Mako Hakkinenn's Voice
by Mako Hakkinenn



 緊急企画!まさみ結婚おめでとうスペシャル!
2006年04月22日(土)

 えー、BarM−NESTにも何度か顔を出したことがある、僕の3つ下の従妹まさみが、今日めでたく結婚式を挙げました。僕は父と共に挙式と披露宴に出席するため、朝から神奈川県藤沢市の式場に行って参りました。そこで今回は、まだ過去のVoiceが追いついておりませんが、タイムリーで結婚式の模様をお送りしたいと思います。新郎新婦の許可は得ているので、型落ち携帯のカメラで撮影した画像もお楽しみください。

 ちなみにVoiceは今日からタイムリーに進行し、現在未公開の過去のVoice(4月8日〜21日付分)も同時進行で追いかけて書いていきますのでご了承ください。過去のVoiceの多くはLPレビューになるので、興味のある方はそちらもお楽しみに。

 さて、今日は藤沢で執り行われるチャペルでの挙式に出席するため、午後1時半までに現地に行かなければならないということで、確実に間に合うよう電車で行きました。
 JR静岡駅から朝10時30分の東海道本線熱海行き電車に乗り、熱海で乗り換え、12時45分には会場まで歩いてすぐのJR藤沢駅に到着することができました。静岡から藤沢まで片道2100円、結構安かったです。


新郎のケンジ君と新婦のまさみ


上の2人が今日結婚式を挙げた新郎のケンジ君と新婦で僕の従妹にあたるまさみです。まさみは生まれた頃からよく遊んでいましたし、お互い兄弟がいなかったので、僕にとっては妹のような存在ですね。向こうはどう思っているかは謎ですが……。
 で、ケンジ君とは今年の正月にすでに会っていて色々話もしているのですが、見た目に違わぬさわやか好青年で、実際間近で見ると織田裕二に似ています。……と、まさみに言ったら、「目が悪いんじゃないの?」と言われました。ケンジ君はとても思いやりがありそうで、まさみのこともとても大事にしてくれているようなので、きっとまさみのことを幸せにしてくれることでしょう。

 さて、チャペルでの挙式は1時45分から始まりました。結婚式場の敷地内にあるチャペルは、頭上にイエス・キリストのステンドグラスがあしらわれ、とても神秘的で美しいチャペルでした。
 外国人の老牧師さんが進行役を務め、新郎のケンジ君が緊張した面持ちで待つ中、BGMと共にチャペルの扉が開き、まさみが美しい純白のウェディングドレスに身を包み、父親と腕を組みながらゆっくりとバージンロードを歩いてきました。
 まさみが祭壇の前で待つ新郎の元に辿り着くと、2人は手を取り合って客席に向かって一礼し、その後祭壇に向かいます。そして老神父の進行の元、こちらも外国人の女性ゴスペル歌手と共に、厳かなパイプオルガンの音色に乗せて「賛美歌312番」を歌いました。

 その後老牧師が祈祷、聖書(コリント前書13章)朗読、説教、制約、指輪の交換、結婚宣言と進行していくのですが、ここで個人的な疑問が一つ。僕はチャペルでの結婚式には何度か参列したことがありますが、なぜ大抵進行する牧師さんは外国人の方なんでしょうかねえ。いくら外国の宗教だとしても、日本にもキリスト教はあるわけで、別に日本人の牧師さんでも良いような気がするんですよね。だってもちろん外国人の牧師さん、外国人としては流ちょうな日本語ですが、それでも文字にすると全部カタカナで表現されそうな、いかにも外国人の方がしゃべる日本語ですから、ありがたい説教なども聞き取りづらいことがあるんですよね。

 まあ、やはり外国人の牧師さんの方が雰囲気出るからなのかな?

 結婚宣言が終わると、晴れて新郎のケンジ君とまさみは夫婦となり、それを祝福するため、一同で「聖歌85番」を歌いました。この「聖歌85番」は、あのベートーヴェンの代表作「第九(歓喜の唱)」に日本語の歌詞をつけたものでした。

 チャペルでの挙式が終わると、一同チャペルの外に出て、新郎新婦を送ります。一通り写真撮影会やブーケ投げをした後、新郎新婦は式場が用意したオープンカーに乗ってチャペルを後にするのですが、この挙式の後に行われる披露宴パーティは同じ敷地内の会場で行われるため、ま、オープンカーで一旦式場の外に出て、ぐるっと回ってまたすぐ裏に戻って来るというわけですな。昔は挙式が終わったら、そのままオープンカーで走り去ってしまうんですけどね。空き缶いっぱいクルマの後ろに引いてガランガラン言わせながら……。


僕にカメラを向けられておどけるケンジ君



オープンカー、ケンジ君が運転するんじゃないのか


 さて、その後すぐに披露宴会場で披露宴パーティが行われたのですが、何と言っても気になるのは、料理ですよね〜!(え?違う?)そんなわけで今回の結婚披露宴で出た料理は、豪華な海の幸をゼリーで寄せたブランマンジェとマリアージュ(キャビア入り)、ハンガリー産最高級フォアグラのステーキと焼きマンゴーのトリュフ飾り、柔らかな西洋葱と濃厚なバターソースで頂く伊勢エビのグラチネ、栃木産牛フィレ肉のポワレソース・トリュフ鎌倉行き野菜添え、サラダヴェール、そしてデザートはフロマージュムースのベリーフルーツ添えでした。他にクロワッサン、黒ごまクロワッサン、胡桃パンなど自家製焼きたてパン5種もありました。

 なななななんと!世界三大珍味のキャビア、フォアグラ、トリュフが一堂に会していましたぞ皆さん!4つめの珍味とんぶり(畑のキャビア)も出てくるかと思いましたが、さすがにそれは出てきませんでした。
 フォアグラは口の中でとろけるようにまろやかで、牛フィレ肉のトワレは噛む力をほとんど必要としないほど柔らかく、そして伊勢エビのグラチネはでかいエビの中に身がぎっしり詰まっていてとても食べ応えがありました!トリュフとキャビアは食べ終わった後にそれであることに気づきました。デザートは、僕は日本酒派なので本来あまり甘いものは食べないのですが、フロマームーシュは甘さ控えめで、一緒に添えられたベリーフルーツの酸っぱさと相まってとても爽やかな美味しさでした!


