修理に出していたMDウォークマンが帰ってきたので
MDの整理をした。ipodも買ったことなのでMD音源しかないもの以外を除けるために。
そしたらば。MDのラベルには「tahichi80」…おそらく「tahiti80」と書きたかったのだろう…
いざ再生。
…ラジオから無理やり録った、
「古着屋とかで流れてそうな70年代チックなハウスのようなテクノのような」音楽…
それ一曲が終わってやっとタヒチがはじまって、アルバム全部が終わると、
意外と自然な流れで、いつかの大雨を駅で雨宿りしながらサンプリングした音。
それが終わると、古いカセットテープを再生したようなプチプチした音がして次にきたのが
YMO!ライディーーーン!!!(しかもこれもラジオかなんかの音源)
この脈絡のなさ。
夢も現実も人間がこういう人間だとどっちにしろ秩序立てるなんてことはできないらしい。
山越え谷越え川越え雨雲越え、タマビの学内卒制展に行ってきた。
全体を通して意識の高さをまざまざと見せられたよまったく!
かけるとこには金をかけ、展示することに対して妥協してない作品が多くて。
あと、こないだの文化庁メディア芸術祭に出展していたものとか、
コンペで賞を受けたものとかがゴロゴロしてたのにも驚いた。
ムサビとタマビとか、デ情と情デとか、比べるもんじゃないだろうけど、
やっぱり意識せずにはいられんよなぁ。ツクツクホーシ
隣の芝はやっぱ青いかもしれないけれど、
自分の庭も手入れして青くすりゃぁいいんだよなぁ。ツクツクホーシ
っていうかね、デ情はもっと一つ一つのゼミでやることはっきりさせるか、
もしくはもうごちゃごちゃ〜っと、自由自由自由、自分で決めれ〜
っていう教育をしたほうがいい気がした。今って中途半端じゃね?
中途半端に突き放されて、中途半端に知識身につけて、中途半端に殻破れない。みたいな。
まぁ自分次第なんだろうけども。
その後案内してくれたmiki(milkie)ちゃんと写真やら進路やら人生のことやら!について話し、帰宅。
最近、ミクシィでも知り合ったばかりの人と人生相談チックになってしまったりして、
自分でも驚きです。こんなに人見知りしなかったっけオイラ。みたいな。
なんせ、まぁ、人生の岐路ですからねぇ。
2005年03月21日(月) リアルと夢とウェブの狭間で |
先日mooe+のタブチングと展覧会巡りをしながら
都会のまんなかで、それぞれの友人、知人、いろんな人にばったり会った。
出会う人たちの脈略のなさをタブチングは夢のようだ、
と書いていたのもうなずける。
ところがその夢はどこかウェブと似ている、とも書いている。でもそれも納得できる。
そもそもウェブはその構造やシステムを現実世界にならって作られたものなわけだけど、
夢と現実という相反するものの両者にウェブが似ていることがおもしろい。
相反する両者ではあるが、ときどき夢と現実の区別がつかなくなるように、
両者は極めて似ているともいえる。
では、その似て非なるものの違いはどこにあるのか、、、
予測がつかないところは夢のほうが多いけれど、現実だってなにが起こるかわからないときもたくさんあるし、、
それに、現実で見たり体験したりしたことや考えていたこと、空想、妄想が元になって夢が形成されるわけだから、
ひとつひとつの要素をとってみれば夢と現実のあいだには線などないのかもしれない。
要素は同じかもしれない。けれど、コンテクストが突拍子もないのが夢ってもんだ。
戻ってきた戻ってきた。
突拍子もないコンテクスト、脈略のなさが、夢なんだ。
ということはウェブも、突拍子もないものなのか。
たしかにリンクによってウェブ空間の距離や時間は縮まって、まったく違うサイトに飛んでいけたり、
ロボット検索で、まったく関係のないページを開いてしまったり、、、、
うん、確かにウェブって脈略ないかも。
でも、アドレスとか、階層とか、
(あんまり想像できないときもたまにあるけど)画面の向こうにはちゃんと人がいることとか、
やっぱりちゃんと現実なんだ、って思える部分もある。
リアルな部分と不完全さとを包含している。
これってもしかすると、人間に似ている?
