ズーラシアに行ってきた。目的はキノボリカンガルーだ。ちなみに目的の動物はこちらに対して背を向けていて微動だにしなかったので、どんな顔面をしているからすらわからなかったが、非常にマヌケそうな生物だったのでよしとする。ズーラシアとかゆってずいぶん仰々しい感じの名前ではあるんだが、そこは市立の施設だけあって、そこまで気合が入って商売気のあるものじゃなかった。管理状態はちょいと微妙で、動物についての説明のシールがガラス面に貼ってあるのがはがれて一部読めなかったりとか、清掃が行き届いてなかったりとか。「飼育員のとっておきエサやりタイム」とかがあるんだが、これが順路とまったく関係なくばらばらの時間に行われてたりとか、まあ客のことを極限まで考え抜いた感じにはなってなかった。まあ土日優先でやってて平日なんぞに行く客は基本相手にしてないのかもしれないが。 価格は前売りで480円。現地で買うと600円なので、まあそこそこお得。問題は駐車場で、これが時間に関係なく1000円取る。なめんな。電車バスで来いってことか。あんな僻地に作っといてそれは通用しねえだろう……。 おもしろかったところとしては、キジとかの微妙なラインアップの動物のあたりに一緒にスズメが入りこんで余裕でエサ食ってた。むしろスズメが気になって気が気じゃなかった。
ズーラシアの所在地は旭区の上白根という場所で、実は昔、このへんで配送のアルバイトをしていたことがある。で、その配送の途中で昼飯をしょっちゅう食ってた定食屋が近くにあるのを思い出したので、そこでメシを食うことにした。もっとも中原街道沿いってかつては中小の工場がやたらに多かったところで、それらが撤退した跡地に中規模のスーパーセンターだとかファミレスだとかが入りまくってるんで、個人経営の定食屋なんぞなくなってるんじゃないか、という危惧はあった。 はたして現地に行ってみると、隣に吉野家ができていて、反対側の隣にはローソンができてる。じゃあ定食屋本体はっていうと、なんか、まだ生きてた。駐車場の悪夢のような入れにくさもそのままに、建物の様子も20年前と変わらず、ただちょっと古びて、そこにあった。 店のなかに入ると、こぎたねえコンクリート打ちっぱなしの床のうえに、どうでもいいようなテーブルが3脚と、クッションが完全に死んだビニールレザーの椅子がある。んで奥のほうにはテーブル席であって、当時となんら変わってなかった。ただし、おっちゃんとおばちゃんは、完全なじーさんとばーさんになってた。ヤニで茶けた木の壁には紙に手書きのメニューがずらりと並んでいて、いままでの人生で一度も定食屋に入ったことのないうちの奥さまは、なにを食っていいかさっぱりわからないもよう。 「イカのてんぷらを食いたい」 「じゃあ頼めばいいんじゃないか」 「イカのてんぷらと、イカのてんぷらの定食とはどう違うんだ」 「定食ってついたらあれだな、味噌汁とか漬物とか付け合わせのものとか、まあそんなのが一緒についてくる。ちなみにこの店は、俺の記憶が正しければ付け合わせの量がそれ自体でメニューとして成立するくらいに暴力的だから気をつけろ」 「味噌汁はいらない」 「いらなイカ」 「さっきからあんたのしゃべりがわざとらしくてムカつくんだけど」 「そうでゲソ?」 「その語尾はねえだろ」 などの会話をしつつ注文。 ちなみに時間が午後1時半と半端なこともあってか、客は俺ら以外には、作業着姿のおっちゃんが2人だけだ。 「分煙なんて小ざかしいものはここにはないのか」 「ねえだろ」 「ところであのナスヤキってのはなんだ」 「なすの焼いたものだろ」 「ところでカレーライスが650円で、ラーメンが450円ってのは価格設定めちゃくちゃじゃないか? あとわかめラーメンのほうがバターコーンラーメンより高いってのは、原価考えてるのかあれ」 とにかく、もの珍しいのであるようだ。 「地球儀が置いてある! 定食屋にはみんな地球儀が置いてあるのか?」 「あるわけねえだろ」 「あの地球儀になんの意味があるんだろう。出前のとき探すのか」 「やだよそんなグーグルマップみたいな精度の地球儀」 「テレビが古い……あ、強盗殺人が起きた」 「あー、死んだね」 「昼ドラの冒頭で悲鳴上げる係の人も大変だよな」 「係とかあんの!?」 「あるある。サスペンス系のやつって悲鳴係いるだろ。悲鳴当番っていうか」 「日直とかの延長線上に悲鳴当番いそうでやだな。起立! 気をつけ! ぎょほーーーーー」 「そんな怪鳥みたいな悲鳴あげる人間いないから」 「そうですか」 などの会話をしつつメシが来るのを待つ。 しかしこの定食屋、もう儲かるなんてレベルの話じゃないなーと思う。かつてちゃきちゃきと動いて焼肉定食(しかしここの焼肉定食はなぜか生姜焼きが来る)を運んでくれたおばちゃんは、いまや歩くのも覚束ないようなありさまだし、奥の厨房にいるじーさんは迷子札つけて住宅街のまんなかに放り出したら警察が保護しそうな勢いだ。