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友人と同じ名前がテレビに流れた、 と言って青ざめていた友の顔が忘れられない。
翌日、 あれは同姓同名の別人だった、 と安堵していたその顔も。
しかし、その同姓同名さんに思いをはせると、 手放しで、喜ぶことなんてできない、 何かしたい思いと、何もできないもどかしさと、 不安定さに、けっして晴れない心持ちも、 忘れることはないだろう。
2005年01月14日(金) |
理屈っぽく、哲学を(ぐるりのこと) |
梨木香歩『ぐるりのこと』読了。
む、難しい…… 感覚的なことを論理的(風)に書かれているっていうのは、 なかなかどうして、難解なのね。
ちがうな、これは哲学なんだ。
ふとした出来事をきっかけに、梨木さんの思いはめぐる。 一羽のカラスをきっかけに、人類の滅びまで思ってしまうくらいに。 この人は、なんて真面目で、なんでもかんでも堅苦しくして、 そして、宗教的な発想から逃れられない人なんだろう。 もともと、梨木さんが宗教(主にキリスト教?)のことを深く考えていて、 しかもイギリスで児童文学を学んだ人で、 ということを知っているので、納得できる面もあるけれど。
なぜ、そんなにも客観的であろうとするのだろう。 必死に、必死に。 そしてなぜそんなにも後ろ向きなのだろう。
また改めて、この本とはじっくり取り組んでみたい。
2005年01月04日(火) |
無知も、無視も、すべてが虚しい(闇の子供たち) |
今年最初の読了本は、梁 石日『闇の子供たち』。 年頭から暗い話。 実はあと1/3ということろで、ずっと放ってあったのだ。
タイを中心に、子供たちが虐待されているさまを描き出している。 虐待といっても日本で最近はやっているようなものではなく、 貧困、誘拐、人身売買、幼児売春、臓器売買・・・ 人間ではなく、モノとして扱われる、そんな有様。
そこには、もちろんそれを改めたいという人々もいる。 日本人もそこにいる。 けれど、その思いはあっけなく権力と暴力に粉砕されて虚しい。 なにより、日本で「普通に」生活していると、 まったく縁のないそれら恐ろしいことが、 けれどやっぱり世界にはあるのだ、ということを突きつけられ、 でもそれを知ったからといって、やはり何もできない、というのが虚しい。
スマトラ沖地震の津波で、大勢の子供たちが親を失った。 彼ら彼女らが、この闇の世界に飲み込まれていくかもしれない。 それを阻止することは、きっと難しい。
2004年12月20日(月) |
電車を、乗り過ごしそうになった |
異世界、異空間、へとトリップする話、 またはそこから何かがやってくる話は、 ファンタジーにはつきものだけれど、 そこで言う「異界」は、「この世界」と連続性のあるものだと思っている。
わかりやすく例えると「ぱらぱらマンガ」。
1枚目と2枚目、2枚目と3枚目、というように、 重なり合った紙どうしの絵は、あまり変わっていないのに、 最初と最後では全然違うものになっている。 そんなふうに、隣り合っていないちょっと遠くの「世界」と、 何かのはずみに繋がってしまうと、 それが「異界」に見えるんじゃないかしら。
佐藤さとる作品には、割と近い「世界」どうしの「はずみ」が描かれている。
さて、ごくごく近くの、それこそお隣どうしの「世界」は、 実は日常的に入れ違っていたりするんじゃないか、と思うことがある。 「世界」が入れ違うのではなく、わたしが間違ってお隣に行ってしまうのだが。
たとえば、電車を乗り過ごしそうになって、慌てて降りたとき。 あまりに慌てていたので、 実は隣の「世界」の、その駅に降りてしまったのかもしれない。 そうして、そのまま家に帰り着くのだけれど、 自分の持っている鍵で、なんなくドアは開くのだけれど、 それでも、なにか違っているんじゃないか、ひそんでいるんじゃないかと、 内心どこかびくびくし、居心地が悪くなる。 (もちろん、一度だって違いに気づいたことなんてない)
そんなとき、わたしが来てしまったこの「世界」に、 本来はいたはずの「わたし」はどこに行ってしまったのだろう? 一番怖れているのは、それに出会ってしまうことなのである。
2004年12月18日(土) |
暮れだからというのでなく |
去年の今頃は、かなしい時期だった。 年が明けて、今年になってしばらくは、もっとかなしかった。 それからずっと、かなしいようなさみしいような心持ちが、ずっと漂っている。 わすれたように思っても、どこか忘れられないでいるらしい。
一年経って、ある程度やわらいだようでもあり、よけいにかなしいようでもある。
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