ゼロノオト

2005年01月18日(火) picture

英語で写真はphotographのほかにpictureという言い方がある。

pictureには絵も含まれる。

っていうか私の中ではニュアンス的にピクチャーは額に入れられた絵や写真

っていうふうに捉えていた。

日本語では「写真」「絵」って別れてる

のになんでこれが同じひとつの言葉で表せちゃうんだろう、

英語はおおざっぱだなぁ、無理あるでしょw

と思っていた。

確かに額に入れられてしまえば写真も絵も似たようなものとして思えなくもないか、

しょうがねぇ、許してやろう、ってな感じで

ピクチャーという言葉を認めはするが避けてきた。



だが、しかし、でも、けれども

額に入れられてなくとも、写真と絵には共通するもんがあるなぁ!

強ちpictureが絵も写真も表すことは間違ってないんだなぁ!と、

こないだジャクソン・ポロックの絵画について調べていて、そう思った。

鍵は意識と無意識。

無意識を意識すること。

その姿勢は絵画にも写真にもあてはまると思った。



ポロックは絵画を制作するときに、キャンバスを床に置き、

上から筆や棒などを使って絵の具を滴らせ、その色や厚みなどによって

それまでの手描きの絵画とはまったく異なる世界を生み出す、

ボアリングという技法を生み出した人物である。

この技法は、意識的に細かい調節が可能な筆とは違って、

無意識の状態を直接図像へと反映することができるんじゃないか、ってことで

無意識が生み出す芸術の意味をポロックは絵画を通して考えていたようだ。

「このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、

文字通り絵のなかにいることができるのだから、

わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。(後略)」(ジャクソン・ポロック)


