2005年07月06日(水) ティッシャーにないたいくらいだ |
昨日に引き続き掃除ネタ。 溜まってしまうものたちと言えば、 ポケットティッシュと紙袋(ショップの袋)。 こいつらがいつのまにか増殖する。怖いくらいに。
タダでもらえるもんなんだから捨てればいいのに、 もったいない精神が出てきてしまって、なかなか捨てられない。 そしてまたどっかでもらってきてしまうので溜まる一方である。 一山はあるポケットティッシュを再び街に(返しに)ばらまきに行きたいくらいだ。 ・・・ウケるよね。いろんな企業名の入ったティッシュを個人が勝手に配ってたら。
先月にひきつづき家中の大掃除に取り組んでいる。 そしてでるわでるわ大量のごみ。 その多くは紙なのだ。
カード会社、携帯会社、電気ガス水道会社、もろもろからの請求書だの明細だのその他給与明細など一度見ればゴミと化すものばかりが紙…。まぁ普通はその都度捨ててしまうものだけど、たまたま我が家でこうして溜まりに溜まった状態でその膨大な紙と向き合うことになったために、どれだけ多くの紙がムダに使われているかが露呈したのだ。それは、もう、うんざりするほどの紙、紙、紙…。
そんでもってその紙にまつわる印刷代や郵送費を考えると恐ろしいと思った。 その分の経費を削って料金プランを安くするとかしたほうが消費者は喜ぶし、しかも「環境にやさしい会社なんですよ!アピール」もできて、一石三鳥くらいにはなるんじゃないかとか、ね。
ってなんだか環境問題について割とマジメに考えてるみたいに見えるけど、私は現金なやつなので、スタンプやポイントがもらえるからこそ、買い物袋を持参してスーパーのレジ袋を断るのだ。でもきっとみんなそうなんじゃないか。自分にはっきりした利益がなかったら頑張る気にはならないんじゃないだろうか。
---
余談:買い物袋を持参する度にスタンプを押してもらうそのスタンプカードも紙でできている。もう、何がなんだかわからなくなってくる。
決めなければならないこと、やらなければならないことを 先延ばし、先延ばしにしてしまう。もう、ある種の病気的に。 レポートも結局提出日の朝あわてて取り掛かる始末だし、 気を抜くとすぐに部屋は散らかってしまうし。 小さなめんどくさいを10個貯めると、 あとで100個分のめんどくさいになって帰ってくる。 最近はそんなことに気づいて、メンドクサイを貯めないようにしている。 近頃の貯金は低利子だけど、人生の敵、メンドクサイは高利子がつくのだ。
あと、最近のテーマは更新だ。 結構更新してるでしょ。 "決定を先延ばしにするためには、常に決定しつづけなければならない" みたいなことを、某j教授が書いていて、なるほど、と思った。 いわゆるひとつのパラドックスだ。しびれる。
久々に日記らしい文章を書こうと思う。そう、「今日はなにをしてどうだった」という日記的日記を。今日書かないでいつ書くというのだ。そんな、永久保存版決定な一日だったのだ。
■simさんの展示。 今回は"滝に打たれる"ことができるくらい、近い距離に投影されていて、卒制展とはまた違った迫力だった。そして余計なものが一切なくて、洗練されている。 あと毎回すごいと思うのは、展示場所ごとに作品をそれぞれベストな形に持っていくこと。空間をものにしてしまうこと。だから作品の多面的な要素を毎回違った形で見せてくれる。逆に言えば、作品の奥が深いのだ。尊敬。
■ポラリスワンマン@恵比寿リキッドルーム lu-luh-lah-la-lah lu-luh-lah-la-lah lu-luh-lah-la-lah ほんと気持ちよかった! しかもゲスト原田郁子と永積タカシ! 楽しくてにやけた!! 一番後ろからたまに俯瞰して 会場がゆらゆら波みたいで 人波の光景がやさしくて 音が増幅して空気の振動が交差して ポラリスが溢れてた。 lu-luh-lah-la-lah lu-luh-lah-la-lah lu-luh-lah-la-lah lu- luh- lah-la-lah lu- luh- lah- la- lah lu- luh- lah- la- lah lu- luh- lah- la- lah lu- luh- lah- la- lah lu- luh- lah- la- lah lu- luh- lah- la- lah
そんなわけで今日は滝に打たれ、心打たれ、うたに音に打たれ、雨に打たれ、かなり心地よく疲れた。さー寝よ。