うーん、まさに美男美女カップル!



織田裕二似なのに名前はケンジ君



イマドキ「ピースサイン」はないだろう……


 さて、この披露宴パーティでは、新郎新婦の友人たちによる余興なども行われたのですが、新婦の友人一同による「てんとう虫のサンバ」の合唱では、新婦のまさみも混じって一緒になって振り付け付きで歌っていたので、ピンボケですが最後にその写真をご覧にいれましょう。


まさみのコスプレ


 えー、ざっと今日の結婚式を振り返ってきましたが、全体的にアットホームで、笑いあり涙ありのとても温かい雰囲気の結婚式だったと思います。ケンジ君&まさみちゃん、ご結婚おめでとう!これからも末永くお幸せに!



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 いわゆるジャズ、ジム・ホール
2006年04月12日(水)

 LPレビューも今回で4回目。今回も「CafeM−NEST」お薦めのLPをご紹介していきたいと思います。前3回はジャズのLPをご紹介してきましたが、今回もジャズです。それも非常にわかりやすいスタンダードなジャズです。


ジム・ホール「CONCIERT」
(1975)


 このLPは父が所有していたLPなのですが、幼い頃からこのLPジャケットを見るたびに、アステカ遺跡の石像と思われる印象的なブルーに吸い寄せられるような独特の存在感を感じていました。

 ジム・ホールは1930年12月4日にニューヨーク州バッファローで生まれ、幼少期はコロンバス(ニューヨーク州)とクリーブランド(オハイオ州)で過ごしました。 母はピアノ、祖母はバイオリン、伯父はギターを演奏し、小さい頃から音楽に親しんでいたようですが、10歳のクリスマスに母からギターをプレゼントされ、真剣にギターに取り組む様になります。

 13歳でクリーブランドの地元グループの一員として既にプロ活動を開始。チャーリー・クリスチャンの影響をかなり受けていたようです。ハイスクール卒業後はクリーブランド音楽院に進み、クラシックの作曲を学びますが、修士号課程の半ばにて退学し、ギタリストの道を志してロサンゼルスに移り住みました。ロスでは中古楽器店で働きながらクラシックギターを学び、25歳の時にチコ・ハミルトンに推薦されてチコのバンドに1年半在籍します。これがジャズギタリストジム・ホールの誕生でした。
 27歳でジミー・ジェフリーのトリオに参加し、ベースレスの変態的編成に到達。そして初リーダーアルバムを録音します。その後は南米公演などに参加し、活動拠点を西海岸から東海岸に移してからはソニー・ローリンズにバンドへの参加を要請され、彼の方法論に影響を受けます。1960年から65年まではツアーやレコーディングを積極的にこなし、尋常でないほどのアルバムに参加しました。

 こうして彼の才能は急速にジャズ関係者や世界中のジャズファンの間に知れ渡り、以降精力的にライブやレコードリリースを続け、様々な賞を受賞し、超一流のジャズギタリストとしての名声を得ます。75歳になった現在も現役で活躍しており、今もなお素晴らしい才能を発揮し続けています。

 さて、今回ご紹介するアルバム「CONCIERT」は、1975年にリリースされたもので、ジャズレコード史上空前のヒット作で、世界的に大ブレークしたそうです。ジム・ホールはこのアルバムの成功をきっかけに、次々と新録音に取り込み人気アーティストとなりました。
 収録曲は「YOU'D BE SO NICE HOME TO」「TWO'S BLUES」「THE ANSWER IS YES」「CONCIERT DE ARANJUEZ」の4曲。参加アーティストはジム・ホール(ギター)、ローランド・ハナ(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、スティーヴ・ガッド(ドラムス)、チェット・ベイカー(トランペット)、ポール・デスモンド(アルトサックス)の6人。

 1曲目の「YOU'D BE SO NICE HOME TO」は、1943年にコール・ポーターが映画音楽として作詞作曲したジャズ・ヴォーカル屈指の名曲で ヘレン・メリルの「♪ユッビッソ〜」というミディアム・テンポに乗ったスインギングでハスキーなヴォーカルで、日本のジャズファンならずともCMにも登場しているとても有名な曲です。しかしジム・ホールの「CONCIERT」では、主旋律をジム・ホールのギターが奏でて、かなりハイテンポなスウィングジャズとしてアレンジされたインストゥルメンタルバージョンで収録されています。

 A面に収録されている「YOU'D BE SO NICE HOME TO」「TWO'S BLUES」「THE ANSWER IS YES」は、今回の題名にあるように、“いわゆるジャズ”と言える、僕的には非常に聴き慣れたジャズであり、渋くてカッコイイのは分かり切っているので、安心して聴くことができます。
 “いわゆるジャズ”といわれてもぴんと来ない方のために、敢えて擬音を駆使してわかりやすく説明するならば、ドラムスが軽快にツーツクツーツクとハイハットを鳴らしながらスネアをドゥラタタ〜ンと軽快に振動させる中、ウッドベースがボンボンボンボンと規則正しいベースラインを辿り、ジム・ホールのクラシックギターのナイロンの弦がマイルドなトゥルットゥットゥ〜という主旋律を奏で、そこにピアノのポロンポンポ〜ンという単音がからみ、さらにサックスのファファ〜ファファ〜ンという音色とトランペットのパラッパッパ〜という音色が割り込んで来るという、おそらく多くの日本人がジャズと聞いて連想するであろうポピュラーな演奏であるということです。

 しかも展開も実に典型的で、ドラムスとベースがビートを刻む中で、まずはギターがリードを取り、途中でピアノのソロが入り、次にサックスのソロになり、続いてトランペット、さらにはベース、そして最後はドラムスのソロと交代でソロパートをこなし、再び全パートで合奏するという、それぞれのパートの聴かせどころをちゃんと用意しているのです。日本の学生さんが結成しているジャズ研究会や、日本のジャズ喫茶などで演奏されるジャズ演奏の多くはこのアルバムの影響を受けているのではないかと思われるほど、とても親しみが持てるジャズだと思います。

