幸福論 - 2011年11月25日(金) 『今日、残業で遅くなる。今日中に帰れないかもしれないから、先に寝てて。ごめんね』 そんなメールを受信したのは、バイトを終えた俺がちょうど家に着いた頃だった。 「えー…、マジで?」 思わず声が出て、何だか恥ずかしい気分になる。独り言言わせんな、バカ修一。 だって、ここんとこいつもじゃん。いや、今日中に帰れないなんてのは珍しいけど、週に三日は残業じゃん。 土日だって家で仕事してる時もあるし、会社に行く時もあるし。どこが週休二日だよ。 それでも、出張や泊まり殆どないから、会えない日なんてのはないんだけど。 だから、寂しいなんて思うのはおかしいのかもしれない。 修一は今の会社に働き始めて三年目で、やっと仕事が楽しくなってきたんだって嬉しそうに話してくれた。 そんな話をされても、俺はちっとも楽しくない。だって、修一の仕事の事なんか全然分かんない。 今はこういうプロジェクトやってて…とか、営業の成績がどうだとか言われても全然分かんないもん。 分かんないから、寂しい気持ちになる。 俺が知らない修一に不安になる。 俺のいない世界に修一がいる事が嫌だと思ってしまう。 修一をここに閉じ込めてしまえたら、俺の不安はなくなるのかな? ここで俺だけを見て、俺だけに笑いかけてくれたら。 いや、そんな事したって意味がない。きっともっと欲しくなる。 好きになった頃は姿を見れるだけで良かったんだ。 話した事を頭の中で何度も繰り返しリピートして、修一の笑顔を思い浮かべて眠りについた。 付き合い始めてからは、何もかもが嬉しくて。好きだよって言うのも言われるのも、手を繋ぐ事もキスも抱き合う事も、ドキドキして特別な事のように思えた。 これ以上の幸せなんてないって思ったんだ。 俺はどんどん欲張りになる。修一が注いでくれる愛が足りない、もっともっとって止まらなくなる。 もっと欲しいって言って修一をここに閉じ込めてしまったら、今度は修一を殺してしまいたくなる、きっと。 死んで、俺だけのものになって――そう言ったら、修一は優しく微笑んで良いよ、って言うと思う。修一は俺が望んだら、何だってくれるから。 だけど、修一を殺した瞬間、俺は手に入れた筈の最上級の幸せを失う事になるんだ。 修一がいない世界――そんなのに幸せなんかある筈がない。そんな未来はいらない。 …駄目だ、一人でいると変な事ばっか考えちまう。 こういう時は寝るに限る。俺は飯も食わずに、シャワーを浴びて早々とベッドの中に入った。 寝室に一つしかないダブルベッドは、修一が窓側で俺がドア側で寝ている。はっきり決めた訳じゃないけど、ずっと同じ位置だ。 別にどっちでも良かったんだけど、今は定位置じゃないと眠れなくなった。慣れって恐ろしいもんだ。 えっちして、どんだけいちゃいちゃして抱き合ったまま寝ても、俺が夜中に目を覚ますと修一は窓の方を向いて、しかも隅っこの方で寝てる。 俺がどうのって問題じゃなくて、多分癖だ。無意識の内にやってる。 そんな修一を見てると、俺は『こいつ、いつかベッドから落ちるんじゃねーか』っていっつも不安になる。でも、修一は身動きせずにそこですやすや寝てんだから、寝相はかなり良い。 俺は修一の温もりと匂いがないのが嫌で、隅っこで寝てる修一に引っ付いて寝る。 そんな時、修一は七割方気付かないでそのまんま寝てるけど、三割は気が付いてちゃんと向き直って抱き締めてくれる。 気付いて抱き締めてくれる方が断然嬉しいけど、起こしてしまった事に何だか悪い気持ちになる。 背中に引っ付いて眠るだけで十分だ。触れた部分に修一の温もりがあれば、修一の匂いが鼻先をくすぐれば、俺は安心して眠れる。 でも、今はここに修一の温もりはないから、せめて枕をぎゅっと抱き締めて目を閉じた。 枕から修一の匂いがする。しっかり顔を埋めたら、少しは安心出来た。 修一、早く帰ってきて。やっぱり寂しいよ…。 カチャリ、とドアが開く音がして、俺はうっすらと目を開けた。 ぼやけた視界に人間の姿が見える。修一だ。 「ただいま。ごめん、起こした?」 修一の声がする。甘くて、優しい声。 俺の顔を覗き込んで、修一は笑う。 「お前、俺の枕の匂い嗅ぎながら寝るの止めろよ。セクハラだから、それ」 匂いなんか嗅いでねーよ――いつもならそう言えるのに、言葉が出て来ない。 なんか泣きたくなった。込み上げてくる涙が止まらなくて、ぽろりと目尻を伝って零れ落ちる。 会いたかった、寂しかった。それだけなのに泣けてくる。 修一は心配そうな顔になって、指先で俺の涙を拭う。 「漣、どうしたの?やな事あった?」 「…修ちゃん」 「ん?」 「…ずっと、一緒にいて」 俺は弱いんだ。修一がいないと何にも出来ない。笑う事さえ出来ないんだ。 だから、ずっと一緒にいて。一生離さないで。 泣いたって良い、寂しいのくらい我慢するから。 「うん、ずっと一緒にいるよ。離さないから」 修一は甘い声で囁いて、苦しいくらいぎゅっと抱き締めてくれた。 優しくされて、余計に涙が止まらなくなる。俺は修一にしがみついて、ひたすら泣いた。 修一はどこまでも優しくて、ただ俺の頭を撫で続けた。 俺が泣き止むまで、ずっと。 幾ら恋人だからって、俺が修一の未来まで奪って良い事にはならない。俺がバカでもそんぐらいは分かる。 だから、俺の不安は一生尽きる事はないんだ。それは俺と修一が別々の人間だから仕方がない。 でも、これで良い。 不安になっても、寂しい思いをしても、修一の未来にいつも俺が隣にいればそれで良いんだ。 いつも同じ景色を見ていられなくても良い、隣にいさせて。 どんだけ離れたって良い、必ずここに帰ってきて。 修一とずっと一緒にいる。死ぬまで離れない――それが俺にとって最高の幸せだから。 END -
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