写真においても意識というものは写真を成立させる要素のひとつでありながらも

その意識によって解釈の幅を限定させてしまうものでもあると思うから、

意識をなるべく排除しようとしたポロックの姿勢には共感した。

写真というものは意識の塊である。と同時に無意識をも内包する。

例えば人物を撮った写真があるとする。そこにはその人物を写そうという意識がまさにある。

でもよく見ると撮るときには気づいていない関係のないモノがまわりに写りこんでいたりする。

無意識が写っている。

そういう無意識を徹底的に排除したのが商業写真であったりするのだけど、

大抵の場合、このように写真には意識と無意識が並存している。

そこで意識を取り除くと写真はどうなるのか。写真は成立するのか。


意識不明の状態で写真は撮れないけれど、余計な意思をできるだけ排除することはできる。

こうしてウェブ上で写真を見せるという行為からして、

取捨選択という意思があることは否定できないが、それでもなるべく意思のないものを、

無意識が多く写っているものを選び取ることはできる。

無意識を意識して意思とするという一見相反する行為ではあるけれど、

やかましいほどの意思が写りこんでいるもの、意思を写しているものを

なんの疑いもなく選び取るよりはましな気がする。


うん、なんかわけわかんなくなってきた。


彼は自分が目指しているのは「イーゼルと壁画の中間」に位置する作品であるとも言っていたようで

絵画があるべき姿、床に対して垂直なのか水平なのかといったことにも関係してくる。


今までなんの疑いもなしに受け入れていた概念を、まずその概念があること自体に気づいて、

疑うことができて、さらにそれを壊すことができるというのは並大抵のことじゃない。

でもそういう姿勢は絵画においても写真においても、さらにあらゆることにとっても、

大事なことなんじゃないかと思ったのだ。


2005年01月17日(月) ミラクル

偶然ってすごい。

たまたま今日、村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」を読んだ。

内容を知らずに読み始めてから、そういえば今日があれから10年という区切りの日だと気づいた。

『地震のあとで』その一〜その六という連作がおさめられた短編集。

偶然にもきっかり10年という時間たどって、文章は届いた。

ありとあらゆる文章は未来に向けて書かれている。

文字になった瞬間、過去になる。

でもその文字に意思はないはずだ。

にもかかわらず、その文章はまるで意思をもって今日私に読まれるために書かれたみたいに思えた。

たまたまなんだけど。

そんなんじゃ片付けられない奇妙な何かがあるような気がした。


2005年01月15日(土) 雪やこんこん眠る

雪なんか降らなかったじゃん。夜みぞれだったくらいで。

そしてゼミ展終了。

やっと寝れる。

ってわけでたっぷり寝させていただきやした。10時間。

そして外は雨、風びゅーびゅー。日曜日の雨。引き篭もり日和。

晴れてるのに引き篭もっていると、多少罪悪感を感じるのだが

こう雨も降って寒ければしょうがないよね

などといいわけできる。でもたぶんいつか後悔しそうだ。

けれども用もないのに出かける必要はないし、

むしろ家で早くレポートアンド試験勉強しなきゃって話なんだ。

なんだ、むしろこの嵐の中出かけてたらそれこそ後悔の嵐だ。

あと、ここ数日まともに寝れなかったので夢も見てない。

で、今日久々に10時間も寝たのに夢を見てない。見たとしても記憶してない。

睡眠を楽しむくらいの余裕がないと夢は見ないのかしら。

もう、集中して休息しなきゃ!って体が訴えてると、眠りは深くなって

夢なんか見てる場合じゃねぇってことになるのかしら。

ってそんな気がしてきます。レム睡眠とか飛び越えて。

科学的には知らんけど。


2005年01月14日(金) ゼミ展二日目。

ゼミ展二日目。

鏡の使用によりなんとか形にすることができた。

あと、昨日は展示場所の窓の外側で別のひとが作業のためにライトをつけていたのだが、

今日はそれがなくて多少室内が暗くなったのと、昨日の映像も少し手を加えて

映像自体を明るくしたかいあって、だいぶ投影したものが見やすくなった。

天気も曇りだったので、夕方にさしこむ光の量が減って助かった。

そういうわけで昨日よりいい方向にことが進んでくれた。

周りの環境によくもわるくも左右される今回のインスタレーションの難しさを痛感した。

明日は雪。

はたして窓の外の雪はどう展示に作用するのだろうか。楽しみだ。

今回のインスタレーションはある意味、あの建物を設計した建築家とコラボってるわけだ

ということに言われて気づいた。

どこでやっても同じふうな展示ができない点で

あの場所での展示をつくっていく楽しさを味わえた。やりがいがあった。

これが今日やっと形になっての感想だ。

夏に「影を照らす展」をいっしょにやったアサコも見に来てくれた。

「影を照らす展」のときも思ったらしいが、こういうアイディアを思いつくことがすごい

というようなことを言って褒めてくれた。昨日中野さんと帰ったときに、

アイディアをたくさん持つことが強みになるというようなことを言われたばかりだったので、

大変にうれしかった。

まだ明日の最終日がありますが、きっと明日も新たな発見があるでしょう。

毎日学ぶところがあるというのも私がインスタレーションに惹かれる理由のひとつだ。

明日も日没後から夜八時前まで課外センターでやっています。

外の景色と、窓の景色と、内の景色とがお待ちしております。


2005年01月13日(木) 中身も外身もしどろもどろ

3徹は無理でした。

気づいたら寝てました。

3時とか5時とかに「寝てていいのか」コールが脳からでたけど

体がそのコールを跳ね除け、休息を要求してました。

朝起きてから映像作りました。

なんとか完成して学校へ向かう展示一日目。

思ったより場所が明るくて完全に日中の投影はアカンです。でした。

暗くなってから再び投影場所を調整しましたがなかなか思うようにいかず。。

見に来てくれたひとにはほんと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

試行錯誤するも、ねらい通りいかず、時が経つばかり。

完全に実験不足。

そんなんで一日目は終了。

やっぱり展示の初日はうまくいかないんだね。

明日、あさってもうまくいくかどうか不安ですが。

とりあえず「とりあえず」の設置をして、見に来てくれた友達を見送ろうとしていたそんなころ

「あれ燃えてない?」といわれ、7号館のほうを見ると、

なんと火事。消防車が何台もきて大変なことになっていた。

あんな現場はじめて生で見た。

友達を見送ってそれからしばらくして展示の機材を片付け、

バス停に向かうと中野さんに遭遇。

しばし一緒にバスを待っていると、この火事の緊急車両でバスの路線が塞がれ、

運行復旧のめどが立たないとの情報が入る。

というわけで歩くことに。

歩きながらゼミ展の作品の話になり、作品のねらいだとか意図だとかを話した

が、上手く言葉にできず、しどろもどろへどろ。どろんこ。

あえて作品の説明をしないのと、説明がうまくできないのとでは全然違う

のに、

昨日あんだけ「説明しなきゃわからない作品は負けだ」とかなんとか言った

のに、

説明もろくにできないことが発覚。

あえてこちらから作品の説明はしないけど、聞かれたらスパッと答えられなきゃ、だめんじゃんね。

中野さんの助け舟によって、なんとかどろまみれになりながらも作品意図を伝える。

「うん、うん、何となくわかる。なんでわかるかっていうとおれも似たようなテーマでやってるから」

とな。

中野さんの出品してる助手展を昨日見た。そういわれてみればなるほどそうかと頷いた。

キーワードは膜。平面性。

思えば今回のインスタレーションの前に写真を撮っていて思ったことが今回の作品意図に繋がる。

写真。

奇妙な立体感と、上から撮ったかのような(でも上からじゃない)違和感のある構図、

現実なんだろうけどどこか現実感がない、どこかひっかかる、居心地の悪さが心地よい写真。

というのが中野さんの作品のひとつを見た感想だ。

なぜ居心地が悪いのか。(=そしてなぜ心地よいのか。)