 さて、レコード盤をひっくり返してB面の「CONCIERT DE ARANJUEZ」、日本では「アランフェス協奏曲」として知られているようですが、この曲はB面全面を占めているのですが、A面の3曲とはガラリと印象が変わります。最初のギターのイントロは「必殺!仕事人」の「♪パラパ〜パ〜ラッパ〜パラパラ〜パラパ〜」というあのメロディに非常に酷似したメロディが流れ、サックスもトランペットもベースもそのメロディをイントロで奏でるものですから、「必殺!仕事人」はこの曲をパクったのではないかと思ってしまうほどです。「必殺!仕事人」に比べてかなり音程は低いですけどね。雰囲気的には「キル・ビル」に流れてきそうな雰囲気の、荒野の乾いた砂埃の中での決闘シーンなどがしっくりきそうなイントロです。
 そのイントロの後、普通にミドルテンポのドラムが始まり、曲はしっとりとしたバラード調に展開していきます。全体的にとても哀愁を帯びています。

 僕個人的には、ジャズを初めて聴く人にはこのアルバムをお薦めしたいですね。過去3回でご紹介したチック・コリア、MJQ、ウェザーリポートはいずれも、ジャズの中ではかなりコアであまりにもレベルが高すぎるので、まずはジム・ホールの典型的なジャズでジャジーな雰囲気を満喫して耳を慣らし、それから徐々にコアな世界に踏み込んだ方がいいような気がします。そう言う意味でこのアルバムは、ジャズの入門編としては最適の1枚だと思います。

 ジム・ホール「CONCIERT」をお送りしました。



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 集団即興の境地、ウェザーリポート
2006年04月11日(火)

 ここ2日ほど70年代のレコードレビューをお送りしてきましたが、今回も引き続き、LPレビューをお送りいたします。3回目の今回お送りするLPはこちら。


ウェザーリポート「I SING THE BODY ELECTRIC」
(1972)


 ウェザーリポートと言っても“天気予報”のことではなく、かのジャズサックスプレイヤー、ウェイン・ショーターが巨匠マイルス・デイビスのバンドを脱退した後に、ジョー・ザヴィヌル(キーボード)、ミロスラフ・ヴィトウス(ベース)、アルフォンゾ・ムザーン(ドラムス)とともに集団即興をコンセプトとして1971年に結成したバンドのこと。

 70年代に突入したジャズシーンを震撼させるグループが、この年の瀬に結成されました。ナショナリティも肌の色もまったく異なる4人によって結成されたこのグループは、ある意味で時代の要請が作り出した必然のグループだったと言われています。エレクトリック・イクイップメントを味方につけたウェザーリポートは、以後1985年の解散まで様々な変遷を続けながらもジャズ=フュージョン界を疾走しました。
 このウェザーリポートは、デビュー当時はショーター、ザヴィヌル、ヴィトウスの3人でしたが、単純にウェイン・ショーターのレギュラーバンドというイメージが強かったようです。「ウェザーリポート」というバンド名もショーターがつけたもので、バンドのスタイルである集団即興という手法もショーター自身が追求していったもので、デビューアルバムの「ウェザーリポート」では3人の個性がバラバラに表現されていてまとまりなかったと言われています。
 しかし、今回ご紹介する彼らの2枚目のアルバム「I SING THE BODY ELECTRIC」で、この3人の個性が融合したバンド・サウンドが確立されたと言われています。

 僕はこのウェザーリポートというバンドを、今回レコードを譲り受けるまでは名前しか知りませんでした。しかしこのバンドのメンバーはそれぞれがジャズ界のスターたちで、ウェイン・ショーターは言うに及ばず、ジョー・ザヴィヌルはマイルス・デイビスに見いだされ、ミロスラフ・ヴィトウスはハービー・マン、チック・コリア、ラリー・コリエルらと共演し、ムザーンはバート・バカラック、ロバータ・フラックらと共演しロイ・エアーズとの演奏も有名です。このジャズ界の実力者4人が“集団即興”という新たな手法を追求して新しいバンドを結成したということが、どれだけセンセーショナルなことであったかということは、想像に難くありません。

 では、実際にこのウェザーリポートの「I SING THE BODY ELECTRIC」を聴いた感想を書いていくことにしましょう。例によって僕は初めて聴くサウンドなので、ライナーノーツなどのサウンドに関する予備知識はまったくない状態での感想です。

 収録曲は「UNKNOWN SOLDIER」、「THE MOORS」、「CRYSTAL」、「SECOND SUNDAY IN AUGUST」、「VERTICAL INVADER」「T.H.」「DR.HONORIS CAUSA」「SURUCUCU」「DIRECTORS」の9曲。その始まりである「UNKNOWN SOLDIER」は、無名戦士という題名にふさわしく、軍隊マーチのようなスネアのロールや細かく刻まれるハイハットの中で、ショーターのテナーサックス、ヴィトウスのベース、ザヴィヌルのエレクトリックピアノが無秩序に絡み合い、がむしゃらにもがき苦しむような様が表現されていました。特に非常に速いテンポのシンバルのリズムが、曲に緊張感を与えています。先述のように集団即興の手法が取り入れられているため、3つのパートはそれぞれ自分たちの個性をぶつけているようでしたが、そこには不思議と調和があり、バランスよくかみ合うことで曲全体としては非常にまとまっており、しっかりと1つの音楽としてまとまっていました。

 2曲目以降も基本的には同じ手法によって展開され、即興でとりあえずそれぞれが演奏してセッションし、各曲が出来上がった後にその完成品を聴き直して、曲の雰囲気に合った題名を後付でつけているんじゃないかと思ってしまうほど、すべての曲が抽象的で調の概念は皆無でした。その代わり、2度と同じ演奏は再現できないような曲が続き、独特のライブ感と、その中に不思議な一体感が存在していました。
 各曲の題名も“無名戦士”“荒野”“クリスタル”と漠然としたものが多く、きっとそうした曖昧なテーマの中でおのおのが感じたイメージを音で表現して、それが一体感を生み出しているのではないかと思いました。

 アルバム全体を通して、ウェザーリポートのアンサンブルは独特の雰囲気を持っていると言うことがわかりました。即興音楽となると大抵共通する、全体的に不安感を与える雰囲気はあるものの、その中に非常に幻想的な世界観があり、それそれのパートが個性を遺憾なくぶつけ合っているので、とても躍動感があり活き活きとしたサウンドに仕上がっています。
 そしてその中でも特に強烈に印象づけられるのは、やはりウェイン・ショーターの印象的なテナーサックス、ソプラノサックスの響きでした。彼のサックスの音色は、他のパートが低音部で細かいビートを刻みながら展開していく中で、とても高く美しく、そして伸び伸びと曲の中に入り込み、一筋の光のような存在感を放っていました。

