Rocking, Reading, Screaming Bunny
Rocking, Reading, Screaming Bunny
Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2009年07月17日(金)  This bird had flown

起きたら一人だったので寂しかった、という内容のメールが来ている。非難がましくはなく、素直に可愛い。
「ごめんね」と返信。「でも、起きたら彼女がいないのは、まさしく『ノルウェーの森』の歌詞だよ」と。

歌詞はこうだ。知り合った女の家に初めて泊まる。彼女は朝から仕事なんだと言う。そして、
And when I awoke, I was alone, this bird had flown
(目覚めたら一人だった。彼女はすり抜けていってしまったんだ)

この設定だと、女が非常に無用心じゃないか?という素朴な疑問がおこる。(実際歌の中で、この後男は女の部屋に放火する)*この解釈はポールの言による。
やはり現実的には、男が一人で目覚める設定にするなら、女が男の家に泊まるのでないとね。

"This bird had flown"(鳥が飛んでいってしまった)という美しいフレーズは慣用句で、誰かに逃げられたことをさす。現実の鳥は関係ない。
ローリング・ストーンズの"Wild horses couldn't drag me away"という歌詞も実はまんま慣用句(=何があっても屈しない)で、馬は無関係だ。しかし殆どの日本人リスナーの脳裏には、野生の馬の群が焼きついてしまっていることだろう。
でも、いったん間違って鳥や馬を見てしまったら、その美しいイメージを消すのは難しい。消したくないとすら思う。

英語をよく知らない私たちが、間違って見てしまった鳥や野生の馬。

やはり。私にとって、「間違い」は、なんともいえぬ「美」になり得る。
ずっと、間違えたままでいる権利もあると思う。

だから、あなたの見たいものを見たままで。
さよなら。

This bird had flown (バイバイ)  *Norwegian Wood / The Beatles (1965) の歌詞。
*この日記は一旦ここで終了しましたが、半年の間をおいて再開しました。



2009年07月16日(木)  Get on the bus and cause no fuss, get a grip on yourself, it don't cost much. I'm free to be whatever I whatever I choose


(もう最後だから、一度くらい↑こんなモノも貼ってみる。この名曲をちゃんと聴いたことのない人もまだまだいるだろうから、やはり基本のスタジオ版で。日記タイトル部分の歌詞は、カウンター1分45秒のところ)

21時半に西荻窪でNM(b)と待合せ。向こうが5分遅刻したらしいが、こちらが10分遅刻。
ロックバーBへ。Bといえば当然ビートルズがかかる。そしたらふとNMが、「ノルウェーの森ってどういう歌詞?」と訊くではないか。・・・おお、ソレを私に訊く?訊いちゃう? 語るよ?w

二人で中野ロックバーAへ移動。既に23時半を過ぎていたので、ちょっと飲むうちにあっという間に終電の5分前!
タクシーに乗ろうというNMを、「走れば間に合う」とうながして店を出るが。サンモールでふと、猫を2匹見つけてしまう。可愛〜。NMが奥に仔猫を発見。かかか可愛い。二人して座り込み、にゃーにゃー話しかけ、数分後に「あ」と我に返る。しゅ、終電が。

ところが駅に着いてみたら、電車が遅れていて、余裕でセーフ。

高円寺ロックバーCへ。しばらくしたらNMが腹が減ったと言い、カフェDへ移動。あ、ここ5年前に一度、当時の彼氏(g)に連れられて来たわ。
カクテルを飲み、食べ、美味いコーヒーも。ここでもたまたまビートルズがかかっている。この曲順は赤盤だ。そしてまた偶然にも店のスタッフに、「ノルウェーの森」のタイトルの意味を訊かれる。

NMのマンションへ。
NMはすぐに寝ちゃったけど。私は全く眠れる気がしない。このところずっと、人の隣だと寝づらいことが多い。誰かの横で熟睡した記憶となるとDV(b)やYO(b)あたりまで遡る。―――16ヶ月も前だ。(問題は時期じゃなく彼らの年齢かもしれないけど。NMも8歳下ではあるが、DVは13歳下、YOは18歳下だから、気を使わずラクだった)