人間の現実、夢、ウェブ、、、、、人間。
堂堂巡り。
2005年03月20日(日) 音変換イメージ不思議音 |
ジャケ買いはハズレたときの損失が怖くてできないので必ず試聴して買うけど、
レンタルなら、しかも100円セールだったりすれば、ジャケ借りなるものをする。
それが意外にもハズしたことがない。
まず洋楽コーナー、邦楽コーナー、サントラ、などの大枠を選んでその棚の前に立つ。
そして、陳列されてる時点では、背の部分を見せて並んでいる大方のCDの中から
そのわずかな面積のデザインを基準に選び取る作業をする。
白地にヘルベチカ系の文字に弱い。
で、選び取ったCDを見てみると、やはりヴィジュアルからキそうな予感がぷんぷんする。
というか
デザインから中の音楽を匂わせられるのなら、
音楽の側からもある程度共通認識される、沸き起こるイメージというものがあるのだろうか。
どんな音楽からもイメージというか映像というか、なんらかのものが視覚情報として浮かぶけれど、
それが多くのひとと共通してるとしたら、それってすごい気がしてきた。
そんなこといったらどうしてひとはマイナー系のコードを聴くと悲しいとか暗いと感じるのかとか
不思議だ。
そういうのは脳の構造とかが絡むのかしら。よくわからんけども。
先天的にどう育ってもそう感じるようにはじめっからできているのか、
それとも後天性のものなのか。
音変換イメージ不思議音。
■17
新小平から40分近くあるいて友人宅で餃子パーチー
餃子を包みながら節約生活みながらカルピスサワー飲みながら既に赤ら顔。
ふあふあと、交わす言葉が宙に舞う。
太田くんをぱしりに使ったり、
一眼レフを貸したときにフィルムに残っていた写真を現像してもらったり
帰りにバイクに乗せてもらったりして帰宅。
■18
mooe+デートyappe
スパイラル、青山散歩初台、ICC、森山新宿荒木、長話脱線脱線マクロ長話、初台散歩新宿。
またしようね、たぶっちゃん!
■19
新小平散歩引越し手伝い
あふれるモノ、モノ、モノ、
花粉症の脅威をすぐそばで見た
2年間しか住んでないのに、モノの多さや水周りの汚れがその長さを語っていた。
そしてもぬけのからとなった部屋
もうその空間は誰かのものになってしまうんだ
国分寺電車新宿
タワレコ
マイナスイオン、ピコピコ、静かなロック
新宿散歩秋葉原、テッチュウ!
おいしい料理を前に、育ちの悪さを露呈。ねこまんま。
おこちゃま向けのアルコール
「やっぺって、ちびまるこちゃんに出てきそう」と、言われる。
絵本朗読出版、テッチュウミーティング、黒板ラクガキ絵本作家
終電帰宅ミクシィ。早い、速い。オンゴーイング。
写真取り込みCDインポートipod更新web更新至福の時
自分から繋がろうとすれば、意外と簡単に反応があるもんなんですね。
どっかを流れてる金脈にいままで気づきもせず、探そうともしてなかったかのようです。
くるときは一気にくるもんなんですね〜。いろんなことにおいてそれは言えるかなと。
旅行の写真の現像があがってきた。
出発直前まで持っていくかどうか悩んだ末に、約一年ぶりに持ち出した一眼レフ。
長らくこいつを封印していたのは、いつだかここにも書いたが、
こいつで撮った写真がまったくつまらぬぁい!と感じたからだ。それももう数ヶ月前の話。
もうデジタルだの銀塩だの比較だのなんだのはどうでもいいんだけど、
自分のなかでは予想として、デジタルで撮ったものは「動」、
一眼で撮ったものは「静」というような大まかな分類が自然とできそうだと思っていた。
以前の「つまらぬぁい写真」に「動」が感じられなかった、、その逆も然り、、
というような結果に対する解釈が、自分なりのこの予想の根拠を生んだんじゃないかと思う。
さて、できあがった今回の写真はというと意外にも、
先にパソコンに取り込んだデジカメの写真と大差なかった。