 このアルバムに合いそうなシチュエーションは、まったく思いつきませんね。お酒を飲みながらとか、コーヒーを飲みながらとか、雨が降る日にとかよく晴れた日にとか、そういったありきたりのシチュエーションは、このアルバムにはまったくふさわしくないと言ってもいいでしょう。ただこのアルバムを聴くことだけに集中する、このアルバムはそういうアルバムです。



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 大人のムード、モダン・ジャズ・カルテット
2006年04月10日(月)

 今回も昨日に引き続き、「CafeM−NEST」お薦めのLPレビューをお送りしたいと思います。今回ご紹介するのはこちら。


モダン・ジャズ・カルテット「The Last Concert」
(1974)


 1946年にミルト・ジャクソン(バイブラフォン)がジョン・ルイス(ピアノ)、レイ・ブラウン(ウッドベース)、ケニー・クラーク(ドラムス)とカルテットを結成。52年の末にブラウンの後任としてパーシー・ヒース(ウッドベース)が参加し、正式にモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)と名称を変更します。55年にクラークの後任としてコニー・ケイ(ドラムス)が加わり、74年まで活動しました。その後何度か再結成されましたが、94年にコニー・ケイが他界し正式解散。室内楽風ジャズとして未だにクラシック・ファンに根強い人気を誇るグループです。

 彼らは40年にも渡ってアンサンブルを演奏するなかで、一度もレギュラーメンバーにホーンプレーヤーを入れることなく、クラシックに影響をうけた作曲を通して、テーマを発展させることに集中しました。また「ジャンゴ」や「バグス・グルーブ」など幾つかの代表的なジャズ・スタンダード・ナンバーも彼らの手によるものです。ちなみにバグスとは、ビ・バップのスタイルをバイブラフォンに取り入れたミルト・ジャクソンのニックネーム。
 しかし、グループ内のコンセプトを仕切るのは、もっぱらピアニスト兼アレンジャーそしてリーダーでもあるジョン・ルイスの仕事でした。もともとヨーロッパ室内音楽を学んでいたルイスは、アレンジの際、クラッシック音楽における対位法やフーガとジャズ特有のインプロヴィゼーションをミックスさせることを試み、J・S・バッハ作品のカバーアルバムもリリースしているほどです。多くのクラッシック作曲家同様、ルイスも古典劇の音楽制作に積極的で、コンメディアデラルテ(イタリアの古典即興喜劇)の曲も制作したことがあります。

 さて、今回ご紹介するアルバムは、1974年11月25日にニューヨークのリンカーン・センターにあるアベリー・フィッシャーホールにおいて、20年以上に渡って数あるジャズグループの王座に君臨してきた不朽の名バンド「MJQ」がおこなった、ラストコンサートの模様を収録したライブアルバムです。
 で、このアルバムはラストコンサートを収録しただけあって、曲数は2枚組で14曲にも及び、そのすべての曲をご紹介するとあまりにも膨大な量になってしまうので、収録曲の曲名だけをご紹介し、アルバム全体を通して聴いた感想を書きたいと思います。ちなみに僕はこのMJQの存在は名前だけ知っていましたが、実際にそのサウンドを聴くのは今回が初めてです。なので今回もまったく先入観や曲に関する情報概念のない状態で感想を書きます。
 収録曲は「朝日のようにさわやかに」「シリンダー」「サマータイム」「トラヴェリン」「Aマイナーのブルース」「ひとしれず」「バグズ・グルーヴ」「コンファメイション」「ラウンド・ミッドナイト」「チュニジアの夜」「ゴールデン・ストライカー」「スケイティング・イン・セントラルパーク」「ジャンゴ」「ホワッツ・ニュー」。

 前述のように、このMJQのバンド編成はバイブラフォン(鉄琴)、ピアノ、ウッドベース、ドラムスの4人編成で、トランペットやサックスといったホーンプレイヤーがいません。そのため全体的な曲の展開はすべてドラムのリズムにウッドベースのベースラインが乗り、さらにその上にバイブラフォンとピアノの旋律が重なっていくという演奏で統一されています。ですからスタンダードジャズというよりはむしろクラシックジャズで、このアルバム自体は1974年に演奏され収録されたものですが、時代的には50年代〜60年代当時のオーソドックスなジャズと言えるでしょう。

 おそらく現代の20〜30代の世代がこのアルバムを聴いたら、多くの人が退屈さを覚えるのではないでしょうか。それほどこのMJQの演奏は、シンプルでオーソドックスなのです。演奏方法も昨日ご紹介したチック・コリアの目にもとまらぬ速さで流れるように弾き回す天才的な演奏法とは違い、非常にシンプルな演奏法は古めかしさを感じずにはいられません。

 しかし、そもそもジャズというのは演奏テクニックの競い合いだけでなく、そこには独特の世界が存在するわけで、特にMJQは50年代から解散した74年までアメリカで愛され続けたグループであるため、彼らがジャズシーンに与えた影響は非常に大きく、50〜60年代アメリカを強烈に印象づける雰囲気を持っているのは事実です。
 僕が生まれたのはこのアルバムがリリースされた翌年の1975年ですから、当然50〜60年代のアメリカなど知るはずもないのですが、その当時の映画、もしくはその当時を時代背景とした映画は何作か観ているので、その当時のレトロな雰囲気は何となくイメージできます。このアルバムを聴くと、アメリカ人でもないのに、不思議とそんな古き良きレトロ・アメリカの映画の世界に入り込んでしまったような、ノスタルジックな感覚を覚えます。しかも聴いている音はCDではなくレコード盤ですから、時折聞こえるレコード独特の「ボツッ、ボツッ」というかすかなノイズが、さらにレトロ感を強調してくれます。

 バーボンを片手に、大人のムードを楽しみながら聴くアルバムですね。

 モダン・ジャズ・カルテット「The Last Concert」でした。



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 チック・コリア不朽の名作
2006年04月09日(日)

 さあ皆さん!レコードプレイヤー導入に伴って70年代の名盤ジャズLPをたくさんいただいたので、今回から不定期で、昨日お伝えした「CafeM−NEST」のお薦めLPのレビューをお送りしていこうと思っています。その記念すべき第1回目の今日皆さんにご紹介するLPは、こちらです!


