ニッキ?

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2005年01月17日(月) 10年前

友人と同じ名前がテレビに流れた、
と言って青ざめていた友の顔が忘れられない。

翌日、
あれは同姓同名の別人だった、
と安堵していたその顔も。

しかし、その同姓同名さんに思いをはせると、
手放しで、喜ぶことなんてできない、
何かしたい思いと、何もできないもどかしさと、
不安定さに、けっして晴れない心持ちも、
忘れることはないだろう。


2005年01月14日(金) 理屈っぽく、哲学を(ぐるりのこと)

梨木香歩『ぐるりのこと』読了。

む、難しい……
感覚的なことを論理的(風)に書かれているっていうのは、
なかなかどうして、難解なのね。

ちがうな、これは哲学なんだ。

ふとした出来事をきっかけに、梨木さんの思いはめぐる。
一羽のカラスをきっかけに、人類の滅びまで思ってしまうくらいに。
この人は、なんて真面目で、なんでもかんでも堅苦しくして、
そして、宗教的な発想から逃れられない人なんだろう。
もともと、梨木さんが宗教(主にキリスト教?)のことを深く考えていて、
しかもイギリスで児童文学を学んだ人で、
ということを知っているので、納得できる面もあるけれど。

なぜ、そんなにも客観的であろうとするのだろう。
必死に、必死に。
そしてなぜそんなにも後ろ向きなのだろう。

また改めて、この本とはじっくり取り組んでみたい。


2005年01月04日(火) 無知も、無視も、すべてが虚しい(闇の子供たち)

今年最初の読了本は、梁 石日『闇の子供たち』。
年頭から暗い話。
実はあと1/3ということろで、ずっと放ってあったのだ。

タイを中心に、子供たちが虐待されているさまを描き出している。
虐待といっても日本で最近はやっているようなものではなく、
貧困、誘拐、人身売買、幼児売春、臓器売買・・・
人間ではなく、モノとして扱われる、そんな有様。

そこには、もちろんそれを改めたいという人々もいる。
日本人もそこにいる。
けれど、その思いはあっけなく権力と暴力に粉砕されて虚しい。
なにより、日本で「普通に」生活していると、
まったく縁のないそれら恐ろしいことが、
けれどやっぱり世界にはあるのだ、ということを突きつけられ、
でもそれを知ったからといって、やはり何もできない、というのが虚しい。

スマトラ沖地震の津波で、大勢の子供たちが親を失った。
彼ら彼女らが、この闇の世界に飲み込まれていくかもしれない。
それを阻止することは、きっと難しい。


2004年12月20日(月) 電車を、乗り過ごしそうになった

異世界、異空間、へとトリップする話、
またはそこから何かがやってくる話は、
ファンタジーにはつきものだけれど、
そこで言う「異界」は、「この世界」と連続性のあるものだと思っている。

わかりやすく例えると「ぱらぱらマンガ」。

1枚目と2枚目、2枚目と3枚目、というように、
重なり合った紙どうしの絵は、あまり変わっていないのに、
最初と最後では全然違うものになっている。
そんなふうに、隣り合っていないちょっと遠くの「世界」と、
何かのはずみに繋がってしまうと、
それが「異界」に見えるんじゃないかしら。


佐藤さとる作品には、割と近い「世界」どうしの「はずみ」が描かれている。


さて、ごくごく近くの、それこそお隣どうしの「世界」は、
実は日常的に入れ違っていたりするんじゃないか、と思うことがある。
「世界」が入れ違うのではなく、わたしが間違ってお隣に行ってしまうのだが。

たとえば、電車を乗り過ごしそうになって、慌てて降りたとき。
あまりに慌てていたので、
実は隣の「世界」の、その駅に降りてしまったのかもしれない。
そうして、そのまま家に帰り着くのだけれど、
自分の持っている鍵で、なんなくドアは開くのだけれど、
それでも、なにか違っているんじゃないか、ひそんでいるんじゃないかと、
内心どこかびくびくし、居心地が悪くなる。
(もちろん、一度だって違いに気づいたことなんてない)

そんなとき、わたしが来てしまったこの「世界」に、
本来はいたはずの「わたし」はどこに行ってしまったのだろう?
一番怖れているのは、それに出会ってしまうことなのである。


2004年12月18日(土) 暮れだからというのでなく

去年の今頃は、かなしい時期だった。
年が明けて、今年になってしばらくは、もっとかなしかった。
それからずっと、かなしいようなさみしいような心持ちが、ずっと漂っている。
わすれたように思っても、どこか忘れられないでいるらしい。

一年経って、ある程度やわらいだようでもあり、よけいにかなしいようでもある。


鳥乃 |MAILHomePage

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