と、感じただけかもしれないが、とにかく、おえっとなるような違和感はなかった。
そもそも今回一眼レフを持っていくことにしたのも、実はこうなるんじゃないか、
違和感をなくすことが今ならできるんじゃないか、という思いが密かに潜んでいて、
その思いがそうさせたのかもしれない。
極々最近は素直にいこう、というのがちょっとしたテーマ、ってほどのもんじゃないけど、
心の片隅くらいにはいつも浮かんでいるキーワードだ。
大学に入りたてのころの写真を見ると、まぁー必ず皆一度は撮っちゃう夕焼けだの電柱だの
イメージ先行型写真のオンパレードなわけだけど、それはそれである意味素直である。
それはそれは恥ずかしいくらいに素直である。
ところがやはりそれを続けていくことに耐えられなくなってくる。飽きてくる。
すると、無理やりカタチだけ変えてカッコつけようとするもんだから、それはそれは素直じゃなくなってくる。
はっきり言ってその知ったかぶりのカッコつけをやっていたと今自覚しているのが3年の夏くらいまでだ。
そのカッコつけの期間中もそれなりにいろいろ考えたりするんだけれども、どうもよくわからないまま、
けれども素直なのがカッコ悪いみたいな、音楽で言うとjpopを馬鹿にしてノイズだの一般受けしないものに走るような、
そんなひねくれた反抗期みたいな感じで、斜に構えたへそ曲がりな写真が量産されたわけである。
文字通り写真は斜めってたし。笑
まぁ今も斜めってるんだけど、水平に構えることの不自然さを認識してるのとしてないのとでは質が違うからいーのだ。
と今を正当化するのは進むための本能なのかもしれないなあ。なんて。
で、今回現像された写真である。
違和感を感じないのは、まだ客観的になっていないからかもしれないけれど、
破り捨てたくなるようなものが出来上がってこなくて今のところほっとしている。
でも半年ちょっとまえの反抗期の自分は好きじゃなさそうな写真だとは思う。
それは狙って撮っているから。
わざと露出オーバー気味にしてハイキーにするとか、ある程度は予想できてくるから、狙えるのだ。
だからといって本気で物語性のある写真とかを狙っているんじゃなくて、
狙いを超えたところで偶然がもたらすものに期待をして、それを素直に狙うのだ。
うーん、わかりにくいだろーなぁ。
っていうかこれは前からやってたような気もしてきた。あれ、どーだったっけ。
まぁとりあえず言えることは、技術的にはもうちょっと上達せねばなぁということだ。
フイルム2本だめにしちゃったよ。
写真がどーのとか以前の話だなー
「ひさびさにこいつとデートしてみたら誤解が解けたのでまたよりを戻すか、
でもやっぱ毎日べったりは重いから無理だわー、金もかかるし、、」ってところかしら。
すごい誤解されそうな文だわこれ。笑
デジャヴュかしら。
この春は、高2か高3のころの春と似ている。
あるいは春じゃなかったかも、しれない。
ただ、どこにも繋がれていない、浮遊したこの感覚が似ているのだ。
首をぐるんぐるんした
ら、世界がまわって、
ちょっと、おえっとなった。
社会人のように毎朝ラッシュでもみくちゃになって通勤する日々も終わり、
ちょっと旅に出て、
帰ってきて、ICCやら先生の展示行ったり、読書三昧。
しゅーかつなんてしてない。
たぶん、する気も、ない。
どうもしっくりこなかった。
一年後とかに、アパートの契約とか、多少せまくても日当たりのいい部屋で生活してるのとか、
は、たやすく想像できるのだけれど、
どこかの会社に勤めている自分は、そこにはいない。
最近浮上してきた新たなプランは、なかなか悪くない気がする。想像できる。創造できる。
気が、する。
気がする、だけ、かも、しれない
けれど、なかなかにしっくりくる。
まだまだ流動的な自分を固形化するための時間が必要に思うのだ。あと3、4年はほしいなあ!
今はどろどろだかさらさらだか、とにかく溶け出しそうに、あやふやだ。
雪解け?
