ひよ子の日記
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2004年12月13日(月) 進化しすぎた脳

まだ宮部みゆきの「蒲生邸事件」と夢野久作の「ドグラマグラ」を読んでいる途中なのに、昨日池袋で見つけた池谷裕二「進化しすぎた脳」を購入してしまいました。同著者と糸井重里の対談本「海馬/脳は疲れない ほぼブックス 」が出版されたときは購入までに至らなかったんですけど、この「進化しすぎた脳」は少し立ち読みをして迷わずレジに持って行ってしまいました。今の脳科学では脳の仕組みの細部までは解明が出来ていますが、そのひとつひとつ働いている個々が合わさって、どのようなメカニズムで記憶・経験をして、行動を選択しているのか等の全体のプロセスはこれから研究が進められる部分だそうです。今分かっていることと、今分かりつつあること、それに今分からないことがとても分かりやすく書かれていました。すっごく面白かった〜!アメリカにいる日本人の中高生8人と著者の対話型講義を本にしたのが本書らしいのですが、対話式であることも読みやすく分かりやすかったポイントだと思います。

私はよく分からなくても面白そうだなと思った分野の本は読みます。これまでこの「ねこたび」にも一人で勝手に不思議がってる独り言のようなものをたくさん書いてきました。その中に「言語学」に関するものもありました。今回「進化しすぎた脳」にも少々言語学に通ずるものがあるんだなぁと思いました。おぉ、以前読んだものが今一良く分かっていないにもかかわらず、別の分野での理解の助力になっている!と感動しました。うーんとそれは‥本書P.188「 2-23 自由意志と脳の指令」の辺りで話されています。

自分の意志でボタンを押そうと思ってから、脳に手を動かす命令を出すわけではなくて、動かそうと自分の意志で思った一秒前には既に手を動かす指令が出されているそうです。動かそうというクオリア(悲しいとか美しいとかいう感覚)が、脳に命令を出しているわけではないんですね。自分で決めていると思っていたのに、無意識で脳の神経が手を動かす指令を出して、その副産物としてクオリア(ここではボタンを押そうという感覚)が生まれているそうです。これにはびっくりしました。それからこれと同じように、恐怖を感じるから危険を回避するわけではないそうです。扁桃体という脳の場所が活動すると、危険を回避するようにプログラムされているんですね。その副産物としてクオリア(ここでは恐怖)が生まれます。私が思っていたのとは順序が違いました。涙や悲しみも同じで、悲しいから涙が出るわけではなくて涙が出た後にクオリア(ここでは悲しみ)が生まれます。すべての神経活動の副産物だと書かれていました。それでその流れでクオリアは確かに存在するけれど、悲しいとか喜びは言葉の幽霊なんだと著者は話していました。

ここ!やっと出てきた。ここが言語学の域だなぁと感じたところなんです。あるクオリアを悲しみと後で名付けただけなんですよね。だから心っていうのも言葉で表現することで生まれた観念なんじゃないかなぁと、ここは私が勝手に思ったところですが。言葉で表現したから悲しみや喜びや心が生まれたのではないかな?言葉で表現すること以上の世界を理解することはできないのかなぁ、とか考えはじめると話が逸れます。言語で表現する(例えば様々な種類の悲しみを「悲しみ」とひとくくりにまとめる)ことが、世界を制限しているのかなぁと思いました。だから脳と心は密接に結びついているのでしょうけど、言葉で表現されている「心」の定義とは少し違うのではないかなぁとか、もう書いていて自分でもよく分からないです。一般的な「心」の認識は脳との関係を理解するのには邪魔じゃないかとか、よく分からないくせに心を邪魔者扱いしはじめてます。

とにかく内容が盛りだくさんなので、本書数ページ分について感想を書いただけでもの凄い長さになってしまいます。読んでいると自分の興味を持てる分野が出てきて、その分野についてもっと知りたいなぁと思いました。


ひよ子

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