あれでは昼のピークがあったところでとうてい対応できるものではないだろう。 そうこうしているうちに、イカのてんぷら定食が運ばれてきた。 厨房から出てきたばーさんを見て、うちの奥さまがテーブルに突っ伏した。 「どした?」 「ああ……無理だあれ」 振り返って見ると、手元が震度4。お盆がばーさんの手の揺れにあわせて緩やかにウェーブ。いつ味噌汁が完全崩壊を迎えるか気が気じゃない。しかしそこは熟練の技がものを言うのか、見事イカのてんぷら定食はテーブルにソフトランディングした。 「……やるじゃん」 テーブルからばーさんが離れたタイミングを見計らってうちの奥さまが言った。そして、テーブルの上に置かれたお盆を見て絶句した。 「なんだこのたくあん」 でかい。枚数そのものは2枚なのだが、これは単位が枚ではありえない。しいていうなら、たくあんが2個乗っている。これが某全体的に肉付きがよくて、肉と肉が触れ合っている部分に汗その他に由来するいい感じのにおいがみっしりと詰まっているに違いないと某畏友が考えるところのキャラクターのまゆげだったとしたら、それは立体的すぎて手に負えないことになる。 単位がおかしいのはそれだけではない。付け合わせのポテトサラダはそれ単体でコンビニのサラダの分量を越える。そして白飯。俺の忠告を聞かずに、うちの奥さまはふつうの盛りで頼んだのだが、これをふつうと呼ぶのは定食界だけだろう。 「私、頼んだの中って書いてあるやつだったよね」 「だから言ったじゃん……」 「丼にぎっしり詰まってるごはんを、中とは呼ばない」 「いかに大盛りとはいえ、やざわが勝負を挑まれたと感じるような盛りだぞ。中サイズだってまともなわけないじゃん」 「やざわさんが勝負を!? そりゃだめだわ。話にならない」 話にならない扱いっすよやざわさん。 しかし果敢にうちの奥さまはいろいろと規格外のイカのてんぷら定食に挑みはじめた。それと同時にばーさんが厨房から俺のぶんの焼肉定食を運んできた。 ああ。危ない。震度が増している。さっきより確実に揺れが大きい。さきほどは絶妙なバランスで惨事は起こらなかったが、二度目はなかった。コーナーを曲がるとき、ひときわ大きなビッグウェーブがやってきた、味噌汁はたっぷーんと盛大に波打ち、お盆から床まで被害は及んだ。 「お待たせ。味噌汁ちょっとこぼれちゃったけど」 ばーさん退場。まったく何事もなかったかのように。いや、実際に何事もなかったのだろう。この店を利用する客にとって、味噌汁がこぼれることはおそらく日常なのだ。そしてもちろん、こぼれた分量はちょっとなんてなまやさしいものではない。というよりお盆のなかにちょっとした味噌汁の湿原ができている。 俺は「運命。」みたいな顔でお盆を見つめた。 ちなみにここまでの内容だが、本気であまり誇張がない。 「……塩味すごい」 次なる試練がうちの奥さまを襲っていた。 「逃げ場がない」 「ごはんがあるじゃないか」 「だから、ごはんしか逃げ場がない。あとは全部塩味きつい。強制的にごはんが進む」 「働く男たちの店ということか……」 「しかもタチ悪いことにおいしい」 「おいしいのか」 「塩味きつい以外は」 俺も食っているわけだが、なるほど味噌汁は煮干のどぎついダシの味はするが、味噌はちゃんとしたものを使っている。ただし、味噌がムダに濃い。ポテトサラダはよくあるマヨネーズの酸味がやたらにきつい感じではなく、ちゃんと芋の風味が感じられるくらいにはうまいのだが、塩がなんか入ってるっぽい。ドレッシングもおそらくは自家製のマイルドなオーロラソース風のやつなのだが、なぜそこに塩をこんなに入れた。なぜだ。 そうだ。思い出した。思い出したぞ俺は。 「そうだよ、この店、味濃いんだった」 「遅えよ……」 ちなみにうちの奥さまから天つゆを少しもらった。 やだ……すっごくブッ濃いの、ノドに入って……血圧上がっちゃうぅぅぅぅ。 「これは……天丼のたれレベルのブツであり……」 「でも、ダシしっかりしてるよね……」 「うん……」 俺たちは無言で食べた。いや、うまいのだ。誤解のないように繰り返しておく。おいしい。しかし、濃い。ありとあらゆるものが濃い。 「たくあんおいしい……濃い……」 「生姜焼きもうまいぞ。肉も筋がなくてちゃんとしてる。味付け濃いがな」 しかし2人とも完食した。ちなみに、おかずの非情なまでのごはん進むアシストがあってなお、ごはんはちょうどいい分量だった。
