こえないことは言語を獲得するのにどれほどの困難があるか、ということさえ、想像できていない人が少なくないと思う。聾者でも頭の中には日本語の言語体系があって、単に人の話す言葉が聞こえないだけ、というような想像をしていないか。

中途失聴の人ならそういうこともあるだろう。

でも生まれながらに聞こえない人(程度はいろいろにせよ)はどうやって言葉を手に入れるのか?

そんなこと、考えたこともなかった、というのが私の出発点である。

言語獲得の問題を一旦、横においておくとして、今は補聴器の性能がいいから、普通の公立学校で十分に学べるのだろうと思っていたし、現に大学進学を果たす人もいる。それでいいんだろうと思っていたが、実はこの問題はそんなにあっさりと片付くことではないということが、本書を読んでよくわかった。聾の子どもたちは圧倒的に立ちはだかる聴者の世界との軋轢の中で育ち、自分を確立していかねばならないのだ。

手話というものも、テレビで目にするような手話(音声言語対応手話)とは別に、日本手話という自然言語に近い独立した手話があることを初めて知った。日本手話の世界に生きる人たちにはそこで培われた文化があり、半端に補聴器をつけるよりも、あえて聞こえない世界を選択して自己形成をする道もあるようだ。しかし、日本語の書記言語の獲得は彼らに大きな力を与えるのだから、教育としてはその方向を閉ざすことは出来ない。

言語は自然に習得できるものではなく、一定の厳しい道のりがあるにも関わらず、昨今の表層的な物分りのよさがどれほどその妨げとなっているか。「みんな違ってみんないい」とばかりに「自然」の名のもとの放任が許される現状。

知らなかったことばかりで、今の私にそれを述べる以上の力はないだが、聾者が聴者に限りなく近づくことが障害の克服や自立への道ではないということはよく理解できた。じゃあ、障害とは一体何なのか?直接障害者に関わる人はもちろん、私たちもその原点から見直して、多様な価値観、多様な生き方を許す社会に向かう必要がありそうだ。

なお、この本を読む前に『わが指のオーケストラ』(山本おさむ、秋田書店)というマンガを読むと、聾教育のことが理解しやすくなる。このマンガだけでも学ぶことは多い。よくこんな話題がマンガに出来たものだ(初出『ヤングジャンプ』)と感心した。

タイトルの「クレオール」とは、不完全な言語(たとえば親の使う手話であり、まだらな聞き取りによる日本語)が受け止め手によってそれなりにきちんと再編成されて出来た言語を意味する言語学の用語。それが「たったひとり」とされるのは、本来言語にはコミュニティーが存在しているはずなのに、それを欠き、親と子の閉じた関係の中でだけ成立しているという矛盾した現象を指したもの。仲間と結びつけるはずの言語がそうでなくなっているという聾者のおかれた現状を示唆している。



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