すぐに見切りをつけ、服を着て外に出る。鍵をかけられないけど、もう朝の6時半だし大丈夫だろう。
出たら、外は小雨が降っている。うわ。
どっちが駅かさえわからない。新聞配達の女性に駅の方角を訊いたら、何駅かと訊き返される。一番近いのでいいと答えたら、困った人ねえというように溜息をつき、しかし親切に、少し一緒に歩いて説明してくれる。その間にも髪の毛がどんどん雨で濡れる。

大きい通りに出たら、バス通りだった。ではバスに乗ろうか。停留所の近くでしばし雨宿り、と思ったところに目の前をバスが通過。少し走り寄ったら、気づいて大分先で止まってくれた。お礼を言って一番前の席に座ったら、運転手が「あの〜」と言う。あ、料金先払いか。バスなんて久しぶりで、乗ったことで一安心しちゃってた。
何だかさっきから、駄目な自分が周りに軽く迷惑をかけつつ世話をやいてもらっている感じで。妙な嬉しさがある。

がらんとしたバスに乗っている。乗客は私以外に一人だけ。外は雨で薄明るい朝で。知らない通りを運ばれている。
何故かしみじみと。充実感がある。

バスは中野駅に着き、そこから電車で荻窪へ。小雨の中を歩いて帰る。
一人だ。

心の底から、気分がいい。

Get on the bus and cause no fuss, get a grip on yourself, it don't cost much. I'm free to be whatever I whatever I choose (バスに乗って、静かに自制心を持って座っていることは、難しくない。私は、そうしたければ何にでもなれる自由があるんだ)  *Whatever / Oasis (1994) の歌詞。



2009年07月15日(水)  Having read the book

CBSで、米最高裁判事候補のソトマイヨールが、質疑応答で上院議員にペリー・メイスンのあるエピソード名を訊かれて答えられなかったというニュースを流していた。・・・おお、欧米ってこれだから素敵。と、思ったが。
ニュースの最後で、キャスターのケイティ・コーリックが厳かにこう言う。"Senator Franken didn't know either, but we do. It was 'The Case of the Deadly Verdict.'"
あ? 私はE・S・ガードナーのペリー・メイスン・シリーズは全部知っているが、そんなタイトルは初耳だ。
調べたらTVシリーズのみのエピソード。そもそもソトマイヨールがメイスンのファンだというのは、TV番組の話だそうで。・・・どうやらこの人達の世界では、「ペリー・メイスン=TV番組」が常識らしい。
思い起こせば20代の頃、父と二人で京都に行った時、父が観光タクシーの運転手に、「娘は『古都』に憧れて京都に来たんですよ」と言った。そしたら運転手が「あれ、よかったですよねえ」と映画の話を始めたので、「映画は観てないんですが」と言ったら、「は?」とぽかんとされた。・・・川端康成の作品ですらこうだもんなあ。(私は映画化されてたことを知らなかったよ)

映像を小説より下だとまで言う気はない。(本当は言いたい) だが、優れた小説が映像化された時、その内容は、技術的な問題として、絶対に圧倒的に薄くなるんだという単純なことを、皆もうちょっと考えよう。
(何を言ってるのかって? 本読めつってんだよ)

18時に吉祥寺でMY(b)と待合せ。の、筈が。
MYから「30分遅れる」というメールが。私は既にその時、荻窪駅前の古本屋に本を売りに来ていた。(14冊で1,500円) とりあえず、「遅刻するヒトってや〜ね〜。ほほ」と返信。(以前MYを1時間近く待たしたこともあるけど。ちょっと珍しいことを言ってみたくてw)
今日はタイダイの膝丈のワンピースに厚底ミュール。案内されたところはしっとり落ち着いたバー。シャンパンベースの品揃えも多く、久々にキール・アンペリアルが飲めた。チンザノもある。お料理も美味。
楽しく話して、たくさん食べ過ぎる。手術後、酒量はじきに戻ったが、胃の強度だけは落ちたままだ。特に、飲みながら食べると弱い。(食欲は全く減らないんだけどぉ)

すっかりご馳走になってしまい。23時半にMYと別れ、重いおなかを抱えて真っ直ぐ帰宅の筈が。何故か荻窪を通り越して中野で降り、ロックバーAへ。
しかしもう飲めない。おつまみも断り、ジャスミン・ティーを2杯飲む。
1時半帰宅。