会計のときに「20年前くらいに、よくこちらに来てたんですよ」とばーさんに告げた。ばーさんは「あらあら、それはそれは」と笑顔になってくれた。おいしかったですよ、ともつけくわえておいた。もちろん塩味以外は、だ。こうなってくると、じーさんとばーさんのふだんの食生活が心配だが、あんがい自分たちが食うぶんについては減塩しょうゆとか使ってるかもしれない。あの味付けは客層に対応した結果なのかもしれない。 20年間。 元気だったおっちゃんとおばちゃんが死にかけのじーさんばーさんになるだけの歳月が流れた。自分の内部では時間の流れは連続している。あのころ、やざわと一緒に配送の仕事をやっていたが、収入はばかげて多かった。かわりに休みはまったくなかったが、わずかな休みを使って古本屋を巡って、少女マンガを買いあさっていた。月に100冊くらいは買っていたと思う。俺の前には80年代、70年代の名作が山のように堆積していて、その名作の所在地を、古本屋から自分の部屋に移し変える作業をずっとしていた。それから20年だ。やざわとは袂を分かつことになった。俺は小さいとはいえども一国一城の主となり、店を経営している。 帰りはてきとーにあちこちをぐるぐると回って帰った。新桜ヶ丘団地のあたりも通ったのだけれど、歩道を中学生の集団が歩いていた。趣味の悪い色の制服だった。自分も中学のときに着た制服だ。なんか、きつかった。 中学のころに楽しい思い出があったかと問われれば、そりゃロクにない。まったくなかったかといえば、別にそんなこともないのだろう。中学1年2年と通った中学ではあるけれど、俺にはそのころの記憶がほとんどない。前からよく書いてるけれど、記憶にくっきりと焼きついているのは、そのときに読んだマンガのことばかりだ。けれど、その記憶に現実からのフィードバックがまったくなかったと考えるのはかえって不自然だろう。アルミサッシの窓枠、廊下のリノリウム、階段の冷えた空気のわだかまり、昇降口の湿度、そんなものがまざまざと、手のなかに蘇ってくる。時間の不可逆性というものは、そりゃ多くの人がテーマにするわけだ。あたりまえのことだ。本当にあたりまえのことなのだけれど、学校という箱のなかに冷凍保存された14歳は、二度と解凍されない。記憶にも蘇ってきやしない。いま、現実に俺がよく知っている校舎のなかに、14歳の無数の一瞬が閉じ込められている。それを手の届かないものとして眺めるこの俺の気分をなんと表現したらよいのだろう。しにたい。便利な言葉だ。マイナーコードになりきれないメジャーコードのように、中途半端な感傷のなかで俺は中学生の群れを眺める。ああ、この感情にはまったく憑り代がない。叩きつけるものを失った。叩きつける相手が、たとえば唯のようなものであればよかったのに。俺にはもうそれすらもできない。皮膚の上にべったりと張り付いた出来の悪い雨具で、汗が排出できない。湿度が出ていかない。秋のさわやかな空気のまんなかで、じとじととした精神を抱えて、血のような夕焼けに向かって帰らない旅に出る14歳のようでありたいと願う。なにかに置き去りにされたような夕暮れだから、少し、息苦しい。その息苦しさですらもが一種の快楽であり、浸透性の悪い雨具に穴をあける方法であることを俺はまた知っている。その「知っている」という事実がさらに感度を鈍らせる。なにも直接的ではない。なにも、痛点を刺激しない。そのことを敗北であると感じることのばかばかしさを俺はよく知っている。かたちを変えて自意識の堂々巡りは続いている。益体もないやりかたで存在しもしない追憶を中心にぐるぐると回る。なにも鮮烈ではないというのに。 そうした自分になるべく営々と努力を重ねてきて、うまくいったと思ったらこれだ。まったく俺は度しがたい。なにか、方法はないのか。失わずに済む方法は。どうやら俺はその方法はあると思っているようなのだ。しがみつくこと自体が醜悪であるということを百も承知で、それでも俺はまだなにかにすがりつこうとしている。己以外のものに頼る心根が、精神を腐らせる、か。
話は飛びますが、というかやや余談的ですが。 ツイッターは確かに俺に向いたツールであったし、あれおもしろくはあったんですが、俺にとってあればかりは麻薬でしたね。少なくとも、随時ガス抜きされることによって気分的にはずいぶんと楽にはなった。だけど「そこに行けば自分を受け入れてくれる人がいる」っていう状況はダメだね。孤独こそが人間を表現に向かわせるなんて青くさいことはさすがに言わないけど、だれかが理解してくれるっていうあの感覚はだめだ。そして理解されたところで、やっぱり心底にわだかまりは残るんですよ。俺の場合、そこまで含めて文章で表現してきたわけで、わだかまりに到達するだけのモチベーションがないと動かない。その結果、常になにかがヘドロみたいに残ってる状態で、結局のところトータルではガス抜きになってなかったんだと思う。
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