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2005年05月11日(水) |
合理化ってなんだろね |
うちのチームでは今、「合理化」がテーマ。 合理化っていうか、作業をいかに機械的に、効率よくするか、 それによって、誰にでもミスなくできるシステムを作ろう、ってこと。 (おお、某鉄道会社にも必要なことじゃないか?)
でも、せっかく決めたシステム=ルールは、守らなくっちゃ意味がない。
どっかで聞いた台詞だけど、 「まず決める。そしてやり遂げる」だと思う。 ルールにのっとってやってみて、不都合があれば修正していけばいいわけで、 それをハナから実践しない人がいると、 けっきょくなし崩しに勝手気ままなやり方になっていく。 そんなもの、システムじゃない。
でも、守らない人はたいがい決まっている。 そうなると、作業の効率化云々も、 システム(作業のやり方)が悪いんじゃなくて、 個人の問題ってことにならないか?
ナショナルタップデーへ。 昨年は「充電」のため休演だったため、2年ぶりということになる。
2年前のような派手なパフォーマンスの人はなく、 全体的にそつなくまとまった感じ。 それでも、最近はやりの「リズム系」に押されて元気がないかな、 と思っていた「シアター系」がけっこうがんばっていた。 あと、今年は楽器と絡めたものが多かった。 タップもある意味打楽器という楽器なので、ま、当然か。
中でも、市立船橋高校の吹奏楽部とのコラボ(っていうのかな?)がすごい。 総勢76名の部員が出演したそうだけど、 演奏者は数名で、後はみな下駄を履いてタップをする。 下駄だし、たぶん日常的にタップをしている人じゃないので、 そう難しいステップは踏めないわけで、 右、左、右、左と交互に足を踏みならすだけ、 という単純な動きなのだけれども! その人数と、息が合っているところ、そして工夫されたリズムがすばらしい。 単純なステップでも、これだけおもしろいものができるんだ、 と改めて知らしめてくれた。 テーマは「タップは気合いだー!」だそうだけど、 その情熱も、ね。
2005年04月22日(金) |
深い人間ドラマ(白い巨塔) |
山崎豊子『白い巨塔』文庫版全5巻読了。 大作だけに、感想も大作になりそう(こらこら)。 なるべくさっ引いて書こう。
読み始めた頃の感想。 慇懃無礼って、こういうことか〜。と、変なとこに納得。 いやあ、慇懃無礼ってよく言うけど、本物は初めて見た気がした。 ビジネスマンには、ある意味重要な参考書になるのでは。 ま、妙な裏取引とか覚えちゃいかんけども。
半ばの感想。 山崎豊子の文章、わかりやすい。 なぜか、それは、解説付きだからだ! 会話での話運びが巧みな山崎豊子。 でも、選挙やら裁判やらが題材になっているので、 当然、会話には「含み」が多い。 でも、会話の後に「○○らしい政治的意味を持った言葉だった」とか、 「自分の権威を見せつけつつ、下手に出た」とか、 今の台詞にはこーゆー意味が、効果があるのよ、という解説が、 地の文によく書かれているので、とってもわかりやすい。 映像じゃなく、文章だからなせる技だね。
読了後の感想。 続編(4・5巻)があってよかった! 3巻では医療訴訟(誤診訴訟)で患者側が負けるとこで終わりだけど、 そりゃあんまり。 と、発表当時も声があって、続編が書かれたらしいけど、 最後に患者側一部勝訴になるところが、実にドラマチック。 財前に非があったことを、読者はみんな知っていての展開だから、 これで溜飲が降りる。 もし仮に、これで一審から患者側勝訴だったら、 さすが小説のご都合主義ね、って感じだけど、 二審で一審の医者側完全勝利を覆しての患者側勝訴ってのがいい。 医療訴訟はまだまだ難しかった昭和50年代に発表された続編、 ということは、たぶん現実世界では同じケースは敗訴だったかも。 それを勝訴に持っていったのは、小説だからなしえたことかもしれないけど、 小説という仮の世界だからこそ、そうすべきだった、とも言える。 何も、ホントの本当の現実に則さなくてもいいわけだからね。
それから、主人公であり悪役である財前五郎。 彼はしかし、根っからの悪人とも思えず、 最期のシーンでは、なんとか救いたいという医師団に共感する。 医療の現実の暴露ではなく、人間ドラマを書きたかった、 とは作者の弁だが、まさに、人間財前五郎のことを思うから、 ラストシーンに深い哀れを感じるのだろう。
2005年04月17日(日) |
崇められるも、受け継がれない |
大村はま先生が亡くなった。 98歳。 先生(教えを受けたことはないが、あえてこう呼ばせていただく)の、 『教えるということ』に感銘を受けた人間としては、 今回の訃報が本当に残念でならない。
独創的な授業で、戦後(戦前から)日本の国語教育に貢献された方。 そして、今でもたぶん、多くの教育者から尊敬されている人。 でも実は、その「独創的な」授業は、現在において継承されているとは言い難い。 つまり、「受験教育」には向かなかったわけで。
「国語教育」なんていうけど、日本語を母語としている人間に、 「日本語」をわざわざ教えるっていうのもなにやらへんな話で、 じゃあなんのための科目かっていったら、 「考える力」と「読み取る力」、つまり想像力の育成だと思うのだ。 想像力は創造力なわけで。 もちろん、国語が苦手でも、創造力たくましい人はいるでしょうがね。
文法だの漢字書き取りだのも、ある程度必要だと思うけど、 「この「それ」は何を指しているか、本文中から15字以内で抜き出せ」とか、 ほとんどがくだらない設問だなあ、って思うのですよ。 俳句や短歌の読解が、一通りの答えしかないなんて、変だと思うのですよ。 それより、文章を読んで、何を思ったか、感じたか、それをどう人に伝えるか。 千差万別の反応を、どう導き出していくか、が教師のお仕事なのではないかねえ。 そういう意味では、社会や理科とは、同じ「教えるということ」とは言え、 その性格は異なるかもしれない。
と、教員になるつもりはなかったけど、つらつら思い、今も思う。
めきめきと 生きる力を見せつけて 夜毎のびする 花水木かな
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