Having read the book (本のほうを読んでるのよ)  *A Day In The Life / The Beatles (1967) の歌詞。



2009年07月14日(火)  See how they shine

明日のサイモン&ガーファンクルの武道館をチケットをヤフオクで落とそうかと頑張ってみたが。ドーム公演の評判がよほど良かったか、1枚45,000円まで高騰する有様。諦める。
夜にNNが、私の為に新宿の金券ショップでアリーナ席を探して連絡してくれたが。有難いが、結局ご辞退してしまう。

諦めた理由は、ダフ屋紛いの汚いのが横行していたりして、疲れたこともあるが。
マスコミがしきりに言うようにこれが最後の来日、とは思えなかったからだ。あれだけ素晴らしいことが出来るのだから、まだ大丈夫。
多分、また来てくれるよ。多分、16年は待たずに。
またね。

See how they shine (今も素晴らしい)  *Bridge Over Troubled Water / Simon & Garfunkel (1970) の歌詞。



2009年07月13日(月)  There's no end to it

"Word Power Made Easy"という本を読んでいるが、これが面白い。英語の本というのはやたらと前置きが多くてウンザリするが、この本はその前書きも面白い。語彙補強の本である。実は、大きな声では言えないが、私は大学受験勉強というのを全くしなかった為、普通そこで詰め込んでおく筈の語彙が弱い。なので、ネットで見つけたこの本を買ったのだが。
読み始めて、面白いのはいいのだが、本文自体が既に語彙レベルが高い気が。一応問題なく読めるけど。
そして一番最初に覚えさせられる単語が、altruist(利他主義者)、ambivert(内向性・外向性を併せ持つ人間)、misanthrope(人間嫌い)、misogynist(女嫌い)、misogamist(結婚嫌い)、ascetic(禁欲主義者)、など。
えらくレベルが高い気がしつつ、面白いので覚えてしまい、もう少し読み進んでからふと気づく。
―――もしやこの本って、ネイティヴが難しい単語を覚える為の本なんじゃあ。
確認してみたら案の定。

一方、"Common American Phrases"という本も読んでいる。ノンネイティヴが一番弱い、日常の何気ないフレーズというやつだ。例えば"Can it!"が「静かにして」という意味になるとか。
難しい単語、平易な言い回し、新しい言葉、古臭くなった言葉、全て覚えなくちゃいけない。英語の勉強はきりがない。なので楽しい。

There's no end to it (きりがない)  *The Moneygoround / Kinks (1970) の歌詞。



2009年07月12日(日)  People hearing without listening

昨夜はひさびさにOJ(drs)から飲みのお誘いが来ていたのに気づかず。JTと別れて電車に乗ったが。ふと途中で別のヒトをいきなりメールで呼び出してしまい。
ま、色々あって、今朝10時半帰宅。

で、これは昨日の続きであるが。
素晴らしいコンサートだったけれど、観客にはちょっと苛つく部分もあった。サイモン&ガーファンクルのような広く大衆に好まれるアーティストには多いことだろうが。
私の周りだけ見ても、隣のオバハンはずっとパンフレットでばたばたとあおいでいるし(数回睨みつけてようやくやめさせた)、斜め後ろの男は始終ビニール袋からがさがさと何か取り出しては食っているし。まさしく野球場のスタンドに相応しい雰囲気。途中に一瞬映像が流れた時は、何を勘違いしたのかと思うほどの人数がトイレに立ったし。
しかし一番神経に障ったのは、アンコールの"The Sound Of Silence"で手拍子が入った時だ。あの繊細な曲で手拍子が出来るような粗雑な神経の人間があれだけ多くいたのは信じ難い。何となくためらう気配の混じる手拍子ではあったが、だったらやるな。迎合にもほどがある。

ちょうど前日にネットで、オアシスのリアム(愛してるわリアム)が、ロンドンのCoventry's Ricoh Stadiumで、やはり5万人の観客に向って「手拍子はやめろ」と怒鳴ったという記事を読んだばかり。どの曲かと思えば、去年の新譜の"Shock Of The Lightning"・・・あんなアップテンポの曲で怒るんだ?とも思ったが。
YouTubeでそのライヴの映像を出してみたところ、コンサート開始以来この曲に到るまでずっと観客が手拍子のしっぱなし。それでリアムがキレたんだろう。
私自身は、手拍子も一緒に歌うのも演奏妨害だと思っている。わざわざ聴きにきて、自分で演奏をかき消す意味がわからない。だからアーティストが自ら要請した時以外はしない。要請されるのも好きではない。皆でひとつになろうという考えが気持ち悪い。
該当部分の映像では、リアムが「俺らはオアシスで、シンプル・マインズじゃねえんだ」と怒っているが、それでもご覧の通り客は手拍子をやめない。やはり、聴いちゃいないのだ。