いや、まだ一回もかたまっちゃいない。
2005年02月25日(金) 色々したりしてました。 |
久しぶりに書くなぁ。
実に規則正しい生活を送っていたため、ネットすらほとんどしてませんでした。
その間、いろんーーなことがありました。
バイトははじめの三日間は慣れずに苦痛を感じていましたが、
そのあとは仕事にも慣れ、
バイト先のえらい人に1300えんもする本物の石焼ビビンバを昼に奢ってもらったり、
(いままで食べていたのは、石焼「風」ビビンバだったんですね、、)
またまた別のえらい人に地方名物の駅弁をもらったり、
出張帰りの社員さんからおみやげのおかしをもらったり、
(もらってばっかだ)
ビーコン、初クラ、グラセン、新明国、など、辞書の略名を覚えたり、
宅急便係りになって、宛名書きをして、字がきれい、と褒められたり、
伝票整理をしたり、
両面コピーの仕方を覚えたり、
コピー機が紙詰まりを起こしても機械をあけて瞬時に詰まった紙を取り出せるようになったり、
どきどきしながら電話の受け答えをしたり、
アイスを食べながら仕事をしたり、
靴を脱いでいすのうえであぐらをかいて仕事に励んでみたり、
電子辞書のチラシを自宅残業をして作ったり、
社員さんの卓球練習会にまぜてもらったり、
さらにチャーハンをごちそうになったり、
さらにさらにパスネットを貸してもらったり、
毎朝駅の階段を一段飛ばしで駆け上がったり、駆け下りたり、
してました。
あるいは用もないのに高円寺をぶらぶらしたり、
シューズもラケットもなしに卓球をやろうと試みたり、
楽しみにしていたライブに、残業で遅刻して、目当てだったバンドを一つ聞き逃したり、
ipodがほしくなって、ビックに行ったらipodphotoがほしくなって、
でも結局入荷待ちだったので唯一在庫があったipodの20Gを買ったり、
ipodをゴム素材のケースにいれてポケットに入れていたらタバコの葉っぱまみれにしてしまったり、
タバコの煙で輪っかが作れるようになったり、
寝るときふとんじゃなくてコタツが定位置になったり、
目覚ましなしで6時代に起きられるようになったり、
部屋をワンシーズンぶりに片付けたり、
またもとどおり散らかしたり、
部屋にプロジェクターを設置してPVをエンドレスで流したり、
働いていたラーメン屋にいって、半額以下にまけてもらったり、
してました。
健全だ。
そういう生活も来週いっぱいでおわる(予定)。
さあて、3月はなにすっかな〜!(やっぺさん、就活は?)
私は味音痴である。
吉牛と松屋の違いも
アクエリとポカリの差も
ペプシとコカコーラも違いも
実はよくわからない。(いや、並べて食べ比べればわかるかもしれんが…)
ついでにいうと、松屋の豚丼と牛めしの違いも大してないように思っていたりする…。
でも母はそれを越えて味音痴であることが判明した。
父が会社でもらってきたチョコを私と母にくれたので二人で食べていた。
ホワイトチョコと普通のチョコがあったので、
「ホワイトチョコのほうがすきー」といって私がホワイトチョコを選び取ると
「一緒じゃないの」と母。
「・・・違うだろーーー」と母の味音痴ぶりに驚愕したのでありました。
バイトはじまると一週間があっというま。
なにもなくてぼんやり時を過ごす一週間も、バイトバイトの一週間も、
どちらも振り返ると一日いちにちの輪郭がぼやけていく。
それがいやで毎日日記なり写真なりなんなり、記録を残すことを試みるわけだが、
本当に充実して過ごせていたら、そういうのは必要ないのかもなとも思う。
「今日は○○をしました」「今日は○○を見ました」「今日は○○について考えました」
って記録することで、なにかに言い訳してるんじゃないかという気もするのだ。
そのなにかっていうのは、未来の自分や、その記録を見てくれる人たち。
その記録を残すことが、未来に向けた言い訳のような気がしてくる。
でも、記録をのこすことをやめるわけにはいかない。
そう、あの日は○○をして過ごしたんだ、っていう証がないと不安になってしまうのだ。
それはなによりも、ほんとうの意味で、
一日いちにちを大切に、というか充実させていない、証拠なのかもしれない。
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無理に合わせようとしなければいいことに気付いてからは、すんなりとバイト先にも慣れた。
ときにはてきとーにがんばるくらいがちょうどいい。
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最後になりましたが、私も参加しているAVOTUのVISION Vol.002がアップされています。
よければご覧いただければ幸いです。
http://www.avotu.com/vision002/
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