優雅だった外国銀行

tonton

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31 頭取の休日
2005年06月21日(火)

フランスの大統領が社会党のミッテランになった影響で、パリ国立銀行本店の上層部も大幅に入れ替わった。 東京支店長のルレー氏に直接的な影響があったとは思われなかったが、ひとりで残念がっていた。 国有化が進み、個人が所有していたパリ国立銀行の株も国家が買い上げた。 しかし、一般従業員にしてみれば、何の変化も感じ取る事が出来なかったと言っても過言ではない。 そんな中、新頭取トマ氏が東京に来る事になった。 名目上は、大蔵省や日本銀行、その他への挨拶回りであったが、週末を挟んでの数日間を京都、奈良、伊勢志摩で過ごす事になっていた。 その旅行中の世話焼きを謙治が命ぜられたのである。

トマ頭取の年齢は、知る気がなかったので最後まで分からなかった。 謙治は頭取から質問され、年齢、子供の数、勤続年数も答えたが、「あなたはお幾つですか」とは聴けなかった。 肩を幾分丸めた姿勢の影響か、一見小柄な老人のように見える頭取であったが、実に勢力的に活発に動き回る人であった。

水曜日の夕方、京都駅でレンタカーを借り、大阪支店が予約してくれた由緒ある旅館、京都「柊や(ひいらぎや)」へ向かった。 謙治は、緊張で凝り固まっていた。 京都を走るのは初めてでは無かったが、地図のみが頼りであったし、雲の上の人、頭取と二人きりである。 頭取はしきりに時間を気にしていた。 出発前、スールミヤック氏が言っていた事が思い出された。 この旅行は全くの個人的な旅行であり、何があっても臨機応変に対応し、一切報告の必要はない。 頭取は前年に奥さんを亡くしていた。

本能寺近くの柊やに着いたのは、とっぷり日が落ちてからで、頭取は、「明朝九時に」と言ってさっさと自分の部屋へ引き上げてしまった。 夜もいろいろ面倒を見る事があるのではと思っていた謙治は拍子抜けしたが、個人主義の徹底した人達の事だから、夜まで拘束はしないのだろうと解釈する事にした。

謙治の宿はどこでも良かった。 どちらかと言えばホテルの方が気が休まると思われたが、柊やに謙治の分まで用意せれていた。 「由緒ある」と言う事は、「不便な」と言う事であるのがすぐに分かった。 江戸時代に建てられた旅館の、謙治の通された部屋は、もちろん柊やの一番質素な部屋であったのだろう。 トイレも洗面所も無い。 小さな手だけなら洗えそうな設備が有り、一応、水と湯の栓が有った。 全開にした湯の栓からは茶色い細い糸のような水しか出ず、暫く出し放しにしたが一向に温かくならなかった。 しかし、お風呂の準備が出来ましたと通された湯殿は、豪華としか言い様のない大きな総檜の部屋に、総檜の浴槽、お湯も一人一人入れ替えている様であった。 すっかり良い気持ちになって戻ってきた謙治を、もっと驚かせたのは食事であった。 10月の終わりの京都、マツタケのオンパレードである。 謙治は運ばれるたびに受ける説明にただ肯くだけで、それらの料理のほとんどは名前も聞いたことも無く、幾つかは、これがそうかと言うようなのばかりであった。 高価な物なのであろう、これだけのマツタケをかつて食べた事が無いし、これからも食べないであろう。 しかし、それが何だというのだろうか、確かに美味しいと思う、だからと言って数万円を払って食べたい物ではない。 頭取の方がちょっと気になる。 給仕の人によると「お二人ともマツタケをお召し上がりになりませんね」と言う事だ。 やっぱりお二人か!

天気の良い京都の秋というのは実に気持ちが良い。 頭取と奥さん。 謙治は初め何と呼んだら良いものか困ったが、フランス語には良い言葉ガある、「マダム」である。 彼等は、マドモアゼル以上の年令の女性に対しては、未婚であることを知っている場合は別だがマダムと呼ぶ。 頭取とマダムは京都に関して研究済みで、謙治は案内する必要は無く、運転するだけで良かった。 だから、最初の目的地に着いたら、次の目的地を地図上で探し、迷わないようにそこへ行けば良いのであった。 ただ、一通りの観光社寺だけでなく、謙治の耳に新しい寺をフランス語訛りで言われるので、探し当てるのが楽では無いのも有った。 初めは緊張していた謙治も、頭取が唯の元気の良い老人に見えて来た。 マダムも人なつこい笑顔の、機敏に動く年配の女性であった。

