2012年03月17日(土) |
これがチャイナクオリティーか!? |
先日、仕事用にヘッドルーペを購入しました。 楽天で一番安くて良さそうな物を選んだのですが、 届いてみてあぼーーーーん。(°д°;;)
説明書では「レンズから対象物までのピントの合う距離は16センチから30センチです」 となっているのに、実際使ってみたら全然ピント合わないの。 何処まで近づけたらピント合うのか試したら、なんと5センチ!
これじゃあ作業しづらいよーーっ。
さすがメイドインチャイナ。
ちなみに国産の拡大眼鏡は1万円弱です。 こいつは1680円でした・・・
安物買いのなんとか・・・(ノ_<。)
さっき、1年分の貯金箱を開けて銀行へ行ってきました。 硬貨投入口にジャラジャラと満杯に入れたら、
「ふたが閉まりません」
と言われてしまったので、半分くらい掻き出してから再トライ。 しばらくATM様が数えるのを待つ・・・
「数え切れませんでした」
入れた小銭の半分くらいまだ残ってる。(-.-;) また掻き出して再トライ。 しばらく待つ。(-.-;)
今度はちゃんと入金できました。 結局ちびっとづつ4回に分けて入金。
通帳に記入された金額の合計は、
たったの939円!!!
なんだかなぁ〜。 やっぱ1円と5円と10円だけじゃこんなものかぁ 。(ノ_<。)
コジロウ 2ヶ月に1回
・オゾンシャンプー+500円 ・トリミング 4500円 ・足バリカン 500円 合計 5500円
年間 33000円
おいら 3ヶ月に1回
・カット 1000円 ・髭剃りシャンプー 1000円 合計 2000円
年間 8000円
この格差をどう捉えるべきか・・・。 お犬様?
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松嶋菜々子と松たか子が頭の中でごっちゃになってる。
毒言シリーズ第2弾 今度は今は亡き親父の毒言集です。 死人の悪口みたいですが、まぁいいよね。
「そんなに武器いっぱい付いてたら危ないよ・・・」
おいらが幼稚園の頃でした。 子供って自分が描いた絵や作った工作品を親に見せびらかして、 褒めてもらいたがるじゃないですが。 ある日、ダイヤブロックで宇宙戦艦を作って、親父の帰りを心待ちにしていました。 帰って来た親父に工作を見せびらかしながら、
「んとね、こことここからミサイルが出るの。で、ここからビームが出るんだよ!」
と説明していたら、返って来た言葉です。 親父に褒めてもらえると信じきっていたおいらはハンマーで後頭部を殴られたようになりました。 親父はゴリゴリの左翼で、労働組合の組合長を務めたり、社会党の候補者を後援したり、 まだ幼稚園のおいらを成田抗争のデモ隊が捕まる所の見学に連れて行ったり、 ちょっと左巻き過ぎるきらいがありました。 きっと憲法9条信者だったのでしょう。
「病院に連れて行けっ!」
小学生の時、おいらが風呂に入っていると後から親父も入ってきました。 おいらの胸がロウト胸で少し凹んでいるのを見て、風呂を出るや否や母に発した言葉です。 母は「そんな事言われても困るわよ、病院に連れて行ってどうするのよ!手術でもするの?」 とこれまたおいらを傷付ける言葉を発しました。 2人ともおいらへの気遣いとか全く持ち合わせていませんでしたね。
「どうせ先生に褒められたくて走っていたんだろう」
小学生の高学年の頃、おいらは何故か急にジョギングに目覚め、 小雨の日も風の日も、休み時間という休み時間は全てジョギングに費やしていました。 まるでフォレスト・ガンプのようでした。 で、校庭を3周走るとシールを1枚貼れるポスターが教室の後ろに張り出してあって、 おいらの所だけ異常に飛び抜けていたんです。 その事を中学生になって親父に話したら、返ってきた言葉がこれです。 親父には「人の努力や才能を認める」と言う機能が欠如していたようです。
「息子がいい年をしてお人形さん作ってるなんて、恥ずかしくて会社の同僚に言えないよ!」
22歳からアートドールを作っては、個展を開いたり、 知人の店に委託販売させてもらっていたのですが それだけでは生計が成り立たず、フリーター生活を送っていたおいらに発した親父の言葉です。 これ、満面の笑みを浮かべながら言われました。 完全にバカにされています。上から目線、卑下、侮辱。 親父と言う人は、自分の事は自慢ばかりして、 人のやる事は1から10までケチをつける人でした。 70歳で胃がんで死んだのだけれど、消えてくれて頭の上の漬物石が取れたように感じます。
これらのことを反面教師にして、自分の息子には容姿をけなしたり、 趣味をバカにしたりは決してしないようにしています。 でないとおいらの様な歪んだ性格になってしまうから。 息子は昔から手先が器用で、工作が上手でした。 その流れで将来は美術系の大学に進みたいそうです。 おいらとしては、全力で応援してやりたいですね。 卒業後、道に迷うような事があったら、助けてやりたいとも思います。 普通、親ってそう言うものですよね?