チック・コリア・クインテット「return to forever」
(1972)


 まずはチック・コリアの基本情報から。チック・コリア(本名:アルマンド・アンソニー・コリア)は1941年6月12日にアメリカ・マサチューセッツ州チェルシーにて生まれ、4歳からピアノを習い始めます。高校を卒業後、ニューヨークにあるジュリアード音楽院に進学し、その後20歳前半からかのジャズ界の巨匠マイルス・デイヴィスなどと共演し、ミュージシャンとしてのキャリアを深めていきます。

 1971年にギタリストのアル・ディメオラ、ベーシストのスタンリー・クラークらとクロス・オーバー・ジャズのバンド、リターン・トゥ・フォーエヴァーを立ち上げます。革新的な音楽性と卓越した演奏技術に裏打ちされたこのバンドは数々の珠玉の名曲たちを生み出し、トップアーティストとしての地位を確立します。中でも「Light As A Feather」に収録されている「Spain」は現在でも他の演奏家にプレイされ続ける、ジャズの、また彼自身の代表曲です。(ウィキペディアより抜粋)

 で、この「リターン・トゥ・フォーエヴァー」というアルバムは、1972年度ジャズディスク大賞の金賞を受賞した不朽の名盤と言われ、「リターン・トゥ・フォーエヴァー」「クリスタル・サイレンス」「ホワット・ゲイム・シャル・ウィ・フレイ・トゥデイ」「サムタイム・アゴー・ラ・フィエスタ」の4曲を収録しています。バンド構成はチック・コリア(エレクトリックピアノ)、フローラ・ピュリム(ヴォーカル、パーカッション)、ジョー・ファレル(フルート、ソプラノサックス)、スタン・クラーラ(エレクトリックベース、ウッドベース)、アイアトー・モレイラ(ドラムス、パーカッション)の5人。

 チック・コリアは僕も90年代以降のアルバムはCDで持っていますが、はっきり言ってこの頃のチック・コリアの音楽はまったく聴いたことがなく、今回初めて聴きます。その上で、余計な先入観を一切排除して僕が耳にしたままの率直な感想を書いていくことにします。

 まず1曲目の「リターン・トゥ・フォーエヴァー」は、静かで、それでいて少し不安な雰囲気を連想させるサスペンスチックなエレクトリックピアノで始まり、そこに透明感のあるフローラ・ピュリムの美しいソプラノが重なり、さらにジョー・ファレルのフルートがユニゾンで重なっていきます。
 その後アイアトー・モレイラのミドルテンポのドラムが始まり、さらにスタン・クラーラのウッドベースも加わり、チック・コリアのエレクトリックピアノの伴奏に乗せ、ピュリムの美声とファレルのフルートの音色が主旋律をなぞっていきます。
 全体的な作りとして、ピュリムの美しいハミングの響きがファレルのフルートと共にメインでフィーチャーされ、エレピ、ドラム、そしてベースは抑え気味で展開していくのですが、やはりその途中で入り込んでくるチック・コリアの魔法の両手から生み出される、滑らかに流れるようなピアノソロは、およそ人間が引いているとは思えないほどの速さで奏でられ、そのテクニックの高さに驚かされます。

 2曲目の「クリスタル・サイレンス」は一転して非常にスローペースで、静かでゆったりとしたピアノのイントロに、ファレルのソプラノサックスが高らかにシブい主旋律を奏でていきます。そのピアノとソプラノサックスだけの中に、時折グラスが交わるような美しいクリスタル音がさりげなく鳴り響き、幻想的な世界を演出しています。太陽できらびやかに光り輝くさざ波が美しい真夏の海岸を見下ろす、涼しげな地中海の白い世界を連想します。

 3曲目の「ホワット・ゲイム・シャル・ウィ・フレイ・トゥデイ」はこれまた一転して、ポップなボサノヴァ調の軽快なリズムに乗せ、ピュリムの楽しげでそれでいて優しい歌声が魅力的な曲です。チック・コリアのエレピが全体を通してバックを包んでいますが、この曲ではチック・コリアは脇役に徹していて、むしろピュリムの歌声と輪唱するかのようなファレルのフルートのメロディがとても可愛らしいです。よく晴れた日曜の昼下がりに買い物に出かけ、店のショーウィンドウに飾られた服やバッグを眺めているような、わくわくした気持ちを連想しますね。

 ここでレコード盤をひっくり返して、B面4曲目の「サムタイム・アゴー・ラ・フィエスタ」。B面はこの1曲だけが最後まで続きます。題名の中の「ラ・フィエスタ」は“お祭り”という意味ですが、イントロは非常に静かなエレピで始まり、パーカッションが効果的に不規則に鳴り響きます。そのうちクラーラのウッドベースもソロで加わってくるのですが、どちらかというとアドリブのようなグルーヴ感があり、ポスト・モダンな無調音楽を連想します。ウッドベースはやがてスペインのフラメンコに似た旋律に変わり、しばらくの間ウッドベースのソロが続きます。

 いわゆるリオのカーニバルや日本のねぶた祭りなどのような華やかで賑やかなお祭りと言うよりは、もっとしめやかで厳かな、崇高で原始的なお祭りを連想するような曲ですね。ただ、これこそがチック・コリアの真骨頂であるといえる独特の世界観を持つアドリブ感が、実に心地よく頭の中に浸透してきて、その不規則で不安定な旋律が精神を速やかに現実世界から引き離していくような、不思議なトリップ感を味わうことができます。

 その後曲は規則正しいベースラインとドラムのボサノヴァのリズムに牽引され、調もメジャーコードに変化し、爽やかなピュリムの歌声に変わります。ヴォーカルにほどよくかかるフルートの音色もすがすがしく、スペインの小さな村の広場で、太陽と青空の下、美しい女性が軽快なステップを踏みながら軽やかに踊る姿を連想します。
 最後はもろフラメンコ調のカスタネットがカタカタカタと打ち鳴らされ、テンポも一気に上がりエレピ、ベース、ドラム、そしてサックスが絡み合い、一気にクライマックスへと向かっていきます。アルバムのエンディングに向けて最後の盛り上がりを見せ、曲はハイテンポで展開され、サックスが大取のアドリブを激しく奏で、チック・コリアのエレピと見事な掛け合いを見せながら終わっていきます。