予定では、柊やを金曜日の朝チェックアウトし、2日目の京都観光のあと、奈良の旅館に一泊し、土曜日は奈良観光のあと鳥羽へ。 そして、畳の部屋の珍しさにも飽きた二人にくつろいで貰うように、鳥羽国際ホテルを予約してあった。 しかし、金曜日の朝、柊やを出る時、2人の荷物は出来てない。「この旅館は、京都で一番良い旅館なのだろう、奈良に泊まるのは止めにする。今晩も柊やに泊まる」「奈良の旅館も良い旅館です。 それに今からのキャンセルは無理です」何を言って受け付けなかった。 もう頭取が決めた事なのである。 謙治は奈良の旅館に「健康上の理由で旅行を続けることが出来なくなった」と謝りの電話を入れた。 料理を仕込んでしまっていますので、と執拗に迫られたが、謙治にはどうする事も出来なかった。 翌日、その旅館の前を通った。 興福寺近くのその旅館は、少なくとも謙治には立派に見えたし、庭も無いに等しい町中の柊やとは比べ物にならなかった。

そんな訳で、庶民がうらやむ柊やに3泊もして、マツタケ三昧をさせてもらったが、チェックアウトの時、ちょっとしたトラブルがあった。 「個人的な旅行であるから、清算を済ませたい」と言う頭取に対して、柊やは銀行に請求しますと言う。 散々もめた挙げ句、計算してくれたが、30万円を超していた。 頭取には、千ドル分のトラベラーズチェックしか持ち合わせが無かった。

土曜日の京都から奈良への道路は、謙治の不案内で主要道路を行った為かも知れないが、ひどい渋滞に巻き込まれた。 この日は、伊賀を越えて伊勢志摩まで行かなくてはならないのである。 大急ぎで奈良の寺々を回り、法隆寺へと向かった。 またしても渋滞である。 法隆寺駐車場へ着いたのは、2時を過ぎていた。 お昼をまだ済ませてない。 近所には食事の出来そうな所が見当たらなかった。 頭取は、駐車場の土産物店に入り食べ物を物色した。 そこは、食べさせるようにはなってなかったが、どうした訳か小さな鮭缶と菓子パンが有った。 パリ国立銀行頭取他2名のこの日の昼食は、鮭缶と菓子パンであった。 この時に限らず、頭取たちの食事は、これで良いのかと思うくらい少なかった。 夕飯は、「あのきのこは何だ」と言うくらいで、大して食べてないようであったし。 お昼は謙治も一緒であったが、ビール一本と和食を半人前も食べなかった。 それでいて、どこからあんなエネルギーが出るのかと思うほど活発に動いた。 京都の「哲学の小路」を手をつないで歩く2人は、20代の恋人たちのようにはしゃいで見えた。 しかし、法隆寺を見学し終わった二人は、志摩への道も渋滞すると思いうんざりしていて、「東京へ帰る」と言い出した。 言い出す事、すなわち決定なのである。

不思議な事に、法隆寺から京都へ戻る道は渋滞していなかった。 土曜日の夕方の新幹線は混んでいたが、一本待てばグリーンに2席並んで取れた。 謙治は、レンタカーを返さなければならなかったので、もっと後の列車に乗る事にした。 頭取たちは、東京での宿の心配は要らない様であった。 東京のフランス大使館には客用の部屋がある。 マダムがフランス大使夫人に電話をした。 ファースト・ネームで呼び合う中で、東京駅に着く時間と列車番号を言っただけである。 かわいそうな大使の運転手が休日の夜遅くに迎えに出されるのであろう。

鳥羽国際ホテルにキャンセルの電話を入れなければならない。 謙治は、前日に、同じくキャンセルの電話をした奈良の旅館のことを思い出し、嫌な気分になった。 奈良の旅館には、半額の予約金を払ってある。 当日のキャンセルだから返してはもらえない。 それでも電話に出た女将さんは、食事の用意をしてしまっているからと、非常に残念がっていた。 鳥羽国際ホテルには、予約金も入れてない。 もっと早くに電話すべきであった。 多少の嫌みは覚悟で電話した謙治は、「かしこまりました、次回のご利用をお待ち致しております」と言うフロントの応対に安堵し、ぜひ、利用出来る日が来る事を願った。

東京支店長ルレー氏には、予定の変更を伝えるなと言われたが、別れてすぐに電話した。 哀れな支店長の大きな溜め息が聞こえた。

頭取が帰仏して4・5日が過ぎた。 1階店頭からお客様ですとの連絡で下りて行くと、マダムが居た。 「明日フランスへ帰ります、大変お世話になりました」と言って、小さな記念品と手紙をくれた。 フランス大統領府専用の封筒であった。




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