だって居心地のいい写真(「写真らしい」写真)なんて、ある意味気持ちが悪いじゃないか。

写真だからこそ騙したり混乱させたりすることができるのが写真のおもしろさだと思う

から、現実を忠実に再現することに重点を置いた写真は、

「写真らしい」写真、専門の人に任せておけばいい。



現実感がないってのもポイントのような気がする。





2005年01月12日(水) ひっちゃか

なんとかデザインマネジメントの課題は終わらせました。

最後の最後に文字化けして、一時発狂しましたが、どうにかこうにか。。。

(字数足りてないけど。)

さてと次はゼミ展の映像、、、

3徹への挑戦、、、

一難去ってまた一難。

実は昨日2、3時間寝ちゃったけど!っていうか意識不明だった。いつ寝た!?覚えてない。

今、眠くはないけど心身ともに疲れた!


今日は久々に学校から国分寺までバスを使った。

たまにいつもと違う速度の乗り物に乗ると、ちょっと新鮮ですね。

いつもは徒歩かチャリか電車なので、わくわくした。



それから新宿行ってPCとプロジェクター用の防犯ワイヤー買って、帰ってきた。

移動時間に寝たかったけど、眠れず。

もう1日の境がわからない!

普段でも回転遅いのにさらにいつもより回転3割引きのこの頭。

一回寝たら起きれないから仮眠は怖い。


あ、あと、ゼミ展、私は3日間午後からやります。その代わり20時まで。

午前中は日差しの向きの関係で明るすぎてできないっぽいんで。

えっと場所はムサビ、課外センター正面から入ったところです。

入ったら天井を見上げ、窓を眺め、窓を眺め、外の景色も眺めてください。

夕暮れ時がきっと見頃です。昼と夜とでまたちょっと見え方が違ったりするかもしれません。

めいいっぱい説明的なタイトルつけたので、説明のパネルは作りません。

説明しなきゃ伝わらないようじゃ、負けです。インスタレーションは。

ゼミ展全体は10時〜18時。水木金。131415。


よろしくお願いします。ふらっと遊びに来てください。


2005年01月11日(火) くるくるやまみち

今日も寝れない。

明日も寝れない。

昨日も寝てない。

まぁすべて自分のせいなんだけど。




友人から今日年賀状が届いた。

「遅い年賀状ですみせん」

とあった。テンパってる中、ありがとう。



この山を超えると、たぶん深い深い霧に包まれた巨大な山がそびえ立っています。

でもどのくらい高いのか、どのくらい険しいのかはわかりません。

そこに果たして山があるのかどうかも定かではありません。

つい、お手軽ルートに進みかねない自分がいます。

そこに山があるから登るのか

高く高く上りたいから山を探すのか



賢い近道と

有意義な遠回り

これ、今後のキーワードです。

いい言葉だな〜「有意義な遠回り」

素敵じゃない大人からはなかなか出てこない言葉だと思います。


2005年01月10日(月) 前のめりに逃避

ほんとにヤバイ

ほんとにヤバイと思う。思ってきた。











間に合わない







かも。ね〜。

いろんなことがぎりぎりすぎ。


2005年01月09日(日) 一人称

自分の一人称がしっくりこない。いつも、半分納得しないままその一人称を口にする。

「わたし」の「わ」は言いにくい。かといって「あたし」っていうのもキャラに合わない。

「あたし」が似合うのはもっときゃぴきゃぴした、かわいい子だ。と思っている。

「あゆは〜」って自分の名前を一人称として言うのが許されるのは十代までだ。

ハタチを過ぎてそれを使う人は本物の天然かそうでない天然か、あるいは癖か。

「僕」や「俺」を女で使うのは痛いし、高倉健のように「自分、不器用ですから」っていうのも違う。

というわけで自分の一人称がはっきりしないまま中性的な「うち」を使うことが多い。かな。

でもこれも自分の中のどこかで"関西人でもないくせに"とひっかかってはいる。

英語だったら簡単なのにね。老若男女、I で済む。あと、my 、meあたり。

日本語にも I に代わる一般的な一人称はないものだろうか。


2005年01月08日(土) 夢中遊泳

夢を見た。

いつも夢は短編集みたいな感じで、関連性のないストーリーを2、3本見る。

もっと見ているかもしれないけど、起きた時に覚えているのはそんくらい。

そして、本当に関連性がない。

でも今日見た夢は、全部が繋がってた。繋がってないようで、繋がってる。

終わりからはじめまでをさかのぼっていくと、繋がってる。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」みたいな感じ。

和菓子屋一家の話とスキー旅行と花火とプールとリアルなハトの置物と松戸駅と

FちゃんとS君とI君と名前も知らない女の子2人とCちゃんとK君と、私。

これが全部繋がっちゃうんだから、相当にハイレベルな構造をした夢だったと思われる。

要するに何が言いたいかって、

夢を見ているときの私の脳は、普段より回転してるんじゃないかと思うのだ。

起きてるときにもっと回転してほしいなあ。




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