日々つれづれ
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とうとう霜月になってしまった。あっという間だった。
私にとってはこの一年はずっと心に霜がおりてガサガサと冷たく刺々しく、ザラザラと胸の中で、その冷たさは痛さとしてずっと凍り付いていたようなもの。
我が子の死から一年。今月は一周忌をする。親族と我が子が親しかった友人数名だけに声をかけるつもり。
他人の子供の死を心から、しかも一年もして、よほど親しく長年関わってきた人でなければ悼みを感じる人などいないだろう。
葬儀でも「自分はいかに幼い頃可愛がっていたか」を第一声の言葉として言われるとさらにトーンダウンしたものだった。まずそういう人は、葬儀だけだから。その後、電話が来たり新盆やお彼岸に連絡が来たり訪ねてくるなどはない。
とにかく仏前に会いに来たくて来てくれていたのは、我が子の友人たちだけだ。来るたびに、形通りのものを持ってくるわけではない。
それでも、それが私には嬉しかった。我が子が本当に好きだったお菓子や、好きだった色の花束や・・・そういうものが一番嬉しかった。お盆やお彼岸のたびに、仏前は駄菓子屋ができるほど、好きだったお菓子で溢れていた。
そうして一年。
「元気に」の励ましの数々の声はありがたいと思いつつも、過剰なプレッシャーとなった。ペットが亡くなって一年もの間、それを気にかけてくれる他人はいないだろう。同じだ。他人の子の死など同じだ。
2ヶ月もしないうちに「元気になれ」「元気そうでよかった」の嵐だった。それは「元気じゃないと関わりにくい」ということだと思った。
トーンダウンしている様子をちらりとでもみせると人はさっとさりげなく距離を置く。元気な様子で、なにもなかったかのように振る舞うと声がかかる。
周りにとっては、その暗い不幸な存在が自分の近くにいることはあまりよい気分ではなかったのだろう。
私はまるで、重い鎧を着て砂袋でもくくりつけた足を引きずって歩くように、元気に元気に振る舞うようにした。そうしなければいけないと思った。
しかし、命を縮めただけだったのじゃないかと思う。そうして暮らした一年はなんだったのだろう。
誰も人の痛みなど、解るわけがない。解らないことをせめているのではない。解らない人たちに歩調を合わせて気を遣って暮らした一年に疲れ果てた。
やはりこの人の世は地獄だと思う。
だからといって、絶望しているわけじゃない。
いや、絶望しているけれど「それがコノよ」だと思っているので受け入れている。
我が子の死で、我が子へ石を投げるような言葉を吐いた人々のことを私は一生忘れない。恨みを持ってなにかをするわけじゃないが、あれが人の正直な姿だろうと思うだけ。
自分の命より大切な大切な命だった子への愚弄は、決して忘れない。
私の残りの人生は、最後まで「霜月」だ。そしてやがて「師走」がやってくる。それは私の最後の日々。
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