 アルバム全体を通してみると、随所にチック・コリアの天才的なテクニックが垣間見られて、まさに傑作といえるアルバムだと思います。テンポのアップダウンはあるものの、バンドの構成がシンプルだけに全体的に静かな音色なので、イージーリスニングとしても最適だと思います。ただ、イージーリスニングにはあまりにももったいないほどハイレベルで最高級の演奏が最初から最後まで続くので、できればじっくりとチック・コリアのテクニックに酔いしれて欲しいですね。
 一応ジャズにカテゴライズされているアルバムではありますが、純粋なジャズと言うよりはジャズとボサノヴァの融合と言った方が正しいかもしれません。夜に聴くよりは、昼間聴いた方が心地いいような気もします。夏のよく晴れた日に聴くと、清々しい清涼感を味わえること請け合いです。

 チック・コリア・クインテット「return to forever」でした。



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 Cafe M-NEST
2006年04月08日(土)

 一昨日、我が家にレコードプレイヤーなどのサウンドシステムが入ったというお話をしましたが、その話を友達などにしたら、みんなとても興味を持って「是非聴きに行きたい」と言っていたので、我が家で「CafeM−NEST」と称してジャズ鑑賞会を定期的に開くことにしました。
 ちなみに「M−NEST」というのは単なるこのHPの名前ではなく、HPを開設する前から使用していた僕の音楽スタジオの名前でして、音楽の仕事はすべて「M−NEST」名義でしています。

 「CafeM−NEST」といっても特に料金を頂くわけではなく、友達などを呼んで、我が家自慢のマインドのフレンチブレンドコーヒーを出して、それを飲みながらレコードのジャズを楽しむというものです。まあ別にコーヒーじゃなくても、それこそお酒を出して「BarM−NEST」でもいいんですけどね。それに、別にジャンルもジャズだけでなく、今後はジャズ以外のジャンルも取り揃えていき、一昨日ご紹介した実家から持ってきたジャズ以外のLPをかけたり、お互い自分が所有しているLPを持ち寄ったりして再生したりと、まあレコードの音を楽しもうというものですな。


ゆったりとしたダイニングエリア


 本邦初公開!これが昨年8月から住んでいるMakoの新居のダイニング部分です。右側には大きなオードリー・ヘップバーンのポスター、そして左側にはぽよぎが座っているのがおわかりいただけると思います。オクにある観葉植物はパキラの大きな鉢なのですが、今日はちょっと元気がないようです。夜は間接照明とテーブルの上のアロマキャンドルで、Barのような雰囲気も演出します。

 LPは現時点でもけっこう枚数が揃っているので、僕が定期的にセレクトしたLP数枚を廊下に並べて展示するようにしています。LPってCDと違ってジャケットが大きいので、それ自体がすでにアートになっていて、普通に壁に立て掛けておくだけでもインテリアとして成り立っちゃうんですよね!


廊下にズラリと並べられたLP


 ちなみに、「CafeM−NEST」ではマインドのフレンチブレンドコーヒーと、その豆を使用したカフェラテ、カプチーノ、さらにダージリンティ、アールグレー、やぶきた茶(緑茶)なども取り揃えております。静岡にお立ち寄りの際は、是非ご一報を。「CafeM−NEST」が極上の音楽時間にあなたをいざないますぞ。



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 馬鹿げたPSE法
2006年04月07日(金)

 昨日はあるお方からレコードプレイヤーなどを譲り受けたというお話をしましたが、そもそも僕が譲り受けることになったのは、その方が改築に伴いいらなくなったものや使わなくなったものを処分するという経緯からでした。

 本当はリサイクルショップなどに持っていって引き取ってもらうつもりだったようなのですが、今月1日から施行された「電気用品安全法」、俗に言う「PSE法」によって、PSEマークがついていない、2001年より前に製造された電気製品などの販売が禁止されてしまったので、リサイクルショップで引き取ってもらえなくなってしまったんですね。
 で、引き取ってもらえないのであれば、そのまま放置して解体取り壊しの際に一緒に壊されてしまう運命だったのですが、それではあまりにももったいないということで、僕が喜んで譲り受けることになったというわけです。だってまったくどこも壊れていないし、非常にきれいな状態ですし、何と言っても非常に高価な代物ですからねえ。天下のパイオニア製ですぞ!

 しかし……このPSE法、馬鹿げてますねえ。この法律に対して、坂本龍一氏ら電子楽器を駆使する音楽家ら120人で構成する「日本シンセサイザー・プログラマー協会」が、対象機器の緩和を求めて抗議していますよね。
 この法律に基づき、シンセサイザーなどを含め過去に製造された電気製品の販売が4月以降は禁止されるわけですが、音色にひかれて過去の電子楽器を好んで使うアーティストは多く、こうした機器は中古市場で入手する場合がほとんどなんですよね。しかしこの法律が本格施行された今、個人間の売買を除いて過去の機器を販売できなくなるため、同協会は「専門機器を支える中古機器販売、下取り市場も閉鎖せざるを得ない状況になってしまい、これからの日本の音楽と芸術文化の発展に大きな支障をきたすことになる」と危惧しています。

 僕が今回譲り受けたレコードプレイヤーやその他のサウンドシステムも、状態は非常に良く、まったく問題なく素晴らしい音を表現できるのですが、馬鹿げたPSE法によって販売できなくなってしまったんですよね〜。リサイクルショップなどに在庫としてあるPSE法にひっかかる対象商品は、どうなってしまうんでしょうか。やはり売り物にならないと言うことで、引き取り手がなければ壊されてしまうんでしょうか。もったいないですねえ。

 PSE法の目的は、その第1条によると「電気用品の製造、販売等を規制するとともに、電気用品の安全性の確保につき民間事業者の自主的な活動を促進することにより、電気用品による危険及び障害の発生を防止すること」だそうですが、だからって2001年以前というのは、あまりにも新しすぎます!それに、本当に危険だと思われる昔の電気用品などそう多いわけでもないですし、規制対象の電気用品の中には「名機」と呼ばれる、未だに愛されてやまない素晴らしい機械もたくさん存在しているんですよね。しかも多くの優良なリサイクル業者は「使えるものは使えるまで使おう」という考えに基づいて中古品を販売しているわけで、ものを大切にすることや、省エネルギーにも繋がってくるわけですから、それが禁止されてしまい、なおかつ多くの在庫品が売り物にならなくなってしまったわけですから、大打撃ですよね。