物欲を満たすことで快感を得るというのなら わかるし、経験もあるけれど、 物を捨てるのがこんなに気持ち良いこととは 知らなかった。
断層のように過去が積み重なっていて、 それぞれの層で過去の自分に こんにちはをしながら、 さようならをした。
部屋が片付かないのは物が多すぎるからだ。 しかもそのほとんど、8割くらいは使っていない物。 使ってないなら捨てるなり売るなりすればいいのだけど それができれば苦労はしないって話だ。
どうして処分できないかというと、それらの物が 基本的に未来に繋がっている、または繋がる可能性があるからだ。 「・・・きっと5年後に見たらもっと懐かしいだろう・・」 「いつか使える・・」(といって99.9%使わない) 「引越しのとき使うから・・」(プリンタの箱とかね)
そしておかげで部屋が狭くなっている。 未来を想うあまり、「今」が損なわれいる。
「今」だけを生きられたらどんなに部屋が広くなるんだろう。。
例えば写真の感想で 「上手いね」って言われるより 「好きだ」って言われたい。
もはや上手いとか下手とかじゃないしね。と信じてるわけで。
ついでに「おまえが好きだ」と言われたい。 もしくは「おまえを好きだ」と言われたい。
どこにも行けない。 どこにも行かない。 どこにも行けなくていい。 どこにも行かなくていい。
一枚のアルバムを何十回、何百回と聴いてソラで曲順が言えるくらいに耳になじむ、というようなことがなくなってきている気がしてならない。聴く曲数は増えたけど、一曲あたりの再生回数が少ない。というか。
これは聴く音楽の範囲が「狭く深く」から「広く浅く」なってきているのか。 どちらが良い悪いとかではなく、そういうスタイルになってきているなあと。 時間の絶対数は変わらないのだから、「広く深く」というのには限界があるわけで、よーするに追いつかないのよ。時間に追いつけない。
間違って広まったことが新たな常識になることってあるよね。 言葉とかね。 広い意味の言葉に含まれるかもしれないけどHTMLとかもね。 ALT属性タグってほんとは(もともとは)音声ブラウザや画像が表示されない環境のために 例えば[TOP]っていう画像にマウスを置くと「TOP」って出てくるように 画像の名前を記述するもので、漫画のふきだし的な使い方は"まちがって"たみたいだけど あんまり広まってしまったもんで、もはやそれもアリになって、 でもHTMLと付き合いの長いひとからすれば、 "まちがっとる!けしからんだから最近の若いもんは"的な見解と "昔は違ったんだけどなぁ、世の中変わったもんじゃ、しみじみ"的感慨と "これもいわゆるひとつの自然淘汰なんでありましょうな"的な意見とが あるだろうけど、結局のところ褒めたってけなしたってこの流れは変わらないんだろう。
っていうかうちのサイトなんて画像見えなかったら存在事由がなくなってしまう。
2005年06月06日(月) お金と幸せについての考察 |
お金はないよりあるほうがいいに決まっているけど ありすぎても必ずしも幸せにはなれなさそうだなと 貧乏人のくせに思ったりする。
資産がウン百億とか、そういう、途方もない天文学的数字になってくると 一般人の"欲しいものリスト"に挙がるような物質、たとえば 電化製品だの車だの家だの宝石だのはなんだって手に入るだろうし たぶんその一般人とは経済感覚が2桁、3桁違っていて 小銭入れは持ちませんでござーますよ、みたいな、 でも、いわゆる"どこまでいっても満たされない"状態なんじゃないだろうか。 あとは金で買えないものしか欲しいと思わない、とかね。
そう考えると一般市民があくせく働いてひとつまたひとつ望みを叶えていって小さな幸せを感じていくっていうことは、幸せを感じる回数が多くて、案外幸福なことなんじゃないかとも思えてくる。
自由さそのものを手にしているよりも、 自由なるものの象徴を手にしていることが幸福なのかもしれないように、 実際に莫大なお金を手に入れるよりも、 莫大な、途方もない額の金を、想像しきれないほどの金を、 想像しているほうが幸福なのかもしれない。
とかなんとか言ったところでほんとの金持ちにしてみれば 「想像だけでいいなんて安上がりだこと」って思うんだろうけど 幸せの価値観に絶対的なものなんてないんだし いつも100均のファイルで済ましちゃうのを400円するのを買ったくらいで 息切らしながら昨日の自分に対して優越感に浸っていたりするのが私なのだ。
あー、欲しいものがたくさんあるって幸せだなー(涙)
|