おいらの母親って言う人は、今でもかなり変わった人なんですが、 昔からちょっと浮いていると言うか、予測不能なところがありました。 髪型はいつもベリーショートの赤毛パーマ。 身長170cmで夏はショートパンツで買い物。悪目立ちです。 幼なじみではないけれど、同学年だった妻の記憶にも残っていたくらいです。 で、ママさんバレーのキャプテンなどやって、かなり体育系だったのですが、 普段の行動が予測不能なのでした。 母には、プチ家出の癖がありました。 おいらが幼稚園から中学生の間に、何度も消えては戻りを繰り返していたのです。 当時は、どこの家もこんなもんだろうと疑問に感じなかったのですが、 大人になって振り返ると、異常だったなぁと思いますね。
一番大きな家出は、おいらが小学3年位の時です。 (後からの情報で解ったことを綴っていきます) 母は、親父との生活が嫌になり、実家のある大阪に向かっていました。 途中、新幹線の中で知り合った夫婦が、行くところ無いのなら、 家に来なさいと言ってくれ、母はそれに甘え名古屋に行くことにしました。 名古屋の夫婦は薬局を営んでいました。小学生の娘息子が居て、 母は、子供達と仲良くなって、毎朝お弁当を作ってあげながら、 昼間は店番の手伝いをしていたそうです。 母は、「別れ際、男の子に『帰っちゃダメ!』と通せんぼされたのよ」と自慢気でした。 その他にも母は子供達にあんな事してやった、こんな事してやったと、自慢話をしていました。 置いてけぼりになっていた実の子供達が、3ヶ月間どうやって暮らしていたかについては、 まるで興味がない様子でした。 昔から、無神経なところがあったんですよね。 嫌なことは自然と忘れると言いますが、本当ですね。 母がいつの間にか居なくなって、いつの間にか戻っていた記憶はぼんやりと有りますが、 その間家事炊事はどうしていたかとか、細かいところは記憶が飛んでいるんです。 大人になってから姉達に訊いてみても、あまり覚えていないと言っていました。
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あれはおいらが中学生の時でした。 突然母が、おいらに、 「母さん離婚したいけど、お前達が居るからしないよ。みんなが成人したら離婚する」 と神妙に言ったんです。 おいら、それを聞いて(自分達のせいで母は離婚できないで我慢してるんだ・・・) と思い、悲しくなって泣いてしまいました。 別に母が恋しかったからではありません。 あくまで(自分が足かせになっている)と言われた気がして悲しかったんです。 まぁ、母のこの言葉は半分嘘でしたけどね。 母はおいらが18歳の時に家を出て2年後離婚したんだから。 おいらに言わせれば、もっと早く離婚してくれた方が良かったんだけど。 何せ親父と母は仲が悪く、板挟みの子供達は精神的にぼろぼろでしたもの。
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小学生の頃、母は親父の帰りが遅くなって夕飯を母子だけで食べられると分かった日は、 急にテンション上がっちゃて、おいら等達子供も上機嫌でした。 親父は、自分はクチャラーのくせに人の食事マナーにうるさくて、 食事時間は重苦しい空気に包まれて全然楽しくなかったんです。 母は、ここぞとばかりに近所の酒屋でビールとおつまみを買ってきて、 夕ご飯は酒盛りでした。ご飯作らないの。 でも子供達は変に思うこともなく、小学生のくせに当たり前のようにビールを飲んでいました。 特に旨いとも不味いとも感じませんでしたが、 親父が居ないという解放間があって楽しかったです。
高校時代、友人達がカラオケで隠れてアルコールを飲んで楽しく酔っているのを見て、 (酒なんかで盛り上がるなょ・・・こっちは子供の頃から飲んでるよ・・・) と冷めた目でいましたっけ。
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専門学校生の頃、すでに別居していた母のアパートを訪ねた事がありました。 その時、いきなりこんな事を言われました。
「お前は気が弱くて女の子に声も掛けられないだろうから、 幼女に悪戯をして、捕まるんじゃないかってそれだけが心配なのよ…」
おいら、親から真顔でこんな事言われて、そーゆー風に見られていたのかと、 心底情けなくなりました。
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離婚後、母は12歳年下のやさぐれ男と再婚し、数ヶ月で離婚し、 今度は15歳年上の看板屋の社長と再々婚し、数年で離婚し、 下の姉夫婦と同居しましたが、姉と折り合いが悪く、 数年で追い出されるように出ていきました。 風の便りによると、現在は茨城の知人宅にやっかいになっているそうです。 もう5年位会っていません。 最後に会った時は、金髪で瀬川英子にそっくりでした。 まぁ、元気で生きていてくれればどうでも良いんです。 関わったところで得るものは無いのですから。
以上、おいらの変わった母の思い出でした。
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