 僕もリサイクルショップなどでたまに見かける、昔の名機と呼ばれたシンセサイザーやその他の電子音楽機器を物色するのがとても好きだったのですが、今後それらの名機が陳列されなくなってしまうのは、非常に残念でなりませんね。今後この法律が改正されて緩和されることを期待しましょう。

 でも、ある意味このPSE法には感謝もしてるんですよ。だって、この法律のおかげで、素晴らしいレコードプレイヤーなどの高価なサウンドシステムをただで手に入れることができたんですから。ぐふふ。



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 レコードプレイヤーを譲り受ける
2006年04月06日(木)

 実はあるお方から、レコードプレイヤーを譲り受けました。他にも、かなり高価なアンプや大型スピーカーなどのサウンドシステム類も頂いたのですが、中でもレコードプレイヤーが、非常に魅力的な一品です。

 実はうちの実家にも、両親が昔買ったLP(ってわかりますよね?レコード盤のことですよ!)が何枚かあるのですが、すでに実家にレコードプレイヤーはなく、ずっと棚の中で何十年も静かに眠り続けていたんですよね。その中にはABBA、クインシー・ジョーンズ、ジム・ホール、リッキー・リー・ジョーンズ、カロヤンが指揮するモーツァルトの「ジュピター」、ラロ・シフリン、サンタナ、スティクス、ポール・デスモンド、そして僕が小学生の頃せがんで買ってもらった「E.T.」のサントラ盤など、僕の興味を刺激する名盤ばかりあるんですよね。さらに、別の方からも60〜70年代のジャズの名盤を大量に頂けることになっているのですよ〜!もうウハウハでよだれが出ちゃいます!

 今日はレコードプレイヤーを我が家のサウンドシステムに組み込むため、サウンドシステムを収納しているメタルラックの棚段を2枚買ってきて段数を増やし、レコードプレイヤーをアンプに接続し、巨大なスピーカーからレコードの音が出るようにセッティングしました。
 で、とりあえず実家から持ってきたLPの中から、ABBAの「ヴーレ・ヴー」というアルバムを視聴してみることにしました。


ABBA「Voulez Vous」(1979)


 まずはLPジャケットのビニールカバーを外し、厚紙でできたLPジャケットの中から、さらにビニールに入ったLPをおそるおそる取り出し、レコード専用クリーナー(エチケットブラシみたいなものです)で表面のホコリを取り除きます。その後レコードプレイヤーのキャノピーを開け、慣れない手つきでターンテーブルにLPをセットし、キャノピーを閉め、最初はアンプのボリュームを少し小さめにした状態で再生ボタンをぽちっとな!

 LP独特のかすかな「ポツッポツッ……」というレトロなノイズの後に、出たぞ1曲目の「AS GOOD AS NEW」!今や夫婦2組とも離婚して解散してしまったABBAの4人が、元祖スウェーデニッシュポップスの今なお廃れることのない洗練されたリズムに乗って、美しいハーモニーを響かせているではありませんか!
 このアルバム、実はCDでも持っているのですが、レコードで聴く「ヴーレ・ヴー」のサウンドは、また違った雰囲気があります。CDに比べて非常にマイルドで柔らかく、暖かく優しい音でしたね。

 自分の家でレコードが聴けることに感動した僕は、部屋の明かりを間接照明にし、ガラステーブルの上にアロマキャンドルを灯し、マインドのフレンチブレンドコーヒーを飲みながら、ソファーにゆったりと腰を下ろして、しばらくの間極上の時間を過ごしました。
 何だか普段は仕事で音楽を作るとき以外は、音楽を聴くのは何かをしながらだったりクルマの中で聴くぐらいで、音楽を聴くためだけの時間ってなかなかなかったんですよね。皆さんもそうじゃありませんか?何だか久しぶりに音楽だけを楽しむ贅沢なひとときを過ごしたように思います。

 レコード!最高です!たくさん頂けるジャズのLPも楽しみです!



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 トヨタ、マイク・ガスコインを更迭!
2006年04月05日(水)

 F1から驚くべきニュースが入ってきました。何とトヨタのマシンデザインを担当したテクニカルディレクター、マイク・ガスコインが、チーム不振の責任を問われ更迭されたそうです。

 マイク・ガスコインは、1989年にマクラーレンの空力スペシャリストとしてF1界にデビューし、2年間従事しました。91年からシャシー技術者としてティレルに加入し、同年ザウバーに移籍し空力チーフとして開発を行います。94年には副テクニカルディレクターとしてティレルへ復帰し、98年にチームが崩壊するまで活躍しました。
 98年にジョーダンチームへテクニカルディレクターとして移籍し、99年は2勝、6回の表彰台獲得によってコンストラクターズ選手権3位に入るという、ジョーダンチームにとって最も成功を収めたシーズンを共にしました。2001年にベネトン(現ルノー)にテクニカルディレクターとして加わり、2003年にはルノーと名を変えた英仏合同チームをハンガリーグランプリでデビューウィンへと導きます。
 その後マイク・ガスコインは2003年12月から、トヨタのシャシー部門テクニカルディレクターとして新たなキャリアを始めることとなったのでした。

 マイク・ガスコインの名を一気に高めたのは、いずれも中堅チームだったジョーダン時代(1999〜2000)とルノー時代(2001〜2003)で、それぞれの時代で勝てるマシンを手がけ、その成功によって今やエイドリアン・ニューウェイ(マクラーレン)やジョン・バーナード(フェラーリ)と並ぶ名デザイナーとして知られ、その実力を買われて2003年の12月からトヨタに引き抜かれることとなりました。しかし、その時点ですでに2004年シーズンのマシン開発は前任のデザイナーによって進められており、実質的に彼のデザインが反映されたトヨタのマシンは、昨年型のTF105からでした。

 トヨタは2002年に、世界の自動車業界の巨人として鳴り物入りでF1にデビューしましたが、その初年度に獲得したポイントはわずか2ポイント、決勝最高位もミカ・サロが2回記録した6位と散々たるものでした。翌2003年には合計16ポイントを獲得するも予選最高位は5位にとどまり、2004年は5ポイントしか獲得できず予選最高位も前年と同じ5位でした。