ところで今日は、朝10時なんていう時間に荻窪駅に降り立ったので、珍しくリアルの買物でもしようかと、ドラッグストアに立ち寄ったのだが。あれこれ見た挙句、気になった商品名を覚えて帰宅し、ネットでオーダーした。・・・PC中毒極まれりだな。

People hearing without listening (皆、聴いちゃいない)  *The Sound Of Silence / Simon & Garfunkel (1968) の歌詞。



2009年07月11日(土)  Jubilation

16時に水道橋でJTと待合せ。の、筈が。
16時5分前に「着いたよ」とメールが来たが、私はまさにその瞬間に家を出た。結局30分遅刻。「想定内」と涼しい顔のJT。つきあい長いからね。って、スミマセンスミマセン。

今日は、16年ぶりにサイモン&ガーファンクルを観るのだよ。
16年前の記憶は印象が薄い。演奏時間50分。内容も、人によっては「ひどかった」と評しているほどで。私自身はあの時、東京ドーム2階スタンド中央最後列から観るS&Gのあまりの遠さが、S&Gという私にとっては神様みたいな人たちの存在に相応しいような気すらしていた。(その1993年12月に書いた文章がこちら。真面目で青臭くていい感じですw)

で、今回は1階スタンド。16年前よりは遥かにいいが、やはり絶望的に遠い。この数年ライヴといえばやたらいい席ばかりで、最前なんか珍しくもなかったから、この状況はちょっとなあ。

と思うところにS&G登場。スクリーンに逆光で黒く影だけが浮かび上がる。のを、見ただけで既に感動。

―――"Old Friend"だよ。こんなシンプルな曲で始めるんだ。凄いな。こんな何気ない短い曲でも、世界中が知ってるもんな。そのまま"Bookends"に行き、次が―――何故か雰囲気で絶対そうだと思ったとおり、"Hazy Shade Of Winter"へ。

声が出るとか、出ないとか。公演前からそこがやたらと問題視されていたが。
正直最初の数曲はそんなことも全く判断出来ず、アホのようにじーんとしていた。だって、"I Am A Rock"やって、次が私のベストソングの"America"だ。この2曲は歌詞なんか小学生で完コピしてんだぞ?
"Don't talk of love"だなんて。「愛のことは語らないでくれ」なんて。日本語で言おうが英語で言おうが、かっこ悪いだろうが普通。それを絶対にそうは感じさせない重みが、ポール・サイモンの軽い声とギターにはあった。"I am shielded in my armor"という音は呪文のように魅力的で、とにかく一緒に歌いたかったし、意味も知りたかった。ひたすらそれだけで英語力をつけちゃったようなものだしなあ、私。
"America"の歌詞で、カップル(キャシーとポールなんだろう)はグレイハウンドのバスに乗る。だから私もそれだけの理由で、19歳の時に、サン・ディエゴで一人でグレイハウンドに乗った。キャシーたちが乗車したピッツバーグからはアメリカの端と端ほど離れているが、乗っているという事実だけで感極まっていた。隣に座った黒人にナンパされたが、殆ど返事も出来なかった。涙ぐんでいたのだ。

"Mrs. Robinson"―――後から思えば、私が初めて意識したギターというのは、間違いなくこれだ。ここにある乾いた硬い響き。
小学校に上がる頃には、クラシック・ギター、スパニッシュ・ギター、なめらかなうねりのあるギターや「ブルージー」なギターに生理的嫌悪感を覚え、一時はギターという楽器が嫌いだと思い込んでいたのだが。よくよく振り返ってみれば、それがギターの音だと認識もしない3歳の頃から、私はポール・サイモンのギターにうっとりしていたのだ。

