この世のような夢

2006年02月17日(金)




スーパーかわいい




斎藤恵美子著、私家版「緑豆」(2002年発行)という詩集を手に入れました(2003年第8回中原中也賞の候補作)。すばらしい詩集です。そのときに中原中也賞に選ばれた作品よりも、私は、この作品のほうに、 ' 宇宙のチカラ' を感じてしまいました。帯には、──「発芽の声に耳をすませ / 草のこぼす色にさわり、五感を精緻に、しなやかにして / 暮らしのなかの光景を照らしだす / 人と自然の境目を、静かに溶かす新詩集」──とあります。

そのタイトルにもなった「緑豆」という詩は巻頭にあります。次のように始まります。→ 「ガラスの器で / 水栽培の/緑豆もやしをつくってみた・・・」 何だか、水栽培の緑豆もやしの、たんなる栽培記です。見開き、プラス半ページだけの短い散文詩。それは、「・・・ぱっくりわれた豆の表皮も / えだ根も / きれいに食べられた」──で終わってしまいます。いわゆる現代詩、のような、左脳的な複雑怪奇な衒い、も、作為的なオノマトペのようなもの──も、なんもありません。ただの、散文らしきもの、ですね。しかも、この詩を、巻頭においている。詩集としては挑戦的で過激だと思います。これほどの、ことだまだけの詩のことばを、最近は知りませんでした。

さて、彼女の2作目の詩集は、「異教徒」(思潮社/1993年発行。絶版)というものです。これにも驚きます。「緑豆」とはうってかわり、ここでは、ことばが、饒舌です。こころざしは、高きにあります。ときに、カタカナの外国語が舞い、エスニックな妖気は、読む者の内臓を浸します。エロチックでもあります。ことばたちは、とぐろを巻き、怒っているようでこわいです。気品を失わずに、こうしたことばを書き綴るのは至難の技でしょう。「異教徒」という、" 狎れることのない " 生き方を感じさせるタイトルにも惹かれます。

  イデー、イデー。おまえは異類の、七色の筆を擦る。撞球台
  から具体をこえて、禁域をゆれる夜の画家たち。・・・
              
     詩集「異教徒」(思潮社)───「端女の踊り」より

そして、2005年6月に出た詩集は、「最後の椅子」(思潮社発行)というタイトルです。この詩集の中の、素朴なことばたちに対し、わたしは、よくこうも正直に生に向き合えるものだ、と、あたまの下がる思いがしました。帯には──「椅子の目線で暮らすひとの / 最後の日々に寄り添って」とあります。作者が、身内の介護で体験したと思われる、老人ホームでの、きびしくかなしくおかしい・・・風景です。

どうすれば、毎回、こうも変化のある視点で描けるのでしょう。
じつに、瑞々しい才能です・・・。

彼女の詩をひとつだけ抜粋します。以下は、詩集「最後の椅子」(思潮社)より。 



斎藤恵美子作 ──   


コップのなか                


震える指でコップを包み
なかみを、じっと、見つめているので
どうしたの、水、飲まないの?
シズノさんに声をかけた

 だって、こんなに透明で……あんまり、きれいなもんだから……

そそぎたての秋のまみずに、天窓から陽が射して
九十二歳の手のなかの
コップのみなもが、きらり揺れる

きょう、はじめて、水の姿と、向かいあった人のように
シズノさんが、水へひらく瞳は
いつも、あたらしい

雲が湧いて、ひかりが消えた
ふっと、ふるえが、止まっている

 それから、ほんとうに透きとおった静止が、コップのなかを
 ひんやりとみたす

くちびるが、ふちに触れると
ちいさい、やわらかい月が揺れて
茎のような一本の
喉を、ゆっくり、水が落ちる


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ここにも、こわいような、ことばの単純さがあるのです。
そして、ここに、壺中の天地 ── があります。


近ごろ、私は、(とくに、老人の)うしろ姿に興味を持つようになりました。うしろ、のほうが、作為のない分、まえ、よりも、多くがみえます。老人は、うしろ姿に多くのものがたりを背負います。それは、また、スーパーかわいい、とも感じられます。



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