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2004年07月07日(水) |
泣かないために描く(見えないものを見る) |
『見えないものを見る──絵描きの眼 作家の眼』読了。 絵描き=伊勢英子、作家=柳田邦男。
「ものを見る」ということ。 ただ漫然と「見る」のではなく、「捉える」ということ。 しかも、「本質を捉える」ということ。 本質と言っても、その人によって異なる。 実は、「自分にとっての真実を感じ取ること」→「自分を見つめ直すこと」なのだと。
そう。『はじまりの記憶』へ繋がっているのだ。
伊勢さんは、やっぱりすごい。 極限まで、追い求めようとする人。 自分を許そうとしない人。 その精神エネルギーはどこから湧き出てくるのか。 わたしなんか、すぐに妥協してしまうのに。
「泣かないために描いている」というところ、鳥肌が立った。 しかも、それでも泣いてしまったとき、悔しい、というのだ。 自己の精神の昇華見たいのが、絵によってなされているのだろうか。 それさえも超えて、あふれ出てしまう想いってどんなものなんだろうか。 そんな体験を、わたしもできるときが来るだろうか。
来週は、参議院選挙だ。 普段、あまり真面目に政治のことなんて考えていないけれど、 投票に行く。 今のところ、欠かしたことはない。 でも、つい口をついて出る「どうせ誰が当選しても一緒」。
それって、本当に? 「どうせ一緒」なのは、自分なんじゃないの? 「どうせ、何もしない自分」 「どうせ、何も期待していない自分」 「どうせ、諦めている、自分」
政治に限らず、ごく身近にも、 諦めモードがはびこっている、この頃。 少々飽きてきたよ、この状態に。 行動しないうちから、諦めちゃって、 変に考え深くて、まるで批評家みたいに理論武装して、 でも、肝心なときにそれを発揮しないで、 陰でぶちぶち言っているばかり。 なんでもかんでも、マイナス方向に決めつけて、 悪い方に悪い方にと、邪推して、 なんでもないことを変にあげつらって、あざ笑って、 ヒガイシャ意識で、傷なめあって、 結局、疲ればかり、溜め込んでいる。
だから、なんなんだ? 暴れろ、とか、波風立てろ、とかってわけじゃないけど、 なんか、もっとやってみても、いいんじゃないの? ねえ?
2004年06月14日(月) |
魔女見習い以前(西の魔女が死んだ) |
梨木香歩『西の魔女が死んだ』再読終了。
わたしには、魔女修業は難しすぎる。 動揺しないなんて、無理。
それに、「大好き」と言える相手も、 「アイ・ノウ」と言ってくれる人も、 持ちあわせていないのだから。
2004年06月12日(土) |
「信じる」は同じでも |
昇天一周年記念会。つまり、教会での一周忌。 牧師さんは語る。 神は常にそばにいます。 そして、故人はそのことに気づき(神の存在を信じ、洗礼を受けたことで)、心の平穏を得ました。 たとえ、肉体は苦痛にさいなまれていたとしても……
なんで、神を信じることで心穏やかになるのか。 ぼんやり、考えていて、気づいてしまった。 救いを求めるとき、唯一絶対無比のものを思うんだ。 それが、宗教なんじゃないかって。 唯一神も、念仏も、お題目も、みなしかり。
もちろん、宗教がみんな一神教ではないことは知っている。 多神教といえば日本神話やギリシャ神話や北欧神話? でも、これらは「信仰」だけど、「宗教」って感じがしないんだ。
2004年05月18日(火) |
面白シアワセ異文化交流(ダーリンは外国人) |
小栗左多里『ダーリンは外国人』読了。 小栗さんとトニーさんのことは「ダ・ヴィンチ」で気になっていたので、購入。 期せずして、外国人との暮らしを描いた本が続くな。
異国の人、異文化の人と暮らすのは、確かに驚きや戸惑いがあるんでしょう。 (あまり実体験として持ちあわせていないので、あえて仮定法) でも、よく考えたら、一応「同じ国・文化」の人ってことになっていても、 1人として「同じ人」はいない。 「自分でない人」と暮らす、という意味では、 程度の差はあれ、同一線上のことなのかなーと、思う。 いや、この本を読んで、改めてそう思わされた。
トニーさんはいろいろ「発見」をするけど、 それが外国人だからなのか、トニーさんだからなのかは、線引きできないし、 小栗さんもそのへんごちゃごちゃのまま描いているところが面白い。 肩ひじ張らずに、自分のペースで接しているからこそ、 2人のバランスがよいんだろうね。
梨木さんの場合、本人が外国人だったけれど、 いずれにしても、異なものと交じりあうことは似ている(同じような心の過程をへる)と、感じた。
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