 しかし、2005年シーズン、マイク・ガスコインが本格的にマシン開発に携わったTF105でシーズンに臨んだトヨタの成績は急上昇し、シーズン合計獲得ポイントも88ポイントと大幅にアップ。さらに第9戦アメリカグランプリではヤルノ・トゥルーリが初のポールポジションを獲得し、決勝でもトゥルーリが2度の2位表彰台と3位表彰台1回、ラルフ・シューマッハも3位表彰台に2回登るなどの活躍を見せ、コンストラクターズランキング4位と飛躍する年となりました。

 ところが、そうした明らかにチームの躍進に大きな影響を与えた立役者マイク・ガスコインを、トヨタは今シーズンまだ開幕してたった3戦の結果が思わしくないだけで、その責任を背負わせて更迭してしまったのです。これは驚くべきことですね。とても信じられません。
 トヨタはF1参戦5年目に突入した今シーズン「開幕3戦で初勝利を」と意気込んでいましたが、結局第3戦のオーストラリアでラルフ・シューマッハが3位表彰台を獲得したのがやっとで、3戦が終了した時点で獲得したポイントはわずか7ポイントにとどまっています。しかし、だからといってたった3戦が終わったこの時期にガスコインを更迭してしまうというのは、あまりにも時期尚早なのではないかと思わずにはいられません。
 ルノー時代に大きな実績を持つガスコインは、強いリーダーシップでトヨタ内部の体制を大改造しただけに、TF105、TF106と2年続けてトヨタに凡作との評価を下されたいまの状況では、高額サラリー(推定年棒800万ドル:約9億4千万円)を取ると言われるだけにチームの対応は厳しかったようですね。
 ブリヂストンタイヤへのスイッチについても、ガスコインはマシンデザイナーの立場からミシュランに固執して最後まで強く反対の姿勢を示していたようですが、トヨタ本社主導で決定されたと言われています。

 しかし、今シーズンのここ3戦の不調は、ガスコインのマシン設計と言うよりは、ガスコインが最後まで反対しトヨタ本社が強引に決定したブリヂストンタイヤとのマッチングに問題があるのは明らかなんですよね。結局のところ、そうしたガスコインとトヨタ本社との考え方の相違が、両者の確執を生み出した結果なのでしょう。まったくもって今回のガスコイン更迭は愚かな決定です。

 個人的には、トヨタの傲慢さが露骨に現れた騒動だったと思います。トヨタと言えば過去にアメリカのインディシリーズでもエンジン規制を独断で押し進めて結果的にシリーズ分裂を招いた経緯がありますが、その傲慢体質は未だに治っていないようです。そう考えると、富士スピードウェイを買収して日本グランプリを鈴鹿から奪い取ってしまったというのも、傲慢さが現れているような気がします。
 しかし、そんな「世界の巨人」と言われているトヨタも、F1で5シーズン目を迎えて未だに勝利がないことに、相当焦っているようですね。ガスコインをシーズン早々に更迭した以上、結果を出さなければチーム首脳陣もその責を問われることになりそうです。

 まあ、マイク・ガスコインはまだ43歳ですから、トヨタを離脱してもF1界で再就職に困ることはないでしょう。彼は才能のある人物ですから、トヨタのような大企業ではなく、もっとクリエイティブで理解のあるチームの方が、その才能を遺憾なく発揮できるはずです。

 彼に高額なサラリーを支払えるのかは、また別の話ですが……。



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 4年振りの開催目指すM-NESTトロフィー
2006年04月04日(火)

 実は4年ほど前まで、PS2のレースゲーム最高峰シリーズ「グランツーリスモシリーズ」というゲームを使って、友達数人を集めて我が家で「M−NESTトロフィー」というレースゲーム大会を催していました。ところが、実は僕、このゲームの全国大会(オートバックス主催)で2年連続のチャンピオンでして、「M−NESTトロフィー」でも主催者の僕が毎戦優勝してひんしゅくを買ってしまったので、途中から僕はレースに出場せず、オフィシャル(ショートカットや無謀な接触を監視してペナルティを与える役)に徹するようになって何度か開催されました。
 しかし、その後メンバーの何人かが結婚したり遠くへ転勤になってしまったりしてメンバーが揃わなくなり、そのうちブームも去ってしまい、4年前の第5回大会を最後に「M−NESTトロフィー」は開催されなくなっていました。

 その後2004年の12月に、新しいコースや車種も増えてゲームがパワーアップしたシリーズ最新作「グランツーリスモ4」が発売され、再びブームになってこのゲームをやり込む人も増えてきました。
 このゲームも発売されてからすでに1年以上経過しているので、さすがにこのゲームを買ってやり込んだ人は、もうだいたいどのコースも把握してテクニックも身につけている頃だと思います。

 で、最近得意先の会社に入った新入社員でクルマ好きの人がいたので、色々クルマの話で盛り上がったりしていると、彼も相当「グランツーリスモ4」をやり込んでいるらしく、その話でもちきりになりました。さらに他でも何人か新たに「グランツーリスモ4」をやり込んでいる人を発見し、4年振りに我が家で「M−NESTトロフィー」を開催する可能性が出てきました。

 まだ具体的には何も決まっていないのですが、基本的なルールはこれまでの大会同様シリーズチャンピオンシップの形態を取り、10コースを選んで全10戦のレースでシリーズチャンピオンを決めるという大会です。ドライバーエントリーは6人までで、かつてのF1のように1位10ポイント、2位6ポイント、3位4ポイント、4位3ポイント、5位2ポイント、6位1ポイントで、最下位で終わったとしても1ポイント獲得できます。

 エントリー人数によっては僕はレースに参加せずにオフィシャルに回るかもしれませんが、仮に僕が出場したとしても、かつて全国大会でチャンピオンになった時からかなりブランクもありますし、ゲーム自体もチャンピオンになった時のものとは違います(全国大会は3)から、もちろん負けたくはありませんがそれほど実力差はないのではないでしょうか。
 そもそも僕がチャンピオンになった全国大会は、元々全国のオートバックス各店で行われたのタイムアタック大会でトップタイムをマークした者だけが招待された大会で、そのオートバックス各店でのタイムアタックをやっていない人の中にも強者はいるわけで、今回も僕がぶっちぎり優勝できるとは思えませんからねえ。

 そんなわけで、大会が実現したら、その模様をVoiceでもご紹介します。



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