なるほど声は出ていないな、というのは否応なしにわかってきた。やはり特にアートだ。だが。
キーを低くしている。ちょっとずつ歌い方を変えている。歌唱力の落ちたシンガーが大抵やるようなメロディのごまかし方(要するにロバプラ方式)は絶対にせず、ただ、息の乗せ方や声の伸ばし方を変えて工夫している。そして、スタジオ盤を心を込めて再現している。―――この点は、バックの音作りにおいてもそうで、アレンジはするが、オーディエンスの一番欲しいものは全て欠かさない態度は、良心と呼びたいほどだ。
要するに、素晴らしい。芸術ではなく、受け手を必要としない孤高の芸術などではなく、まるで、「愛情」のようだ。

ちなみに音響も。この最低最悪の東京ドームで、かつてないほど音が良かった。

ソロのコーナーになる。まずはアートが3曲歌ったのだが。1曲目が思ったとおり"Bright Eyes"だ。なんで思ったとおりかって? アートのソロはこれしか知らないんだもの。結構好きだったからサビくらいは歌詞も知っている。懐かしいのなんの。普通にスタジオ盤で聴いたら編曲が甘ったる過ぎるが、こうやってライヴで聴くと、何ていうかこのドームのだだっ広さに拡散していく感じが悪くない。
しかしアート3曲は長過ぎます。と、およそ5万人が思ったであろう頃に、ポールが登場し、バンドを率いて"Graceland"から最初の2曲をやる。・・・これはちょっと、アートとポールの差が浮き彫りになり過ぎるんじゃあと思うほど、場内に活気が戻る。

"My Litte Town"―――いいなあいいなあいいなあ。この歌のサビの歌詞は長いこと聞き取れなかった。だってまさか"Nothing but the dead and dying, back in my little town."と言っているなんて思わなかったからだ。こんな美しい明るいメロディで。てっきり故郷を愛する歌だと思っていたから。でもそうだと知った時は、逆に「逃れられない郷愁」を感じてじーんときたなあ。今もじーんと来るなあ。うん。うん。

"Bridge Over Troubled Water"―――私はずっとこの曲が好きじゃなかった。後味がしつこ過ぎると思っていたのだ。ところが今回、2番をポールが歌った。そうなると、もともと3番では二人の声が重なるのはわかっているだけに、その瞬間にもうぞくぞく来てしまった。

アンコール。"The Sound Of Silence"―――ここまでずっと、声を出さずに一緒に歌ってきたが。これだけは無理です。勿論歌詞は冠詞ひとつまで頭に入っているけど。これを歌うと泣いちまうのです。普段でも。
―――つうか、泣いちまいました。
一ヶ所だけ一緒に口を動かす。ラスト直前。"And the signs said, the words of the prophets are written on the subway walls and tenement halls."
―――多分、子供心に私の中の「神さま」というもののイメージが、ここで出来上がったんだと思う。どこかそこらに、そのへんにふと現れる「啓示」のイメージが。

"The Boxer"―――ずーっといつやるんだろうと思っていました。有難うございます。
私がアートの歌声を一番認めているのはこの曲かもしれない。この曲はポールのソロで聴くと物足りなくて寂しいんだ。"Still the man hears what he wants to hear and disregards the rest"の最後の"the rest"が柔らかく上がってくれないと。

最後は"Cecilia"―――子供の頃はこの歌詞にどきどきしたっけ。こんなに明るく軽快に昼間の情事を歌われちゃうとなあ。結局しかしこれこそがS&G、というかポール・サイモンであって、汚れた日常や負の感情を、ただただうつくしい音で聞かせるのだ。
歌い方を少し変えていて、"Jubilation"の部分を長く伸ばしている。まさしく観客の静かで深い歓喜を表しているようだ。
不足なく、しかし大袈裟でない、いいラストだったと思う。
set list

新宿に移動した頃に、ようやく気持ちよくハラが減ってきた。今日は何も食べていない。JTががっつり食わせてくれた。
ロックバーBに移動。PKが、ホールの"Celebrity Skin"、ニルヴァーナの"Been A Son"、レッチリの"Can't Stop"、フーファイの"Have It All"、ガービッジの"My Lover's Box"をこの順番で立て続けにかけてくれる。・・・おお。私の好きなバンドをこんなに覚えててくれて。なんて記憶力のいい子だ。
やはり今日のコンサートに行ったマスターが戻ってきて、S&Gをかける。マスターも感激した様子。「声が出ていないことに逆に感動した。これが40年の重みなんやなあ」と言う。

Jubilation (歓喜)  *Cecilia / Simon & Garfunkel (1970) の歌詞。



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