優雅だった外国銀行

tonton

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39 銀行変革期
2005年07月17日(日)

30人を超えるディーラーと夥しい機器を容れる部屋を作る事になった。 専用線の数も桁違いに増え、通常の電話線、これを局線と呼んでいるが、これもぐんと増え、海外との交信も主役はテレックスから電話に変わる。

東京支店は急に手狭になった。 コンピューターの為に、既にかなりの面積を割いていたが、新たに200平米を産み出さなくてはならない。 あっちを詰め、こっちを狭めて、これからの稼ぎ頭になるというディーラー達のための部屋を作り出した。 決めなくてはならない事がたくさんあった。 ディーリング・テーブルというのは既製品には無い。 それぞれの要求、サイズ、高さ、電話設備の大きさ、情報スクリーンのサイズと個数、形も四角は勿論であるが、楕円形、L字型と多種である。 専門的な知識に乏しいローラン氏は、感心があったのはコスト面だけであったから、大部分の準備は順調に運んだ。 しかし、ディーリング・テーブルとカーペットの色に関して、彼は自分で決めたがった。 可能な限りのサンプルを取り寄せ、サンプルが多い為にかえって決めかねていた。 工期はどんどん迫って来るが決められない。 何日経っても色を決められないローラン氏は、彼のそばを通る人に次々と尋ねる、それぞれは無責任に勝手な色を選ぶ、そして、益々決められなくなる。 謙治はスールミヤック氏が懐かしかった。 スールミヤック氏なら5分と掛らずに色なんか決められただろう。

ヘッド・ハンティングと言うのは、欧米では当たり前なのかもしれないが、1987年の東京では耳新しい言葉であった。 元々、日本にはそれ程いなかったディーラーを各銀行が一斉に奪い合いを始めたのである。 ヘッド・ハンターの出番となり、給料の釣り上げ合戦になるのは当然の成行きであった。 国際的なヘッド・ハンターにより、いろいろな人種が集まって来た。 アメリカ人、ベルギー人、オランダ人、シンガポールや香港からの中国人、勿論フランス人も居た。 習慣や風習が異なる人種たちが、それぞれの訛りのある英語で騒いでいる様は、滑稽なのか、異様なのか分からなかったが、謙治はその雰囲気が嫌いではなかった。 しかし、困る事も少なくなく、謙治を最も困らせたのは空調であった。 ベルギー人とアメリカ人のディーラーが熱がりで、日本人、特に女性は寒がりなのである。

いろんな性格の人間の集まりであるが、ディーラーには一つだけ共通の意識がある。 彼等は自惚れ家で、自分だけを信じ、己の利益のみの為に働く人種である。 愛社精神のかけらも無いのが普通で、意の如くならなければさっさと他所へ移ってしまう。 だいたいディーラーとは、社会の為に何をしているのだろう。 銀行には必要な所へ資金を供給し、産業を育成したり、社会資本の充実に寄与したり、社会に貢献出来る事は少なくない。 しかし、ディーラーとは何ぞや。 輸出入の代金決済の為の外貨の交換、これは顧客の要請によって行われる。 だが、彼等の多くの仕事は、代金の支払い等には無関係の、単なる金儲けの為の通貨や債権の売買なのである。 投資ではなく、投機と言われる彼等の行為が、銀行の利益の大半を占めるとあっては、銀行の仕事も地に落ちたものだ。





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