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2007年03月06日(火) 春日井のおじいちゃん1

こんばんは,マキロです。
今日は前からお話したかった父方の祖父の話をしたいと思います。
重いし長いので分けます。
興味のない方はスルーの方向で。
完全なる自己満です。

でも祖父が同志社のOBなので同志社の子や
何か悩んでる人はちょっとでも目を通していただけたら。





先週の木曜日の夕方おうちに帰ってきてパソコンで日記を書いていたら,母から
『おじいちゃんが危篤やから用意して待ってて』
とメールが来た。

私は小さい頃,何でも言うことを聞いてくれる母方の祖父母の方が好きだった。
でも大きくなるにつれ,父方の祖父母は私を一人の人間として扱ってくれるのが解った。
だからどっちも大好きだった。

私は今年大学受験をしたとき国際学科を選んだのは少しおじいちゃんの影響もあった。
まぁほぼ全部TAKUROの影響なんだけど。笑
でも専門的にアジアをやりたいと決めたのはおじいちゃんの影響だ。

というのもうちのおじいちゃんが昔ベトナム戦争のときにベトナムに行っていたこと。
カンボジアでカンボジアの生活のために働いていたこと。
それを何となく知っていたからだ。

危篤だと言われて私は意味が解らなくて用意もせずにしばらく
どうしようどうしよう言って部屋の中を歩き回ってるだけだった。
とりあえず服とスーツを鞄に詰めて家を出た。
黒い靴は持ってなかった。
大学に提出しなきゃ行けない締め切りすぎてる住民票は机の上に置きっぱなしにするくらい慌てて(ヲイ
新幹線に飛び乗った。


駅から病院への道は叔父の運転する車で行った。
病室に着いたとき私は病室に水槽でも置いてあって,
その泡の音がしているのかと思った。
片肺の機能を失って意識も失いながら
痰を絡ませて必死に生きている祖父の呼吸の音だった。

祖父は1年半前に末期の肺ガンの宣告を受けていた。
告知を受けたとき祖父はひとつも怖くないと祖母に告げ,
医師には「病状は解りました。それであとどれだけ生きられるのですか?」
と聞いたそうだ。
闘病中にも絶対しんどいだとか痛いだとか言わなかった祖父。
亡くなったあとにパソコンに入っていた日記を読むと,相当苦しんでいたらしい。

手を握ったら熱いくらい温かくて,ちょっと汗ばんでいた。
あぁ。生きてる。
夜中に病室にいた祖母,叔母,母,私で歌を唄った。
途中看護士さんが入ってきて,嘘か本当か知らないけど
「歌が聞こえたのか涙が・・・」
と言って祖父の目をティッシュで拭いた。

2時くらいから6時前まで別室で仮眠を取っていたら看護士さんに起こされた。
私が病室に入ったときにはもうほとんど祖父の命は消えていた。

私は普段起きてすぐお腹が減るなんてことはないんだけど,この日は空腹感を感じた。
どんなに悲しくても,生きている私はお腹が減って,
食べて生きていかなきゃいけない。
私は生きているからお腹が減るんだ,と当たり前のことを強烈に感じた。

お医者さんがしばらくして来て確認。
3月2日 午前6時32分


父が夜勤の仕事が終わってすぐ駆けつけたのは7時半だった。


なくなった祖父は,まるでどこか知らない田舎の道端にいる老人のように見えた。
ガンを患ってもなくなる前日の朝まで自分で食べていた祖父とは別人。
私が知ってるおじいちゃんは髪がふさふさで、大きな目で溌剌とした人。
ここに横たわってるのは私のおじいちゃんじゃない。
そう思った。




一旦送信〜☆

ちょっと感動的なこと書いてるけど,
暇な間ずっと携帯ゲームをやっていて連打していた親指が痛いんですが・・・ww


マキロ